第十三話 本物は誰の記録にいる
「三年前、神代緋月の眼を奪い、黒瀬灯を世界から消した――」
赤い右目を持つ俺は、灯の首筋へ刃を押し当てた。
「本物の黒瀬零だ」
声も同じだった。
顔も。
身長も。
癖のある黒髪も。
何かを警戒する時、僅かに右足を後ろへ引く立ち方さえも。
鏡を見ているという感覚ではない。
鏡なら、左右が反転している。
目の前の男は、俺と同じ方向へ傷を持ち、俺と同じ利き手で刃を握り、俺が知らない三年間を生きていた。
「灯から離れろ」
「命令できる立場か?」
「兄として言ってる」
「それを証明できるのか」
赤い右目が回転する。
神代緋月の眼帯の下で動いていたものと、同じ文字列。
ただし。
神代緋月のものが、破損した文章の断片に見えたのに対し、こいつの右目には完成された論証が刻まれている。
前提。
論証。
結論。
全てが赤い環となって幾重にも重なり、瞬きのたびに書き換わっていた。
「お兄ちゃん」
灯が俺を見る。
「来ちゃ駄目」
「もう来た」
「そうじゃない」
灯の首筋から、一筋の血が流れる。
「ここに来たことを、認めちゃ駄目」
「どういう意味だ」
「《第零学部》は、入った人間を学生として登録する」
「学部なら普通だろ」
「普通の履修登録じゃない」
灯の表情が歪む。
「ここでは、その人が今まで生きてきた世界そのものが、入学資格として提出されるの」
俺の背後で、黒い扉が閉まり始めた。
「九条!」
振り返る。
白い経路の上に、澄玲と獅堂がいる。
だが。
二人と俺との間へ、半透明の壁が下りていた。
「黒瀬零!」
澄玲が壁へ手を触れる。
白い数式が広がった。
「問題を定義します。《第零学部》内部へ進入した黒瀬零と、同行者である九条澄玲および獅堂剛毅の関係を維持する経路――」
`世界は解を持つ`の光が、壁の内部へ走る。
しかし。
途中で消えた。
「定義が成立しません」
澄玲の声が遠ざかる。
「《第零学部》内部の黒瀬零が、先ほどまでの黒瀬零と同一人物であることを確認できません」
「俺は俺だ!」
「自己申告では、同一性の証明になりません!」
獅堂が壁を殴る。
黄金の亀裂が走る。
だが、次の瞬間には何事もなかったように修復された。
「黒瀬! そこを動くな!」
「無茶言うな!」
「動けば、今のお前を支えられなくなる!」
扉が閉じる。
二人の姿が一本の線へ変わり。
そして。
完全に見えなくなった。
観測端末を見る。
――九条澄玲との関係、照会不能。
――獅堂剛毅との関係、照会不能。
――帝都神律大学との関係、照会不能。
残っているのは。
――黒瀬灯との関係。
――兄。
それだけだった。
「これが入学登録か」
「違う」
赤い右目の俺が答える。
「まだ願書を提出しただけだ」
「本人の許可なく、世界を願書にするな」
「お前は自分から来た」
「灯を探しに来たんだ」
「それを、この学部では入学希望と呼ぶ」
ふざけた理屈だ。
だが。
扉が閉じた瞬間から、俺の身体は《第零学部》という場所へ少しずつ馴染み始めている。
空気がある。
重力もある。
床に立つこともできる。
それなのに。
ここへ入る前まで俺を支えていた何かが、剥がれ落ちていく。
大学の記録。
街の記録。
友人からの認識。
家族との関係。
世界の中にあった黒瀬零の輪郭が、一枚ずつ提出書類として抜き取られていた。
「止めろ」
「止める必要はない」
もう一人の俺が言う。
「すぐに分かる。お前は最初から、こちら側の人間だ」
「お前と一緒にするな」
「その言葉を、三年前の俺も言った」
赤い右目。
神代緋月を傷つけた記録。
灯を消した記録。
もし。
こいつが本当に俺なら。
俺の知らない過去がある。
あるいは。
俺が覚えている人生の方が、後から作られた可能性もある。
「名前を聞いておこう」
俺は言った。
