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『神律大学の未証明者《アンプローヴン》』   作者: 仕儀の反駁
第二章《第零学部》《第一観測圏》編

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第十九話 一度決めた正解を疑え

 白い法廷が、黒く染まっていく。


 床からではない。


 天井からでもない。


 法廷を構成していた余白そのものへ、黒が書き加えられていく。


 宙に浮かんでいた冊子が、一斉に閉じた。


 その一冊一冊が、《第一観測圏》に内包された《世界研究領域》の全体を、一つの査読資料として表示したもの。


 冊子の数には、終端がない。


 《第一観測圏》が内包する《世界研究領域》そのものが、無限に存在しているからだ。


 だというのに。


 無限の冊子が閉じた音は、重ならなかった。


 響いたのは、たった一度の乾いた音だけ。


 ぱたん。


 まるで。


 無限の《世界研究領域》全てが、初めから一冊の資料にすぎなかったかのように。


 《第一査読官》が、黒い月へ頭を下げている。


 胸元に浮かんでいた役職名が、白く点滅した。


 ――《第一査読官》。


 ――審理権限を一時凍結。


 ――《終理予備審査》へ管轄を移行。


『採択済みの結論に、再選択は認められない』


 黒い月から声が降りる。


 怒りも。


 軽蔑も。


 迷いもない。


 既に確定している事実を、ただ読み上げているような声。


 対照領域の俺の身体が、白い文字へ崩れていく。


 灯へ伸ばした指先から。


 一文字ずつ。


 存在の記述が削除されていく。


「掴め!」


 三年前の俺が叫ぶ。


「今度は、お前が選べ!」


「俺は――」


 崩れながら。


 対照領域の俺が、灯の手へ指を伸ばす。


「選び直す!」


 指先が触れた。


 だが。


 その瞬間すら、黒い訂正線に貫かれた。


 ――発言を無効化。


 ――採択領域代表記述との不一致を確認。


 ――当該選択は、誤記である。


「誤記じゃない!」


 灯が、消えかけた手を握る。


「この人が今、自分で選んだの!」


『採択後の記述に、結論を変更する権限は存在しない』


「何で!」


『結論が変更可能であるなら、それは採択された結論ではない』


「意味分かんない!」


 灯が叫ぶ。


「一回決めたら、間違ってても変えちゃ駄目ってこと!?」


『採択された結論に、間違いは存在しない』


「それを今、調べてたんでしょ!」


 黒い月は、灯の言葉へ答えない。


 対照領域の俺の肩が消える。


 腕が。


 胸が。


 採択された世界を説明するための、白い記号へ戻されていく。


「保存する!」


 三年前の俺が、赤い円環を展開する。


「保存対象――黒瀬零の再選択!」


 赤い文字が、対照領域の俺へ絡みつく。


 ――俺は選び直す。


 その一文を、削除されない記録として固定する。


 だが。


 黒い月から一本の線が落ちた。


 赤い文字へ触れる。


 ――保存対象の成立時刻を照合。


 ――採択後。


 ――採択後に生じた不一致は、採択領域の構成要素ではない。


 赤い文字が、対照領域から引き剝がされる。


「くっ……!」


 三年前の俺が膝をつく。


「領域の構成要素じゃない?」


 俺は黒い月を睨む。


「なら、こいつを何として消そうとしてる」


『採択領域に混入した反証記述』


「反証だって認めてるじゃないか」


『認めていない』


「今、反証記述って言っただろ」


『分類上の名称である』


「名前を付けられる程度には、そこに存在してる」


 黒い月が、僅かに脈動する。


 俺は一歩前へ出た。


「存在しないなら、消す必要はない」


『不整合は除去されなければならない』


「何で」


『採択結果を維持するためである』


「ほらな」


 白い円環を回す。


「正しいから残ってるんじゃない」


