第十五話 唯一解を、唯一だと決めつけるな
白くなった。
床も。
壁も。
天井も。
黒板も。
俺たちを囲んでいた《第零学部》の全てが、最初から何も書かれていなかった紙のように、完全な白へ戻っていく。
「お兄ちゃん、これ大丈夫なの?」
「大丈夫に見えるか?」
「全然」
「なら、たぶん大丈夫じゃない」
「そこで安心させてよ」
灯の抗議へ答える前に、足元から硬い音が響いた。
罅割れる音ではない。
巨大な紙を折り畳むような音。
白い床へ一本の線が走り、俺たち三人が立つ場所だけを残して、その外側が次々と消えていく。
落下する先は見えない。
闇ですらない。
そこには、「下」という方向そのものが存在していなかった。
「登録体系を保留した影響だ」
赤い右目の俺が言う。
「《第零学部》は、所属者を定義する規則によって存在していた」
「その規則を、俺たちが止めた」
「結果、学部が何を収容する場所なのか決められなくなった」
「大学って、学生がいないと消えるのか」
「少なくとも、ここはそうらしい」
「授業料を払う存在は大事だからな」
「今、その冗談を言う必要があるか?」
「今だから言ってる」
白い空間へ、無機質な文字列が浮かび上がった。
――登録原則、未定義。
――所属対象、未定義。
――学部機能、維持不能。
――旧規則への復帰を実行。
俺たちの足元へ、再び一人分の円が現れる。
――黒瀬零を一名選択せよ。
「戻ろうとしてる」
「体系を空白のまま維持することはできない」
赤い右目の俺が、円へ足を向ける。
俺はその肩を掴んだ。
「何してる」
「旧規則へ戻る前に、一人が登録されればいい」
「また自分が消えるつもりか」
「俺が登録されるとは言っていない」
「だったら」
「お前が入れ」
「断る」
「なぜだ」
「お前を外へ出す方法がなくなる」
「最初から、外へ出る必要はない」
「それを決めるのは、お前だ」
「決めた」
「三年前の記録に従ってないか?」
赤い右目が僅かに揺れる。
俺は続けた。
「お前はさっき、灯がいない未来から逃げたって認めた」
「だから今度は、責任を取る」
「消えることが責任か?」
「少なくとも、お前たちを残せる」
「それは後始末だ」
「何?」
「責任を取るっていうのは、失敗した世界に残って、次の答えを選ぶことだろ」
俺たちの周囲では、白紙化が進んでいる。
残された足場は、既に教室一つ分もない。
灯が俺たちの間へ割って入った。
「二人とも」
「何だ」
「また喧嘩するなら、今度は殴らないで」
「殴らない」
「たぶん」
「“たぶん”って言った方、どっち?」
「俺」
二人の声が重なる。
灯が額を押さえた。
「同じ顔で、同じ返事しないでよ……」
文字列が更新される。
――旧規則復元率、二六パーセント。
――三〇パーセント到達時、余剰登録対象を削除。
「余剰って、俺たちのどっちだ」
「現時点では未確定だ」
「未確定のまま削除されたら?」
「両方が不正登録として処理される可能性もある」
「最悪じゃないか」
「だから急げ」
「何をすればいい」
「新しい規則を書く」
赤い右目の俺が、白い空間を見回す。
「登録体系を保留できたということは、この空白は単なる崩壊ではない。《第零学部》の規則を書き直すための編集領域だ」
「学則を俺たちで作る?」
「登録原則だけだ。学部全体を再設計する時間はない」
「十分無茶だろ」
「無茶をしたのはお前だ」
「手伝ったのはお前だ」
「否定はしない」
白い床へ、一冊の本が浮かび上がった。
表紙には何も書かれていない。
分厚い。
だが、開いてみると、紙は一枚しかなかった。
最上部に記されているのは、たった一行。
《第零学部登録原則》
その下は白紙。
机も椅子も消えている。
俺は床へ胡坐をかき、本を膝の上へ置いた。
「また答案か」
「今度は学則だ」
灯も俺の隣へ座る。
