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『神律大学の未証明者《アンプローヴン》』   作者: 仕儀の反駁
第二章《第零学部》《第一観測圏》編

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第十八話 正しい世界は、妹を消し続ける

「俺が、あの答えを反証する」


 三年前の俺が言った。


 閉じた赤い右目から流れた血が、頬を伝う。


 その正面。


 一冊の《世界研究領域》から投影された、もう一人の黒瀬零。


 灯を消した男。


 その結果として世界を救い、《第一観測圏》から正しいと採択された男。


 対照領域の俺は、僅かにも表情を変えなかった。


「反証?」


「ああ」


「何を否定する」


「お前の選択だ」


「選択の結果は、既に提示されている」


 対照領域の背後に、平穏な帝都神律大学が映っている。


 黒い月はない。


 校舎も壊れていない。


 学生たちは笑い。


 街には日常が続いている。


「黒瀬灯を消したことで、世界は救われた」


 もう一人の俺が淡々と告げる。


「これは仮説ではない。成功した結果だ」


「分かってる」


「ならば、何を反証する」


「その結果が出たから、お前の選択まで正しかったという結論だ」


 白い法廷が、僅かに静まる。


 《第一査読官》が、二人の黒瀬零を見比べる。


『対照証言者へ、審廷内での限定的発言を許可する』


 対照領域の俺の腕へ、白い文字が現れる。


 ――対照証言者。


 ――採択領域代表記述。


 ――証言範囲、黒瀬灯外部化処理に限定。


「随分と勝手な肩書きだな」


 俺が言う。


「ここでは全員、資料だ」


 対照領域の俺が返す。


「お前も、俺も」


「灯もか?」


「黒瀬灯は存在しない」


「ここにいる」


「俺の領域には存在しない」


「なら、見ろ」


 俺は灯の肩へ手を置いた。


「こいつが黒瀬灯だ」


 対照領域の俺が、初めて灯を見る。


 視線が合う。


 灯の手が、俺の服を掴んだ。


「……私のこと、分からない?」


「記録にない」


「記録じゃなくて」


「記憶にもない」


「本当に何も?」


「何もない」


 即答だった。


 迷いも。


 動揺も。


 妹へ向ける感情もない。


 灯が唇を噛む。


「だったら」


 声が僅かに震える。


「私を消したことを、どうして知ってるの?」


 対照領域の俺が止まる。


「《第一観測圏》に保存された外部化処理記録から確認した」


「あなた自身は覚えてないんだよね」


「ああ」


「それなのに、後悔はないって言えるの?」


「結果が証明している」


「何を?」


「俺の判断が世界を救ったことを」


「聞いてるのは、後悔してるかどうか」


「同じことだ」


「違うよ」


 灯が一歩前へ出る。


「覚えてない相手を消したことを、どうやって後悔しないって決めたの?」


 対照領域の俺は答えない。


 白い法廷へ、沈黙が落ちる。


 三年前の俺が口を開いた。


「答えられない」


「感情的な問題は、査読結果に影響しない」


「感情の話じゃない」


 三年前の俺は、かつて自分が選ぼうとした未来を見据える。


「お前は、灯を消すと同時に、灯を消したという自分の記憶まで処理した」


「外部化を完全に成立させるためだ」


「灯の存在を知る者が残れば、観測基準が再接続される危険があった」


「そのとおりだ」


「だから、自分自身も灯を知らない人間へ書き換えた」


「ああ」


「なら、お前は」


 三年前の俺が拳を握る。


「自分の選択を、選択した後に検証できない」


 対照領域の俺の眉が、僅かに動いた。


「実行前のお前は、灯を知っていた」


「そう記録されている」


「実行後のお前は、灯を知らない」


「ああ」


「灯を知っているお前は、もう存在しない。灯を消したことを覚えているお前もいない」


 一歩。


 三年前の俺が近づく。


「それで、誰がその選択を正しかったと確認した?」


