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『神律大学の未証明者《アンプローヴン》』   作者: 仕儀の反駁
第二章《第零学部》《第一観測圏》編

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第十六話 世界を棄却する査読者、顕る

 白い線が、空から降ってきた。


 雨ではない。


 光でもない。


 それは、この世界に引かれた訂正線だった。


 一本が校舎を貫く。


 爆発は起きない。


 壁も窓も壊れない。


 代わりに。


 校舎の正面に掲げられていた文字が、一つ消えた。


 ――帝都神律大学。


 大学。


 その二文字だけが失われる。


 残された建物は、何のために建てられたのか分からない巨大な箱へ変わった。


「建物を破壊したんじゃない」


 九条澄玲が呟く。


「大学であるという意味を、査読結果に適合しない記述として削除した……」


 次の白線が、学生寮へ落ちる。


 窓も。


 扉も。


 内部にいた学生たちも無傷だった。


 だが。


「お前、誰だ?」


「何で俺の部屋にいるんだ……?」


「ここって、誰が住む場所だ?」


 共同生活の記録。


 友人関係。


 部屋の所有者。


 学生寮という施設が成立するための意味だけが、順番に訂正されていく。


「獅堂!」


「分かってる!」


 獅堂剛毅が両足で地面を踏み締めた。


「`万象は我が礎(グランド・レガリア)`!」


 足裏から生じた黄金の亀裂が、中央広場から大学全域へ走る。


 校舎。


 研究棟。


 学生寮。


 地下施設。


 そこで生まれた関係も、記憶も、失敗も。


 その全てを、一つの地盤として接続する。


「この大学で積み上げたものは、全部俺の地面だ!」


 白い訂正線が、黄金の領域へ突き刺さる。


 大地が軋んだ。


 獅堂の両脚が石畳へ沈む。


「ぐっ……!」


 黄金の線が一本、白く塗り潰される。


 そこへ固定されていたのは、獅堂と一人の学生が戦い、互いを認めた記録だった。


「くそっ!」


 獅堂が歯を食いしばる。


「支えた端から、地面だった意味そのものを消しやがる!」


「物理的な固定では防げません」


 澄玲の周囲へ、無数の数式が展開される。


 降下する訂正線の構造を分析する。


 しかし。


 計算式が完成するより先に、別の白線がその中央へ横線を引いた。


 ――査読対象による自己弁護を検出。


 ――当該証拠の採用資格を否認。


 数式は残っている。


 計算結果も間違っていない。


 それでも。


 証拠としての意味だけが失われた。


「私の計算が否定されたわけではない」


 澄玲の声が震える。


「正しいかどうかを判断される前に、提出資格そのものを奪われています」


「査読する側が、こっちの反論を最初から受け取らないってことか」


 俺は裂けた空を見上げた。


 亀裂の向こう。


 無数の白い眼が並んでいる。


 こちらを見ているようで。


 実際には、俺たちを一人ずつ見ていない。


 もっと大きな何かを。


 この世界を含む全体を。


 一つの提出物として読んでいる。


 ――一つの問いに、複数の当事者は不要である。


 声が落ちる。


 ――複数の選択とは、複数の偏りである。


 ――一致しない論証を保存する行為は、未完成を尊重することではない。


 ――誤謬を延命することである。


「勝手に決めるな!」


 俺が叫ぶ。


 白い眼は、瞬きもしない。


 ――査読対象に、査読結果を決定する権限はない。


 一本の訂正線が、俺へ向かって落ちてくる。


 線の内部に、一つの文章があった。


 ――黒瀬零と黒瀬灯は、兄妹ではない。


「`未証明(アンプローヴン)`!」


 円環が回る。


 中心の白い空白が、訂正線を停止させる。


 兄妹ではない。


 その結論を保留する。


 白線が空中で止まった。


「止めた!」


 灯が叫ぶ。


「一本だけだ!」


 次。


 次。


 次。


 裂けた空の奥から、無数の訂正線が降り注ぐ。


 ――黒瀬零は一名である。


 ――三年前の黒瀬零は、現在世界に所属しない。


 ――黒瀬灯は、共同論証者ではない。


 ――《第零学部》の新登録原則は無効である。


 ――九条澄玲は、黒瀬零の共同研究者ではない。


 ――獅堂剛毅は、黒瀬零を支えていない。


「全部を同時に……!」


 円環が激しく回転する。


 一つ。


