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『神律大学の未証明者《アンプローヴン》』   作者: 仕儀の反駁
第二章《第零学部》《第一観測圏》編

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第十二話 存在しない学部への入学

第2章《第零学部》《第一観測圏》編 始動。

 存在しない場所へ、存在したまま


 世界を一度、一つの世界ではなくした翌朝。


 俺は大学図書館で、論文を書いていた。


「納得できない」


 机に突っ伏したまま呟くと、向かいに座っていた九条澄玲が端末から顔を上げた。


「何がですか」


「世界を救った翌日にやることが、共同論文の執筆ってところ」


「世界を一時的に単一の対象として成立しなくしただけです。救ったと断定するには、追加の検証が必要です」


「言い方の問題じゃない」


「それに、世界規模の未定義現象を発生させた翌日だからこそ、記録を残す必要があります」


「正論で殴るな」


 昨日。


 俺と獅堂剛毅による《公開査問》は、一応の決着を迎えた。


 戦闘上は、俺の勝利。


 `命題(テーゼ)`理論審査では、互いの前提を認めた上で新しい結論へ至ったとして、両者合格。


 その結果、俺たちは共同筆頭著者として、査問結果を論文化することになった。


 提出期限は一か月後。


 通常の研究であれば、十分な期間なのかもしれない。


 しかし、今回の査問で観測された現象の一つは、


 ――世界が、一つの世界ではなくなった。


 という、発生させた本人にも完全には説明できないものだった。


「再現実験のできない研究を、どうやって論文にするんだ」


「観測記録は残っています」


「〇・〇〇〇〇〇〇三秒分だけな」


「《第一宇宙観測環》の記録に加えて、観客三万一千七百六十二名の観測証言があります」


「証言が多すぎるだろ」


「再現性はありませんが、観測者間の一致率は算出できます」


 澄玲の端末には、既に論文の構成案が表示されていた。


 序論。


 研究目的。


 査問条件。


 能力理論。


 結果。


 考察。


 倫理上の問題。


 世界統一性消失現象に関する追記。


「最後の項目だけ、重すぎないか?」


「久世教授から、独立した章として記述するよう指示されています」


「まだ正式な現象名も決まってないぞ」


「暫定的に《非単一世界化》としています」


「地味だな」


「論文に記載する現象名へ、格好よさは必要ありません」


「`不定墜道(パラドクス・フォール)`って名づけた研究室の人間が言うか?」


「あれは天城先輩の命名です」


 隣の机では、獅堂剛毅が大きな身体を窮屈そうに椅子へ押し込んでいた。


 先ほどから一言も発さず、端末を睨み続けている。


「獅堂」


「話しかけるな」


「どこまで書けた?」


「題名だ」


「一時間かけて?」


「重要だろうが」


 獅堂の画面を覗き込む。


 そこには、


『支えることと位置決定権の関係について――第四種命題と第五種命題の公開査問を通じた実践的検討』


 と表示されていた。


「普通だな」


「論文だぞ」


「もっと王とか礎とか入れないのか」


「ふざけるな。査読で落とされる」


「意外と真面目だな」


「意外は余計だ」


 獅堂は題名の画面を閉じ、別の文書を開いた。


「それより、なぜ俺が方法の章まで担当することになっている」


「演習環境の大半を、あなたが作ったからです」


 澄玲が答える。


「黒瀬零は?」


「現象記録と考察です」


「俺より多いじゃねえか」


「黒瀬零は世界を消しましたから」


「俺が好きで消したみたいに言うな」


 図書館の奥から、自動音声が流れた。


『静粛に』


 俺と獅堂は同時に口を閉じる。


 数秒待ってから、獅堂が声を落とした。


「これを、いつまで続ける」


「昼までは共同作業です」


 澄玲が答える。


「午後は《未定義現象研究室》で、昨日の現象を検証します」


「その後は?」


「学生支援課で、黒瀬零の死亡記録を訂正します」


「まだ終わってなかったのか」


「必要書類が一枚足りないと言われた」


「何の書類だ」


「本人が現在生存していることを、所属教員が証明する書類」


「本人が窓口へ行っているのに?」


「規則らしい」


 獅堂が鼻で笑った。


「世界より、大学事務の方が強いんじゃねえか」


