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『神律大学の未証明者《アンプローヴン》』   作者: 仕儀の反駁
第二章《第零学部》《第一観測圏》編

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第十五話 唯一解を、唯一だと決めつけるな

 白くなった。


 床も。


 壁も。


 天井も。


 黒板も。


 俺たちを囲んでいた《第零学部》の全てが、最初から何も書かれていなかった紙のように、完全な白へ戻っていく。


「お兄ちゃん、これ大丈夫なの?」


「大丈夫に見えるか?」


「全然」


「なら、たぶん大丈夫じゃない」


「そこで安心させてよ」


 灯の抗議へ答える前に、足元から硬い音が響いた。


 罅割れる音ではない。


 巨大な紙を折り畳むような音。


 白い床へ一本の線が走り、俺たち三人が立つ場所だけを残して、その外側が次々と消えていく。


 落下する先は見えない。


 闇ですらない。


 そこには、「下」という方向そのものが存在していなかった。


「登録体系を保留した影響だ」


 赤い右目の俺が言う。


「《第零学部》は、所属者を定義する規則によって存在していた」


「その規則を、俺たちが止めた」


「結果、学部が何を収容する場所なのか決められなくなった」


「大学って、学生がいないと消えるのか」


「少なくとも、ここはそうらしい」


「授業料を払う存在は大事だからな」


「今、その冗談を言う必要があるか?」


「今だから言ってる」


 白い空間へ、無機質な文字列が浮かび上がった。


 ――登録原則、未定義。


 ――所属対象、未定義。


 ――学部機能、維持不能。


 ――旧規則への復帰を実行。


 俺たちの足元へ、再び一人分の円が現れる。


 ――黒瀬零を一名選択せよ。


「戻ろうとしてる」


「体系を空白のまま維持することはできない」


 赤い右目の俺が、円へ足を向ける。


 俺はその肩を掴んだ。


「何してる」


「旧規則へ戻る前に、一人が登録されればいい」


「また自分が消えるつもりか」


「俺が登録されるとは言っていない」


「だったら」


「お前が入れ」


「断る」


「なぜだ」


「お前を外へ出す方法がなくなる」


「最初から、外へ出る必要はない」


「それを決めるのは、お前だ」


「決めた」


「三年前の記録に従ってないか?」


 赤い右目が僅かに揺れる。


 俺は続けた。


「お前はさっき、灯がいない未来から逃げたって認めた」


「だから今度は、責任を取る」


「消えることが責任か?」


「少なくとも、お前たちを残せる」


「それは後始末だ」


「何?」


「責任を取るっていうのは、失敗した世界に残って、次の答えを選ぶことだろ」


 俺たちの周囲では、白紙化が進んでいる。


 残された足場は、既に教室一つ分もない。


 灯が俺たちの間へ割って入った。


「二人とも」


「何だ」


「また喧嘩するなら、今度は殴らないで」


「殴らない」


「たぶん」


「“たぶん”って言った方、どっち?」


「俺」


 二人の声が重なる。


 灯が額を押さえた。


「同じ顔で、同じ返事しないでよ……」


 文字列が更新される。


 ――旧規則復元率、二六パーセント。


 ――三〇パーセント到達時、余剰登録対象を削除。


「余剰って、俺たちのどっちだ」


「現時点では未確定だ」


「未確定のまま削除されたら?」


「両方が不正登録として処理される可能性もある」


「最悪じゃないか」


「だから急げ」


「何をすればいい」


「新しい規則を書く」


 赤い右目の俺が、白い空間を見回す。


「登録体系を保留できたということは、この空白は単なる崩壊ではない。《第零学部》の規則を書き直すための編集領域だ」


「学則を俺たちで作る?」


「登録原則だけだ。学部全体を再設計する時間はない」


「十分無茶だろ」


「無茶をしたのはお前だ」


「手伝ったのはお前だ」


「否定はしない」


 白い床へ、一冊の本が浮かび上がった。


 表紙には何も書かれていない。


 分厚い。


 だが、開いてみると、紙は一枚しかなかった。


 最上部に記されているのは、たった一行。


 《第零学部登録原則》


 その下は白紙。


 机も椅子も消えている。