 二つ。


 五つ。


 十。


 結論を保留するたび、頭蓋の内側を針で削られるような痛みが走った。


 膝が落ちる。


「お兄ちゃん!」


 灯が身体を支える。


「離れろ!」


「嫌!」


「兄妹じゃないって訂正される!」


「だから離れない!」


 灯の腕へ、白い文字が浮かぶ。


 ――関係情報を修正。


 兄。


 という文字が薄れていく。


「お兄……」


 灯の声が止まった。


 俺を見ている。


 目の前にいる人間が大切だと分かっている。


 なのに。


 関係を表す言葉だけが出てこない。


「灯!」


「私は……」


 灯が胸元を押さえる。


「あなたを、何て呼んでたんだっけ」


 胸の奥が冷たくなる。


「思い出すまで待て!」


「待ってたら消される!」


 さらに白線が食い込む。


 ――黒瀬灯。


 ――外部観測基準。


 ――人間関係、不要。


 妹から。


 一人の人間から。


 ただの観測装置へ。


 訂正されていく。


「やめろ!」


 手を伸ばす。


 だが、別の白線が俺の腕へ絡みついた。


 ――黒瀬零。


 ――重複登録個体。


 ――単一個体へ統合する。


「俺を使え!」


 赤い右目の俺が叫ぶ。


 赤い円環が灯を覆った。


「保存対象――黒瀬灯!」


 削られた関係を、赤い文字が上から書き直す。


 ――黒瀬零の妹。


 ――三年前の実験当事者。


 ――《第零学部》共同論証者。


 灯の輪郭が戻る。


「お兄ちゃん……!」


「思い出したか!」


「うん!」


 だが。


 赤い右目の俺が血を吐いた。


「おい!」


「止めるな!」


 男は膝をつきながらも、円環を維持する。


「消去される以上の密度で、記録を書き続ける!」


「そんなことをしたら」


「俺より先に、灯が消える!」


 白い眼の一つが、赤い右目へ向いた。


 ――棄却済み情報の不正保存を確認。


 訂正線が、赤い右目そのものを削除しようと迫る。


「避けろ!」


「保存を解けば、灯が消える!」


 動かない。


 白線が眼球へ触れようとした瞬間。


 細い青白い光が、横からそれを切断した。


「随分と乱暴な査読ね」


 神代緋月が、研究棟の屋上に立っていた。


 片方だけの眼で、裂けた空を睨んでいる。


「教授!」


「久しぶりね、三年前の黒瀬零」


 赤い右目の俺が息を止める。


「神代……緋月」


「謝罪も、弁明も、責任の話も後」


 緋月の右眼窩は、黒い眼帯で覆われている。


 残された左目へ、青白い校正環が浮かんだ。


「あなたの右目に貸した校正器官、返却期限を三年も過ぎているけれど」


「俺は……」


「今は使いなさい」


 赤い右目が、青白く光る。


 赤と青。


 二つの文字列が重なる。


「`万象校正(エメンダティオ)`――局所校正」


 灯から削られた関係が、三年前の記録を基準として修復される。


「三分だけよ」


 緋月が言った。


「それ以上は、あなたの脳が焼ける」


「十分だ」


「三年前も、そう言って失敗したでしょう」


「……今度は一人じゃない」


 赤い右目の俺が、こちらを見る。


「そう」


 緋月は僅かに目を細めた。


「なら、今度こそ証明しなさい」


     ◇


 訂正線は止まらない。


 俺が一つの結論を保留しても。


 別の文章が。


 別の論理が。


 同じ結果を作り直す。


 ――兄妹ではない。


 それを止めれば。


 ――血縁関係は無効である。


 ――相互認識は誤認である。


 ――関係記録は査読基準を満たさない。


 形を変えて。


 何度でも。


 同じ結論が降ってくる。


「切りがない!」


「当然です!」


 澄玲が叫ぶ。


「白線は、個別の攻撃ではありません!」


「じゃあ何だ!」


「上位審級で確定した査読結果を、この世界で実行可能な文章へ翻訳したものです!」


 澄玲の額から血が流れている。


 それでも分析を止めない。


「結論を一つ止めても、査読結果そのものが残っている限り、別の論証が自動的に生成されます!」


「その査読結果は、どこから来てる!」


「《第一観測圏》よ」


 答えたのは緋月だった。


 研究棟から飛び降り、中央広場へ着地する。


「《世界研究領域》のさらに外側。私たちが世界と呼んでいる全てを、提出資料として読む場所」


「一つの《世界研究領域》を査読してるんじゃないのか」


「違う」


 緋月が空を見上げる。


 裂け目の向こう。


