表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『神律大学の未証明者《アンプローヴン》』   作者: 仕儀の反駁
第二章《第零学部》《第一観測圏》編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
22/60

第二十一話 棄却印を押すたび、世界は誕生する

『答えが得られないなら』


 黒い月の声だけが、何も存在しない暗闇へ響く。


『答え以外を、生まれなくする』


 灯が俺の手を握る。


 その感触だけが、ここに俺たちがいると教えていた。


「ここが、《未提出領域》……?」


 声を出したはずなのに、音が広がった気配はない。


 空気がない。


 距離がない。


 上下も。


 前後も。


 光も闇も。


 まだ、それらとして区別されていない。


 ここは暗いのではない。


 光が存在しないのでもない。


 明るいか、暗いかという問いそのものが、まだ提出されていない。


 《第一査読官》の輪郭が、辛うじて白い線として浮かぶ。


『《未提出領域》』


『《世界論文》として記述される以前』


『《改稿》として分岐する以前』


『存在と非存在』


『可能と不可能』


『真と偽』


『それらの区別を与えられる以前の状態』


『便宜上、未提出仮説と呼称する』


『ただし』


『仮説または可能性として成立していることも』


『現時点では確定していない』


「つまり」


 三年前の俺が、赤い右目を細める。


「まだ世界ですらない可能性がある場所か」


『厳密には』


『可能性であることも』


『場所であることも確定していない』


「面倒だな」


 採択領域から離脱した俺が言う。


「面倒で済むのか、これ」


「俺が三人いる状況よりは説明しやすい」


「比較対象がおかしい」


「二人とも」


 灯の声が低くなる。


「はい」


 三人の声が重なった。


 その瞬間。


 何もなかった場所へ、一つの文字が刻まれた。


 ――会話。


 俺たちの言葉が、この領域に初めて区別を作った。


 声がある。


 聞く者がいる。


 発した者と。


 受け取った者がいる。


 それだけで。


 何も定義されていなかった場所に、関係が生まれる。


『対象の自己記述を検出』


 黒い月が告げる。


『未提出状態に、審査可能な差異の発生を確認』


『棄却する』


 黒い線が走った。


 ――会話。


 その文字へ、巨大な印が押される。


 ――棄却。


 途端に、灯の声が聞こえなくなった。


「灯!」


 口が動いている。


 だが。


 音が俺へ届かない。


 違う。


 音を消されたのではない。


 俺たちが会話できるという可能性そのものを、提出される前の仮説として棄却された。


「保留する!」


 円環を展開する。


 白い空白を、


 ――会話は成立しない。


 その結論へ差し込む。


 だが。


 円環は回らない。


「何で……!」


『結論が存在しない』


 《第一査読官》の声が、直接思考へ伝わる。


『棄却されたのは、成立した会話ではない』


『会話が成立し得るものとして区別される以前の状態』


「結論になる前に消したってことか」


『肯定』


「なら」


 三年前の俺が、赤い円環を開く。


「消された事実を保存する」


『保存対象が成立していない』


「何?」


『提出以前の状態には、記録上の成立時点がない』


『成立していないものを、成立した事実として保存することはできない』


 三年前の俺が舌打ちする。


 採択領域の俺も、`自証座標(アクシス・エゴ)`を展開する。


「なら、俺がここにいることを固定する」


 白い円環が、その胸元へ収束する。


「俺は、黒瀬零だ」


 ――自己認識。


 ――現在意思。


 ――存在座標。


 文字が生まれかける。


『未提出状態に、審査可能な差異を検出』


『黒瀬零が存在する可能性』


『棄却する』


 黒い印が落ちた。


 男の輪郭が、一瞬で消える。


「駄目!」


 灯が手を伸ばす。


 だが。


 その手は何も掴まない。


 先ほどまでそこにいた俺が、消滅したのではない。


 最初から。


 ここには存在し得なかったことにされた。


「戻して!」


『戻る対象は存在しない』


「いた!」


『未提出である』


「俺たちは見た!」


『観測記録は成立していない』


「喋った!」


『会話可能性は棄却済みである』


「自分で選び直した!」