「俺もそう思う」


 その時だった。


 胸ポケットの中で、何かが震えた。


 黒瀬灯の学生証。


 取り出す。


 表面は黒いままだったが、裏面へ新しい文章が浮かび上がっていた。


 ――《第二証明》完了者へ通知。


 ――本日二十三時五十九分。


 ――《第零学部》入構試験を実施する。


「今日?」


 思わず立ち上がる。


 図書館の自動音声が即座に反応した。


『静粛に』


「すみません」


 小声で謝りながら、学生証を澄玲へ見せる。


「入構試験……」


 澄玲の目が細くなる。


「《第二証明》は、《第零学部》へ入るための資格審査だったのでしょうか」


「入構するだけで、さらに試験があるのか」


「存在しない学部です。通常の学生証認証だけで入れる方が不自然です」


「存在しない時点で、全部不自然だろ」


 獅堂も俺たちの手元を覗き込んだ。


「何だ」


「《第零学部》から呼び出しが来た」


「俺も行く」


「関係ないだろ」


「共同証明者だ」


 灯の学生証が、一度だけ赤く光る。


 新しい一文が表示された。


 ――入構可能者、一名。


「一人だけらしい」


「気に入らねえ」


「試験に文句を言うな」


「昨日は俺の力も使って合格しただろうが」


「俺に言われても困る」


 さらに文字が追加される。


 ――同行者の存在を否定しない。


 ――ただし、入構者として認めない。


「どういう意味だ?」


 獅堂が尋ねる。


「一緒に来ることは否定しない。でも、中へ入れるとは限らない?」


「それでは、同行者へ何が起きるか不明です」


 澄玲が学生証を観察する。


「黒瀬零。一人で行くべきではありません」


「でも、一人しか認めないと書いてある」


「認められる必要はありません」


「何?」


「私たちは、《第零学部》の学生になるために同行するのではありません」


 澄玲は、いつもの落ち着いた声で言った。


「黒瀬零を、ここへ帰還させるために同行します」


 その言葉に、少しだけ胸が軽くなった。


 獅堂も腕を組む。


「決まりだな」


「教授たちにも知らせる」


「当然です」


 灯の学生証は、最後に一文だけ表示した。


 ――入構試験課題。


 ――存在しない場所へ、存在したまま到達せよ。


 ◇


 午後一時。


 《未定義現象研究室》。


 神代緋月は、学生証に表示された文章を最後まで読むと、すぐに研究室の出入口を封鎖した。


「情報を外部へ出さないためですか」


 澄玲が尋ねる。


「違う」


 緋月は壁へ複数の赤い文字を走らせる。


「ここから先の会話を、外側の観測者に聞かせないためだ」


「黒い月は壊れたんじゃないのか」


「破壊したのは端末の一つにすぎない」


 黒い月。


 世界の外側、そのさらに奥に存在する何者かが、世界内部を観測するために使用していた端末。


 現時点で、俺たちは外側の観測者について、ほとんど何も知らない。


 ただ。


 世界の外側から、一つの正解を押しつけようとする何者かがいる。


 それだけは分かっている。


「《第零学部》について、知っていることを教えてください」


 俺は緋月を見る。


「今夜行くことになったなら、もう隠す理由はないはずです」


 緋月はすぐには答えなかった。


 右目を覆う眼帯へ触れる。


 十三枚の翼を持つ紋章。


 《第零学部》に関係する黒衣の人物と、同じ印。


「私は、《第零学部》の卒業生だ」


 研究室が静まり返った。


「神代先生が?」


「正確には、卒業したという記録と、中退したという記録と、最初から在籍していなかったという記録が同時に残っている」


「相変わらず分かりにくいな」


「《第零学部》では、それが普通だった」


 緋月が空中へ、古い大学案内図を表示する。


 現在の帝都神律大学。


 十二の主要学部。


 中央研究棟。


 《第一宇宙観測環》。


 しかし。


 三年前の日付が付された地図には、現在の本部棟が存在する大学中央部へ、黒く塗り潰された空白があった。


「《第零学部》は、特定の建物に存在していたわけではない」


「《未定義現象研究室》のように、人物や現象との関係によって場所が定まるのですか」


「それよりも不安定だ」


 緋月は、地図上の空白を指した。


「《第零学部》は、帝都神律大学が研究していないものを研究するための学部だった」


「学部であるなら、大学の研究分野へ含まれるのではないですか」


