第十四話 一人分の答案
答案用紙は、一枚。
筆記具も、一本。
受験者は二人。
そして、答案を提出できる黒瀬零は一人だけ。
「大学入試より性格が悪いな」
俺が言うと、赤い右目を持つ俺――三年前の黒瀬零が、机の反対側へ座った。
「比較対象が普通すぎる」
巨大な黒板には、先ほどと同じ問いが記されている。
問一。
――本物であることを証明せず、黒瀬零であることを証明せよ。
制限時間。
――七十一時間五十九分四十二秒。
一秒ずつ。
確実に減っている。
「座ってる場合か」
「立っていても答えは出ない」
「灯の生存が保証されてないんだぞ」
「だからこそ、焦って誤答するべきではない」
「お前、本当に俺か?」
「三年前まではな」
「俺は試験で、こんなに落ち着いてない」
「三年間、同じ問いだけを考え続ければ、嫌でも慣れる」
三年前の俺は、筆記具へ手を伸ばした。
俺も同時に掴む。
一本の筆記具を、二人で握った。
「離せ」
「お前が離せ」
「俺が先だ」
「〇・二秒、俺の方が早い」
「測ってたのかよ」
「記録されている」
「そういうところが嫌いだ」
「奇遇だな。俺もだ」
互いに引っ張る。
筆記具は、机の中央で微動だにしない。
灯が俺たちの間へ顔を出した。
「あの」
「何だ」
二人の声が重なる。
灯が少し困った顔をした。
「喧嘩するなら、せめて試験のことについて喧嘩して」
「これは筆記権を決める重要な争いだ」
「筆記権を取っても、答えが分からなければ意味ないでしょ」
正論だった。
俺たちは同時に手を離す。
筆記具が机へ落ちた。
ころころと転がり、答案用紙の中央で止まる。
「まず、問題を分解する」
三年前の俺が言った。
「お前、九条みたいになってるぞ」
「九条澄玲の影響か?」
「かなり」
「悪くない変化だ」
「本人に言ったら、“観測事実として当然です”って返される」
「想像できる」
二人の俺が、同じ女子の返答を同じように想像した。
その事実が、少しだけ気持ち悪い。
「問題には、三つの条件がある」
三年前の俺が黒板を指す。
「第一。本物であることを証明してはならない」
「第二。黒瀬零であることは証明しないといけない」
「第三。答案を提出できる黒瀬零は一人だけ」
「そこまで含めるなら、四つ目だ」
「何だ」
「灯を死なせない」
三年前の俺が黙る。
「試験の条件には書かれていない」
「俺の条件だ」
「私情を論証へ混ぜるな」
「灯を殺そうとしてた奴が言うな」
「俺は――」
言葉が止まる。
三年前の俺は。
灯を守るために。
灯を殺そうとしていた。
世界を救うため。
観測を止めるため。
そうするべきだと。
記録に与えられた結論を信じて。
「……訂正する」
三年前の俺は、低く言った。
「灯を生存させることを、第四条件とする」
「私、生存条件扱いなんだ」
「嫌か?」
「お兄ちゃんたちに取り合いされるよりはまし」
灯が机から離れる。
その身体は、まだ半透明ではない。
傷は首筋だけ。
出血も止まっている。
けれど。
上空の亀裂から差し込む白い光が強くなるたび、灯の輪郭へ細い文字列が浮かんでいた。
――観測基準。
――維持率、九七・八パーセント。
一〇〇ではない。
「維持率が下がってる」
「試験開始時は九八・一だった」
三年前の俺が言う。
「三十分で〇・三」
「このままなら」
「単純計算はできない。低下速度は一定ではない」
「でも、時間はない」
「ああ」
答案用紙へ視線を戻す。
真っ白。
罫線も。
氏名欄も。
受験番号欄もない。
「名前を書いたらどうなる」
「試せばいい」
「消えたら?」
「その程度で消える答案なら、正解ではない」
俺は筆記具を取り、用紙の左上へ書いた。