「本物を名乗るなら、名乗れるだろ」
「黒瀬零」
「俺もだ」
「知っている」
「区別がつかない」
「区別する必要があるのか?」
男は笑わなかった。
「黒瀬零が二人存在する。なら、どちらかを偽物と定義しなければならない――そう考えること自体が、世界の悪癖だ」
「灯を人質にしてる奴が、急にまともなことを言うな」
「人質ではない」
「刃を突きつけておいて?」
「これは保護だ」
「獅堂みたいなこと言うな」
男の眉が僅かに動く。
「獅堂剛毅を知っているのか」
「昨日戦った」
「昨日?」
初めて。
赤い右目の回転が止まった。
「お前にとって、今日は何年何月何日だ」
「二一二六年、四月十八日」
男は灯を見る。
灯は答えない。
「違うのか」
「ここに日付はない」
灯が言った。
「《第零学部》は、どの世界の暦にも所属していないから」
「それでも、外の時間はあるだろ」
「ある。無限に」
「無限?」
「お兄ちゃんが来た扉の向こうだけでも、同じ日付を持つ世界が無限にある」
灯の言葉と同時に、俺たちを囲む景色が揺れた。
星空の中に浮かぶ校舎。
上下左右へ伸びる廊下。
宇宙へ開かれた無数の講義室。
その光景が、一瞬だけ紙へ変わった。
巨大な白い原稿用紙。
校舎は注釈。
廊下は傍線。
星空は黒いインク。
世界全体が、何者かによって書かれた研究記録の一部に見えた。
瞬きをすると、元へ戻る。
「今のは」
「《第零学部》が見せているんじゃない」
灯が言う。
「お兄ちゃんの認識が、ここの構造へ追いつき始めてる」
「分かるように説明してくれ」
「この場所では、宇宙は空間として並んでいない」
「じゃあ、何として並んでる」
「研究対象」
灯の声が、講義室へ響く教授のように変わった。
「一つの宇宙には、一つの歴史しかないように見える。でも実際には、採用された出来事の背後に、採用されなかった無限の記述が残っている」
「平行世界か」
「それだけじゃない」
灯が首を横に振る。
「未来の選択から分かれた歴史。過去の原因が異なる歴史。物理法則が違う歴史。矛盾が成立する歴史。時間が存在しない歴史。存在と非存在を区別しない歴史」
灯の背後で、講義棟の壁が開いた。
その先に、一枚の白い紙が浮かんでいる。
紙面には、俺たちの世界が記されていた。
帝都神律大学。
《大公理崩壊》。
黒瀬灯の消失。
黒瀬零の入学。
昨日の《公開査問》。
だが。
文章の間には、無数の訂正履歴が重なっている。
灯が消えなかった記述。
俺が灯を忘れた記述。
獅堂に敗北した記述。
そもそも帝都神律大学が存在しない記述。
どれも赤線で消されていない。
元の文章と並び。
別の紙面として、奥へ続いている。
「世界の……査読履歴」
無意識に呟いた。
灯が僅かに目を見開く。
「そう呼んだ人もいた」
紙面が一枚めくられる。
その背後に、次の紙面。
さらに、その背後に次の紙面。
どこまで見ても終わらない。
「一つひとつが宇宙なのか」
「うん」
灯が白い紙面へ手を伸ばす。
「《第零学部》では、一つの独立した歴史・可能性宇宙を《改稿》と呼んでる」
「《改稿》……」
「採用された歴史も、棄却された歴史も同じ。前の文章を消して作り直すんじゃない。選ばれなかった記述も、それぞれ独立した宇宙として残り続ける」
「《改稿》の数は」
灯は答えず、壁面に埋め込まれた古い観測端末を操作した。
画面へ文字が現れる。
――照会対象を指定。
灯が入力する。
《最終改稿》。
検索が始まる。
一秒。
二秒。
結果はすぐに返った。
――《最終改稿》を検索。
――該当する宇宙は存在しない。
「見つけられない、じゃないんだな」
「うん」
「観測限界でもない」
「《最終改稿》という項目そのものが存在しない」
灯は言った。
「どの《改稿》を指定しても、その先には必ず別の《改稿》がある」