 獅堂が言う。


「本来ならな」


 緋月が答えた。


「しかし、既存の学部として定義された瞬間、その研究対象は“帝都神律大学が研究しているもの”になる」


「存在することで、研究対象を失うのですか」


「そうだ」


 だから、第零。


 最初の学部ではない。


 十二学部の前に設置された学部でもない。


 既存分類へ含められた瞬間に、その性質を失う。


 どの学部にも属さず。


 大学がまだ問題として認識していないものを扱うための学部。


「存在しないことが、存在条件……」


 澄玲が呟く。


「矛盾しています」


「だから維持が難しかった」


 緋月の赤い文字が、空中へ一つの扉を形作る。


「入構条件は時期によって異なった。通常の座標移動では到達できない。入ろうとした時点で、《第零学部》を“存在する場所”として定義してしまうからだ」


「存在しない場所へ、存在したまま到達せよ」


 学生証に表示された課題。


「どうやって入る」


「私が在籍していた頃も、入構者ごとに異なる解を要求された」


「神代先生の場合は?」


 緋月が沈黙する。


「忘れたのですか」


「思い出せない」


 眼帯の隙間から、赤い文字が僅かに漏れ出した。


「三年前の事件で、私は《第零学部》に関する記憶の大半を失った」


「灯と一緒にいた?」


「分からない」


「でも、灯の名前が消えたことは知っていた」


「記録上の欠落としてだけだ」


 緋月は俺を見る。


「黒瀬灯という学生を知っていた痕跡が、私の記録には残っていた。しかし私は、彼女の顔も声も思い出せない」


「今まで黙っていたのは」


「確証がなかったからだ」


「それだけですか」


 澄玲が尋ねる。


 緋月の表情が固くなる。


「もう一つある」


 空中へ、三年前の医療記録が表示された。


 神代緋月。


 右眼球欠損。


 記憶領域損傷。


 法則汚染。


 そして。


 原因欄。


 ――黒瀬零による攻撃。


「俺……?」


 自分の名前を見ても、すぐには意味を理解できなかった。


「三年前、俺は高校生です」


「分かっている」


「神代先生と会った記憶もない」


「私にも、黒瀬零と会った記憶はない」


「なら、この記録は何ですか」


「それを確かめるためにも、《第零学部》へ行く必要がある」


 俺が。


 神代緋月の右目を奪った。


 そんな過去を、俺は知らない。


 記憶にもない。


 灯が消えた日。


 俺は家にいた。


 確かにそう記憶している。


 だが。


 世界から黒瀬灯の記録を消せるのなら。


 俺自身の記憶だけが正しいという保証は、どこにある。


「黒瀬零」


 澄玲が俺を呼ぶ。


「今は、その記録を事実として確定しないでください」


「分かってる」


「同時に、偽の記録として否定もしないでください」


「……分かってる」


 `未証明(アンプローヴン)`。


 外部から押しつけられた結論を疑い、保留する能力。


 それなのに。


 自分にとって都合の悪い記録を目にした瞬間、俺は反射的に否定しようとした。


「可能性として保持する」


 口に出して確認する。


「三年前、俺が神代先生を攻撃した可能性もある」


「ああ」


「でも、まだ結論じゃない」


 緋月が僅かに頷いた。


「それでいい」


 ◇


 午後四時。


 入構試験へ向けた準備が始まった。


 天城先輩が、四つの小型観測端末を机へ並べる。


「《第零学部》へ入れば、外部との通信が途切れる可能性が高い」


「通信機を持っていっても無意味ですか」


 澄玲が尋ねる。


「通常の通信であればね。これは、位置情報を送信するための装置ではない」


「何を観測するんですか」


「君たちが、まだ君たちであるかどうか」


 天城先輩は端末の一つを、俺の胸元へ取りつけた。


 表示された項目。


 氏名。


 記憶。


 目的。


 他者との関係。


「場所そのものが存在しないなら、座標は測定できない」


 天城先輩が説明する。


「でも、黒瀬零が九条澄玲を知っている。九条澄玲が獅堂剛毅を認識している。そうした関係は、観測できる可能性がある」


「互いを、座標の代わりにする?」


「近い考え方だ」


 《未定義現象研究室》も、固定された座標ではなく、人物や現象との関係によって出入口が成立する。


 《第零学部》が、それ以上に不安定な場所であるなら。


 自分が自分であることを保つには、誰かとの関係が必要になる。