赤い右目の俺は、向かい側へ立ったままだった。
「座れよ」
「時間がない」
「立ってても、文章は早くならない」
「その理屈、さっきも聞いた気がする」
「俺が言われた」
男は一瞬黙り、渋々床へ座った。
三人で。
何もない白い空間の中央へ円を作る。
世界の終わりにしては、妙に大学生らしい光景だった。
◇
「まず、旧規則の問題点を整理する」
赤い右目の俺が言った。
「一つの学生番号を、一つの人格へ結びつけていたこと」
「俺たちは、同じ学生番号へ二人存在する」
「だから、片方が余剰として処理される」
「なら、学生番号を二つに増やせばいい」
「《第零学部》の学生番号は、個体ではなく研究対象へ発行される」
「研究対象?」
「黒瀬零の場合は、`未証明`だ」
男が白紙へ指を置く。
「学部は、一つの根源命題につき、一つの登録番号しか与えない」
「じゃあ、俺たち二人が同じ`命題`を持ってる限り、番号は増やせない?」
「おそらく」
「なら、片方が別の`命題`になれば」
「それは、今すぐ決められるものではない」
俺たちの能力は、根本では同じ。
ただし、作用が違う。
俺は、まだ決まっていない結論を保留する。
こいつは、既に記録された結論を保存する。
枝分かれした三年間が、同じ`未証明`を違う形へ変えた。
けれど。
別の`命題`として完成しているわけではない。
「学生番号を、能力へ付けるから駄目なんじゃないか」
俺が言う。
「どういう意味だ」
「大学へ入るのは、能力じゃなくて人間だろ」
「普通の学部ではな」
「ここでも、そうすればいい」
「二人を登録すれば、一つの根源命題を二つの別研究として扱うことになる。同じ命題について矛盾する証明結果が提出された場合、学部側がどちらか一方を棄却する」
「結局、片方を偽物にするのか」
「だから旧規則は、一つの命題へ一名義しか許可しなかった」
重複を防ぐため。
矛盾する結論を排除するため。
同じ問いには。
一人の正式な研究者。
一つの正式な答え。
「……《アレテイア》みたい」
灯が言った。
白い空間の温度が、一瞬だけ下がった気がした。
「何でそう思う」
「同じ問いを研究する人が二人いたら、どっちかを消すんでしょ」
「制度上は棄却だ」
「言い方を変えただけじゃない?」
赤い右目の俺が黙る。
灯は白紙の頁を見る。
「二人が違う答えを出したなら、二つとも残せばいいのに」
「学問には、検証が必要だ」
「うん」
「相互に両立しない答えを、同時に正解として登録することはできない」
「正解として残さなくていいよ」
「何?」
「研究の途中として残せばいい」
灯が、俺たち二人を交互に見る。
「だって、二人ともまだ答えを出し終わってないでしょ?」
そのとおりだった。
三年前の俺は、灯を消すことが正解だと思った。
現在の俺は、灯を救うことを選んだ。
でも。
灯を救った後。
世界をどうするのか。
自分たちがどう生きるのか。
俺たちは、まだ何も証明していない。
「学部が登録するのは、答えを持ってる人じゃない」
灯が言う。
「答えが分からないから、研究する人でしょ」
「……大学の存在意義みたいなことを言うな」
「大学生じゃないけどね」
「俺より分かってる」
「お前は、まだ入学直後だ」
「お前もだろ」
「三年前に在籍していた」
「先輩面するな」
旧規則復元率。
――三二パーセント。
――余剰登録対象の照合を開始。
俺たちの輪郭へ、白い線が走る。
どちらを残すか。
学部が比較を始めた。
「急ぐぞ」
「ああ」
俺は筆記具を取る。
白紙へ書こうとして、止まった。
「学生とは、何だ」
「そこからか」
「そこからだろ」
入学する人。
授業を受ける人。
研究する人。
学生証を持つ人。
学費を払う人。
でも。
この学部では。
「未解決の問いに、自分の人生を使って向き合う者」
俺が言う。