 俺は床へ胡坐をかき、本を膝の上へ置いた。


「また答案か」


「今度は学則だ」


 灯も俺の隣へ座る。


 赤い右目の俺は、向かい側へ立ったままだった。


「座れよ」


「時間がない」


「立ってても、文章は早くならない」


「その理屈、さっきも聞いた気がする」


「俺が言われた」


 男は一瞬黙り、渋々床へ座った。


 三人で。


 何もない白い空間の中央へ円を作る。


 世界の終わりにしては、妙に大学生らしい光景だった。


     ◇


「まず、旧規則の問題点を整理する」


 赤い右目の俺が言った。


「一つの学生番号を、一つの人格へ結びつけていたこと」


「俺たちは、同じ学生番号へ二人存在する」


「だから、片方が余剰として処理される」


「なら、学生番号を二つに増やせばいい」


「《第零学部》の学生番号は、個体ではなく研究対象へ発行される」


「研究対象?」


「黒瀬零の場合は、`未証明(アンプローヴン)`だ」


 男が白紙へ指を置く。


「学部は、一つの根源命題につき、一つの登録番号しか与えない」


「じゃあ、俺たち二人が同じ`命題(テーゼ)`を持ってる限り、番号は増やせない?」


「おそらく」


「なら、片方が別の`命題(テーゼ)`になれば」


「それは、今すぐ決められるものではない」


 俺たちの能力は、根本では同じ。


 ただし、作用が違う。


 俺は、まだ決まっていない結論を保留する。


 こいつは、既に記録された結論を保存する。


 枝分かれした三年間が、同じ`未証明(アンプローヴン)`を違う形へ変えた。


 けれど。


 別の`命題(テーゼ)`として完成しているわけではない。


「学生番号を、能力へ付けるから駄目なんじゃないか」


 俺が言う。


「どういう意味だ」


「大学へ入るのは、能力じゃなくて人間だろ」


「普通の学部ではな」


「ここでも、そうすればいい」


「二人を登録すれば、一つの根源命題を二つの別研究として扱うことになる。同じ命題について矛盾する証明結果が提出された場合、学部側がどちらか一方を棄却する」


「結局、片方を偽物にするのか」


「だから旧規則は、一つの命題へ一名義しか許可しなかった」


 重複を防ぐため。


 矛盾する結論を排除するため。


 同じ問いには。


 一人の正式な研究者。


 一つの正式な答え。


「……《アレテイア》みたい」


 灯が言った。


 白い空間の温度が、一瞬だけ下がった気がした。


「何でそう思う」


「同じ問いを研究する人が二人いたら、どっちかを消すんでしょ」


「制度上は棄却だ」


「言い方を変えただけじゃない?」


 赤い右目の俺が黙る。


 灯は白紙の頁を見る。


「二人が違う答えを出したなら、二つとも残せばいいのに」


「学問には、検証が必要だ」


「うん」


「相互に両立しない答えを、同時に正解として登録することはできない」


「正解として残さなくていいよ」


「何?」


「研究の途中として残せばいい」


 灯が、俺たち二人を交互に見る。


「だって、二人ともまだ答えを出し終わってないでしょ?」


 そのとおりだった。


 三年前の俺は、灯を消すことが正解だと思った。


 現在の俺は、灯を救うことを選んだ。


 でも。


 灯を救った後。


 世界をどうするのか。


 自分たちがどう生きるのか。


 俺たちは、まだ何も証明していない。


「学部が登録するのは、答えを持ってる人じゃない」


 灯が言う。


「答えが分からないから、研究する人でしょ」


「……大学の存在意義みたいなことを言うな」


「大学生じゃないけどね」


「俺より分かってる」


「お前は、まだ入学直後だ」


「お前もだろ」


「三年前に在籍していた」


「先輩面するな」


 旧規則復元率。


 ――三二パーセント。


 ――余剰登録対象の照合を開始。


 俺たちの輪郭へ、白い線が走る。


 どちらを残すか。


 学部が比較を始めた。


「急ぐぞ」


「ああ」


 俺は筆記具を取る。


 白紙へ書こうとして、止まった。


「学生とは、何だ」


「そこからか」


「そこからだろ」


 入学する人。


 授業を受ける人。


 研究する人。


 学生証を持つ人。


 学費を払う人。


 でも。


 この学部では。


「未解決の問いに、自分の人生を使って向き合う者」