「端末の表示が赤くなった場合は」


「どうなる」


「本人の自己認識と、他者からの観測結果が一致していない」


「具体的には?」


「自分を黒瀬零だと思っている何かが、既に黒瀬零ではなくなっている可能性がある」


「怖い説明を平然とするな」


「その場合、本人の判断だけで行動しないでください」


 澄玲が言う。


「私たちが確認します」


「逆に、九条が変わっていたら?」


「黒瀬零が確認してください」


「獅堂は」


「俺は変わらねえ」


「根拠は?」


「俺だからだ」


「一番危ない答えだな」


 天城先輩は獅堂にも端末を取りつけた。


「自信と同一性は別です」


「分かってる」


「本当に?」


「先輩まで九条みたいなことを言うな」


 緋月は最後に、一枚の紙を俺へ差し出した。


「何ですか」


「遺書だ」


「書きません」


「入構前の意思確認書だ」


「最初に遺書って言っただろ」


「内容は似ている」


 書類には、複数の欄があった。


 記憶を失った場合。


 人格が変化した場合。


 複数の自分が現れた場合。


 帰還した者が本人かどうか判定できない場合。


 それぞれについて、どう扱ってほしいかを書く。


「大学の入構試験で書く内容じゃない」


「《第零学部》は、通常の大学の学部ではない」


「さっきは学部だったと言っていたじゃないですか」


「記録上はな」


「もう嫌になってきた」


 それでも、俺は書いた。


 記憶を失った場合。


 ――黒瀬灯を探していることを教えてほしい。


 人格が変化した場合。


 ――現在の俺自身が、何を選ぶかを確認してほしい。


 複数の俺が現れた場合。


 ――どちらが本物かを、世界の記録だけで決めないでほしい。


 帰還した者が本人か判定できない場合。


 最後の欄で、手が止まった。


「何と書けばいい」


「黒瀬零が決めてください」


 澄玲は答えを示さない。


 俺はしばらく考えてから、最後の欄へ記入した。


 ――黒瀬零であると主張する者へ、黒瀬灯のことを尋ねる。


 ――答えの内容ではなく、その答えを本人が自分で選んだかを確かめること。


 緋月が書類を受け取る。


「受理する」


「縁起でもない書類だ」


「帰還すれば破棄できる」


「絶対に帰ります」


「その結論を証明してきなさい」


 ◇


 二十三時五十分。


 俺たちは、帝都神律大学の中央広場にいた。


 昨日まで、《第七公開査問庭》が展開されていた場所。


 現在は修復作業も終わり、地面へ僅かな亀裂だけが残されている。


 周囲は立入禁止。


 緋月が許可を取り、監視員も遠ざけていた。


「入構地点は、本当にここで合っているのか」


 獅堂が尋ねる。


「学生証は、場所を指定していない」


 俺は答える。


「時刻だけだ」


「それなら、どこにいてもよい可能性があります」


 澄玲が周囲を観察する。


「《第零学部》は固定座標を持たない」


「でも、灯はここで“次は第零学部で待っている”と言った」


 《公開査問》が終わった後。


 誰もいない査問庭へ、灯が現れた。


 その場所は、今俺たちが立つ中央広場と重なっている。


 二十三時五十八分。


 灯の学生証が光った。


 ――入構試験を開始する。


 ――課題を再提示。


 ――存在しない場所へ、存在したまま到達せよ。


「何をすればいい」


 学生証は答えない。


 時計が、二十三時五十九分を示す。


 大学本部棟の時計塔が鳴った。


 一回。


 二回。


 十二回。


 日付が変わる。


 その瞬間。


 中央広場から、全ての音が消えた。


「始まった」


 俺自身の声は聞こえる。


 だが。


 遠くを走る車。


 風。


 機械。


 帝都神律大学の生活音が、一つもない。


 周囲を見渡す。


 建物は残っている。


 しかし、窓の明かりが一つも点いていなかった。


「生命反応は?」


 澄玲が観測端末を見る。


「四件だけです」


「神代先生たちが消えた?」


「違います」


 澄玲は後方を指した。


 緋月と天城先輩が立っていた場所。


 そこには誰もいない。


 ただし、二人が設置していた観測装置だけは残されている。


「私たちの方が、通常の帝都神律大学から外れた可能性が高いです」


 獅堂が両足で地面を踏み締める。


 自らの立つ場所を礎として定めようとする。