 白い眼の一つ一つに、別々の景色が映っていた。


 海しか存在しない世界群。


 時間が逆向きに進む世界群。


 数式だけで構成された世界群。


 崩壊した法則中枢から、無限の宇宙が派生し続ける世界群。


「一つの《世界研究領域》には、異なる前提から成立した無限の《世界論文》が含まれる」


「それは知ってる」


「そして、一つの《世界論文》には、可能性の分岐によって生まれる終端のない《改稿》が存在する」


 無限の《改稿》。


 それらを内包する無限の《世界論文》。


 その全体が、一つの《世界研究領域》。


「けれど」


 緋月が白い眼を指す。


「《第一観測圏》に存在する《世界研究領域》は、それ一つではない」


 空中の観測端末が、こちらの意思とは無関係に起動する。


 ――《第一観測圏》内包領域数を照会。


 ――終端を検出できない。


「無限にある……?」


「そうよ」


 緋月が言う。


「《第一観測圏》は、無限の《世界研究領域》を査読する」


 端末の表示が続く。


 ――査読対象、《世界研究領域》〇四一八九。


 ――内包《世界論文》数、終端なし。


 ――各《世界論文》内の《改稿》数、終端なし。


 ――全存在・全歴史・全法則・全観測主体を、単一査読資料へ変換。


 ――《総体資料化》、完了。


 白い眼の中に映っていた無限の景色が、一瞬で縮む。


 空間的に小さくなったわけではない。


 宇宙も。


 時間も。


 住人も。


 世界を成立させる根源命題も。


 全てが存在したまま。


 一冊の薄い文書として表示された。


 表紙には。


 〇四一八九。


 たった一つの番号だけ。


「嘘だろ……」


 あの一冊の内部に、無限の《世界論文》がある。


 その一つ一つに、終わりのない《改稿》が存在する。


 数え切れない宇宙も。


 そこに生きる者たちの歴史も。


 世界を維持していた法則中枢も。


 絶対だと思われていた根源命題も。


 全部。


 向こうでは、一件の提出資料にすぎない。


「これが、《第一観測圏》との存在差よ」


 緋月が言った。


「距離が遠いわけでも、空間の次元が一つ高いわけでもない」


「じゃあ何だ」


「私たちが実在として生きているものを、向こうは記録として読む」


 現実と。


 書物。


 生きている世界と。


 査読される提出資料。


「下位側で、どれだけ宇宙を増やしても」


 澄玲が端末の表示を見つめる。


「無限の観測階層を積み上げても、それは一件の資料の内部記述が増えるだけ……」


「そう」


 緋月が頷く。


「本の中でどれだけ遠くへ行っても、本を読んでいる場所には到達しない」


 白い眼が、一斉にこちらを向く。


「そして、その本に等しい《世界研究領域》が、《第一観測圏》には無限に存在する」


 端末の表示が切り替わる。


 ――査読対象、〇四一八九。


 ――査読結果、棄却。


「棄却されたら、世界が消えるのか」


「単純な破壊ではない」


 緋月の表情が硬くなる。


「現実として採択される資格を失う」


「どういう意味だ」


「私たちの内部では、明日も来るかもしれない。街も、人間も、歴史も残るかもしれない」


「なら」


「でも、上位構造からは二度と現実として参照されない」


 他の《世界研究領域》との因果接続を失い。


 証拠として採用されず。


 実在した世界ではなく。


 ――存在したかもしれない、誤った仮説。


 そこへ降格する。


「宇宙を壊すより、たちが悪いな」


「だから止めるのです」


 澄玲が言った。


「けれど、個別の訂正文を止めても意味がない」


「分かってる」


 俺は空を見る。


 無限の《世界研究領域》を内包し。


 その一つ一つを、一件の資料として査読する場所。


 そこから見れば。


 俺たちの抗議も。


 能力も。


 戦いも。


 文書の中へ書かれた文章にすぎない。


「だったら」


 円環を回す。


「査読結果じゃなく、その前を止める」


「何を」


「向こうが、俺たちを査読できる理由だ」


 澄玲が息を呑む。


「《第一観測圏》の査読権限?」


「あいつらが上にいるからって、正しいとは限らない」


「存在階梯の差は事実です」


「でも」


 俺は白い眼を睨む。


「強いことと、裁く資格があることは別だ」


 観測した者が、観測された者を評価する。


 上位にいる者が、下位の現実性を決定する。


 それが、この査読を支える前提。


「九条」


「何ですか」