赤い右目の俺が、僅かに眉を動かした。
「定義として広すぎる」
「じゃあ補え」
「自らの選択に責任を持ち、検証可能な形で答えを提出する者」
「硬い」
「学則だぞ」
「灯は?」
「私?」
「どっちがいい」
「二つを合わせれば?」
簡単に言う。
だが。
それでいいのかもしれない。
俺は書いた。
――学生とは、未解決の問いに自らの生涯をもって向き合い、その選択と結果に責任を負いながら、答えを検証し続ける者をいう。
文字が黒く定着する。
消えない。
――定義一、受理。
「通った」
「まだ登録原則ではない」
「分かってる」
次。
一つの命題へ、二人の学生をどう登録するか。
「学生番号を、人間へ与えない」
俺が言う。
「先ほどと同じ案か」
「違う。能力にも与えない」
「では、何へ付与する」
「問いに」
男が目を細める。
「一つの未解決命題へ、一つの番号を付ける」
「その命題に関わる学生は?」
「共同研究者として登録する」
「人数制限は」
「設けない」
「無制限では、無関係な人間まで同じ登録へ参加できる」
「なら、条件を付ける」
何が必要か。
知識。
能力。
血縁。
学力。
違う。
「その問いの答えによって、自分の生涯が変わる人」
灯が言った。
「当事者か」
「うん」
「だが、当事者だけでは研究にならない」
赤い右目の俺が返す。
「感情的な利害関係者が、自分に都合のいい答えだけを残す可能性がある」
「だから、一人じゃなくする」
俺は言った。
「異なる選択をした当事者を、同じ問いへ登録する」
「互いの答えを検証させるのか」
「片方だけなら、自分が正しいと思い込める」
「二人なら正しいとは限らない」
「でも、少なくとも反論はされる」
「答えを一つへまとめられなかった場合は?」
「まとめなくていい」
灯が言う。
「またそれか」
「違う答えが残ったままでも、次の研究はできるでしょ?」
「矛盾した結論を放置すれば――」
「結論じゃない」
俺は灯の言葉を引き継いだ。
「途中経過として登録する」
どちらが本物か。
どちらの選択が正しかったか。
今、決める必要はない。
未解決のまま。
二人で研究する。
「一つの問いに、一つの正解を登録するんじゃない」
俺は筆記具を走らせる。
「一つの問いへ、そこに責任を持つ人間を登録する」
白紙へ、二つ目の規則を書く。
――一つの未解決命題には、一つの学籍番号を付与する。
――当該命題の結論によって自らの生涯に責任を負う者は、人数および個体の同一性を問わず、共同論証者として同一学籍へ登録できる。
最後の文字を書いた瞬間、頁全体が赤く染まった。
――定義矛盾を検出。
「何が駄目だ」
――共同論証者間の意思が相反した場合、単一の学生意思を確定できない。
「学生意思?」
「学部として処分、履修、進級、退学を判断する時、代表者が必要になる」
「事務的な理由で消されるのか、俺たち」
「制度とは、そういうものだ」
「大学のラスボスって、事務なのか?」
「否定しづらい」
灯が赤くなった文章を見る。
「二人で違うことを選んだら、二人とも選んだことにすれば?」
「学部は、一つの判断しか実行できない」
「なら、一つに決まるまで実行しなければいい」
「それでは決定不能になる」
「決まってないのに、決める方がおかしくない?」
また。
灯は当然のように言う。
決まっていないなら。
決めない。
それは。
俺の`未証明`が、最初からしてきたことだった。
「共同論証者の意思が一致しない場合」
俺は続きを書く。
――共同論証者の意思が一致しない場合、学部は一方を代表として選定してはならない。
――当該判断を未決として保留し、全当事者が参加可能な再論証を実施する。
赤い光が消える。
――矛盾、解消。
――定義二、受理。
「通った」
「だが、危険な規則だ」
赤い右目の俺が言う。
「何が」