『自己選択可能性は未提出である』


「全部なかったことにする気か!」


『なかったのではない』


 黒い月が、静かに訂正する。


『あり得なくした』


 ぞっとした。


 存在を消すより。


 過去を書き換えるより。


 さらに前。


 存在するかもしれないという段階で、芽そのものを摘み取る。


 これでは。


 死んだことさえ残らない。


 失ったという記憶も。


 失われ得たという可能性も。


 何も。


 問いとして成立しない。


『処理を継続する』


 黒い月から、終端の見えない訂正線が伸びる。


 何もない領域へ。


 一つずつ。


 まだ名前のない何かを見つけては、印を押していく。


 ――黒瀬灯が生存する可能性。


 ――棄却。


 灯の輪郭が薄くなる。


 ――黒瀬零が黒瀬灯を記憶する可能性。


 ――棄却。


 胸の奥から、何かが抜け落ちる。


 ――黒瀬零が採択結果を疑う可能性。


 ――棄却。


 三年前の俺の赤い目が閉じていく。


 ――《第一査読官》が最終回答の命令へ異議を申し立てる可能性。


 ――棄却。


 《第一査読官》を形作る白が、黒く塗り潰される。


 ――採択された結論が再選択される可能性。


 ――棄却。


 ――沈黙が同意以外の状態を示す可能性。


 ――棄却。


 ――複数の答えが共存する可能性。


 ――棄却。


 何もないはずの場所に、棄却印だけが増えていく。


「……待て」


 俺は、増え続ける文字を見る。


 何も提出されていない。


 何も定義されていない。


 可能性であることさえ確定していない。


 そう言っていた。


 なのに。


 黒い月は、一つずつ、何を棄却するのかを明確な文章として表示している。


「どうして分かる」


『何を問う』


「ここには、可能性であることも決まってないものしかないんだろ」


『肯定』


「なら」


 俺は、灯の生存を棄却した文字を指す。


「どうして、それが灯の生存可能性だって分かった」


 黒い月が沈黙する。


「何も区別されてないなら」


 三年前の俺も気づいた。


「灯が生きる可能性と、灯が存在しない可能性を判別できないはずだ」


『《終理予備審査》は、現在の最終結論と不一致となる潜在状態を検出する』


『検出した時点で』


 《第一査読官》が、黒く染まりながらも言葉を続ける。


『当該状態を、ほかの未提出状態から区別している』


『区別された対象には、審査対象としての同一性が発生する』


「つまり」


 灯が、消えかけた自分の手を見る。


「棄却するためには、まず何を棄却するのか決めないといけない」


「ああ」


 俺は頷く。


「こいつは」


 黒い月を見上げる。


「生まれる前の可能性を消してるんじゃない」


 白い円環が、再び回り始める。


「消すために、自分で可能性を見つけてる」


『意味上の差異を認めない』


「大違いだ」


 黒い月が、灯の生存可能性を検出する。


 それに名前を与える。


 ほかの何かから区別する。


 審査対象として取り出す。


 そして。


 棄却印を押す。


 その処理の間。


 ほんの一瞬でも。


 黒瀬灯が生存し得るという仮説は、この領域で、ほかの何ものとも違う一つの審査対象として扱われている。


「棄却する前に」


 三年前の俺が笑う。


「お前が、審査できる形にしてるじゃないか」


『提出ではない』


「じゃあ、何だ」


『検出である』


「検出した内容を文章にして」


 採択領域から消された俺の声がした。


 いや。


 まだ姿は見えない。


 だが。


 声だけが、どこかから戻ってくる。


「審査対象として分類し」


 黒い空間に、白い指先が浮かぶ。


「採否を判定している」


 腕。


 肩。


 顔。


 `自証座標(アクシス・エゴ)`で固定された自己認識が、棄却印の文字を逆に辿るように、再び輪郭を取り戻していく。


「それを提出と呼ばないなら」


 男が、自分の足で立つ。


「お前たちの査読に、提出という工程は必要ないことになる」


 《第一査読官》が、黒い月へ顔を向けた。


『論理照合を実行』


 ――未提出状態は、審査対象としての同一性を持たない。


 ――棄却処理には、棄却対象の特定が必要。


 ――対象の特定には、ほかの未提出状態からの区別が必要。


 ――区別された対象には、審査対象としての同一性が発生する。


『ただし』


『当該同一性は』


『存在または可能性としての採択を意味しない』


『それでも』


『完全な未区別状態のままではない』


