第十二話 存在しない学部への入学
第2章《第零学部》《第一観測圏》編 始動。
存在しない場所へ、存在したまま
世界を一度、一つの世界ではなくした翌朝。
俺は大学図書館で、論文を書いていた。
「納得できない」
机に突っ伏したまま呟くと、向かいに座っていた九条澄玲が端末から顔を上げた。
「何がですか」
「世界を救った翌日にやることが、共同論文の執筆ってところ」
「世界を一時的に単一の対象として成立しなくしただけです。救ったと断定するには、追加の検証が必要です」
「言い方の問題じゃない」
「それに、世界規模の未定義現象を発生させた翌日だからこそ、記録を残す必要があります」
「正論で殴るな」
昨日。
俺と獅堂剛毅による《公開査問》は、一応の決着を迎えた。
戦闘上は、俺の勝利。
`命題`理論審査では、互いの前提を認めた上で新しい結論へ至ったとして、両者合格。
その結果、俺たちは共同筆頭著者として、査問結果を論文化することになった。
提出期限は一か月後。
通常の研究であれば、十分な期間なのかもしれない。
しかし、今回の査問で観測された現象の一つは、
――世界が、一つの世界ではなくなった。
という、発生させた本人にも完全には説明できないものだった。
「再現実験のできない研究を、どうやって論文にするんだ」
「観測記録は残っています」
「〇・〇〇〇〇〇〇三秒分だけな」
「《第一宇宙観測環》の記録に加えて、観客三万一千七百六十二名の観測証言があります」
「証言が多すぎるだろ」
「再現性はありませんが、観測者間の一致率は算出できます」
澄玲の端末には、既に論文の構成案が表示されていた。
序論。
研究目的。
査問条件。
能力理論。
結果。
考察。
倫理上の問題。
世界統一性消失現象に関する追記。
「最後の項目だけ、重すぎないか?」
「久世教授から、独立した章として記述するよう指示されています」
「まだ正式な現象名も決まってないぞ」
「暫定的に《非単一世界化》としています」
「地味だな」
「論文に記載する現象名へ、格好よさは必要ありません」
「`不定墜道`って名づけた研究室の人間が言うか?」
「あれは天城先輩の命名です」
隣の机では、獅堂剛毅が大きな身体を窮屈そうに椅子へ押し込んでいた。
先ほどから一言も発さず、端末を睨み続けている。
「獅堂」
「話しかけるな」
「どこまで書けた?」
「題名だ」
「一時間かけて?」
「重要だろうが」
獅堂の画面を覗き込む。
そこには、
『支えることと位置決定権の関係について――第四種命題と第五種命題の公開査問を通じた実践的検討』
と表示されていた。
「普通だな」
「論文だぞ」
「もっと王とか礎とか入れないのか」
「ふざけるな。査読で落とされる」
「意外と真面目だな」
「意外は余計だ」
獅堂は題名の画面を閉じ、別の文書を開いた。
「それより、なぜ俺が方法の章まで担当することになっている」
「演習環境の大半を、あなたが作ったからです」
澄玲が答える。
「黒瀬零は?」
「現象記録と考察です」
「俺より多いじゃねえか」
「黒瀬零は世界を消しましたから」
「俺が好きで消したみたいに言うな」
図書館の奥から、自動音声が流れた。
『静粛に』
俺と獅堂は同時に口を閉じる。
数秒待ってから、獅堂が声を落とした。
「これを、いつまで続ける」
「昼までは共同作業です」
澄玲が答える。
「午後は《未定義現象研究室》で、昨日の現象を検証します」
「その後は?」
「学生支援課で、黒瀬零の死亡記録を訂正します」
「まだ終わってなかったのか」
「必要書類が一枚足りないと言われた」
「何の書類だ」
「本人が現在生存していることを、所属教員が証明する書類」
「本人が窓口へ行っているのに?」
「規則らしい」
獅堂が鼻で笑った。
「世界より、大学事務の方が強いんじゃねえか」
「俺もそう思う」
その時だった。