黒瀬零。
文字が赤く染まる。
――本物性の主張を検出。
――減点。
数字が表示された。
得点。
――マイナス一点。
「名前を書いただけだぞ」
「この状況で氏名を記入する行為は、自分を提出者として指定することになる」
三年前の俺が言う。
「つまり、“自分こそ黒瀬零である”という主張として扱われた」
赤い文字が紙面から浮かび上がる。
次の瞬間。
俺の名前が消えた。
「減点は戻らないのか」
得点。
――マイナス一点。
それだけは残っている。
「大学らしいな」
「一度提出した誤りは、消しゴムでなかったことにはできない」
「嫌な学びだ」
三年前の俺が筆記具を取る。
用紙へ書いた。
――私は、三年前の黒瀬零の記録を持つ。
――記録依存の証明を検出。
――減点。
得点。
――マイナス二点。
「お前も駄目じゃないか」
「予想どおりだ」
「だったら書くな」
「減点条件を確認する必要があった」
「俺の一失点で十分だっただろ」
「一例では一般化できない」
「やっぱり九条みたいになってる」
答え。
記録でもない。
名前でもない。
本物であることにも依存しない。
では。
何を証明すれば、黒瀬零だと認められる。
「記憶は?」
俺が尋ねる。
「記録と同様だ。共有も複製もできる」
「身体」
「同一構造の身体が二つある時点で、証拠にならない」
「灯との関係」
「俺もお前も、兄として登録されている」
「能力」
「おそらく同じだ」
「お前も`未証明`を使えるのか」
「使える」
三年前の俺が右手を上げる。
赤い円環。
俺のものと同じ形。
だが。
色が違う。
俺の円環は、中心に白い空白を残す。
三年前の俺の円環は、中心まで赤い文字で埋め尽くされていた。
「同じに見えないぞ」
「核は同じだ」
「違いは」
「お前は、まだ選択されていない結論を保留する」
三年前の俺が、自分の右目へ触れる。
「俺は、既に記録された結論を保存する」
「保留じゃない」
「三年前の俺は、お前と同じだった」
「何があった」
「黒瀬灯を外部化した」
灯が俯く。
三年前の俺の声は、感情を切り離すように平坦だった。
「《第一終理接続実験》の失敗で、複数の《世界論文》が同一の結論へ収束し始めた」
「唯一の正解へ?」
「ああ」
「それを止めるために、灯を消した」
「黒瀬灯は、接続機構の観測基準だった」
三年前の俺の赤い右目が、灯を映す。
「彼女が世界内部に存在する限り、観測機構は《世界研究領域》を比較し続ける。だから灯を、どの《改稿》にも、どの《世界論文》にも属さない余白へ移した」
「そのために、世界中の記録を消した?」
「記録だけではない」
灯が答えた。
「私が存在していたことで生じた因果も、関係も、未来も。全部」
「でも、俺は覚えてた」
「だから、実験は完全には成功しなかった」
三年前の俺が俺を見る。
「お前が、黒瀬灯の不存在を三年間保留し続けた」
「無意識で?」
「そうだ」
「なら、お前は何だ」
「実験を行った黒瀬零の記録」
「実験後の本人ではない?」
「外部化の瞬間、黒瀬零も二つへ分かれた」
俺。
灯を覚え続けた黒瀬零。
そして。
三年前の責任を保存し続けた黒瀬零。
「なぜ分かれた」
「灯を消したという結論と、灯を消していないという結論。その両方を成立させる必要があった」
「一方が実行し」
「一方が拒絶した」
「俺が、拒絶した方か」
「おそらく」
「おそらく?」
「どちらが元だったかは、記録されていない」
本物は存在しない。
少なくとも。
どちらか一方だけが、元の黒瀬零から枝分かれした偽物ではない。
同じ瞬間。
同じ人間から。
異なる結論を選んだ二人。
「なら、問題の意味が変わる」