『したがって』


『《未提出領域》内の対象を個別に棄却する処理は』


『棄却に先立ち』


『対象を審査可能な仮提出状態へ移行させている』


『手続上の矛盾を確認』


 黒い月が、大きく脈動する。


『検出と提出は異なる』


「どこが」


『提出には、提出者の意思を必要とする』


「なら」


 灯が言った。


「その可能性を審査できる形にしたのは誰?」


『提出は行われていない』


「でも、今」


 灯は、自分の生存可能性へ押された棄却印を見る。


「私が生きる可能性を、あなたが見つけて、名前を付けて、審査した」


『……』


「それって」


 灯は、黒い月を真っ直ぐに見上げる。


「少なくとも、何も区別されていないままじゃないよね」


 ◇


 棄却印が止まる。


 《未提出領域》に、初めて処理の空白が生まれた。


「今だ」


 三年前の俺が、赤い円環を広げる。


「何を保存する」


 俺が尋ねる。


「棄却された可能性じゃない」


 赤い右目が、停止した棄却印を映す。


「黒い月が、それを審査対象として特定した事実だ」


 ――黒瀬灯が生存する可能性。


 ――黒瀬零が灯を記憶する可能性。


 ――採択結果を疑う可能性。


 ――再選択が行われる可能性。


 ――沈黙が同意ではない可能性。


 ――複数の答えが共存する可能性。


 黒い月が、消すために見つけた全ての仮説。


「保存対象」


 三年前の俺が叫ぶ。


「《終理予備審査》が、個別の審査対象として識別した未提出状態!」


 赤い文字が展開される。


『保存不能』


「理由は」


『未提出である』


「お前が審査した!」


『提出ではない』


「なら、何を審査した!」


『潜在的不一致』


「不一致する何があった!」


 赤い円環が、黒い棄却印へ食い込む。


「何もなかったなら!」


 三年前の俺の目から、血が流れる。


「お前は、何に印を押した!」


 黒い月が沈黙する。


 その沈黙を。


 今度は。


 誰も同意とは扱わなかった。


 待った。


 答えが返るまで。


『……終理に反する可能性』


「可能性って認めたな」


 俺は言う。


『潜在状態である』


「それでも」


 白い円環を開く。


「完全に区別されていないとは、言えなくなった」


 ――未提出仮説は、存在しない。


 その前提へ、空白を差し込む。


『保留を禁止する』


「禁止されたという結論を保留する」


『当該保留を棄却する』


「棄却するなら」


 俺は笑った。


「まず、俺の保留を一つの審査対象として見つけないとな」


 黒い線が止まる。


 棄却すれば。


 その対象を特定する。


 特定すれば。


 一つの審査対象としての同一性を与える。


 同一性を与えれば。


 完全な未区別状態ではなくなる。


 だが。


 棄却しなければ、可能性は残る。


 黒い月が持ち込んだ処理は、動けば動くほど、自らの前提を壊していく。


「`未証明(アンプローヴン)`」


 白い円環が、何も定義されていなかった領域へ広がる。


「保留対象」


 俺は、棄却印そのものを指す。


「《終理予備審査》が特定した仮説は、完全な未提出状態のままであるという前提」


 黒い月が、初めて明確な拒絶を示す。


『当該前提を保留すれば』


『全棄却対象が、審査可能な仮提出状態へ移行する』


「自分で見つけたんだろ」


『最終結論と不一致となる仮説が発生する』


「最初から存在していたとは言わない」


『存在していない』


「なら」


 俺は、無数に――


 いや。


 数という概念さえ定まらないほど広がる棄却印を見る。


「お前が何を消したのか、説明してみろ」


 黒い月は答えられない。


「完全な無へ作用したなら」


 三年前の俺が言う。


「何も変化していないはずだ」


「でも」


 採択領域の俺が続ける。


「俺は消えた」


 灯が、自分の薄くなった手を見せる。


「私も消えかけた」


 《第一査読官》が、黒く染まった自らの身体を見る。


『棄却処理による変化を確認』


『変化が生じた以上』


『処理対象は、少なくとも論理上の作用点を有していた』


『作用点を持つ対象を』


『完全な未区別状態として処理し続けることはできない』


「それでも」


 俺は円環を握る。


「存在していたって決めるのも違う」


 ここは、存在と非存在が分かれる前の場所。


 俺たちが勝手に「存在する」と決めれば、黒い月と同じだ。


 まだ世界になりたくない仮説もある。


 生まれることを望まない可能性もある。