 俺が言う。


 赤い右目の俺が、僅かに眉を動かした。


「定義として広すぎる」


「じゃあ補え」


「自らの選択に責任を持ち、検証可能な形で答えを提出する者」


「硬い」


「学則だぞ」


「灯は?」


「私?」


「どっちがいい」


「二つを合わせれば?」


 簡単に言う。


 だが。


 それでいいのかもしれない。


 俺は書いた。


 ――学生とは、未解決の問いに自らの生涯をもって向き合い、その選択と結果に責任を負いながら、答えを検証し続ける者をいう。


 文字が黒く定着する。


 消えない。


 ――定義一、受理。


「通った」


「まだ登録原則ではない」


「分かってる」


 次。


 一つの命題へ、二人の学生をどう登録するか。


「学生番号を、人間へ与えない」


 俺が言う。


「先ほどと同じ案か」


「違う。能力にも与えない」


「では、何へ付与する」


「問いに」


 男が目を細める。


「一つの未解決命題へ、一つの番号を付ける」


「その命題に関わる学生は?」


「共同研究者として登録する」


「人数制限は」


「設けない」


「無制限では、無関係な人間まで同じ登録へ参加できる」


「なら、条件を付ける」


 何が必要か。


 知識。


 能力。


 血縁。


 学力。


 違う。


「その問いの答えによって、自分の生涯が変わる人」


 灯が言った。


「当事者か」


「うん」


「だが、当事者だけでは研究にならない」


 赤い右目の俺が返す。


「感情的な利害関係者が、自分に都合のいい答えだけを残す可能性がある」


「だから、一人じゃなくする」


 俺は言った。


「異なる選択をした当事者を、同じ問いへ登録する」


「互いの答えを検証させるのか」


「片方だけなら、自分が正しいと思い込める」


「二人なら正しいとは限らない」


「でも、少なくとも反論はされる」


「答えを一つへまとめられなかった場合は?」


「まとめなくていい」


 灯が言う。


「またそれか」


「違う答えが残ったままでも、次の研究はできるでしょ?」


「矛盾した結論を放置すれば――」


「結論じゃない」


 俺は灯の言葉を引き継いだ。


「途中経過として登録する」


 どちらが本物か。


 どちらの選択が正しかったか。


 今、決める必要はない。


 未解決のまま。


 二人で研究する。


「一つの問いに、一つの正解を登録するんじゃない」


 俺は筆記具を走らせる。


「一つの問いへ、そこに責任を持つ人間を登録する」


 白紙へ、二つ目の規則を書く。


 ――一つの未解決命題には、一つの学籍番号を付与する。


 ――当該命題の結論によって自らの生涯に責任を負う者は、人数および個体の同一性を問わず、共同論証者として同一学籍へ登録できる。


 最後の文字を書いた瞬間、頁全体が赤く染まった。


 ――定義矛盾を検出。


「何が駄目だ」


 ――共同論証者間の意思が相反した場合、単一の学生意思を確定できない。


「学生意思?」


「学部として処分、履修、進級、退学を判断する時、代表者が必要になる」


「事務的な理由で消されるのか、俺たち」


「制度とは、そういうものだ」


「大学のラスボスって、事務なのか?」


「否定しづらい」


 灯が赤くなった文章を見る。


「二人で違うことを選んだら、二人とも選んだことにすれば?」


「学部は、一つの判断しか実行できない」


「なら、一つに決まるまで実行しなければいい」


「それでは決定不能になる」


「決まってないのに、決める方がおかしくない?」


 また。


 灯は当然のように言う。


 決まっていないなら。


 決めない。


 それは。


 俺の`未証明(アンプローヴン)`が、最初からしてきたことだった。


「共同論証者の意思が一致しない場合」


 俺は続きを書く。


 ――共同論証者の意思が一致しない場合、学部は一方を代表として選定してはならない。


 ――当該判断を未決として保留し、全当事者が参加可能な再論証を実施する。


 赤い光が消える。


 ――矛盾、解消。


 ――定義二、受理。


「通った」


「だが、危険な規則だ」


 赤い右目の俺が言う。


「何が」


「意思が一致しなければ、何度でも判断を止められる」


「悪用される?」


「ああ」


「なら、条件を増やす」