「意思が一致しなければ、何度でも判断を止められる」
「悪用される?」
「ああ」
「なら、条件を増やす」
保留は、逃げるためのものではない。
別の答えへ到達するための時間だ。
――ただし、保留を求める者は、現行判断に代わる結論の可能性を提示し、その検証へ自ら参加しなければならない。
――定義補足、受理。
旧規則復元率。
――四九パーセント。
俺たちを照合していた白い線が、一度止まった。
「あと一つ必要だ」
「何が」
「名義」
赤い右目の俺が言う。
「一つの学籍へ登録する、共同の名義だ」
「黒瀬零じゃ駄目か」
「それでは、個人名の問題へ戻る」
「`未証明`」
「それは、根源命題の名称だ」
「じゃあ、何にする」
問い。
俺たちが、自分の人生を使って向き合う問い。
灯を救えるか。
世界を救えるか。
正しい答えは一つなのか。
自分は誰なのか。
全て。
まだ証明されていない。
「学籍名義を、答えじゃなく問いにする」
俺が言った。
「具体的には」
白紙の本。
最後に残った空欄。
――登録命題名。
俺は筆記具を置く。
赤い右目の俺を見る。
「お前が書け」
「なぜ俺が」
「三年前に、お前が始めた問いだから」
「終わらせるのは、お前だ」
「勝手に役割を分けるな」
灯が筆記具へ手を伸ばした。
「じゃあ、三人で書こう」
「灯も?」
「私が原因なんでしょ?」
「原因じゃない」
二人の声が重なる。
灯が少しだけ驚き、それから笑った。
「そう言ってくれるなら、なおさら参加する」
三人で一本の筆記具を握る。
さすがに狭い。
「書きにくい」
「我慢して」
「灯、もう少し上を持て」
「お兄ちゃんが二人とも、力を入れすぎなの」
「こいつが押してる」
「お前だろ」
「喧嘩しない」
「はい」
白紙へ、三人で記す。
――登録命題名。
――黒瀬灯と、その兄たちは、誰にも選択を奪われず共に生きられるか。
書き終えた。
あまりにも個人的な問いだった。
宇宙でも。
世界でも。
真理でもない。
妹と。
二人の兄が。
一緒に生きられるか。
それだけ。
「学則に書くには、小さすぎないか」
赤い右目の俺が言う。
「研究テーマなんて、最初はそれくらいでいいだろ」
「根拠は」
「知らない」
「お前は本当に――」
男が言い終える前に、白い本が強烈な光を放った。
――登録命題を受理。
――学籍番号を発行。
数字が浮かぶ。
――〇。
「〇番?」
「《第零学部》だから?」
「安直だな」
「黒瀬零だからかもしれない」
「もっと安直だ」
続いて、登録者名が表示される。
――共同論証者。
――黒瀬零。
一人目。
俺。
――黒瀬零。
二人目。
赤い右目の俺。
――黒瀬灯。
三人目。
「私も学生なの?」
「共同論証者だ」
「でも、大学生じゃないよ」
「年齢条件を書いてない」
「あなたたち、学則を作るの下手じゃない?」
「否定できない」
灯が呆れる。
その時。
旧規則復元率が、五〇パーセントへ到達した。
――旧登録原則と新登録原則が競合。
――優先順位を判定。
白い空間の半分が、元の《第零学部》へ戻る。
黒板。
机。
無数の扉。
残る半分は、白紙のまま。
世界が左右に割れた。
旧規則。
新規則。
どちらを採用するか。
学部自身が査定している。
「決め手が足りない」
赤い右目の俺が観測する。
「新規則は、矛盾を排除せず登録できる。しかし、学部の安定性は旧規則より低い」
「正しい一人を選ぶ方が、管理は簡単か」
「ああ」
「でも、間違った一人を選ぶ可能性がある」
「制度は正しさより、一貫性を優先することがある」
「それで三年前に、灯を消した」
男が黙る。
「お前を責めてるんじゃない」
「分かっている」
「同じ間違いを、学部にさせたくない」
「ああ」
新しい規則には、証拠が必要だ。
二人を残すことで、一人を選ぶより良い答えへ到達できる。
その実証。