俺は黒板を見る。
――本物であることを証明せず、黒瀬零であることを証明せよ。
「どっちが元かを証明する試験じゃない」
「初めから書いてある」
三年前の俺が言う。
「本物であることを証明するな、と」
「じゃあ、何で提出者は一人だけなんだ」
「《第零学部》の登録制度が、黒瀬零を一人しか認めないからだ」
「それ自体が、試験の罠か」
「可能性はある」
俺たちが。
どちらか一方を消さない限り。
答えを出せないように見せる。
だが。
《第零学部》が求めているのは、本当にどちらかを選ぶことなのか。
◇
「黒瀬零との関係を、再定義します」
黒い扉の外。
九条澄玲は、閉じた入口へ両手を触れていた。
白い数式が、扉の表面へ幾重にも広がる。
隣では、獅堂剛毅が黄金の線を扉の周囲へ打ち込んでいた。
「まだ無理か」
「同じ質問を三分ごとにしないでください」
「三分も経ったから聞いてる」
「答えが変わるほど長い時間ではありません」
「中じゃ、時間の流れが違うかもしれねえだろ」
「その可能性があるから焦っています」
澄玲の声は冷静だった。
だが。
指先は、微かに震えている。
黒瀬零が扉の向こうへ消えてから、外の時間ではまだ四十七分。
しかし。
観測端末に残った関係情報は、ゆっくりと薄れている。
――九条澄玲の共同研究者。
その文字が、一度消えかけた。
「消させるか」
獅堂が両足で床を踏み締める。
「`万象は我が礎`」
足裏から黄金の領域が広がり、扉の前を覆う。
「黒瀬零との関係を、俺の地面として固定する」
「関係は物質ではありません」
「昨日、観測の接続まで地面にした」
「だから危険です。固定すれば、《第零学部》へ黒瀬零の位置を押しつけることになります」
「じゃあ、どうしろ」
「支えてください」
「やってる」
「固定せずに」
「無茶言うな」
「あなたの`命題`でしょう」
「簡単に言うな!」
獅堂の怒声が、無人の中央広場へ響く。
「支えるってのはな、落ちない場所を作ることだ! 位置を決めずに支えるなんて、まだ理屈でしかできてねえ!」
「なら、実証してください」
「昨日やった!」
「一度の成功では、再現性がありません」
「てめえ、本当に容赦ねえな!」
「黒瀬零に言われました」
「何を」
「正論で殴るな、と」
「自覚があるならやめろ!」
澄玲は答えない。
数式の再定義を続ける。
問題。
――《第零学部》内部に存在する黒瀬零との関係を維持する方法。
解なし。
理由。
――内部の黒瀬零を、一人へ特定できない。
「一人へ特定できない……」
澄玲が呟く。
「何か分かったか」
「扉の向こうには、黒瀬零が複数存在しています」
「もう一人の奴か」
「おそらく」
「どっちが俺たちの黒瀬だ」
「その問い方では解けません」
「何?」
「私たちが知っている黒瀬零を特定しようとすると、必ず本物性の判定が入ります」
「だから?」
「《第零学部》側が、それを拒絶しています」
澄玲の目に白い線が走る。
「問題を変更します」
扉へ向かって告げる。
「黒瀬零を一人へ特定せず、私たちと黒瀬零との関係を維持する経路」
数式が組み上がる。
一つ。
二つ。
白い線が、扉の向こうへ伸びた。
「二本?」
「内部には、少なくとも二人の黒瀬零がいます」
「片方は、知らねえ奴だぞ」
「ですが、黒瀬零である可能性を持っています」
「俺にとっては関係ない」
「本当に?」
獅堂が眉を寄せる。
「何が言いたい」
「三年前の黒瀬零なら、現在の黒瀬零と無関係ではありません」
「だからって」
「片方だけを支えれば、もう片方を偽物として扱うことになります」
獅堂は、扉へ伸びる二本の線を見た。
昨日。
自分は学んだ。