 保留は、逃げるためのものではない。


 別の答えへ到達するための時間だ。


 ――ただし、保留を求める者は、現行判断に代わる結論の可能性を提示し、その検証へ自ら参加しなければならない。


 ――定義補足、受理。


 旧規則復元率。


 ――四九パーセント。


 俺たちを照合していた白い線が、一度止まった。


「あと一つ必要だ」


「何が」


「名義」


 赤い右目の俺が言う。


「一つの学籍へ登録する、共同の名義だ」


「黒瀬零じゃ駄目か」


「それでは、個人名の問題へ戻る」


「`未証明(アンプローヴン)`」


「それは、根源命題の名称だ」


「じゃあ、何にする」


 問い。


 俺たちが、自分の人生を使って向き合う問い。


 灯を救えるか。


 世界を救えるか。


 正しい答えは一つなのか。


 自分は誰なのか。


 全て。


 まだ証明されていない。


「学籍名義を、答えじゃなく問いにする」


 俺が言った。


「具体的には」


 白紙の本。


 最後に残った空欄。


 ――登録命題名。


 俺は筆記具を置く。


 赤い右目の俺を見る。


「お前が書け」


「なぜ俺が」


「三年前に、お前が始めた問いだから」


「終わらせるのは、お前だ」


「勝手に役割を分けるな」


 灯が筆記具へ手を伸ばした。


「じゃあ、三人で書こう」


「灯も?」


「私が原因なんでしょ?」


「原因じゃない」


 二人の声が重なる。


 灯が少しだけ驚き、それから笑った。


「そう言ってくれるなら、なおさら参加する」


 三人で一本の筆記具を握る。


 さすがに狭い。


「書きにくい」


「我慢して」


「灯、もう少し上を持て」


「お兄ちゃんが二人とも、力を入れすぎなの」


「こいつが押してる」


「お前だろ」


「喧嘩しない」


「はい」


 白紙へ、三人で記す。


 ――登録命題名。


 ――黒瀬灯と、その兄たちは、誰にも選択を奪われず共に生きられるか。


 書き終えた。


 あまりにも個人的な問いだった。


 宇宙でも。


 世界でも。


 真理でもない。


 妹と。


 二人の兄が。


 一緒に生きられるか。


 それだけ。


「学則に書くには、小さすぎないか」


 赤い右目の俺が言う。


「研究テーマなんて、最初はそれくらいでいいだろ」


「根拠は」


「知らない」


「お前は本当に――」


 男が言い終える前に、白い本が強烈な光を放った。


 ――登録命題を受理。


 ――学籍番号を発行。


 数字が浮かぶ。


 ――〇。


「〇番?」


「《第零学部》だから?」


「安直だな」


「黒瀬零だからかもしれない」


「もっと安直だ」


 続いて、登録者名が表示される。


 ――共同論証者。


 ――黒瀬零。


 一人目。


 俺。


 ――黒瀬零。


 二人目。


 赤い右目の俺。


 ――黒瀬灯。


 三人目。


「私も学生なの?」


「共同論証者だ」


「でも、大学生じゃないよ」


「年齢条件を書いてない」


「あなたたち、学則を作るの下手じゃない?」


「否定できない」


 灯が呆れる。


 その時。


 旧規則復元率が、五〇パーセントへ到達した。


 ――旧登録原則と新登録原則が競合。


 ――優先順位を判定。


 白い空間の半分が、元の《第零学部》へ戻る。


 黒板。


 机。


 無数の扉。


 残る半分は、白紙のまま。


 世界が左右に割れた。


 旧規則。


 新規則。


 どちらを採用するか。


 学部自身が査定している。


「決め手が足りない」


 赤い右目の俺が観測する。


「新規則は、矛盾を排除せず登録できる。しかし、学部の安定性は旧規則より低い」


「正しい一人を選ぶ方が、管理は簡単か」


「ああ」


「でも、間違った一人を選ぶ可能性がある」


「制度は正しさより、一貫性を優先することがある」


「それで三年前に、灯を消した」


 男が黙る。


「お前を責めてるんじゃない」


「分かっている」


「同じ間違いを、学部にさせたくない」


「ああ」


 新しい規則には、証拠が必要だ。


 二人を残すことで、一人を選ぶより良い答えへ到達できる。


 その実証。


「俺たちが証明するしかない」


「何を」


「二人の黒瀬零が残ることで、一人では出せなかった答えを出す」