 対照領域の俺の胸元。


 灯が握っている手だけが、まだ消えずに残っている。


「正しいことにするため、違う答えを消してる」


『同義である』


「違う」


 三年前の俺が、頬の血を拭いながら立ち上がった。


「正しい答えが反証に耐えることと、反証を存在させないことは同じじゃない」


『反証は、採択以前に審査される』


「採択した後に、間違いが見つかったら?」


『存在しない』


「見つからないようにしてるだけだろ!」


 赤い右目が開く。


 その瞳に、採択された対照領域の内部が映る。


 平和な帝都神律大学。


 黒い月のない空。


 笑う学生たち。


 崩壊しなかった街。


 そして。


 日常の裏側を走り続ける、終わりのない白い訂正線。


 黒瀬灯へつながる可能性を検出するたび。


 記憶を消し。


 感情を削り。


 疑問を訂正する。


「お前たちは、この世界を一度採択したんじゃない」


 三年前の俺が言う。


「採択結果に合わないものを、今も消し続けている」


『整合性の維持である』


「それを選び続けているのは誰だ」


『採択機構』


「当事者じゃない」


『当事者の再判断は不要である』


「だったら」


 灯が、消えかけた対照領域の俺の手を両手で握った。


「この人は、何のために生きてるの?」


『採択された世界を構成するため』


「世界の部品ってこと?」


『構成要素である』


「人間じゃなくて?」


『人物であることと、構成要素であることは両立する』


「でも、自分では選べないんでしょ」


『採択結果と一致する範囲で選択可能である』


「それは」


 灯の声が震える。


「選べるって言わないよ」


 黒い月が灯を観測する。


 彼女の腕に、新しい文字が浮かんだ。


 ――黒瀬灯。


 ――未採択領域共同申立人。


 ――採択結果への感情的干渉源。


 灯はその文字を見て、ゆっくりと顔を上げた。


「また私を、道具みたいに書くの?」


『分類である』


「私は、分類じゃない」


『分類されない対象は、審理できない』


「審理できないなら」


 灯は、対照領域の俺の手を離さない。


「分からないまま、聞いて」


 黒い法廷へ、以前、灯が口にしたのと同じ言葉が響く。


 分からないものを。


 分からないまま聞く。


 《第一査読官》の顔が、僅かに灯へ向いた。


『《終理予備審査》において、未分類状態は許可されない』


 黒い月が告げる。


『対象は、採択または棄却される』


「どっちでもない答えは?」


『存在しない』


「まだ決めてない答えは?」


『審査期限までに採択されなければ、棄却される』


「選び直してる途中は?」


『採択済みである』


「だから!」


 灯が叫ぶ。


「今、選び直したの!」


 その声に、対照領域の俺の指が動いた。


 消えかけた身体。


 残っているのは。


 顔の半分。


 胸元。


 灯へ触れた片手だけ。


「俺は……」


 掠れた声が漏れる。


「黒瀬灯を消した」


『採択記録と一致』


「世界を救った」


『採択記録と一致』


「後悔はないと、言った」


『採択記録と一致』


「だが」


 黒い訂正線が、男の口元へ迫る。


 俺は円環を回した。


「`未証明(アンプローヴン)`!」


 ――採択後の選択は、誤記である。


 その結論を止める。


 白い空白が、黒い線を受け止めた。


 腕が痺れる。


 円環が悲鳴を上げる。


「言え!」


 俺は対照領域の自分へ叫ぶ。


「誰かに書かれた答えじゃない!」


 結論を止める。


「今のお前が、何を選ぶ!」


「俺は――」


 対照領域の俺が灯を見る。


「今は」


 初めて。


 採択された記録ではなく。


 現在の自分として答える。


「灯を、消したくない」


 白い法廷が、大きく揺れた。


 黒い月という輪郭が、ほんの一瞬だけ不鮮明に揺らいだ。


 ――採択領域代表記述に、採択結果と矛盾する現在意思を確認。