胸ポケットの中で、何かが震えた。
黒瀬灯の学生証。
取り出す。
表面は黒いままだったが、裏面へ新しい文章が浮かび上がっていた。
――《第二証明》完了者へ通知。
――本日二十三時五十九分。
――《第零学部》入構試験を実施する。
「今日?」
思わず立ち上がる。
図書館の自動音声が即座に反応した。
『静粛に』
「すみません」
小声で謝りながら、学生証を澄玲へ見せる。
「入構試験……」
澄玲の目が細くなる。
「《第二証明》は、《第零学部》へ入るための資格審査だったのでしょうか」
「入構するだけで、さらに試験があるのか」
「存在しない学部です。通常の学生証認証だけで入れる方が不自然です」
「存在しない時点で、全部不自然だろ」
獅堂も俺たちの手元を覗き込んだ。
「何だ」
「《第零学部》から呼び出しが来た」
「俺も行く」
「関係ないだろ」
「共同証明者だ」
灯の学生証が、一度だけ赤く光る。
新しい一文が表示された。
――入構可能者、一名。
「一人だけらしい」
「気に入らねえ」
「試験に文句を言うな」
「昨日は俺の力も使って合格しただろうが」
「俺に言われても困る」
さらに文字が追加される。
――同行者の存在を否定しない。
――ただし、入構者として認めない。
「どういう意味だ?」
獅堂が尋ねる。
「一緒に来ることは否定しない。でも、中へ入れるとは限らない?」
「それでは、同行者へ何が起きるか不明です」
澄玲が学生証を観察する。
「黒瀬零。一人で行くべきではありません」
「でも、一人しか認めないと書いてある」
「認められる必要はありません」
「何?」
「私たちは、《第零学部》の学生になるために同行するのではありません」
澄玲は、いつもの落ち着いた声で言った。
「黒瀬零を、ここへ帰還させるために同行します」
その言葉に、少しだけ胸が軽くなった。
獅堂も腕を組む。
「決まりだな」
「教授たちにも知らせる」
「当然です」
灯の学生証は、最後に一文だけ表示した。
――入構試験課題。
――存在しない場所へ、存在したまま到達せよ。
◇
午後一時。
《未定義現象研究室》。
神代緋月は、学生証に表示された文章を最後まで読むと、すぐに研究室の出入口を封鎖した。
「情報を外部へ出さないためですか」
澄玲が尋ねる。
「違う」
緋月は壁へ複数の赤い文字を走らせる。
「ここから先の会話を、外側の観測者に聞かせないためだ」
「黒い月は壊れたんじゃないのか」
「破壊したのは端末の一つにすぎない」
黒い月。
世界の外側、そのさらに奥に存在する何者かが、世界内部を観測するために使用していた端末。
現時点で、俺たちは外側の観測者について、ほとんど何も知らない。
ただ。
世界の外側から、一つの正解を押しつけようとする何者かがいる。
それだけは分かっている。
「《第零学部》について、知っていることを教えてください」
俺は緋月を見る。
「今夜行くことになったなら、もう隠す理由はないはずです」
緋月はすぐには答えなかった。
右目を覆う眼帯へ触れる。
十三枚の翼を持つ紋章。
《第零学部》に関係する黒衣の人物と、同じ印。
「私は、《第零学部》の卒業生だ」
研究室が静まり返った。
「神代先生が?」
「正確には、卒業したという記録と、中退したという記録と、最初から在籍していなかったという記録が同時に残っている」
「相変わらず分かりにくいな」
「《第零学部》では、それが普通だった」
緋月が空中へ、古い大学案内図を表示する。
現在の帝都神律大学。
十二の主要学部。
中央研究棟。
《第一宇宙観測環》。
しかし。
三年前の日付が付された地図には、現在の本部棟が存在する大学中央部へ、黒く塗り潰された空白があった。
「《第零学部》は、特定の建物に存在していたわけではない」
「《未定義現象研究室》のように、人物や現象との関係によって場所が定まるのですか」