「結果だ」


「誰が結果を見て、正しいと決めた」


「《第一観測圏》だ」


「お前じゃない」


 法廷の余白に、その言葉が残った。


「お前は灯を消した後、自分の選択を見直していない」


「見直す必要がない」


「違う」


 三年前の俺が首を振る。


「見直せないようにした」


 俺はようやく、こいつが何を言おうとしているのか理解した。


 灯の消去。


 記憶の消去。


 反対意見の消去。


 選択した本人すら、選択の再検証から排除する。


「自分の答えへ反論できる人間を、全員消したのか」


 俺が言った。


「灯も」


「……」


「灯を知る人間も」


「……」


「最後には、自分自身まで」


 対照領域の俺が、俺を見る。


「世界を守るためだ」


「その世界で」


 俺は背後の平和な大学を指した。


「灯を消したのは正しかったって、誰が反論できる?」


「反論の必要がない」


「何で」


「世界が存続している」


「それは、灯を消せば世界が存続できるという証明だ」


 三年前の俺が言う。


「灯の選択を奪わなければ、世界を救えなかったという証明じゃない」


 法廷に、細い白線が走る。


 ――証言内容を論理照合。


 ――対照領域は、黒瀬灯の消去が世界維持の十分条件であることを証明。


 ――黒瀬灯の選択排除が必要条件であることは、未証明。


 《第一査読官》が、表示された文章へ顔を向ける。


『対照証言者へ確認する』


『黒瀬灯本人へ、外部化処理の可否を問う手続は実施されたか』


「実施していない」


『理由を提示せよ』


「拒否される可能性があった」


 灯の目が揺れる。


 三年前の俺が、苦しそうに目を伏せる。


『拒否された場合に使用する代替手段は存在したか』


「存在しない」


『代替手段の研究は実施されたか』


「時間がなかった」


『研究可能時間を提示せよ』


「黒月現象の完全発生まで、二時間四十一分」


『全時間の使用記録を提示せよ』


 対照領域の冊子から、無数の文章が展開される。


 実験。


 計算。


 観測。


 外部化処理の準備。


 その中に、灯との対話はない。


「……私に聞く時間は?」


 灯が尋ねる。


「なかった」


「本当に?」


「拒否された場合、実行が遅れる」


「だから聞かなかったの?」


「ああ」


「私が何て答えるか、怖かったから?」


「世界全体の存続に、個人の意思を優先することはできない」


「それは答えじゃない」


「答えだ」


「違う」


 灯の声が強くなる。


「あなたは、私が嫌だって言った時に、自分が何を選ぶのか決められなかったんだよ」


 対照領域の俺が黙る。


「世界を守るって言いながら」


 灯は胸元へ手を置く。


「私に『死んで』って言う責任も、私が『生きたい』って言うのを聞く責任も負わなかった」


「結果は変わらない」


「変わるよ」


「黒瀬灯の外部化は必要だった」


「だったら、私に言えばよかった!」


 灯の声が、法廷全体へ響く。


「世界を救うために、消えてほしいって!」


 無数の《世界研究領域》を示す冊子が、僅かに揺れた。


「私は嫌だって言ったかもしれない」


 灯は続ける。


「怖いって泣いたかもしれない。逃げようとしたかもしれない」


「だから――」


「それでも!」


 灯が遮る。


「それは、私の人生でしょ!」


 白い人影の周囲へ、審理記録が浮かび上がる。


 ――当事者への説明義務。


 ――選択参加の権利。


 ――緊急時における制限の正当性。


 ――結果の有効性と手続の正当性を分離して審査。


「……ごめん」


 呟いたのは、対照領域の俺ではない。


 三年前の俺だった。


 灯が振り返る。


「何で、そっちのお兄ちゃんが謝るの」


「俺も同じだった」


「でも」


「時間がないと思った。聞けば迷うと思った。拒否されたら、実行できなくなると思った」


 閉じた赤い右目から、再び血が流れる。


「だから、お前のためだと言いながら、お前から選ぶ権利を奪った」


「……うん」