 足裏から金色の線が生じた。


 しかし、広がらない。


「`万象は我が礎(グランド・レガリア)`が成立しない」


「地面に立っているのに?」


「俺を支えている感覚がない」


 俺も足元を見る。


 確かに地面の形をしている。


 硬く、触れることもできる。


 それなのに。


 そこへ立っているという実感だけが、異様に薄い。


「これは、地面の外見だけを持つものです」


 澄玲がしゃがみ込む。


「現在の私たちの位置を定義していません」


「地面じゃないのか?」


「背景に近いものだと思われます」


 帝都神律大学の形をしている。


 しかし。


 本物の大学ではない。


 人も。


 時間も。


 因果も。


 俺たちとの対応を失っている。


 灯の学生証に文字が浮かんだ。


 ――現在地。


 ――帝都神律大学ではない。


 次の瞬間。


 大学本部棟の正面へ、巨大な黒い扉が現れた。


 高さは三十メートル。


 表面には、十三枚の翼。


 途切れた円環。


 そして。


 無数の名前が刻まれている。


 ほとんどは読むことができない。


 だが、その中に。


 神代緋月。


 黒瀬灯。


 久世真道。


 俺たちが知る名前があった。


「久世教授も?」


 俺が呟く。


「《第零学部》との関係については聞いていません」


 澄玲が扉へ近づこうとする。


 しかし。


 何歩進んでも、扉との距離が縮まらない。


「座標移動では到達できない」


「存在しない場所へ向かう試験だからか」


 俺も歩く。


 同じだった。


 扉は目の前に見えるのに、近づくことができない。


 獅堂が岩を拾い、扉へ向かって投げる。


 岩は扉へ向かって飛び、途中で消失した。


「破壊は無理だな」


「最初から壊すな」


「確認しただけだ」


 学生証が光る。


 ――入構条件を提示。


 ――《第零学部》は存在しない。


 ――ゆえに、《第零学部》へ到達する者も存在してはならない。


「俺たちを消せってことか?」


「しかし課題は、存在したまま到達することです」


 澄玲が言う。


 存在すれば、入ることができない。


 存在しなければ、到達した本人がいない。


 矛盾している。


「問題として定義できますか」


 俺が尋ねる。


 澄玲の瞳に、白い数式が走った。


「試みます」


 彼女は黒い扉を見据える。


「問題――存在する黒瀬零が、存在しない《第零学部》へ到達するための経路」


 白い線が現れた。


 俺の足元から、扉へ向かって伸びていく。


 しかし。


 途中で途切れた。


「解なし?」


「違います」


 澄玲の額へ汗が浮かぶ。


「問題そのものが矛盾しています。存在する者と、存在しない場所との間に、共通の関係を定義できません」


「関係が成立しないから、経路も作れない」


「はい」


 獅堂が腕を組んだ。


「なら、関係を作ればいい」


「どうやって」


「黒瀬灯は、中にいるんだろ」


「そのはずだ」


「なら、お前と妹の関係がある」


 俺と灯。


 兄と妹。


 俺は灯を覚えている。


 灯は俺を待っている。


 世界の記録から、灯が消されていても。


 その関係だけは。


 俺の中に残っている。


「《第零学部》そのものとの関係じゃない」


 俺は言った。


「中にいる灯との関係を使う」


「成立する可能性があります」


 澄玲が問題を定義し直す。


「問題――黒瀬灯との関係を維持したまま、彼女が存在する領域へ到達する経路」


 再び白い線が現れる。


 今度は、黒い扉まで途切れずに伸びた。


「解が成立しました」


 ただし。


 白い線は一本ではない。


 三本。


 俺。


 澄玲。


 獅堂。


 それぞれの足元から、異なる経路が伸びていた。


「俺たち全員に、灯との関係があるのか?」


「直接的な関係ではありません」


 澄玲が白線を解析する。


「私と獅堂剛毅は、黒瀬零との関係を介して、黒瀬灯へ接続されています」


 俺が灯を覚えている。


 澄玲と獅堂が、俺を知っている。


 関係が連なっている。


「なら、行ける」


 俺は白い線へ足を乗せた。


 しかし。


 足がすり抜ける。


「経路自体は存在しています」


 澄玲が言う。


「ただし、移動条件が不足しています」


 学生証に、新しい文章が表示された。