「俺たちが証明するしかない」
「何を」
「二人の黒瀬零が残ることで、一人では出せなかった答えを出す」
「今ここで?」
「今ここで」
旧規則が、一人を選ぶ。
新規則が、複数の当事者を残す。
なら。
この競合そのものへ、二人で答えを出せばいい。
「俺は、新規則を保存する」
赤い右目の俺が言った。
「まだ採用されてない」
「書かれた記録としては存在している」
赤い円環が展開される。
白紙の本へ、赤い文字が絡みつく。
「お前は?」
「競合の結論を保留する」
俺も右手を上げる。
白い空白を中心に持つ円環。
旧規則が勝つ。
新規則が勝つ。
その二つの結論を同時に止める。
――登録原則の優先判定を開始。
――旧規則を採用。
「`未証明`!」
結論を保留する。
表示が揺らぐ。
――新規則を棄却。
赤い右目の俺が叫ぶ。
「保存しろ!」
赤い円環が、新規則を固定する。
棄却されても、書かれた事実を消させない。
俺が結論を止め。
こいつが選択肢を残す。
一人では、できなかった。
俺だけなら、保留時間が尽きた瞬間に旧規則へ戻る。
こいつだけなら、新規則を記録として保存できても、採用させることはできない。
二つが揃って。
初めて。
別の答えへ進める。
「灯!」
「私?」
「最後に選べ!」
「何を!?」
「どっちの規則で生きたいか!」
灯が、左右に割れた学部を見る。
旧規則の側には。
一人分の机。
一人分の学生証。
一つの正解。
白紙の側には。
三人分の名前。
まだ決まっていない問い。
灯は迷わなかった。
「三人で考えられる方!」
灯が白紙の本へ手を置く。
「私のことを、私抜きで決めない方を選ぶ!」
学部全体へ亀裂が走った。
旧規則の教室が砕けていく。
白紙が、それを飲み込むのではない。
黒板も。
机も。
扉も。
古い形を残したまま、新しい配置へ書き換わっていく。
一人分だった机が三つへ増える。
黒板の中央へ、新しい学則が刻まれた。
――同一の問いに、異なる答えを持つ者が存在する時。
――本学部は、いずれか一方を正解として先に選定してはならない。
――全ての当事者を共同論証者として登録し、その選択と結果をもって再検証を行う。
――新登録原則を採用。
――学部再構成、完了。
――《第零学部》学籍番号〇。
――登録者、三名。
「三名?」
俺が表示を見る。
「一つの学籍に、三人か」
「灯まで正式に入ったな」
「私、授業を受けないと駄目?」
「たぶん」
「単位は?」
「知らない」
「試験は?」
「今みたいなやつ」
「退学したい」
「登録直後に言うな」
灯が、本気で嫌そうな顔をした。
白い空間に、初めて風が吹く。
教室の奥。
存在しなかったはずの扉が、ゆっくりと開いた。
外の光。
中央広場。
そこに、九条澄玲と獅堂剛毅が立っている。
「黒瀬!」
獅堂が叫ぶ。
「遅い!」
「時間の流れが違ったんだよ!」
「言い訳は後だ! どっちが黒瀬だ!」
「両方!」
「ふざけてんのか!」
「今回は、ふざけてない!」
澄玲は、俺と赤い右目の俺を見比べる。
その視線が、最後に灯へ止まった。
「三人とも、同一の学籍情報を持っています」
「そうらしい」
「黒瀬灯まで?」
「共同論証者になった」
「説明してください」
「長くなる」
「短くまとめてください」
「学則を変えた」
「短すぎます」
「九条なら、そう言うと思った」
澄玲の眉が僅かに動く。
獅堂が扉へ踏み込もうとする。
だが。
境界へ触れた瞬間、黄金の光が弾かれた。
「入れねえ」
「登録者以外は、まだ通れないようです」
「俺たちは出られるか?」
俺が一歩、扉へ近づく。
外へ足を出す。
身体は弾かれない。
灯も続いて外へ出た。
残るのは、赤い右目の俺。
男は扉の前で止まっている。
「どうした」
「外部座標がない」
「学籍登録されたんだろ」
「学部内ではな」
観測端末へ警告が表示される。