「それよりも不安定だ」
緋月は、地図上の空白を指した。
「《第零学部》は、帝都神律大学が研究していないものを研究するための学部だった」
「学部であるなら、大学の研究分野へ含まれるのではないですか」
獅堂が言う。
「本来ならな」
緋月が答えた。
「しかし、既存の学部として定義された瞬間、その研究対象は“帝都神律大学が研究しているもの”になる」
「存在することで、研究対象を失うのですか」
「そうだ」
だから、第零。
最初の学部ではない。
十二学部の前に設置された学部でもない。
既存分類へ含められた瞬間に、その性質を失う。
どの学部にも属さず。
大学がまだ問題として認識していないものを扱うための学部。
「存在しないことが、存在条件……」
澄玲が呟く。
「矛盾しています」
「だから維持が難しかった」
緋月の赤い文字が、空中へ一つの扉を形作る。
「入構条件は時期によって異なった。通常の座標移動では到達できない。入ろうとした時点で、《第零学部》を“存在する場所”として定義してしまうからだ」
「存在しない場所へ、存在したまま到達せよ」
学生証に表示された課題。
「どうやって入る」
「私が在籍していた頃も、入構者ごとに異なる解を要求された」
「神代先生の場合は?」
緋月が沈黙する。
「忘れたのですか」
「思い出せない」
眼帯の隙間から、赤い文字が僅かに漏れ出した。
「三年前の事件で、私は《第零学部》に関する記憶の大半を失った」
「灯と一緒にいた?」
「分からない」
「でも、灯の名前が消えたことは知っていた」
「記録上の欠落としてだけだ」
緋月は俺を見る。
「黒瀬灯という学生を知っていた痕跡が、私の記録には残っていた。しかし私は、彼女の顔も声も思い出せない」
「今まで黙っていたのは」
「確証がなかったからだ」
「それだけですか」
澄玲が尋ねる。
緋月の表情が固くなる。
「もう一つある」
空中へ、三年前の医療記録が表示された。
神代緋月。
右眼球欠損。
記憶領域損傷。
法則汚染。
そして。
原因欄。
――黒瀬零による攻撃。
「俺……?」
自分の名前を見ても、すぐには意味を理解できなかった。
「三年前、俺は高校生です」
「分かっている」
「神代先生と会った記憶もない」
「私にも、黒瀬零と会った記憶はない」
「なら、この記録は何ですか」
「それを確かめるためにも、《第零学部》へ行く必要がある」
俺が。
神代緋月の右目を奪った。
そんな過去を、俺は知らない。
記憶にもない。
灯が消えた日。
俺は家にいた。
確かにそう記憶している。
だが。
世界から黒瀬灯の記録を消せるのなら。
俺自身の記憶だけが正しいという保証は、どこにある。
「黒瀬零」
澄玲が俺を呼ぶ。
「今は、その記録を事実として確定しないでください」
「分かってる」
「同時に、偽の記録として否定もしないでください」
「……分かってる」
`未証明`。
外部から押しつけられた結論を疑い、保留する能力。
それなのに。
自分にとって都合の悪い記録を目にした瞬間、俺は反射的に否定しようとした。
「可能性として保持する」
口に出して確認する。
「三年前、俺が神代先生を攻撃した可能性もある」
「ああ」
「でも、まだ結論じゃない」
緋月が僅かに頷いた。
「それでいい」
◇
午後四時。
入構試験へ向けた準備が始まった。
天城先輩が、四つの小型観測端末を机へ並べる。
「《第零学部》へ入れば、外部との通信が途切れる可能性が高い」
「通信機を持っていっても無意味ですか」
澄玲が尋ねる。
「通常の通信であればね。これは、位置情報を送信するための装置ではない」
「何を観測するんですか」
「君たちが、まだ君たちであるかどうか」
天城先輩は端末の一つを、俺の胸元へ取りつけた。
表示された項目。
氏名。
記憶。
目的。
他者との関係。
「場所そのものが存在しないなら、座標は測定できない」