 ――原因を照合。


 ――外部からの強制入力、検出されず。


 ――本人による再選択と判定。


「本人による再選択」


 三年前の俺が表示を読む。


「記録されたぞ」


『当該記録を棄却する』


「待ちなさい」


 《第一査読官》が、初めて自ら黒い月へ声を向けた。


『《第一観測圏》査読規程において、当事者本人の新規証言は再審査事由となる』


『採択領域代表が採択根拠と矛盾する証言を行った場合、領域整合性の再査読が必要である』


 黒い月の正面が、音もなく《第一査読官》へ向く。


『管轄は移行済みである』


『しかし、本件は《第一観測圏》による採択結果を根拠として開始された』


『当該採択の前提が変化した以上――』


『前提は変化していない』


『当事者の意思が変化した』


『当事者の意思は、採択後の前提へ含まれない』


 《第一査読官》が言葉を止める。


 俺は眉を寄せた。


「採択後の意思は、前提に入らない?」


『採択とは、変動する可能性を終了させる処理である』


『終了後に発生した不一致は、結論を変更する根拠にならない』


「なるほど」


 俺は自分の円環を見る。


 今まで。


 結論を止めてきた。


 敗北。


 消滅。


 存在しない。


 兄妹ではない。


 査読権限がある。


 だが。


 今、黒い月が守っているのは、単なる結論ではない。


 採択された答えは、その世界を構成する前提へ変えられている。


 灯を消したこと。


 その結果が正しかったこと。


 そして。


 一度決めた正解を、二度と疑ってはならないこと。


 その全てが、対照領域を成立させる前提として固定されている。


「また前提か」


 三年前の俺が言う。


「ああ」


「止められるか」


「一度は止めた」


「今回は、《第一観測圏》の権限では触れられない規則として固定されている」


「だから何だ」


「壊れたら、今度は腕じゃ済まない」


「だったら」


 三年前の俺が、赤い円環を展開する。


「壊れる前に保存する」


「何を」


「お前が前提を止めた事実を」


「簡単に言うな」


「お前に言われたくない」


 灯が、俺たち二人を睨んだ。


「こんな時まで、同じ会話しないで」


「悪い」


「こいつが」


「二人とも」


「はい」


 対照領域の俺が、消えかけた顔で僅かに笑った。


「本当に同じだな」


「お前もだろ」


「俺は、そんな話し方をした記憶はない」


「灯を消したせいだ」


「……そうかもしれない」


 その返事が、妙に静かに胸へ刺さった。


 こいつも。


 俺たちと同じだった。


 灯を知っていた頃は。


 同じように笑い。


 同じように言い返し。


 同じように、妹を大切にしていた。


 それを全て消して、正しい世界の代表になった。


「お前」


 俺は言う。


「名前は」


「黒瀬零だ」


「そうじゃない」


「何?」


「今のお前は、採択領域の代表記述として呼ばれてる」


 腕に浮かぶ表示。


 ――対照証言者。


 ――採択領域代表記述。


 こいつの意思は、世界を説明するための文章としてしか扱われていない。


「それでいいのか」


「良くない」


 答えは早かった。


「なら、自分で立つ場所を決めろ」


「立つ場所?」


「過去の選択でも、採択結果でもない」


 俺は、かつて使った技を思い出す。


 世界の記録へ、自分の存在する座標を定義する。


 誰かに与えられた結論ではなく。


 自分が選んだ現在へ、自分自身を固定する。


「お前も使えるはずだ」


「何を」


「自分が黒瀬零だって、世界に任せず証明しろ」


 対照領域の俺の目が見開かれる。


「`自証座標(アクシス・エゴ)`」


 三年前の俺が呟く。


「現在の自分を、自己認識へ固定する技か」


「ああ」


「採択領域の俺は、自己認識を安定化規則に制限されている」


「今は違う」


 灯が言った。


「今、この人は自分で選んだ」