「俺は、世界を守る責任を負ったつもりだった」


 三年前の俺は、対照領域の自分を見る。


「だが、本当は違った」


「何が違う」


 対照領域の俺が問う。


「俺たちは、選択の結果だけを引き受けようとした」


「それが責任だ」


「選択するまでの痛みを、灯一人へ押しつけてな」


「世界の存続には――」


「世界を言い訳にするな!」


 三年前の俺が叫んだ。


 白い法廷へ、赤い円環が広がる。


「世界が危険だったのは事実だ!」


「なら、ほかに何を選べた!」


「分からない!」


 即答だった。


「分からなかったから、探すべきだった!」


「二時間四十一分でか?」


「二時間でも!」


「見つからなければ、全員が死ぬ!」


「その可能性はあった!」


「なら、俺の答えが正しい!」


「違う!」


 二人の黒瀬零の声が衝突する。


 同じ顔。


 同じ声。


 同じ過去から分かれた。


 二つの答え。


「灯を消す必要があったかもしれない」


 三年前の俺が言う。


「それでも、灯の答えを最初から存在しないものにしたことまで、正しくはならない」


「結果が同じなら、過程に何の意味がある」


「意味はある」


 俺が言った。


「俺たちは、結果だけでできてない」


「感情論だ」


「お前が講義室で学生に教えてることも、結果だけか?」


 対照領域の俺が、こちらを見る。


「試験で正解を書けば、途中の計算は全部間違ってても満点にするのか」


「問題による」


「研究では?」


「再現可能性を確認する」


「都合の悪いデータを全部消して、結論だけ正しければ採択するのか」


「しない」


「何で」


「論証の信頼性を確認できない」


「同じだろ」


 俺は灯を指す。


「こいつは、都合の悪いデータじゃない」


「……」


「お前の答えに反論できる当事者だ」


 対照領域の俺の背後で、平和な大学の映像が揺れた。


「お前は灯を消して、灯を知る自分も消して、反論の存在しない世界を作った」


 俺は続ける。


「それで『誰も反対していないから正しい』って言ってる」


「そのような主張はしていない」


「同じだ」


「世界の存続率を根拠としている」


「その存続率に、灯は入ってるのか?」


 対照領域の俺が止まる。


「黒瀬灯は、算定時点で存在しない」


「ほらな」


 白い法廷へ、新たな表示が浮かぶ。


 ――対照領域、世界存在維持率九九・九九九パーセント。


 ――算定対象、外部化処理完了後に存在する全対象。


 ――黒瀬灯、算定対象外。


「灯を消した後の世界だけを数えて」


 俺は笑った。


「灯を消せば、ほとんど全員が助かるって計算したのか」


「外部化前の算定では、世界全体が崩壊する」


「灯を一人として数えた比較は?」


「……」


「存在してた灯を含めて」


 俺は一歩前へ出る。


「灯の人生も、灯が選ぶ可能性も、灯がこれから作ったはずの関係も、全部数えたのか」


「未来の可能性は確定できない」


「だったら、どうして最初から〇として扱った」


 灯が、対照領域の冊子を見る。


「私がいない世界は、本当に九九・九九九パーセントなの?」


『算定方式を再確認する』


 《第一査読官》の声が響く。


『黒瀬灯外部化後の存在を基準集合として採用』


『外部化によって除外された対象および派生可能性は、母集団へ含まれない』


「それ」


 灯が言う。


「私を消したら、私がいない人たちの中では、ほとんど全員助かりましたって意味だよね」


『表現上は正確である』


「ずるい」


 灯の一言が、法廷へ残る。


「私を数から消してから、ほとんど誰も失われてないって言うのは、ずるいよ」


 対照領域の俺が、初めて視線を逸らした。


     ◇


『審理内容を中間整理する』


 《第一査読官》の背後へ、四つの文章が表示される。


 ――対照領域は、黒瀬灯の外部化が世界維持の十分条件であることを証明している。


 ――黒瀬灯の意思排除が必要条件であることは証明されていない。


 ――外部化後の存続率は、除外対象を母集団へ含まない。