天城先輩が説明する。
「でも、黒瀬零が九条澄玲を知っている。九条澄玲が獅堂剛毅を認識している。そうした関係は、観測できる可能性がある」
「互いを、座標の代わりにする?」
「近い考え方だ」
《未定義現象研究室》も、固定された座標ではなく、人物や現象との関係によって出入口が成立する。
《第零学部》が、それ以上に不安定な場所であるなら。
自分が自分であることを保つには、誰かとの関係が必要になる。
「端末の表示が赤くなった場合は」
「どうなる」
「本人の自己認識と、他者からの観測結果が一致していない」
「具体的には?」
「自分を黒瀬零だと思っている何かが、既に黒瀬零ではなくなっている可能性がある」
「怖い説明を平然とするな」
「その場合、本人の判断だけで行動しないでください」
澄玲が言う。
「私たちが確認します」
「逆に、九条が変わっていたら?」
「黒瀬零が確認してください」
「獅堂は」
「俺は変わらねえ」
「根拠は?」
「俺だからだ」
「一番危ない答えだな」
天城先輩は獅堂にも端末を取りつけた。
「自信と同一性は別です」
「分かってる」
「本当に?」
「先輩まで九条みたいなことを言うな」
緋月は最後に、一枚の紙を俺へ差し出した。
「何ですか」
「遺書だ」
「書きません」
「入構前の意思確認書だ」
「最初に遺書って言っただろ」
「内容は似ている」
書類には、複数の欄があった。
記憶を失った場合。
人格が変化した場合。
複数の自分が現れた場合。
帰還した者が本人かどうか判定できない場合。
それぞれについて、どう扱ってほしいかを書く。
「大学の入構試験で書く内容じゃない」
「《第零学部》は、通常の大学の学部ではない」
「さっきは学部だったと言っていたじゃないですか」
「記録上はな」
「もう嫌になってきた」
それでも、俺は書いた。
記憶を失った場合。
――黒瀬灯を探していることを教えてほしい。
人格が変化した場合。
――現在の俺自身が、何を選ぶかを確認してほしい。
複数の俺が現れた場合。
――どちらが本物かを、世界の記録だけで決めないでほしい。
帰還した者が本人か判定できない場合。
最後の欄で、手が止まった。
「何と書けばいい」
「黒瀬零が決めてください」
澄玲は答えを示さない。
俺はしばらく考えてから、最後の欄へ記入した。
――黒瀬零であると主張する者へ、黒瀬灯のことを尋ねる。
――答えの内容ではなく、その答えを本人が自分で選んだかを確かめること。
緋月が書類を受け取る。
「受理する」
「縁起でもない書類だ」
「帰還すれば破棄できる」
「絶対に帰ります」
「その結論を証明してきなさい」
◇
二十三時五十分。
俺たちは、帝都神律大学の中央広場にいた。
昨日まで、《第七公開査問庭》が展開されていた場所。
現在は修復作業も終わり、地面へ僅かな亀裂だけが残されている。
周囲は立入禁止。
緋月が許可を取り、監視員も遠ざけていた。
「入構地点は、本当にここで合っているのか」
獅堂が尋ねる。
「学生証は、場所を指定していない」
俺は答える。
「時刻だけだ」
「それなら、どこにいてもよい可能性があります」
澄玲が周囲を観察する。
「《第零学部》は固定座標を持たない」
「でも、灯はここで“次は第零学部で待っている”と言った」
《公開査問》が終わった後。
誰もいない査問庭へ、灯が現れた。
その場所は、今俺たちが立つ中央広場と重なっている。
二十三時五十八分。
灯の学生証が光った。
――入構試験を開始する。
――課題を再提示。
――存在しない場所へ、存在したまま到達せよ。
「何をすればいい」
学生証は答えない。
時計が、二十三時五十九分を示す。
大学本部棟の時計塔が鳴った。
一回。
二回。
十二回。
日付が変わる。
その瞬間。
中央広場から、全ての音が消えた。
「始まった」
俺自身の声は聞こえる。
だが。