「つまり」
「一つの《世界論文》の内部には、終点を持たない無限の《改稿》が存在している」
《世界論文》。
無限の歴史・可能性宇宙を、共通する一つの前提から展開された査読履歴として束ねる宇宙群。
一つの《世界論文》。
無限の《改稿》。
それだけでも。
俺が昨日まで世界と呼んでいたものは、既に見失いそうなほど小さくなる。
だが。
灯は端末を閉じなかった。
「まだ続きがある」
画面の表示範囲が広がる。
俺たちが見ていた白い原稿。
その表紙が現れた。
表題。
《公理体系A―一三に基づく世界成立論》。
その隣に、別の表紙。
《非因果的時間論を前提とする世界成立論》。
さらに。
《矛盾許容論理下における存在構造》。
《観測主体を必要としない宇宙モデル》。
《宇宙概念不採用領域に関する仮説》。
異なる前提。
異なる法則。
異なる《世界論文》。
それぞれの内部に、先ほどと同じく無限の《改稿》が存在している。
「この《世界論文》は、いくつある」
俺の質問に、灯が再び検索欄へ入力する。
《最終研究記録》。
――《最終研究記録》を検索。
――該当する宇宙群は存在しない。
背筋が冷える。
数が大きいからではない。
大きさを理解できないからでもない。
どこまで進んでも終わりがないという事実だけが、端末によって平然と確定されている。
「一つの《世界論文》に、無限の《改稿》」
「うん」
「その《世界論文》自体が、異なる前提ごとに無限に存在する」
「うん」
「それを全部、ここで研究しているのか」
「していた」
灯の声が暗くなる。
「《第零学部》が壊れるまでは」
無限の《改稿》を内包する《世界論文》。
その《世界論文》さえ無限に提出され続ける、終わりなき《世界研究領域》。
俺たちが宇宙と呼んできたものは、その研究領域に提出された、たった一つの《改稿》にすぎなかった。
「《世界研究領域》……」
「正式にはそう呼ばれてる。でも、ここにいた人たちは、ただ《研究領域》って呼んでた」
灯が観測端末の表示を閉じる。
「《第零学部》は、どの《世界論文》にも所属していない。無限の論文を一冊ずつ読む場所でもない」
「なら、どこにある」
「論文と論文の間」
灯は、虚空に浮かぶ赤い修正記号を見上げた。
「まだどの世界にも採用されていない、余白にあるの」
「壊したのは俺か」
赤い右目の男を見る。
「俺たちだ」
男は答えた。
「正確には、黒瀬零と黒瀬灯と神代緋月。それから、久世真道」
「久世教授も関わっていたのか」
「関わっていたどころではない」
男の刃が僅かに下がる。
「《第零学部》最後の学部長代理だ」
「命題論理学部の教授が?」
「今はな」
今は。
つまり。
久世教授にも、失われた過去がある。
あの人は知っているのか。
それとも。
神代緋月と同じく、忘れているのか。
「三年前、何があった」
「説明しても、お前は信じない」
「自分で判断する」
「判断するための前提が、お前にはない」
「なら見せろ」
「それをすると、外の黒瀬零は消える」
「どういう意味だ」
赤い右目の男が、灯から刃を離した。
だが。
警戒は解いていない。
「お前が《第零学部》へ入るために保留したものを覚えているか」
「所属。記録。生死。存在」
「それらは、今も保留されたままだ」
「だから?」
「ここで三年前の記録を受け取れば、《第零学部》はお前を当時の黒瀬零として登録する」
「俺が、お前になる?」
「違う」
男は自分の胸へ手を当てる。
「俺がお前になる」
意味が分からない。
「同じ黒瀬零という記録が、二つ存在している」
灯が説明する。
「でも、《第零学部》は同じ学生番号を二人へ発行できない」
「なら、どちらかが消える?」
「削除じゃない」
灯の顔が苦しげに歪む。
「統合される」
「記憶も人格も?」