支えることは、相手の行き先を決めることではない。
なら。
誰を支えるかを、自分の都合だけで決めることも支配なのか。
「面倒くせえ」
「同感です」
「お前が言うな」
獅堂は両手を扉へ置いた。
「二本とも支える」
「可能ですか」
「できるかどうかじゃない」
金色の線が、白い二本の経路へ重なる。
「黒瀬零を名乗るなら、自分で選べ」
大地が震える。
「その選択が終わるまで、どっちも落とさねえ」
◇
答案用紙の上へ、二つの光が現れた。
白。
金。
「九条と獅堂」
俺には分かった。
「外から接続しているのか」
三年前の俺が光へ指を近づける。
白い光が二つへ枝分かれし、俺たち両方へ伸びた。
「二人とも、俺たちを黒瀬零として扱ってる」
「事情も知らずに?」
「知ってたら、もっと面倒な理屈をつける」
金色の光が、答案用紙の下へ広がる。
机が安定した。
先ほどまで、ここは無数の《改稿》の位置関係が混ざり合う場所だった。
それなのに。
今は。
俺たちが答案を書くための机として、確かに支えられている。
「お前には、いい仲間がいる」
三年前の俺が言う。
「お前にもだ」
「俺にはいない」
「九条と獅堂は、お前にも線を伸ばしてる」
「俺を知らない」
「知らなくても支えた」
「それは、お前の一部として認識したからだ」
「違う」
「なぜ言い切れる」
「獅堂は、俺の一部だからって理由で他人を支えられるほど器用じゃない」
「褒めているのか?」
「かなり」
三年前の俺が、ほんの少しだけ笑った。
俺と同じ顔で。
俺がした覚えのない笑い方だった。
「外へ戻ったら、紹介する」
「戻れるのは一人だ」
「まだ決まってない」
「条件に書かれている」
「その条件を疑うのが、俺の能力だ」
「何でも疑えば覆るわけではない」
「知ってる」
別の結論へ到達し。
選び。
実際に証明しなければならない。
「だから考える」
俺は答案用紙を、二人の中央へ置く。
「俺たち二人が黒瀬零であることを認めたまま、答案を一人分として提出する方法」
「矛盾している」
「《第零学部》は矛盾を研究する場所だろ」
「先ほども聞いた」
「気に入ってる」
「お前は昔から、気に入った理屈を何度も使う」
「知ってるみたいに言うな」
「知っている。俺もお前だからな」
制限時間。
――六十九時間十三分。
灯の維持率。
――九五・九パーセント。
時間はあるようで、ない。
「黒瀬零を証明するものは何だ」
三年前の俺が問い直す。
「名前じゃない」
「記録でもない」
「身体でも」
「記憶でもない」
「能力も共有している」
「灯との関係も同じ」
残るもの。
俺たちに共通しながら。
複製された記録ではなく。
本物性にも依存しないもの。
「選択」
俺が言う。
三年前の俺が、俺を見る。
「俺は、灯を消さないと選んだ」
「俺は、灯を消すと選んだ」
「正反対だ」
「共通していない」
「選んだ内容は違う」
でも。
どちらも。
黒瀬零として。
自分が正しいと思った答えを選んだ。
「いや」
三年前の俺が首を振る。
「俺は選んでいない」
「実験を実行した」
「記録に従っただけだ」
「最後に灯を外部化したのは、お前だ」
「それ以外に、世界を救う方法がなかった」
「なかったと決めたのは?」
「観測結果だ」
「最終的に手を動かしたのは」
「俺だ」
「なら、責任から逃げるな」
赤い右目が鋭くなる。
「逃げていない。だから三年間、ここに残った」
「違う」
「何が」
「“記録どおりの黒瀬零であり続ける”ことで、自分が選んだことから逃げてる」
三年前の俺の顔が歪む。
「お前に何が分かる」
「分からない」
「なら黙れ」
「だから聞いてる」
一歩。