 ――存在する者は、存在する場所にしか立てない。


 ――存在しない場所へ進むには、自己の存在根拠を手放せ。


「存在根拠……」


 名前。


 記録。


 身体。


 記憶。


 所属。


 他者との関係。


 自分が自分であると示すもの。


「全てを手放したら、“存在したまま”ではなくなる」


 獅堂が言う。


「一部だけではどうでしょうか」


 澄玲が分析を続ける。


「《第零学部》へ入るために不要な存在根拠を手放し、必要なものだけを残す」


「何が必要で、何が不要なんだ」


 俺は自分の胸へ手を当てた。


 黒瀬零。


 帝都神律大学の一年生。


 法則災害学群。


 灯の兄。


 `未証明(アンプローヴン)`の使い手。


 《公開査問》の勝者。


 一度、死亡したと記録された人間。


 俺を定義する言葉はいくつもある。


 その中で。


 俺が《第零学部》へ行く理由は、一つしかない。


「灯の兄であること」


 それだけは必要だ。


 それ以外は。


 今だけなら、手放せる。


「どうやって手放す」


 獅堂が尋ねる。


 俺は学生証を握った。


「世界に、俺を定義させない」


「危険です」


 澄玲がすぐに反応した。


「黒瀬零の存在情報を保留するつもりですか」


「全部じゃない」


「制御できる保証がありません」


「でも、これしかない」


 俺は黒い扉を見る。


「《第零学部》へ入る間だけ、帝都神律大学の学生でも、能力者でも、この世界の住人でもないことにする」


「存在そのものの否定に近い行為です」


「否定しない」


 `未証明(アンプローヴン)`は、結論を消す能力ではない。


 どの結論を、自分へ適用するのか。


 その確定を保留する。


「黒瀬零が何者なのかという判定を止める」


「その間、黒瀬零は何を根拠として存在するのですか」


「灯との関係だ」


 世界の記録ではない。


 大学の所属でもない。


 能力名でもない。


 俺自身が選んだ。


 妹を探す兄であるという答え。


「それだけを残す」


 澄玲は黙った。


 獅堂も、すぐには言葉を返さない。


 やがて。


 澄玲が口を開いた。


「私たちも必要です」


「二人は、入構者として認められていない」


「だからこそです」


 澄玲は、小型観測端末を俺の腕へ固定する。


「黒瀬零が自分を見失った場合、私たちが黒瀬零との関係を保持します」


 獅堂が俺の肩を叩く。


「灯の兄だけじゃない。お前は、俺の対戦相手でもある」


「今は手放すと言ってるだろ」


「お前が勝手に手放しても、俺は覚えている」


 俺は二人を見る。


 支えられながら。


 自分で選ぶ。


 《公開査問》で、俺たちが出した答え。


 もう次の試験で、その意味を問われている。


「分かった」


 俺は扉へ向き直る。


「行くぞ」


 右手に、途切れた円環が浮かび上がる。


「黒瀬零は、帝都神律大学の学生である」


 外部から俺へ与えられている、その結論を。


「保留する」


 学生証の所属欄が消えた。


「黒瀬零は、この世界に記録された人間である」


「その結論を、保留する」


 戸籍情報が消える。


「黒瀬零は、生者である」


「それまで止めるのですか」


 澄玲の声が強くなる。


「死者になるわけじゃない」


 生者でも。


 死者でもない。


 どちらの判定も、今は採用しない。


 胸の鼓動が、遠くなった。


「黒瀬零は、ここに存在する」


 最後の結論。


 右手が震える。


 これを保留すれば。


 俺は、本当に消えるかもしれない。


 それでも。


 残すものがある。


「俺は、灯の兄だ」


 誰が否定しても。


 世界から記録が消えても。


 俺自身が選び続けてきた関係。


「それだけは、保留しない」


 途切れた円環が広がる。


「`未証明(アンプローヴン)`」


 世界から。


 黒瀬零という人間の輪郭が消えた。


 ◇


 九条澄玲の目の前から、零が消えた。


 透明になったわけではない。


 姿は見えている。


 そこに立っていることも分かる。


 しかし。


 目の前の少年を、黒瀬零として認識できなかった。


 名前を思い出せない。


 顔を見ても、誰なのか分からない。


「あなたは……」


 澄玲の声が震えた。


 腕へ装着された観測端末を見る。


 ――氏名、未定義。


 ――所属、未定義。