 ――実行者は、処理後に判断根拠を再検証できない。


『以上により』


『対照領域は、黒瀬灯を消去する結論の成功例ではある』


『ただし、その結論が唯一の正解であることを証明していない』


 白い法廷へ、僅かな亀裂が走る。


 唯一の正解。


 その一部が、未証明へ戻る。


「……勝った?」


 灯が小さく尋ねる。


「まだだ」


 三年前の俺が答える。


 対照領域の俺は、依然として立っている。


 その背後には、平和な世界がある。


 誰も傷ついていない大学。


 黒い月のない空。


「俺の選択が唯一ではないとしても」


 対照領域の俺が言った。


「お前たちは、別の答えを証明していない」


「ああ」


 三年前の俺が認める。


「黒瀬灯を残しながら、世界も救う」


「できるのか」


「まだ分からない」


「ならば、俺の領域の方が優れている」


「現時点ではな」


「現時点?」


 三年前の俺が、僅かに笑う。


「お前の答えは、もう終わっている」


「何?」


「灯を消して、記憶も消して、世界を固定した」


「安定させた」


「だから、もう選び直せない」


「選び直す必要はない」


「それを決めたのは、灯を忘れる前のお前だ」


 三年前の俺の赤い円環が、静かに回り始める。


「今のお前は、その判断へ従って生きているだけだ」


「俺の意思だ」


「本当に?」


 対照領域の俺の足元へ、白い文章が浮かぶ。


 ――黒瀬零。


 ――外部化処理後の行動規範。


 ――黒瀬灯に関する記録・疑念・再調査を禁止。


 ――観測基準の再形成につながる選択を自動棄却。


「何だ、これは」


 俺が言う。


 対照領域の俺が、初めて明確に表情を変えた。


「表示を停止しろ」


『対照領域の安定化規則として有効である』


「停止しろ!」


『審理資料の隠蔽要求を棄却する』


 文章が続く。


 ――黒瀬灯の存在を示唆する感情反応を検出した場合、誤作動として修正。


 ――喪失感、原因不明の精神的不調として処理。


 ――妹に関する仮説形成を禁止。


 ――外部化処理の再審査を禁止。


「お前」


 三年前の俺が呟く。


「灯を忘れただけじゃない」


 対照領域の俺の瞳が、僅かに揺れている。


「灯を思い出す可能性まで、自分から奪ったのか」


「世界の安定に必要だった」


「だから、今のお前は選べない」


「選ぶ必要はない!」


「違う」


 三年前の俺が一歩踏み込む。


「お前は、自分が選ばなくていい世界を作った!」


 赤い円環が展開される。


 対照領域の俺も、反射的に手を上げた。


 白い空白を持つ円環。


 同じ`未証明(アンプローヴン)`。


 だが。


 動きが違う。


 三年前の俺の円環は、失われた記録を掴み。


 もう一人の円環は、生まれかけた疑問を止める。


 ――黒瀬灯は存在したのではないか。


 その問いが、対照領域の俺の内部で発生し。


 即座に保留される。


「お前の`未証明(アンプローヴン)`は」


 俺は息を呑む。


「自分の疑問を止めてるのか」


「世界を不安定化させる問いは必要ない」


「それは保留じゃない」


 三年前の俺が言う。


「考えないための封印だ」


「同じ能力だ」


「違う」


「何が」


「俺たちの`未証明(アンプローヴン)`は、別の答えを探すために結論を止める」


 赤い円環が、白い円環へ食い込む。


「お前は、今の答えを守るために問いを止めている」


「世界は救われている!」


「その世界で、お前は生きてるのか!」


 対照領域の俺が、言葉を失った。


「決められた答えから外れないように」


 三年前の俺が叫ぶ。


「疑うことも、思い出すことも、選び直すことも禁じられて!」


「それでも世界は続いている!」


「お前は続いてない!」


 赤い円環が、対照領域の安定化規則へ触れる。


 ――黒瀬灯に関する疑念を禁止。


 その記録を、三年前の俺は掴む。


「保存対象」


「やめろ!」


「黒瀬零が、黒瀬灯を疑った事実!」


「やめろ!」


「お前は今!」