机を回り、三年前の俺の正面へ立つ。
「灯を消した時、お前は何を思った」
「世界を救わなければならない」
「それは、記録に書かれた理由だ」
「他にない」
「本当に?」
三年前の俺の右目から、赤い文字が漏れ出す。
――世界保存。
――観測停止。
――終理接続遮断。
正しい理由。
論理的な理由。
学術的な理由。
でも。
黒瀬零は。
そんな言葉だけで、妹を消せる人間だったのか。
「灯を守りたかったんじゃないのか」
三年前の俺の呼吸が止まる。
「世界を守るためじゃない」
「違う」
「灯が観測基準として使い潰されるのを止めたかった」
「違う」
「だから、世界から消した」
「違う!」
赤い文字が爆発する。
机が揺れる。
答案用紙が飛び上がり、灯がそれを掴んだ。
「お兄ちゃん!」
どちらへ呼びかけたのかは、分からない。
三年前の俺が、俺の胸倉を掴む。
「俺は、世界を救うために必要なことをした!」
「それだけなら、何でお前は保存記録になった」
「責任を残すためだ!」
「灯がいない世界で生きるのが、怖かったからじゃないのか!」
拳が飛ぶ。
顔面。
避けない。
頬へ直撃する。
身体が吹き飛ぶ。
だが。
獅堂の金色の線が背中を支えた。
床へ倒れず、踏みとどまる。
「今のは効いた」
「黙れ」
「図星か」
「黙れ!」
次の拳。
今度は受け止める。
同じ筋力。
同じ骨格。
だが。
三年間。
こいつは、ここで戦い続けていた。
力が強い。
「俺は逃げていない!」
「ああ!」
拳を返す。
「灯を消した責任からは、逃げてない!」
腹へ一撃。
「でも、灯がいない未来を生きる責任から逃げた!」
三年前の俺の身体が机へぶつかる。
答案用紙を抱えた灯が、慌てて横へ避けた。
「二人とも、答案の近くで殴り合わないで!」
「重要な論証だ!」
俺が叫ぶ。
「どこが!?」
「再現性の確認だ」
三年前の俺が立ち上がる。
「何の!?」
また拳が来る。
俺も返す。
殴る。
殴られる。
同じ痛み。
同じ息遣い。
同じように、追い詰められると左肩が下がる。
でも。
違う。
こいつの拳は、自分を罰するために振るわれている。
俺の拳は、こいつに未来を選ばせるために振っている。
「三年間!」
三年前の俺が叫ぶ。
「俺がここに残らなければ、誰が責任を負った!」
「外にいる俺だ!」
「何も覚えていなかった!」
「今、知った!」
「遅すぎる!」
「だから何だ!」
互いの拳が、同時に頬へ入る。
二人とも床へ倒れた。
白い線と。
金色の線が。
俺たちを支え続けている。
灯が答案用紙を持ったまま、呆れた顔で俺たちを見下ろした。
「終わった?」
「まだ」
二人の声が重なる。
「もう一回殴ったら、答案用紙を破る」
俺たちは同時に起き上がった。
「それは困る」
「試験が終わらない」
「なら座って」
「はい」
二人で机へ戻る。
三年前の俺の口元から、血が流れている。
たぶん。
俺も同じ顔だ。
「……認める」
三年前の俺が言った。
「何を」
「俺は、灯がいない未来を選ばなかった」
灯が息を呑む。
「灯を世界から消した後。俺には、外へ戻る経路もあった」
「初耳だ」
「神代緋月の右目を奪えば、記録を持ったまま帰還できた」
「だから神代先生を攻撃した?」
「途中までだ」
三年前の俺が、自分の赤い右目へ触れる。
「神代緋月の`万象校正`は、実験前の世界へ俺を修正しようとした。俺は抵抗し、彼女の校正器官を破壊した」
「右目を完全に奪ったのは」
「《第零学部》だ。破損した校正器官を、記録保存用の観測眼として俺へ移植した」
「神代先生の右目が、お前に」
「ああ」
「なら、返せるのか」
「俺が消えれば、戻る可能性はある」