 提出される時を、まだ選んでいない何かもある。


「存在してると採択するんじゃない」


 俺は言う。


「存在しないと棄却するんでもない」


 白い円環の中心。


 何も書かない。


 答えを与えない。


「ここにあるものが何なのか」


 空白のまま。


「ここにあるもの自身が決まるまで」


 円環が回る。


「誰も結論を出すな」


 《未提出領域》が震えた。


 ――存在。


 ――非存在。


 ――可能。


 ――不可能。


 ――採択。


 ――棄却。


 相反する文字が、生まれては消える。


 どれも、唯一の答えにはならない。


「保存する!」


 三年前の俺が叫ぶ。


「保存対象――《終理予備審査》が区別した全対象!」


 赤い円環が、棄却印の下へ小さな注記を加えていく。


 ――審査対象として識別済み。


 ――存在状態、未確定。


 ――採否未確定。


 ――提出意思未確認。


 ――処理保留。


 棄却印が、一つずつ効力を失っていく。


 採択領域の俺も、自分の胸へ手を置く。


「`自証座標(アクシス・エゴ)`」


 ――黒瀬零が存在する可能性。


 黒い月が記した文章を、自分の言葉で書き換える。


「可能性じゃない」


 灯へ伸ばした手を握る。


「今の俺は、ここにいる」


 白い輪郭が完全に戻る。


 灯も、消えかけていた指を握り返す。


「私も」


 小さく。


 だが、はっきり言う。


「ここにいる」


 《第一査読官》の黒い侵食が止まる。


『自己申告を受理』


『存在状態の仮採択を――』


「待って」


 灯が止める。


『何を問う』


「仮採択じゃない」


『では、どの状態として記録する』


「本人がそう言ってるって記録して」


 《第一査読官》が、僅かに沈黙する。


『記録形式を修正』


 ――黒瀬灯。


 ――自己申告、「ここにいる」。


 ――存在および非存在の採否判定、保留。


 灯が笑う。


「それでいい」


 ◇


 《未提出領域》へ、変化が広がる。


 黒い月が棄却しようとした仮説。


 消すために識別した可能性。


 その全てが、棄却印の下から浮かび上がる。


 世界ではない。


 宇宙でもない。


 物語でもない。


 ただ。


 まだ何になるのかを、決められていない何か。


 赤い文字が、それらを一つずつ保存する。


 白い空白が、採択も棄却も保留する。


 黒い月が、処理を再開しようとする。


『未提出仮説を一括棄却する』


「できない」


 俺は言う。


『個別特定を必要としない』


「一括って言った時点で」


 三年前の俺が答える。


「何を一括するのか、範囲を決めてる」


『《未提出領域》全体を対象とする』


 《第一査読官》が即座に反応する。


『《未提出領域》全体という対象を定義』


『対象領域の同一性を確認』


『審査可能な一資料としての総体化を検出』


「また自分で審査対象にしたな」


 採択領域の俺が言う。


 黒い月という輪郭が、大きく揺らいだ。


『矛盾を修正する』


「どうやって」


『現在接続されている《未提出領域》を』


『一つの審査対象として総体化される以前へ差し戻す』


 空間が。


 いや。


 空間と呼べない何かが、激しく歪む。


 俺たちの輪郭が、再び薄くなる。


『審査可能な領域でなければ』


『総体として定義されない』


『対象でなければ』


『提出も審査も発生しない』


「それじゃ」


 灯が息を呑む。


「あなたも、ここへ干渉できなくなる」


『問題ない』


「何で」


『既に最終結論は固定されている』


 黒い月が、初めて自らを現在の最終回答方針として顕れさせている関係を示した。


 黒い月の背後に、別の空間が開いたわけではない。


 ただ。


 全てを唯一の最終回答へ収束させようとする意志と、この《終理予備審査》を結びつけている関係が、一本の黒い線として俺たちの認識へ現れた。


『当該関係が』


『審査可能な領域として成立しなくても』


『最終回答を強制する方針の継続性は損なわれない』


「なら」


 俺は、その線を見る。


「何を根拠に、その結論を実行している」


 黒い月が止まる。


「《第一観測圏》の採択結果でもない」


 三年前の俺が言う。


「《未提出領域》から選んだ答えでもない」


 採択領域の俺も、黒い線を見据える。


「この《終理予備審査》が始まるより前に、答えだけが固定されている」


 《第一査読官》の胸元に、新たな表示が現れる。


 ――《終理予備審査》を成立させる関係を照会。