 三年前の俺が、自分自身へ突きつける。


「灯を見て、何かを感じた!」


 赤い文字が、対照領域の俺の胸へ刻まれる。


 ――対象不明の既視感。


 ――説明不能の喪失反応。


 ――削除処理、実行前。


 ――保存。


「やめろおおおっ!」


 対照領域の俺の円環が、激しく回転する。


 保存された疑問を、未確定のまま封じ込めようとする。


 二つの`未証明(アンプローヴン)`が衝突した。


 白い法廷へ、無数の文章が飛び散る。


 灯の手を、俺は強く握る。


「お兄ちゃん……」


「あいつは」


 俺は二人の自分を見る。


「世界を救った後も、ずっと戦ってたんだ」


「誰と?」


「自分の中に残る、灯を探そうとする何かと」


 忘れたはずの妹。


 存在しないはずの喪失。


 理由を持たない違和感。


 その全てを。


 世界の安定という名目で。


 何度も。


 何度も。


 修正し続けてきた。


 対照領域の俺が、頭を押さえる。


「俺には……妹など」


 赤い文字が消えない。


「存在しない」


「それは、お前が選んだ答えか!」


 三年前の俺が問う。


「記録が――」


「記録じゃない!」


「世界が――」


「世界でもない!」


「なら、何を答えればいい!」


 対照領域の俺が、初めて叫んだ。


 三年前の俺は、静かに答える。


「お前自身の答えだ」


「……」


「今、灯を見て」


 三年前の俺が、妹を消した自分へ手を伸ばす。


「何を感じている」


 対照領域の俺が、灯を見る。


 灯は逃げない。


 怯えながらも、真っ直ぐに見返す。


「分からない」


 対照領域の俺が呟く。


「胸が」


 自分の胸元を掴む。


「痛い」


 灯の目から、一筋の涙が落ちた。


「それでいいよ」


「何が」


「分からないなら、分からないって言っていい」


「俺は、世界を救った」


「うん」


「お前を消した」


「うん」


「それでも」


 男の声が震える。


「俺は今、お前を」


 安定化規則が、その続きを止めようとする。


 ――未承認の関係形成を検出。


 ――対照領域の整合性を維持。


 ――当該感情を削除。


「させるか!」


 三年前の俺が赤い円環を固定する。


「今度は、消させない!」


 対照領域の俺の口から、掠れた声が漏れる。


「……知っている気がする」


 灯が息を呑む。


「お前を」


 白い法廷へ、一つの文章が現れる。


 ――対照領域代表・黒瀬零。


 ――黒瀬灯への未登録記憶反応を確認。


 ――採択領域内部に、棄却済み対象の残存可能性を検出。


 《第一査読官》が、初めて大きく顔を上げた。


『対照領域の完全整合性を再審査する』


 平穏だった大学の映像へ、一本の赤い罅が走った。


 黒い月はない。


 崩壊もない。


 それでも。


 正しいと採択された世界の奥に、消したはずの問いが残っていた。


『整合率を再算定』


 九九・九九九パーセント。


 数字が揺れる。


 九九・九八七パーセント。


 九九・九一一パーセント。


 さらに低下していく。


「何が起きてる」


 俺が問う。


 三年前の俺が、対照領域の自分を見たまま答える。


「灯を完全に消せていなかったんじゃない」


「じゃあ」


「あの世界は」


 赤い右目が、ゆっくり開く。


「灯を消し続けることで、正しさを維持していた」


 対照領域の俺が膝をつく。


 その背後。


 平和な大学の至るところへ、白い訂正線が現れ始める。


 講義室。


 廊下。


 学生寮。


 街。


 日常の裏側で。


 灯へつながる可能性を、終わることなく削除し続ける処理。


 あの世界は。


 一度、犠牲を選んで救われたのではない。


 その選択を疑う可能性が生まれるたび。


 何度でも。


 同じ犠牲を選び直していた。


「これが」


 三年前の俺が言う。


「お前の正しい世界だ」


 対照領域の俺は、何も答えられない。


 《第一査読官》が、新たな審理結果を表示する。