「消える前提で話すな」
「答案を提出できるのは一人だ」
「まだそれか」
「条件は条件だ」
「条件の解釈を変える」
答案用紙を取る。
「一人しか提出できないなら、一人になればいい」
三年前の俺の表情が硬くなる。
「統合を受け入れるのか」
「違う」
「では何だ」
「“一人”を、人間の数だと決めたのは誰だ」
三年前の俺が黙る。
「受験者は二人」
俺は言う。
「でも、答案は一枚」
「だから?」
「一枚の答案を、一つの黒瀬零として提出する」
「意味が分からない」
「俺たちのどちらかを、黒瀬零として選ぶんじゃない」
答案用紙を机の中央へ置く。
「俺たちが別々に選んだ人生を、一つの論証として提出する」
「それでは、提出者が二人になる」
「著者が二人でも、論文は一つだ」
共同論文。
獅堂との《公開査問》。
一人の答えへ相手を従わせず。
二つの主張を含んだ、より広い結論を作る。
「答案を、人間が提出するとは書いてない」
三年前の俺が黒板を見る。
注意事項。
――答案を提出できる黒瀬零は、一人だけ。
「黒瀬零を、個体名として読まない?」
「そうだ」
「では、何として定義する」
「まだ分からない」
「そこが最重要だろ」
「今から考える」
「思いつきで話していたのか」
「お前だって、昔はこうだっただろ」
「否定できない」
黒瀬零とは何か。
名前ではない。
記録ではない。
身体でもない。
記憶でもない。
本物であることでもない。
二人へ分裂しても。
異なる選択をしても。
それでも残ったもの。
「灯」
俺が呼ぶ。
「何?」
「俺たちのどっちが、兄に見える」
「どっちも」
即答だった。
「顔が同じだからじゃなく?」
「うん」
「記憶が同じだからでもなく?」
「うん」
「じゃあ、何で」
灯は少し考えた。
「二人とも、私に自分で選べって言ったから」
三年前の俺が目を伏せる。
「俺は殺そうとした」
「最後には、選ばせてくれた」
「刃を捨てただけだ」
「それも選択でしょ」
灯は微笑んだ。
「お兄ちゃんは、いつも答えを間違える」
「ひどくないか」
「でも、間違えたまま終わらせない」
俺と。
三年前の俺。
二人を見る。
「自分で選び直すまで、ずっと考える。だから、どっちもお兄ちゃん」
間違えたまま、終わらせない。
世界に与えられた答えを疑い。
別の可能性を探し。
最後に。
自分で選ぶ。
「それだ」
俺が筆記具を取る。
「黒瀬零は、正しい答えを持つ人間じゃない」
答案へ書く。
――黒瀬零とは、与えられた結論を最終回答とせず、自ら選び直し続ける命題である。
文字は赤くならない。
減点もない。
だが。
採点もされない。
「まだ足りない」
三年前の俺が言う。
「これは性質の定義だ。俺たちが、その定義に該当する証明がない」
「続きは、お前が書け」
「俺が?」
「二人の答案だろ」
筆記具を渡す。
三年前の俺は、しばらくそれを見つめてから受け取った。
――三年前の黒瀬零は、黒瀬灯を消すという結論を選んだ。
――しかし、その選択を永遠の正解として保存することを拒み、黒瀬灯へ再び未来を選ばせた。
文字が淡く光る。
――部分点。
得点。
――二点。
「マイナスから戻った」
「合格点は不明だ」
「少なくとも方向は合ってる」
俺が続ける。
――現在の黒瀬零は、黒瀬灯を救うという結論を選んだ。
――しかし、自らの願いだけを正解として押しつけず、黒瀬灯自身の選択を求めた。
――部分点。
得点。
――六点。
「四点入ったぞ」
「採点基準に差があるのか」
「お前より、俺の方が評価されてる」
「文章量の差だ」
「負け惜しみか」
「試験中だぞ」
その時。
上空の白い亀裂が震えた。