――第二共同論証者。
――存在記録の所属先を照会。
――三年前の黒瀬零として登録。
――該当する現在世界座標は存在しない。
「今の世界に、お前の居場所がない?」
「ああ」
「なら作る」
「簡単に言うな」
「さっき学則を作った」
「その結果、学部を半壊させた」
「直っただろ」
「偶然だ」
「三人で証明した」
「そういうところだけ、急に理屈を使うな」
赤い右目の俺が、扉の外を見る。
澄玲。
獅堂。
中央広場。
青い空。
三年間、この男が見ていなかった世界。
外へ出たい。
その一言を、こいつは言わない。
「選べ」
俺は言った。
「何を」
「出たいか、残りたいか」
「出られない」
「可能かどうかは聞いてない」
「……」
「お前が、何を選ぶかを聞いてる」
男の手が、僅かに握られる。
灯が扉の外から手を伸ばした。
「お兄ちゃん」
今度は迷わず、赤い右目の方を見ていた。
「一緒に帰ろう」
「俺は、お前を消した」
「うん」
「殺そうともした」
「うん」
「許されるとは思っていない」
「私も、まだ許すか決めてない」
灯は正直に言った。
「でも、決めてないから、一緒に考えられる」
男の顔が歪んだ。
泣きそうに見えた。
だが。
涙は落ちなかった。
「……出たい」
掠れた声。
三年前の黒瀬零が、初めて記録ではなく、自分の答えを選んだ。
「外へ出たい」
その瞬間。
新しい学則が光る。
――共同論証者の意思を確認。
――代替座標の提示を要求。
「代替座標?」
澄玲が扉の外から言った。
「現在世界に彼の過去が存在しないなら、既存の履歴へ接続することはできません」
「じゃあ、どうする」
「新規の関係から、座標を作ります」
「できるのか」
「既に作られています」
澄玲の白い線が、赤い右目の俺へ伸びる。
「私は、あなたを黒瀬零の共同論証者として観測しました」
獅堂が黄金の線を床へ打ち込む。
「俺は、どっちも落とさねえって決めた」
灯の手。
そして。
俺の手。
四本の線が、男の現在を支える。
過去がないなら。
今から関係を作る。
「来い」
俺は手を伸ばした。
「黒瀬零」
「お前もだろ」
「ああ」
男が俺の手を掴む。
扉を越える。
赤い右目の身体が、一度白い文字へほどけた。
だが。
澄玲の線が定義し。
獅堂の地面が支え。
灯が手を離さず。
俺が引き寄せる。
男の足が、中央広場の石畳へ着いた。
――新規現在座標を承認。
――第二共同論証者の外部移行を確認。
外へ出た。
三年前の黒瀬零が、現在へ帰ってきた。
「……空が」
男が呟く。
「何だ」
「青い」
「見れば分かる」
「三年前は、黒かった」
見上げた青空の向こう。
昼間だというのに、薄い黒い月が輪郭だけを浮かべている。
男の赤い右目が激しく疼いた。
「来る」
「何が」
大学全体の観測端末が、一斉に起動した。
校舎。
研究棟。
学生寮。
地下施設。
空中へ無数の画面が開く。
同じ文章が、全画面へ表示された。
――未承認の登録原則を検出。
――単一命題への複数当事者登録を確認。
――終理整合性に違反。
――当該学則を、異端論証として指定。
澄玲の顔色が変わる。
「これは、《第零学部》のシステムではありません」
「誰だ」
赤い右目の俺が、黒い月を見上げる。
その眼へ、三年前の恐怖が戻っていた。
「査読者だ」
空が縦に割れた。
亀裂の向こうへ、無数の白い眼が並んでいる。
一つの声が、世界そのものを答案として読み上げる。
――問いに複数の当事者は不要である。
――正しい結論に、複数の選択は不要である。
――不一致とは、未熟ではない。
――誤りである。
黒い月の中心へ、白い印が灯る。
――《第一観測圏》より査読通知。
――提出者、《第零学部》。
――査読結果。
――棄却。
次の瞬間。
俺たちの頭上から、世界を訂正するための白い線が降り始めた。