「今ここで?」


「今ここで」


 旧規則が、一人を選ぶ。


 新規則が、複数の当事者を残す。


 なら。


 この競合そのものへ、二人で答えを出せばいい。


「俺は、新規則を保存する」


 赤い右目の俺が言った。


「まだ採用されてない」


「書かれた記録としては存在している」


 赤い円環が展開される。


 白紙の本へ、赤い文字が絡みつく。


「お前は?」


「競合の結論を保留する」


 俺も右手を上げる。


 白い空白を中心に持つ円環。


 旧規則が勝つ。


 新規則が勝つ。


 その二つの結論を同時に止める。


 ――登録原則の優先判定を開始。


 ――旧規則を採用。


「`未証明(アンプローヴン)`!」


 結論を保留する。


 表示が揺らぐ。


 ――新規則を棄却。


 赤い右目の俺が叫ぶ。


「保存しろ!」


 赤い円環が、新規則を固定する。


 棄却されても、書かれた事実を消させない。


 俺が結論を止め。


 こいつが選択肢を残す。


 一人では、できなかった。


 俺だけなら、保留時間が尽きた瞬間に旧規則へ戻る。


 こいつだけなら、新規則を記録として保存できても、採用させることはできない。


 二つが揃って。


 初めて。


 別の答えへ進める。


「灯!」


「私?」


「最後に選べ!」


「何を!?」


「どっちの規則で生きたいか!」


 灯が、左右に割れた学部を見る。


 旧規則の側には。


 一人分の机。


 一人分の学生証。


 一つの正解。


 白紙の側には。


 三人分の名前。


 まだ決まっていない問い。


 灯は迷わなかった。


「三人で考えられる方!」


 灯が白紙の本へ手を置く。


「私のことを、私抜きで決めない方を選ぶ!」


 学部全体へ亀裂が走った。


 旧規則の教室が砕けていく。


 白紙が、それを飲み込むのではない。


 黒板も。


 机も。


 扉も。


 古い形を残したまま、新しい配置へ書き換わっていく。


 一人分だった机が三つへ増える。


 黒板の中央へ、新しい学則が刻まれた。


 ――同一の問いに、異なる答えを持つ者が存在する時。


 ――本学部は、いずれか一方を正解として先に選定してはならない。


 ――全ての当事者を共同論証者として登録し、その選択と結果をもって再検証を行う。


 ――新登録原則を採用。


 ――学部再構成、完了。


 ――《第零学部》学籍番号〇。


 ――登録者、三名。


「三名?」


 俺が表示を見る。


「一つの学籍に、三人か」


「灯まで正式に入ったな」


「私、授業を受けないと駄目?」


「たぶん」


「単位は?」


「知らない」


「試験は?」


「今みたいなやつ」


「退学したい」


「登録直後に言うな」


 灯が、本気で嫌そうな顔をした。


 白い空間に、初めて風が吹く。


 教室の奥。


 存在しなかったはずの扉が、ゆっくりと開いた。


 外の光。


 中央広場。


 そこに、九条澄玲と獅堂剛毅が立っている。


「黒瀬!」


 獅堂が叫ぶ。


「遅い!」


「時間の流れが違ったんだよ!」


「言い訳は後だ! どっちが黒瀬だ!」


「両方!」


「ふざけてんのか!」


「今回は、ふざけてない!」


 澄玲は、俺と赤い右目の俺を見比べる。


 その視線が、最後に灯へ止まった。


「三人とも、同一の学籍情報を持っています」


「そうらしい」


「黒瀬灯まで?」


「共同論証者になった」


「説明してください」


「長くなる」


「短くまとめてください」


「学則を変えた」


「短すぎます」


「九条なら、そう言うと思った」


 澄玲の眉が僅かに動く。


 獅堂が扉へ踏み込もうとする。


 だが。


 境界へ触れた瞬間、黄金の光が弾かれた。


「入れねえ」


「登録者以外は、まだ通れないようです」


「俺たちは出られるか?」


 俺が一歩、扉へ近づく。


 外へ足を出す。


 身体は弾かれない。


 灯も続いて外へ出た。


 残るのは、赤い右目の俺。


 男は扉の前で止まっている。


「どうした」


「外部座標がない」


「学籍登録されたんだろ」


「学部内ではな」


 観測端末へ警告が表示される。


 ――第二共同論証者。


 ――存在記録の所属先を照会。


 ――三年前の黒瀬零として登録。