 対照領域の俺が、消えかけた手を見る。


 灯に触れた手。


 採択結果に反して、自分で伸ばした手。


「俺が」


 男は呟く。


「俺を決める」


『実行を禁止する』


 黒い月から、終端の見えない訂正線が降る。


「させるか!」


 三年前の俺が、赤い円環を広げる。


「保存対象――黒瀬零が、自らを選んだ現在!」


 訂正線が、赤い記録へ突き刺さる。


 俺も円環を回す。


 ――採択済みの結論は、当事者によって再選択できない。


 その前提へ、手を伸ばす。


 触れた瞬間。


 視界が裏返った。


     ◇


 世界が見えた。


 一つではない。


 《第一観測圏》に内包された、無限の《世界研究領域》。


 その一領域ごとに、無限の《世界論文》が存在し。


 さらに、一つ一つの《世界論文》には、終端のない《改稿》が内包されている。


 異なる前提から生まれた世界。


 異なる法則を持つ世界。


 異なる存在が、異なる選択を行った世界。


 それら全てを。


 《第一観測圏》は《総体資料化》によって読み取り。


 一つ一つの《世界研究領域》を、単一の査読資料として扱っている。


 無限の《世界研究領域》には、それぞれ採択された結論があった。


 戦争を終わらせるため。


 一つの文明を消した領域。


 世界の整合性を保つため。


 ある人物の出生を否定した領域。


 破局を避けるため。


 自由意思そのものを制限した領域。


 無限に異なる前提。


 無限に異なる正解。


 だが。


 採択された全ての《世界研究領域》へ、同じ一文が埋め込まれていた。


 ――採択済みの結論に、再選択は存在しない。


 これは。


 対照領域だけの規則ではない。


 《第一観測圏》が採択した、全ての世界へ共通して書き込まれた前提。


「重い……!」


 円環が砕けそうになる。


 一つの世界の前提ではない。


 無限の《世界研究領域》を、採択済みの資料として固定する。


 《第一観測圏》全体の基礎規則。


『撤回せよ』


 黒い月の声が、頭の中へ響く。


『当該前提を保留すれば、採択された全領域に再選択の可能性が発生する』


「それが何だ」


『確定した世界が、再び未確定となる』


「間違ってたら、選び直せばいい」


『終わらない』


「何が」


『選択が終わらない』


 黒い月が、初めて僅かに強い声を発した。


『一つの答えを選んでも、後に疑う』


『再選択しても、さらに疑う』


『正しさは確定せず、世界は永続的な不安定状態へ戻る』


「生きてるなら普通だろ」


『苦しみが継続する』


「だから、考えるのをやめさせるのか」


『結論は、苦しみを終了させる』


「選ぶことまで終わらせて」


 腕の感覚が消える。


 骨が。


 記憶が。


 名前が。


 無限の《世界研究領域》を固定する前提の圧力へ、押し潰されそうになる。


「生きてる人間まで、終わらせるのか!」


 円環の中心。


 白い空白が、《第一観測圏》全体の前提へ食い込む。


「`未証明(アンプローヴン)`!」


 ――採択済みの結論に、再選択は存在しない。


 その前提を。


「保留する」


 世界が止まった。


 《第一観測圏》に浮かぶ、無限の冊子。


 その表紙へ、一斉に空白が生まれる。


 採択。


 その文字の隣に、細い余白が追加される。


 ――再審査申請。


 それまで存在しなかった項目。


 採択された世界が。


 もう一度。


 自分たちの正解を疑うための空欄。


『処理を停止せよ』


 黒い月が命じる。


「断る!」


 円環が砕ける。


 血が噴き出す。


 それでも。


 前提を止める。


「今だ!」


 三年前の俺が叫んだ。


 対照領域の俺が、残された片手を胸へ当てる。


「俺は」


 身体の大半は、もう文字へ戻っている。


 それでも。


 声は残っていた。


「灯を消した黒瀬零だ」


 過去を否定しない。


「世界を救った黒瀬零だ」