遠くを走る車。
風。
機械。
帝都神律大学の生活音が、一つもない。
周囲を見渡す。
建物は残っている。
しかし、窓の明かりが一つも点いていなかった。
「生命反応は?」
澄玲が観測端末を見る。
「四件だけです」
「神代先生たちが消えた?」
「違います」
澄玲は後方を指した。
緋月と天城先輩が立っていた場所。
そこには誰もいない。
ただし、二人が設置していた観測装置だけは残されている。
「私たちの方が、通常の帝都神律大学から外れた可能性が高いです」
獅堂が両足で地面を踏み締める。
自らの立つ場所を礎として定めようとする。
足裏から金色の線が生じた。
しかし、広がらない。
「`万象は我が礎`が成立しない」
「地面に立っているのに?」
「俺を支えている感覚がない」
俺も足元を見る。
確かに地面の形をしている。
硬く、触れることもできる。
それなのに。
そこへ立っているという実感だけが、異様に薄い。
「これは、地面の外見だけを持つものです」
澄玲がしゃがみ込む。
「現在の私たちの位置を定義していません」
「地面じゃないのか?」
「背景に近いものだと思われます」
帝都神律大学の形をしている。
しかし。
本物の大学ではない。
人も。
時間も。
因果も。
俺たちとの対応を失っている。
灯の学生証に文字が浮かんだ。
――現在地。
――帝都神律大学ではない。
次の瞬間。
大学本部棟の正面へ、巨大な黒い扉が現れた。
高さは三十メートル。
表面には、十三枚の翼。
途切れた円環。
そして。
無数の名前が刻まれている。
ほとんどは読むことができない。
だが、その中に。
神代緋月。
黒瀬灯。
久世真道。
俺たちが知る名前があった。
「久世教授も?」
俺が呟く。
「《第零学部》との関係については聞いていません」
澄玲が扉へ近づこうとする。
しかし。
何歩進んでも、扉との距離が縮まらない。
「座標移動では到達できない」
「存在しない場所へ向かう試験だからか」
俺も歩く。
同じだった。
扉は目の前に見えるのに、近づくことができない。
獅堂が岩を拾い、扉へ向かって投げる。
岩は扉へ向かって飛び、途中で消失した。
「破壊は無理だな」
「最初から壊すな」
「確認しただけだ」
学生証が光る。
――入構条件を提示。
――《第零学部》は存在しない。
――ゆえに、《第零学部》へ到達する者も存在してはならない。
「俺たちを消せってことか?」
「しかし課題は、存在したまま到達することです」
澄玲が言う。
存在すれば、入ることができない。
存在しなければ、到達した本人がいない。
矛盾している。
「問題として定義できますか」
俺が尋ねる。
澄玲の瞳に、白い数式が走った。
「試みます」
彼女は黒い扉を見据える。
「問題――存在する黒瀬零が、存在しない《第零学部》へ到達するための経路」
白い線が現れた。
俺の足元から、扉へ向かって伸びていく。
しかし。
途中で途切れた。
「解なし?」
「違います」
澄玲の額へ汗が浮かぶ。
「問題そのものが矛盾しています。存在する者と、存在しない場所との間に、共通の関係を定義できません」
「関係が成立しないから、経路も作れない」
「はい」
獅堂が腕を組んだ。
「なら、関係を作ればいい」
「どうやって」
「黒瀬灯は、中にいるんだろ」
「そのはずだ」
「なら、お前と妹の関係がある」
俺と灯。
兄と妹。
俺は灯を覚えている。
灯は俺を待っている。
世界の記録から、灯が消されていても。
その関係だけは。
俺の中に残っている。
「《第零学部》そのものとの関係じゃない」
俺は言った。
「中にいる灯との関係を使う」
「成立する可能性があります」
澄玲が問題を定義し直す。
「問題――黒瀬灯との関係を維持したまま、彼女が存在する領域へ到達する経路」
再び白い線が現れる。
今度は、黒い扉まで途切れずに伸びた。
「解が成立しました」