「選択も、責任も、罪も」
赤い右目の男が言う。
「俺は、三年前の黒瀬零として保存された記録だ」
「人間じゃないのか」
「その質問に答えはない」
「自分ではどう思ってる」
男は初めて言葉に詰まった。
「それを問う資格がお前にあるか」
「ある」
「なぜ」
「お前が俺を、本物かどうかで試してるからだ」
一歩近づく。
「なら、俺もお前に聞く」
赤い刃が上がる。
「お前は黒瀬零なのか」
「記録上はそうだ」
「記録じゃない」
「記憶もある」
「記憶でもない」
「なら何だ」
「お前が、そう選んでるのか」
男の赤い右目が激しく回転した。
周囲の空間へ、文字が溢れる。
――黒瀬零。
――第零学部世界原理学科所属。
――識別番号、零―〇〇〇一。
――三年前の《第一終理接続実験》に参加。
――神代緋月へ攻撃。
――黒瀬灯の存在記録を外部化。
――第零学部崩壊後、保存記録へ移行。
経歴。
証明。
記録。
それらが男を形作っている。
だが。
俺が聞いたのは、そんなものではない。
「俺は」
男の口が動く。
「黒瀬零だ」
「記録にそう書いてあるから?」
「違う」
「俺と同じ顔だから?」
「違う」
「灯の兄だから?」
男が灯を見る。
灯は、泣きそうな顔で男を見返している。
「俺が」
赤い文字が乱れる。
「俺が、そうでなければならない」
その答えは、選択ではない。
義務だった。
責任。
罪。
三年前の事件を背負う者が必要だから。
神代緋月の眼を奪った者。
灯を消した者。
《第零学部》を壊した者。
その役割を引き受けるため。
こいつは、黒瀬零でなければならない。
「だから灯を殺すのか」
「そうしなければ、終わらない」
「何が」
「観測が」
男の右目が、講義棟の遥か上空を向く。
星空ではない暗黒。
そこに、一つの細い亀裂が生まれていた。
亀裂の向こう側から、白い光が差している。
黒い月とは違う。
巨大な眼でもない。
ただ。
《世界論文》の余白を覗き込むような、冷たい視線。
「《第零学部》は、無限の《世界論文》を研究するために作られた」
男が言う。
「だが、研究するという行為は、研究対象を一つの形式へ整理する」
「無限の《世界論文》を、理解できる形にまとめた」
「そうだ」
「それが何だ」
「まとめられた世界は、比較できる」
澄玲の言葉を思い出す。
問題を正しく定義すれば。
少なくとも一つの解が存在する。
比較できるなら。
選べる。
「無限の《世界論文》から、最も正しい一つを選べるようになった?」
「最初は、人類を守るためだった」
灯が答える。
「法則災害が起きない歴史。誰も不幸にならない歴史。失敗が起きない世界。そういうものを探して、今の世界へ反映するために」
「結果は?」
「見つからなかった」
「無限にあるのに?」
「無限にあるから」
灯は言った。
「一つの問題を修正すると、別の問題が生まれる。誰かを救う《改稿》では、別の誰かが救われない。全ての生命を保存すれば、変化そのものが失われる」
「完全な正解はなかった」
「それでも、観測は止まらなかった」
男の右目に刻まれた文章が、一つの名前へ収束していく。
だが。
文字は途中で黒く塗り潰される。
まだ読めない。
「観測機構は結論を変えた」
男が続ける。
「正しい世界が見つからないなら」
亀裂が広がる。
「正しい世界を作ればいい」
講義棟全体が震えた。
無数の廊下。
無限の《世界論文》へ接続する扉。
その全てが、同じ方向へ傾き始める。
「まずい」
灯が叫ぶ。
「お兄ちゃんが入ったことで、入学登録が再開した!」
「何が起きる」
「《第零学部》が、三年前の状態へ戻ろうとしてる!」
周囲へ学生たちが現れる。
一人。
十人。
百人。
白衣。
制服。
見たことのない時代の服装。
異なる身体構造を持つ者。
人間に見えない者。