 結果も否定しない。


「そして」


 灯へ伸ばした手を、自分の意思で握る。


「その答えを、疑った黒瀬零だ」


 白い円環が現れる。


 今まで。


 疑問を封じるために使われていた力。


 その中心へ、初めて新しい空白が生まれる。


「`自証座標(アクシス・エゴ)`」


 円環が、男の胸へ収束する。


 ――存在座標を照合。


 ――採択領域代表記述。


「違う」


 表示が割れる。


 ――黒瀬灯外部化処理の実行者。


「それだけじゃない」


 さらに割れる。


 ――採択結果との不一致記述。


「それも俺だ」


 男が、自分自身の名前を口にする。


「だが、今の俺を決めるのは」


 円環の中心へ、一つの座標が刻まれる。


 ――採択された正解を疑い、再選択を行った現在。


「過去の答えじゃない」


 白い光が爆発する。


「俺だ」


 消えかけていた身体が、再び輪郭を取り戻す。


 採択領域の代表としてではない。


 対照資料としてでもない。


 一人の黒瀬零として、白い法廷へ立つ。


 ――新規存在座標を検出。


 ――所属領域、未確定。


 ――採択状態、該当なし。


 ――棄却状態、該当なし。


 ――分類不能。


『分類不能対象を削除する』


「待ちなさい」


 《第一査読官》が、黒い月と男の間へ立った。


『当該人物は、本審廷内において自己証明を成立させた』


『《第一観測圏》の査読規程上、証明済み記述を無審査で削除することはできない』


『規程は《終理予備審査》に適用されない』


『しかし、本審査は《第一観測圏》の資料を使用している』


 《第一査読官》の身体へ、黒い亀裂が走る。


『異議を撤回せよ』


『できない』


 初めて。


 《第一査読官》が、命令へ反した。


『査読とは、結論を守るために反証を消す手続ではない』


『反証を審査した上で、結論の妥当性を確認する手続である』


『当該対象を削除すれば』


 白い人影が、対照領域の俺を見る。


『採択結果が反証に耐えなかった事実を、自ら証明することになる』


 黒い月が沈黙する。


 その間に、灯が対照領域の俺へ駆け寄った。


「大丈夫?」


「分からない」


「またそれ?」


「身体があるのかも、どこに所属しているのかも分からない」


「じゃあ、一緒に考えよう」


「俺は」


 男が灯を見る。


「お前に許されていない」


「うん」


 灯は頷いた。


「まだ許してない」


「……そうか」


「でも」


 灯は手を差し出す。


「許すかどうかを決める前に、消えられたら困る」


 男は、しばらくその手を見た。


 やがて、ゆっくりと握る。


「ありがとう」


「それもまだ早い」


「厳しいな」


「三年分だから」


「……分かった」


 三年前の俺が、二人を見ながら長く息を吐く。


「これで、黒瀬零が三人か」


「増えたな」


 俺が言う。


「大学の登録制度が、また壊れる」


「戻って最初に心配するのがそれか」


「事務は強い」


「否定できない」


「二人とも」


 灯が睨む。


「はい」


 三人の声が重なった。


「増えないで!」


 灯の声が、黒い法廷へ響く。


 僅かに、空気が緩んだ。


 だが。


 黒い月は消えていない。


『再選択を、一件確認した』


 その声が、再び法廷を満たす。


『当該事例は、採択制度全体の欠陥を証明しない』


「一件あれば十分だろ」


 俺は言う。


「再選択は存在しないって前提への反例だ」


『例外として処理する』


「都合が良すぎる」


『黒瀬零に固有の異常として隔離する』


「こいつが疑ったのは、能力に強制されたからじゃない」


 三年前の俺が言う。


「灯の言葉を聞いて、自分で考えた」


『その判断を、他領域へ一般化できない』


「一般化する必要はない」


 灯が答えた。


「みんなに、今の答えを捨てろって言ってるんじゃない」


『では、何を要求する』


「疑ってもいいってこと」