『対照領域は、静的に完成した成功例ではない』


『黒瀬灯に由来する疑念・関係・可能性を継続的に排除することで、採択状態を維持している』


『当該領域の正しさは、結論の成立ではなく、反証の恒常的削除に依存する』


 白い法廷へ、最後の一文が刻まれる。


 ――唯一解としての証明能力に、重大な欠陥を確認。


 対照領域の俺が、灯を見上げる。


「俺は」


 声が震えている。


「世界を救ったんじゃなかったのか」


 三年前の俺は、すぐには答えなかった。


 同じ選択をしたかもしれない自分。


 同じ罪を背負った自分。


 その隣へ、ゆっくりと膝をつく。


「救った」


「なら」


「でも」


 三年前の俺は、自分自身へ告げる。


「救った後の世界に、答えを選び直す自由を残さなかった」


「……」


「だから、お前の世界は終わってる」


「平和だ」


「止まってるんだ」


 三年前の俺が、赤い右目を閉じる。


「灯を消した、あの瞬間の答えで」


 灯が、対照領域の俺へ近づく。


 俺は止めなかった。


 彼女は男の前へ立ち、手を差し出す。


「私を覚えてなくてもいい」


「……」


「今、もう一度知って」


「俺は、お前を消した」


「うん」


「許せるのか」


「まだ決めてない」


 灯は答える。


「でも」


 差し出した手を、僅かに前へ動かす。


「決めてないから、ここから考えられる」


 対照領域の俺が、その手を見る。


 触れれば。


 採択された世界は崩れるかもしれない。


 世界を救った自分の正しさも。


 後悔はないという結論も。


 全てが未証明へ戻る。


 それでも。


 男は、ゆっくりと手を伸ばした。


 指先が、灯の手へ触れる直前。


 法廷全体へ、強烈な警告が鳴り響いた。


 ――対照領域代表記述に、未承認の選択を検出。


 ――採択結果との不一致を確認。


 ――当該記述を、領域代表から除外する。


「何?」


 対照領域の俺の身体が、白い文字へ変わり始める。


『処理を停止せよ』


 《第一査読官》が命令する。


 しかし。


 処理は止まらない。


 法廷の上空からではない。


 《第一観測圏》を越えた、さらに上位の《観測圏》からでもない。


 ただ。


 問いと答えを。


 採択と棄却を。


 そして。


 この審廷を、審廷として成立させている。


 あらゆる区別の根を通して。


 全てを唯一の最終回答へ収束させようとする意志が。


 黒い月という輪郭を得て、ここへ顕れた。


 ――採択された答えは、選び直されてはならない。


 ――完成した結論に、当事者の再審は不要である。


 ――不一致記述を削除する。


 対照領域の俺が、灯の手へ届かない。


「掴め!」


 三年前の俺が叫ぶ。


「今度は、お前が選べ!」


 白い文字へ崩れながら、対照領域の俺が必死に腕を伸ばす。


「俺は――」


 その指が、灯の指先へ触れる。


「選び直す!」


 瞬間。


 白い法廷の全ての冊子が、一斉に閉じた。


 無数の《世界研究領域》が震える。


 《第一査読官》の背後。


 これまで何も存在しなかった余白へ顕れた黒い月が。


 法廷を見下ろすのでもなく。


 その外側から侵入するのでもなく。


 ただ。


 初めからそこに通じていたかのように、静かに脈動した。


 そこから、感情のない声が響く。


『採択済みの結論に、再選択は認められない』


 三年前の俺の顔が強張る。


「この声……」


 灯が、俺たち二人の手を強く握る。


 《第一査読官》でさえ、黒い月へ向かって頭を下げていた。


 ――既知の審理権限では分類不能の介入を確認。


 ――査読審廷の管轄を停止。


 ――当該案件を、《終理予備審査》へ移送。


 白い法廷が、黒く染まり始める。


 世界を救った俺を反証した先で。


 俺たちは初めて。


 世界を唯一の答えへ閉じようとする。


 あまりにも根源的な意志の輪郭に。


 触れた。

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