 ――該当する現在世界座標は存在しない。


「今の世界に、お前の居場所がない?」


「ああ」


「なら作る」


「簡単に言うな」


「さっき学則を作った」


「その結果、学部を半壊させた」


「直っただろ」


「偶然だ」


「三人で証明した」


「そういうところだけ、急に理屈を使うな」


 赤い右目の俺が、扉の外を見る。


 澄玲。


 獅堂。


 中央広場。


 青い空。


 三年間、この男が見ていなかった世界。


 外へ出たい。


 その一言を、こいつは言わない。


「選べ」


 俺は言った。


「何を」


「出たいか、残りたいか」


「出られない」


「可能かどうかは聞いてない」


「……」


「お前が、何を選ぶかを聞いてる」


 男の手が、僅かに握られる。


 灯が扉の外から手を伸ばした。


「お兄ちゃん」


 今度は迷わず、赤い右目の方を見ていた。


「一緒に帰ろう」


「俺は、お前を消した」


「うん」


「殺そうともした」


「うん」


「許されるとは思っていない」


「私も、まだ許すか決めてない」


 灯は正直に言った。


「でも、決めてないから、一緒に考えられる」


 男の顔が歪んだ。


 泣きそうに見えた。


 だが。


 涙は落ちなかった。


「……出たい」


 掠れた声。


 三年前の黒瀬零が、初めて記録ではなく、自分の答えを選んだ。


「外へ出たい」


 その瞬間。


 新しい学則が光る。


 ――共同論証者の意思を確認。


 ――代替座標の提示を要求。


「代替座標?」


 澄玲が扉の外から言った。


「現在世界に彼の過去が存在しないなら、既存の履歴へ接続することはできません」


「じゃあ、どうする」


「新規の関係から、座標を作ります」


「できるのか」


「既に作られています」


 澄玲の白い線が、赤い右目の俺へ伸びる。


「私は、あなたを黒瀬零の共同論証者として観測しました」


 獅堂が黄金の線を床へ打ち込む。


「俺は、どっちも落とさねえって決めた」


 灯の手。


 そして。


 俺の手。


 四本の線が、男の現在を支える。


 過去がないなら。


 今から関係を作る。


「来い」


 俺は手を伸ばした。


「黒瀬零」


「お前もだろ」


「ああ」


 男が俺の手を掴む。


 扉を越える。


 赤い右目の身体が、一度白い文字へほどけた。


 だが。


 澄玲の線が定義し。


 獅堂の地面が支え。


 灯が手を離さず。


 俺が引き寄せる。


 男の足が、中央広場の石畳へ着いた。


 ――新規現在座標を承認。


 ――第二共同論証者の外部移行を確認。


 外へ出た。


 三年前の黒瀬零が、現在へ帰ってきた。


「……空が」


 男が呟く。


「何だ」


「青い」


「見れば分かる」


「三年前は、黒かった」


 見上げた青空の向こう。


 昼間だというのに、薄い黒い月が輪郭だけを浮かべている。


 男の赤い右目が激しく疼いた。


「来る」


「何が」


 大学全体の観測端末が、一斉に起動した。


 校舎。


 研究棟。


 学生寮。


 地下施設。


 空中へ無数の画面が開く。


 同じ文章が、全画面へ表示された。


 ――未承認の登録原則を検出。


 ――単一命題への複数当事者登録を確認。


 ――終理整合性に違反。


 ――当該学則を、異端論証として指定。


 澄玲の顔色が変わる。


「これは、《第零学部》のシステムではありません」


「誰だ」


 赤い右目の俺が、黒い月を見上げる。


 その眼へ、三年前の恐怖が戻っていた。


「査読者だ」


 空が縦に割れた。


 亀裂の向こうへ、無数の白い眼が並んでいる。


 一つの声が、世界そのものを答案として読み上げる。


 ――問いに複数の当事者は不要である。


 ――正しい結論に、複数の選択は不要である。


 ――不一致とは、未熟ではない。


 ――誤りである。


 黒い月の中心へ、白い印が灯る。


 ――《第一観測圏》より査読通知。


 ――提出者、《第零学部》。


 ――査読結果。


 ――棄却。


 次の瞬間。


 俺たちの頭上から、世界を訂正するための白い線が降り始めた。

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