 灯が黒い月を見上げる。


「今の答えを選び続けたい人は、そのままでいい」


「でも」


 俺が続ける。


「疑った奴に、疑うなって命令するな」


 三年前の俺も、赤い円環を消しながら言う。


「選び直した者を、誤記として消すな」


 対照領域の俺が、自分の胸へ手を置く。


「過去の俺が決めた正解を、現在の俺へ強制するな」


 四人の言葉が、黒い法廷へ残る。


 《第一査読官》が、審理記録を表示する。


 ――共同申立人側要求。


 ――採択結果への服従義務を撤廃。


 ――当事者による再審査請求の可能性を承認。


 ――再選択の結果は、新たな審査対象とする。


『却下する』


 黒い月が即答した。


「理由は」


『全ての採択領域へ、疑問が伝播する』


「伝播?」


 黒い月という輪郭の内側へ、《第一観測圏》が内包する無限の《世界研究領域》が映り込む。


 俺が前提を保留した影響で。


 それぞれの採択記録の隣へ生まれた、再審査申請の空欄。


 その一つへ、文字が書かれた。


 ――申請理由。


 ――現在の結論が、本当に当事者の選択であるか確認したい。


 別の《世界研究領域》にも、文字が現れる。


 ――失われた記録について、再調査を要求。


 さらに別の領域。


 ――採択時に除外された対象の証言を求める。


 一件。


 十件。


 千件。


 もはや、数えることに意味はなかった。


 《第一観測圏》に内包された、無限の《世界研究領域》。


 その全域へ、同じ疑問が伝播していく。


 世界を壊すための反乱ではない。


 今すぐ結論を捨てろという要求でもない。


 ただ。


 自分たちが正しいと信じてきた答えへ。


 もう一度だけ。


 問いを向ける。


 ――本当に、これが自分たちの選んだ答えだったのか。


『停止せよ』


 黒い月が命じる。


 だが。


 もう止まらない。


 無限の冊子が、一冊ずつ開き始める。


 採択された世界の住人たちが、忘れたはずの何かを考え始めている。


 《第一査読官》が、その光景を見上げた。


『《第一観測圏》全域に、再審査要求を検出』


『対象領域数――終端なし』


『申請件数――算定不能』


 黒い月が、強く脈動する。


 法廷の黒が、一瞬で深くなる。


『ならば』


 声が、これまでよりも近く響いた。


『全ての問いを、同時に終了させる』


「何をする気だ」


 返答の代わりに、無限の《世界研究領域》を示す全冊子へ、同じ一文が書き込まれた。


 ――《終理照会》を開始。


 ――対象、《第一観測圏》内の全《世界研究領域》。


 ――対象領域数、無限。


 ――照会事項。


 その下へ、一つの問いが現れる。


『お前たちは、現在の世界を選び続けるか』


 灯が息を呑む。


「これ、みんなに聞いてるの?」


「違う」


 対照領域の俺が、黒い月を見上げる。


「問いの形をしているが」


 三年前の俺も表情を強張らせる。


「答えを聞く気はない」


 最後の表示が、全冊子へ刻まれた。


 ――回答期限、一秒。


 ――無回答の場合、現行結論への同意とみなす。


「一秒!?」


 俺は円環を回す。


 だが。


 黒い月が先に告げる。


『選択する機会は与えた』


 無限の《世界研究領域》で、一秒が始まる。


 照会されたことさえ知らない者。


 問いを理解できない者。


 答えを考える時間のない者。


 声を持たない者。


 既に記録から消された者。


 その全てを。


 沈黙したという理由で。


 現在の正解へ固定するために。


「ふざけるな!」


 俺は叫んだ。


「それは選択じゃない!」


『回答期限まで』


 黒い月が、冷たく数え始める。


『残り――〇・九秒』


 無限の世界が。


 一度決めた正解を疑う権利ごと。


 唯一の答えへ閉じられようとしていた。

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