「査読者が正しい理由は?」


「《第一観測圏》に所属しているからです」


「所属していれば、世界を棄却していいのか」


「制度上は」


「その制度は、誰が証明した」


 澄玲が止まる。


 すぐに数式を展開する。


 ――《第一観測圏》査読権限の根拠を検索。


 ――観測者は、観測対象を査定する。


 ――当該命題の証明元を検索。


 ――《第一観測圏》。


「自分で自分に資格を与えている」


 俺は笑った。


「笑う場面ではありません」


「いや」


 白い空白が、円環の中心から広がる。


「こんな分かりやすい未証明、笑うしかないだろ」


 白い眼が、一斉に俺だけを見る。


 ――査読対象、黒瀬零。


 ――査読権限への異議を確認。


 ――当該異論を棄却する。


「その棄却権は」


 右手を空へ伸ばす。


「誰が証明した?」


 円環が軋む。


 これまでとは違う。


 結論ではない。


 論証でもない。


 その論証を始める資格。


 審級の前提。


 ――観測者は、観測対象を査定できる。


 そこへ触れる。


 瞬間。


 全身の骨が、内側から軋んだ。


「零!」


 澄玲が叫ぶ。


「そこは結論ではありません!」


「知ってる!」


「`未証明(アンプローヴン)`の作用範囲を越えています!」


「なら広げる!」


「簡単に言わないでください!」


「さっき、お前も似たようなこと言っただろ!」


 結論の前には、論証がある。


 論証の前には、前提がある。


 俺の力は、いつも最後の瞬間に、別の答えを選ぶ時間を作った。


 だが。


 相手が何度でも結論を作り直すなら。


 問うべきなのは、最後ではない。


 最初だ。


「見る側が」


 息を吸う。


「正しいとは限らない」


 白線が肩を貫く。


 腹へ。


 脚へ。


 俺を査読対象として固定しようとする。


「上位にいる者が」


 円環へ罅が走る。


「下位の答えを決めていいとも限らない」


 白い眼の奥で、何かが揺れた。


「なら問え」


 右手を握る。


「その権利は、誰が証明した」


 白い空白が、《第一観測圏》の根本前提へ食い込む。


「`未証明(アンプローヴン)`!」


 ――観測者は、観測対象を査定できる。


 その前提を。


「保留する」


 音が消えた。


 風も。


 警告音も。


 獅堂の怒鳴り声も。


 空から降る無数の訂正線も。


 全てが停止する。


 一瞬。


 世界から。


 見る側と。


 見られる側の区別が消えた。


 書物と。


 読者。


 提出物と。


 査読者。


 上位と。


 下位。


 その審級差そのものが、否定されたのではない。


 裁定の根拠として採用できるか。


 未証明へ戻された。


 白い眼が、初めて動揺する。


 ――査読前提の不成立を検出。


 ――審級権限を照会。


 ――権限根拠、未証明。


 ――査読処理を継続できない。


「止まった……」


 灯が呟く。


 空中の訂正線が砕け散る。


 帝都神律大学。


 消されていた文字が戻る。


 学生寮から声が聞こえる。


「お前、急にどうしたんだよ」


「いや……さっきまで、お前が誰か分からなくて」


 失われかけた関係が、世界へ戻ってくる。


 灯が俺の腕を強く掴む。


「お兄ちゃん」


「ああ」


「今度は、ちゃんと分かる」


「良かった」


 赤い右目の俺が、その場へ倒れた。


「おい!」


「三分」


 緋月が駆け寄る。


「校正器官の限界よ」


 赤い右目から光が消える。


 緋月が膝をつき、男の顔を覗き込んだ。


「右目を閉じなさい」


「まだ、記録が」


「もう保存しなくていい」


「だが」


「零が査読前提を止めた」


 緋月が俺を見る。


「結論だけでなく、観測審級そのものへ手を掛けるなんて」


「褒めてる?」


「本気で呆れているの」


「教授は大体そう言う」


「今回は特別よ」


 円環が軋み続けている。


 止めた。


 だが。


 完全ではない。


 空の裂け目。


 白い眼のさらに奥。


 もっと巨大な何かが、こちらを読んでいる。


 査読端末ではない。


 《第一観測圏》そのもの。


『権限根拠への異議を受理』


 声が変わった。


 無数の端末が発していた機械音ではない。


 一人の査読者の声。


『査読対象、黒瀬零』


「何だ」


『貴殿は、《第一観測圏》に観測対象を査定する資格がないと主張した』