 ――生存状態、未定義。


 ――関係情報。


 ――九条澄玲の共同研究者。


 それだけが残されている。


「共同研究者……」


 澄玲は、その言葉を口にした。


 目の前の少年が、誰なのかは分からない。


 それでも。


 自分と共に研究していた。


 何度も無茶をした。


 自動販売機で飲料を受け取れず。


 空から落ち。


 世界を一つの世界ではなくし。


 正論を嫌がりながらも、最後には自分で答えを選んだ。


「黒瀬零」


 名前が戻ってくる。


 完全ではない。


 それでも。


 関係を通じて。


 澄玲は、目の前の少年を認識した。


「あなたは、黒瀬零です」


「聞こえてる」


 零が答える。


 その声も、どこか遠い。


 獅堂も、零の肩へ置いた手に力を込めた。


「俺に勝った相手が、勝手にいなくなるな」


「一回しか勝ってない」


「一回でも同じだ」


 白い経路が、次第に実体を持ち始める。


 零が足を乗せる。


 今度は、すり抜けない。


 一歩。


 存在しない場所へ進む。


 黒い扉との距離が、初めて縮まった。


「成功です」


 澄玲も白い線へ足を乗せる。


 しかし。


 足場が彼女を拒絶した。


 白い線が消える。


「九条!」


「問題ありません」


 澄玲は即座に、新しい問題を定義する。


「問題――黒瀬零との関係を維持したまま、入構者として承認されずに同行するための経路」


 新しい白い線が、零の後方へ伸びる。


 扉までは届かない。


 しかし、零との関係が途切れない位置までは続いている。


「私は、あなたと同じ場所へ入るのではありません」


 澄玲が言う。


「黒瀬零との関係が途切れない位置へ進みます」


 獅堂は、両足で現在の足場を踏み締めた。


 地面の形を持つだけの背景へ、自分の立つ場所を定めようとする。


 黄金の王土は広がらない。


「ここを礎にできないなら」


 獅堂は零の背中を見る。


「黒瀬。お前が選んだ場所を、俺の礎として支える」


「俺の上に立つなよ」


「比喩だ!」


 獅堂の足元から生じた金色の線が、零との関係へ接続する。


 昨日までなら。


 相手の位置を、自分の王土へ固定するための線だった。


 今は違う。


 零が自分で選んだ方向へ進むための力を、後方から支える。


「行け」


 黄金の光が、零の背中を押した。


 零は振り返らない。


 一歩。


 さらに一歩。


 黒い扉へ近づいていく。


 距離。


 十メートル。


 五メートル。


 一メートル。


 そして。


 扉の前へ到達した。


 十三枚の翼が開く。


 途切れた円環が回転する。


 扉に刻まれていた無数の名前が、一斉に赤く光った。


 ――入構者を確認。


 ――氏名、未定義。


 ――所属、未定義。


 ――存在状態、未定義。


 ――関係情報。


 ――黒瀬灯の兄。


 黒い扉が、ゆっくりと開く。


 その先には。


 大学があった。


 ただし。


 帝都神律大学ではない。


 無数の校舎が、上下も左右もなく浮かんでいる。


 廊下が星空を貫き。


 講義室の扉が、宇宙へ開き。


 巨大な黒板には、世界そのものを表しているとしか思えない数式が書かれていた。


 遠方。


 中心と思われる場所に、一つの講義棟がある。


 その屋上に。


 一人の少女が立っていた。


 黒瀬灯。


「灯!」


 零が叫ぶ。


 少女が振り返る。


 確かに、妹の顔だった。


 零の記憶に残る姿と同じ。


 灯は、泣きそうな笑顔を浮かべた。


「来てくれたんだね、お兄ちゃん」


 零が一歩、踏み出す。


 その瞬間。


 灯の背後へ、もう一人の黒瀬零が現れた。


 年齢も。


 顔も。


 服装も同じ。


 ただし。


 右目には、神代緋月の眼帯の下と同じ、赤い文字列が回転している。


 もう一人の零は、灯の首へ刃を当てていた。


「止まれ」


 もう一人の零が告げる。


「それ以上近づけば、黒瀬灯を殺す」


「お前は誰だ」


 零の問いに。


 もう一人の黒瀬零は、静かに答えた。


「三年前」


 赤い右目が輝く。


「神代緋月の眼を奪い、黒瀬灯を世界から消した――」


 刃が。


 灯の首へ食い込む。


「本物の黒瀬零だ」

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