ただし。
白い線は一本ではない。
三本。
俺。
澄玲。
獅堂。
それぞれの足元から、異なる経路が伸びていた。
「俺たち全員に、灯との関係があるのか?」
「直接的な関係ではありません」
澄玲が白線を解析する。
「私と獅堂剛毅は、黒瀬零との関係を介して、黒瀬灯へ接続されています」
俺が灯を覚えている。
澄玲と獅堂が、俺を知っている。
関係が連なっている。
「なら、行ける」
俺は白い線へ足を乗せた。
しかし。
足がすり抜ける。
「経路自体は存在しています」
澄玲が言う。
「ただし、移動条件が不足しています」
学生証に、新しい文章が表示された。
――存在する者は、存在する場所にしか立てない。
――存在しない場所へ進むには、自己の存在根拠を手放せ。
「存在根拠……」
名前。
記録。
身体。
記憶。
所属。
他者との関係。
自分が自分であると示すもの。
「全てを手放したら、“存在したまま”ではなくなる」
獅堂が言う。
「一部だけではどうでしょうか」
澄玲が分析を続ける。
「《第零学部》へ入るために不要な存在根拠を手放し、必要なものだけを残す」
「何が必要で、何が不要なんだ」
俺は自分の胸へ手を当てた。
黒瀬零。
帝都神律大学の一年生。
法則災害学群。
灯の兄。
`未証明`の使い手。
《公開査問》の勝者。
一度、死亡したと記録された人間。
俺を定義する言葉はいくつもある。
その中で。
俺が《第零学部》へ行く理由は、一つしかない。
「灯の兄であること」
それだけは必要だ。
それ以外は。
今だけなら、手放せる。
「どうやって手放す」
獅堂が尋ねる。
俺は学生証を握った。
「世界に、俺を定義させない」
「危険です」
澄玲がすぐに反応した。
「黒瀬零の存在情報を保留するつもりですか」
「全部じゃない」
「制御できる保証がありません」
「でも、これしかない」
俺は黒い扉を見る。
「《第零学部》へ入る間だけ、帝都神律大学の学生でも、能力者でも、この世界の住人でもないことにする」
「存在そのものの否定に近い行為です」
「否定しない」
`未証明`は、結論を消す能力ではない。
どの結論を、自分へ適用するのか。
その確定を保留する。
「黒瀬零が何者なのかという判定を止める」
「その間、黒瀬零は何を根拠として存在するのですか」
「灯との関係だ」
世界の記録ではない。
大学の所属でもない。
能力名でもない。
俺自身が選んだ。
妹を探す兄であるという答え。
「それだけを残す」
澄玲は黙った。
獅堂も、すぐには言葉を返さない。
やがて。
澄玲が口を開いた。
「私たちも必要です」
「二人は、入構者として認められていない」
「だからこそです」
澄玲は、小型観測端末を俺の腕へ固定する。
「黒瀬零が自分を見失った場合、私たちが黒瀬零との関係を保持します」
獅堂が俺の肩を叩く。
「灯の兄だけじゃない。お前は、俺の対戦相手でもある」
「今は手放すと言ってるだろ」
「お前が勝手に手放しても、俺は覚えている」
俺は二人を見る。
支えられながら。
自分で選ぶ。
《公開査問》で、俺たちが出した答え。
もう次の試験で、その意味を問われている。
「分かった」
俺は扉へ向き直る。
「行くぞ」
右手に、途切れた円環が浮かび上がる。
「黒瀬零は、帝都神律大学の学生である」
外部から俺へ与えられている、その結論を。
「保留する」
学生証の所属欄が消えた。
「黒瀬零は、この世界に記録された人間である」
「その結論を、保留する」
戸籍情報が消える。
「黒瀬零は、生者である」
「それまで止めるのですか」
澄玲の声が強くなる。
「死者になるわけじゃない」
生者でも。
死者でもない。
どちらの判定も、今は採用しない。
胸の鼓動が、遠くなった。
「黒瀬零は、ここに存在する」
最後の結論。
右手が震える。
これを保留すれば。
俺は、本当に消えるかもしれない。