誰もが半透明で、同じ時間を繰り返している。
黒板へ式を書く者。
端末を操作する者。
泣きながら扉を閉じる者。
空へ向かって叫ぶ者。
三年前。
あるいは。
別の《改稿》における三年前。
無限の世界から集められた《第零学部》の記録が、一斉に再生されている。
赤い右目の男が、再び灯へ刃を向けた。
「黒瀬灯を殺せば、登録は停止する」
「させるか!」
俺が踏み込む。
床が消えた。
上下が反転する。
俺たちは星空へ落下した。
「`未証明`!」
落下の結論を保留する。
身体を捻る。
だが。
足場がない。
`不定墜道`で方向を変えようとした瞬間。
周囲に、無数の地面が現れた。
一つの《改稿》では下。
別の《改稿》では上。
別の歴史では、俺の身体の内側が地面。
異なる宇宙の位置関係が重なり、落下方向そのものを一つへ決められない。
「くそっ」
赤い右目の男は、何もせず空中へ立っている。
「ここでは、《改稿》ごとに正しい位置が違う」
「なら、お前はどうやって立ってる」
「俺は、この学部の記録だからだ」
男が刃を振る。
赤い線が飛ぶ。
回避。
そう判断した瞬間。
別の《改稿》では、俺が既に斬られていた。
肩が裂ける。
血が散る。
「一つの攻撃が、複数の《改稿》で同時に成立する」
男が言う。
「お前の`未証明`は、一つの結論を保留する能力だ」
次の斬撃。
右から。
左から。
過去から。
未来から。
攻撃が来なかった可能性からさえ。
斬られた結果だけが現れる。
「無限に存在する結論の、どれを止める」
円環を広げる。
一つ。
二つ。
三つ。
斬撃の結論を保留する。
だが。
止めた数より多く。
別の《改稿》から攻撃が届く。
腕。
脇腹。
脚。
傷が増える。
「お兄ちゃん!」
灯が手を伸ばす。
赤い右目の男が、その腕を掴む。
「見るな、灯」
「やめて!」
「こいつは、俺のようになる前に終わらせる」
「お前みたいに?」
血を吐きながら笑う。
「ずいぶん立派な本物だな」
「何?」
「無限の記録に支えられて」
右手を伸ばす。
「《第零学部》に、黒瀬零だと認めてもらって」
円環が、傷だらけの身体へ重なる。
「灯を殺すのが正しいと決めてもらって」
「黙れ」
「お前は一度でも、自分で選んだのか」
「黙れ!」
無限の《改稿》に記された世界記録が、一斉に俺を否定する。
――侵入者。
――未登録。
――黒瀬零として不適格。
――兄として不適格。
――三年前の責任を持たない者。
――偽物。
世界が俺へ結論を押しつける。
黒瀬零ではない。
灯の兄ではない。
ここにいる資格はない。
身体が薄くなる。
灯との関係表示が点滅する。
――兄。
――照会中。
――不一致。
「違う」
灯が叫んだ。
「その人は、私のお兄ちゃん!」
――証言を受理。
――記録との不一致を確認。
――証言を棄却。
「違う!」
灯の声すら、世界の記録に負ける。
「やめろ」
赤い右目の男が言う。
「灯。お前がそう証言するほど、観測は矛盾を修正しようとする」
「でも!」
「俺が黒瀬零として残ればいい」
「それは、あなたが選んだことじゃない!」
男の動きが止まる。
灯は泣きながら、それでもはっきりと言った。
「あなたは、三年前から一度も自分の未来を選んでない」
「俺には必要ない」
「嘘」
「黒瀬零には、責任がある」
「それは、記録が決めた黒瀬零でしょ!」
空間全体が揺れる。
兄。
妹。
本物。
偽物。
記録。
記憶。
関係。
前提同士が衝突している。
俺は右手を見る。
これまで、`未証明`で止めてきたもの。
落下。
死亡。
敗北。
世界の消失。
どれも、最後に成立する結論だった。
だが。
今、俺を偽物とする結論は、もっと前から作られている。
前提。
――三年前の記録を持つ者だけが、黒瀬零である。
この前提があるから。
俺は偽物になる。