「資格がないとは言ってない」


 俺は立ち上がる。


「あるなら証明しろって言った」


 僅かな沈黙。


『異議内容を修正』


『査読権限の証明要求を受理する』


 停止していた白線が、攻撃ではなく、一本の巨大な門を形成し始める。


 裂け目の向こう。


 無数の白い眼の中央。


 文字だけで構成された門。


 その上部へ、通知が表示される。


 ――《第一観測圏》査読審廷。


 ――異議申立人、黒瀬零。


 ――審理対象。


 ――観測者に、観測対象を査定する資格はあるか。


「向こうへ来いってことか」


 澄玲が端末を確認する。


「招待ではありません」


「じゃあ何だ」


「召喚状です」


「断ったら?」


 空の声が答える。


『異議を撤回したものと判断する』


「行くしかないな」


「待て」


 獅堂が俺の肩を掴む。


「また一人で行く気じゃねえだろうな」


「一人とは言ってない」


「前も勝手に扉へ入った」


「あれは、入れるのが俺だけだった」


「今回は?」


 澄玲が門を解析する。


「異議申立人と、その共同論証者」


 表示が増える。


 ――黒瀬零。


 ――黒瀬零。


 ――黒瀬灯。


 三人。


 《第零学部》学籍番号〇。


 同じ問いへ登録された共同論証者。


「俺たちは?」


 獅堂が顔をしかめる。


「九条と俺は行けねえのか」


「共同論証者として登録されていません」


「今から登録しろ」


「学則変更直後です。追加登録には審査が必要です」


「事務!」


 獅堂が空へ怒鳴る。


「こんな時まで事務かよ!」


「落ち着いてください」


「お前も行けねえんだぞ!」


 澄玲は空の門を見る。


 そして、俺へ向き直った。


「黒瀬零」


「何だ」


「先ほどの問いを忘れないでください」


「観測者に、観測対象を査定する資格があるか?」


「それだけではありません」


 澄玲の目が白く光る。


「あなたが観測者の一方的な裁定を否定するなら、あなた自身にも、他者の答えを勝手に決める権限はありません」


「分かってる」


「本当に?」


「……たぶん」


「そこは断言してください」


「断言したら、前提を疑えって怒られそうだから」


 澄玲が一瞬、言葉を失う。


「面倒な学習をしましたね」


「先生が良かった」


「私は教員ではありません」


 獅堂が、俺の胸を拳で軽く叩く。


「落ちるなよ」


「地面が存在しない場所かもしれないぞ」


「だったら呼べ」


「どうやって」


「知るか」


「無茶言うな」


「お前にだけは言われたくねえ」


 灯が門を見上げる。


 怖いはずだ。


 俺だって怖い。


 無限の《世界研究領域》を内包し。


 その一つ一つを、実在したまま一件の文書へ変換する場所。


 そこで開かれる査読審廷。


 三年前の俺が、ゆっくり立ち上がる。


 赤い右目は閉じたまま。


「行けるのか」


「外へ出たばかりで、次は《第一観測圏》か」


「嫌なら残っていい」


「それは、お前が決めることじゃない」


 男は閉じた右目を押さえる。


「俺も選ぶ」


「何を」


「行く」


 灯も、俺の手を握る。


「私も」


「怖くないのか」


「怖いよ」


「なら」


「怖いから、お兄ちゃんたちだけで私のことを決めないで」


「分かった」


 三人で、空の門を見る。


 その向こうには、白い法廷がある。


 無限の《世界研究領域》が、一冊ずつの査読資料として積み上げられている。


 一冊ごとに、無限の《世界論文》。


 さらに、その一つ一つに、終端のない《改稿》。


 数え切れない実在。


 文明。


 観測者。


 生命。


 それら全てが。


 採択。


 修正。


 棄却。


 たった一語の査読結果を待っている。


「黒瀬」


 獅堂が呼ぶ。


「何だ」


「棄却されたら、どうする」


 俺は門へ一歩踏み出す。


「決まってる」


 白い光が、三人を包む。


「査読結果の方を、未証明に戻す」


 門が閉じる。


 大学が。


 地上が。


 俺たちの《世界研究領域》全体が。


 一冊の文書へ変わりながら遠ざかる。


 最後に見えたのは。


 こちらを見上げる澄玲と獅堂。


 そして。


 昼空へ残された黒い月。


 俺たちは。


 世界を読む場所へ。


 世界の一頁として、査読されに行く。

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