灯の身体へ、無数の文字が食い込む。
「あっ……」
「灯!」
維持率。
――八九・四パーセント。
一気に六パーセント以上低下する。
「何が起きた!」
三年前の俺が観測端末を操作した。
――外部観測圧、増大。
――矛盾存在の共同論証を検知。
――修正処理を開始。
「試験が終わるまで、待つ気はないらしい」
俺は上空を見る。
亀裂の向こう。
冷たい白い視線。
こちらの答えを、採点するのではない。
答えが成立する前に。
問題そのものを消そうとしている。
答案用紙の文字が、端から白く消え始めた。
「保存しろ!」
三年前の俺が右手を上げる。
赤い円環。
書かれた文章を、記録として固定する。
「お前の能力は」
「選ばれた結論を保存する」
三年前の俺の右目から、赤い血が流れる。
「書き続けろ!」
「でも」
「俺は、保存することしかできない!」
赤い文字が答案を囲む。
「なら、お前は新しい答えを選べ!」
俺は筆記具を握る。
外から、澄玲の白い線。
獅堂の黄金。
内側では、三年前の俺が記録を守る。
灯が答案用紙を押さえる。
「お兄ちゃん」
「どっちだ」
「二人とも」
灯が笑った。
「続けて」
俺は書く。
――二人の黒瀬零は、異なる結論を選んだ。
白い光が、文字を消そうとする。
三年前の俺が保存する。
――ゆえに、一方だけを本物と定めることはできない。
答案が揺れる。
――しかし、両者は自らの選択を絶対の結論とせず、再び選び直した。
維持率。
――八三・一パーセント。
時間がない。
「最後は」
三年前の俺が言う。
「お前が書け」
「二人で書くんじゃないのか」
「この先を選んだのは、お前だ」
「お前も来い」
「答案を提出できるのは、一人だけだ」
「だから」
俺は筆記具を、三年前の俺へ差し出す。
「一緒に持て」
二人で一本の筆記具を握る。
最初と同じ。
だが。
今度は奪い合わない。
同じ方向へ動かす。
――黒瀬零とは、唯一の過去を持つ個人の名称ではない。
一画ずつ。
二人の力で。
――世界から与えられた答えを疑い、自らの選択によって新たな結論へ至り、それすら誤り得るものとして選び直し続ける――
筆記具が途中で止まる。
「最後の言葉」
三年前の俺が呟く。
「何だ」
「俺たちは、人間なのか。記録なのか。命題なのか」
「どれでもいい」
「証明にならない」
「じゃあ」
黒板の問いを見る。
――黒瀬零であることを証明せよ。
黒瀬零。
名前。
個人。
兄。
能力者。
でも。
それらを全て失っても。
俺が残そうとしたもの。
「未証明者」
三年前の俺が、俺と同時に呟いた。
二人で最後を書く。
――一人の`未証明者`である。
答案用紙が強く光った。
得点。
――表示不能。
「表示不能?」
「正解なのか」
観測端末が激しく明滅する。
――提出者を照会。
――黒瀬零を二名確認。
――規定違反。
――答案を受理できない。
「やっぱり、一人じゃないと駄目か」
「内容は否定されていない」
三年前の俺が言う。
「問題は、提出者だけだ」
灯の維持率。
――七九・六パーセント。
白い亀裂が拡大する。
答案を完成させても。
提出できなければ、意味がない。
「統合しかない」
三年前の俺が言った。
「却下」
「他に方法はない」
「片方の人格が消える」
「それでも、記憶と責任は残る」
「お前は?」
「三年前に終わった人間だ」
「勝手に終わるな」
「これは俺の選択だ」
「自己犠牲を選べば立派だと思うなよ」
「時間がない!」
三年前の俺が、俺の胸へ手を伸ばす。
赤い円環。
記録統合。
俺の身体へ、三年前の記憶が流れ込もうとする。
神代緋月。
久世真道。
黒瀬灯。
白い観測機構。
崩壊する《第零学部》。