 ――既知の《観測階序》への所属、判定不能。


 ――顕現形式、非開示。


 ――処理根拠、最終回答。


『当該関係の開示を要求する』


 《第一査読官》が告げる。


『却下する』


『理由を提示せよ』


『当該審級に開示権限は存在しない』


「権限の話に逃げるな」


 俺は黒い線へ手を伸ばす。


『接触を禁止する』


「禁止の理由は」


『最終回答をこの場に顕す関係への、不正干渉となる』


「関係があることは認めるんだな」


 黒い月が沈黙した。


 俺は円環を回す。


「保留対象」


 ――黒瀬零には、最終回答をこの場に顕す関係へ干渉する権限がない。


「権限があるとは言わない」


 白い空白を、黒い線へ差し込む。


「ないって結論だけ止める」


『当該関係を遮断する』


 三年前の俺が、赤い円環を展開する。


「保存対象――《終理予備審査》が、最終回答の方針をこの場へ顕していた事実!」


『保存を禁止する』


「その禁止を、こいつが保留する」


 採択領域の俺も円環を開く。


「そして、俺が」


 自らの存在座標を、黒い線との接触上へ固定する。


「この関係を見た、現在の俺を固定する」


 三つの円環が、黒い月を囲む。


 灯が、黒い線へ手を伸ばした。


「この関係を辿れば」


「どこか別の場所へ行けるわけじゃない」


 俺は答える。


「でも」


 灯は、黒い線から目を逸らさない。


「私を消した答えが、何によってここへ強いられているのかは分かるんでしょ」


「ああ」


「だったら行く」


「危険だ」


「知ってる」


「戻れないかもしれない」


「三年前から戻れてないよ」


 何も言えなかった。


 灯は、少しだけ笑う。


「だから、今度は一緒に行こう」


 俺は、その手を握った。


 三年前の俺が、反対側から灯の肩を支える。


 採択領域の俺も、一歩前へ出る。


「俺も行く」


「お前は残ってもいい」


「残る場所がない」


「そうだったな」


「それに」


 男は灯を見る。


「今度こそ、自分で選んだ結果を見届ける」


 《第一査読官》が、俺たちの背後へ立つ。


『当該関係への干渉は、査読規程外である』


「止めるのか」


『否定』


 白い身体に走る黒い亀裂を見下ろす。


『査読規程そのものが、不正に制限されている可能性を確認した』


『最終回答をこの場へ顕す関係の、再査読を要求する』


「査読官らしいな」


『私は査読官である』


「知ってる」


 黒い月という輪郭が、激しく揺らいだ。


『当該関係を遮断する』


 黒い線が細くなる。


「今だ!」


 三年前の俺が叫ぶ。


 赤い円環が、消えかける関係の記録を固定する。


 俺は、関係が失われたという結論を保留する。


 採択領域の俺が、現在座標をその接触上へ固定する。


 灯が、俺たち全員の手を掴む。


 《第一査読官》が、最終回答の意志へ向けて審理要求を送信する。


 五つの意思が、一本の線へ重なった。


 黒い月という輪郭が、ついにその形を維持できず、大きく揺らぐ。


『警告』


『これより先では』


 黒い月の声から、初めて平坦さが失われた。


『答えを疑う者を』


『観測主体として認めない』


「なら」


 俺は、黒い線へ手を掛ける。


「最初の一人になってやる」


 黒い月を破壊したのではない。


 その奥に、別の空間を開いたのでもない。


 俺はただ。


 黒い月という輪郭を通して。


 唯一の最終回答を、この審理へ強いていた関係へ、白い空白を差し込んだ。


 その瞬間。


 空間の向こう側が開いたのではない。


 全ての問いへ、あらかじめ一つの回答を与えようとする意志が、俺たちにも認識できる形で初めて露わになった。


 光はなかった。


 闇もなかった。


 ただ。


 全ての問いに対して、既に一つの回答が記された在り方が、俺たちの認識には巨大な座標として映っていた。


 ――現在の自己顕現との接触を確認。


 ――識別情報、封鎖。


 ――観測主体名――


 表示が乱れる。


 黒い月という輪郭が、残された表示を消そうとする。


 だが。


 三年前の俺の赤い円環が、その一瞬を保存した。


 消える直前。


 俺は見た。


 たった一つの名前を。


 ――《終理観測者アレテイア》。


 次の瞬間。


 《未提出領域》との関係ごと、俺たちは。


 《終理観測者アレテイア》が、この審理へ顕していた末端投影へ引き込まれた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