あいつは本物になる。
灯の証言は、誤りとして棄却される。
「結論を止めても」
無限の《改稿》が、別の論証から同じ答えへ至る。
「前提が変わらない限り、同じか」
右手の円環を、自分の胸へ突き立てる。
「何をする!」
赤い右目の男が叫ぶ。
「黒瀬零を決める前提を、保留する」
「できるわけがない」
「まだ証明されてない」
「お前の能力は、結論にしか作用しない!」
「それも」
俺は自分へ言い聞かせる。
「誰が決めた」
今までの観測。
神代緋月の校正。
《法則検証室》の実験。
二・四秒。
結論の保留。
それらは、能力の全てではない。
俺たちが観測できた範囲を、能力の定義と呼んでいただけだ。
「`未証明`」
赤い円環が逆回転する。
結論から、論証へ。
論証から、前提へ。
世界を支える文章が、一行ずつ白紙へ戻っていく。
――三年前の記録を持つ者が、本物の黒瀬零である。
「その前提を、保留する」
赤い右目の男の輪郭が揺れる。
――黒瀬灯の兄は、一人でなければならない。
「その前提を、保留する」
俺と男。
二人の関係表示へ、同時に「兄」が現れる。
――同一人物が複数存在する場合、一方を偽物とする。
「その前提を、保留する」
世界記録が答えを失った。
「前提が……」
男が呟く。
「消えていく」
「消してない」
床へ着地する。
今度は。
どの《改稿》の地面かなど、関係ない。
俺自身が進む方向を選ぶ。
「まだ、どっちが本物か決めてないだけだ」
「それでは世界が成立しない!」
「成立させるために、誰かを偽物にする必要はない」
「矛盾する!」
「ここは《第零学部》だろ」
一歩。
「矛盾を研究する学部が」
さらに一歩。
「矛盾した人間一人、受け入れられないのか」
赤い右目の男が刃を構える。
だが。
その手は震えていた。
「来るな」
「灯を離せ」
「俺が灯を守る」
「殺すことが?」
「世界を救うためだ!」
「それを選んだのは誰だ」
「俺だ!」
「なら」
目の前まで進む。
「今も選べるはずだ」
男の刃先が、俺の胸へ触れる。
刺せば。
俺は死ぬ。
少なくとも、無限に存在する《改稿》の一つでは確実に。
だが。
男は動かない。
「選べ」
「……俺は」
「黒瀬零でなければならない、じゃない」
赤い右目を見る。
「お前は、どうしたい」
刃が落ちた。
音はしない。
存在しない星空へ、赤い刃が消えていく。
「分からない」
男が答えた。
小さな。
本当に小さな声だった。
「三年間」
赤い文字が右目から剥がれ落ちる。
「その質問を、されたことがない」
灯が男へ手を伸ばす。
「だったら、一緒に考えよう」
「俺には、その資格がない」
「資格を決めるのは、記録じゃない」
灯の言葉に。
男は初めて、灯の手を取ろうとした。
その瞬間。
上空の亀裂が完全に開いた。
白い光が、《第零学部》全体を照らす。
全観測端末へ、同じ文字が表示された。
――前提改変を検知。
――矛盾存在の並存を確認。
――第零学部入学試験、第三課題へ移行。
――受験者。
――黒瀬零。
続いて。
もう一つ。
――受験者。
――黒瀬零。
「二人とも?」
灯が見上げる。
白い光の中へ、巨大な黒板が現れた。
そこには、一つの問いだけが記されている。
問一。
――本物であることを証明せず、黒瀬零であることを証明せよ。
そして。
俺と、もう一人の俺との間へ。
一つの机が出現した。
答案用紙は一枚。
筆記具も一本。
制限時間。
七十二時間。
「共同試験か」
俺が呟く。
赤い右目の男は、机を見たまま低く答えた。
「違う」
「何が」
「答案を提出できる黒瀬零は、一人だけだ」
観測端末へ、最後の注意事項が表示される。
――不合格者は、黒瀬零としての全記録を失う。
――なお。
――試験終了まで、黒瀬灯の生存は保証されない。