無数の《世界論文》。
「やめろ!」
「`未証明`!」
統合という結論を保留する。
二つの円環が衝突した。
「離せ!」
「俺を選択肢に残せ!」
「だから、消える選択をするな!」
「灯が死ぬ!」
「お前も死なせない!」
「全部救えると思うな!」
「思ってない!」
叫ぶ。
「でも、まだ試してない答えを捨てるな!」
その言葉に、三年前の俺が止まる。
「試していない答え……」
提出者は一人。
受験者は二人。
答案は一枚。
黒瀬零を、一人の人間として提出しようとするから、二人になる。
「一人の`未証明者`」
答案の最後。
「人間としての俺たちは二人」
「しかし、命題としては一つ」
「二つの人生が」
「同じ問いを、選び続けている」
黒瀬零を個人名としてではなく。
一つの`命題`として提出する。
俺は答案用紙を持ち上げた。
「提出者を変更する」
端末が反応する。
――提出者名を入力。
俺たちは同時に告げた。
「`未証明`」
白い光。
赤い円環。
答案用紙が黒板へ吸い込まれる。
――提出者を照会。
――単一の命題を確認。
――受理。
黒板の問いが消える。
代わりに、新しい文章が現れた。
――問一、採点終了。
――本物性に依存しない自己同一性の論証を確認。
――共同答案を、一名義の`命題`として受理。
――黒瀬零。
――合格。
「やった」
灯の身体から、文字が消えていく。
維持率。
――一〇〇パーセント。
白い亀裂が閉じ始める。
外部観測が押し返される。
だが。
観測端末には、まだ表示が続いていた。
――合格者登録を開始。
――登録可能人数、一名。
「まだ終わってない」
三年前の俺が言う。
「答案は通っただろ」
「試験と登録は別だ」
「大学事務みたいなこと言うな!」
俺たちの足元に、一つの円が現れる。
中央。
一人分の座標。
そこへ立った黒瀬零だけが、《第零学部》の学生として登録される。
そして。
円の外側では、床がゆっくりと消え始めていた。
「お兄ちゃん!」
灯が俺たちへ走る。
しかし。
透明な壁が現れ、灯を遮る。
――登録試験、最終処理。
――二名の黒瀬零から、一名を選択せよ。
三年前の俺が円を見る。
俺も、同じものを見る。
答案では。
どちらかを偽物にしなかった。
だが。
最後に。
学部は一人を選べと要求する。
「今度こそ」
三年前の俺が言った。
「どちらかだ」
「違う」
「何が違う」
「答案は通った」
俺は円へ近づく。
「俺たちの答えは、認められた」
「登録制度は別だ」
「なら」
右手の円環を、足元へ向ける。
「登録制度の前提を疑う」
――《第零学部》の学生番号は、一つの人格へ一つだけ与えられる。
世界の規則。
試験ではなく。
学部そのものを支える前提。
三年前の俺が目を見開く。
「やめろ」
「何で」
「それを保留すれば、《第零学部》の登録体系全体が崩れる」
「既に一回壊れてる」
「今度は、完全に消えるかもしれない」
「なら、別の登録方法を作る」
「時間がない!」
「時間がないからって」
円環が逆回転する。
「間違った結論を選ぶ理由にはならない」
三年前の俺が、俺の腕を掴む。
止めるためではない。
一緒に。
円環へ手を重ねる。
「何だ」
「俺もやる」
「危険だぞ」
「知っている」
「消えるかもしれない」
「お前が言った」
三年前の俺は、初めて記録にない笑みを浮かべた。
「まだ試していない答えを捨てるな、と」
二つの円環が重なる。
白い空白。
赤い記録。
保留する力と。
保存する力。
「黒瀬零の登録人数は、一名でなければならない」
二人で、その前提へ触れる。
「保留」
《第零学部》全体が。
白紙になった。