それでも。
残すものがある。
「俺は、灯の兄だ」
誰が否定しても。
世界から記録が消えても。
俺自身が選び続けてきた関係。
「それだけは、保留しない」
途切れた円環が広がる。
「`未証明`」
世界から。
黒瀬零という人間の輪郭が消えた。
◇
九条澄玲の目の前から、零が消えた。
透明になったわけではない。
姿は見えている。
そこに立っていることも分かる。
しかし。
目の前の少年を、黒瀬零として認識できなかった。
名前を思い出せない。
顔を見ても、誰なのか分からない。
「あなたは……」
澄玲の声が震えた。
腕へ装着された観測端末を見る。
――氏名、未定義。
――所属、未定義。
――生存状態、未定義。
――関係情報。
――九条澄玲の共同研究者。
それだけが残されている。
「共同研究者……」
澄玲は、その言葉を口にした。
目の前の少年が、誰なのかは分からない。
それでも。
自分と共に研究していた。
何度も無茶をした。
自動販売機で飲料を受け取れず。
空から落ち。
世界を一つの世界ではなくし。
正論を嫌がりながらも、最後には自分で答えを選んだ。
「黒瀬零」
名前が戻ってくる。
完全ではない。
それでも。
関係を通じて。
澄玲は、目の前の少年を認識した。
「あなたは、黒瀬零です」
「聞こえてる」
零が答える。
その声も、どこか遠い。
獅堂も、零の肩へ置いた手に力を込めた。
「俺に勝った相手が、勝手にいなくなるな」
「一回しか勝ってない」
「一回でも同じだ」
白い経路が、次第に実体を持ち始める。
零が足を乗せる。
今度は、すり抜けない。
一歩。
存在しない場所へ進む。
黒い扉との距離が、初めて縮まった。
「成功です」
澄玲も白い線へ足を乗せる。
しかし。
足場が彼女を拒絶した。
白い線が消える。
「九条!」
「問題ありません」
澄玲は即座に、新しい問題を定義する。
「問題――黒瀬零との関係を維持したまま、入構者として承認されずに同行するための経路」
新しい白い線が、零の後方へ伸びる。
扉までは届かない。
しかし、零との関係が途切れない位置までは続いている。
「私は、あなたと同じ場所へ入るのではありません」
澄玲が言う。
「黒瀬零との関係が途切れない位置へ進みます」
獅堂は、両足で現在の足場を踏み締めた。
地面の形を持つだけの背景へ、自分の立つ場所を定めようとする。
黄金の王土は広がらない。
「ここを礎にできないなら」
獅堂は零の背中を見る。
「黒瀬。お前が選んだ場所を、俺の礎として支える」
「俺の上に立つなよ」
「比喩だ!」
獅堂の足元から生じた金色の線が、零との関係へ接続する。
昨日までなら。
相手の位置を、自分の王土へ固定するための線だった。
今は違う。
零が自分で選んだ方向へ進むための力を、後方から支える。
「行け」
黄金の光が、零の背中を押した。
零は振り返らない。
一歩。
さらに一歩。
黒い扉へ近づいていく。
距離。
十メートル。
五メートル。
一メートル。
そして。
扉の前へ到達した。
十三枚の翼が開く。
途切れた円環が回転する。
扉に刻まれていた無数の名前が、一斉に赤く光った。
――入構者を確認。
――氏名、未定義。
――所属、未定義。
――存在状態、未定義。
――関係情報。
――黒瀬灯の兄。
黒い扉が、ゆっくりと開く。
その先には。
大学があった。
ただし。
帝都神律大学ではない。
無数の校舎が、上下も左右もなく浮かんでいる。
廊下が星空を貫き。
講義室の扉が、宇宙へ開き。
巨大な黒板には、世界そのものを表しているとしか思えない数式が書かれていた。
遠方。
中心と思われる場所に、一つの講義棟がある。
その屋上に。
一人の少女が立っていた。
黒瀬灯。
「灯!」
零が叫ぶ。
少女が振り返る。
確かに、妹の顔だった。
零の記憶に残る姿と同じ。
灯は、泣きそうな笑顔を浮かべた。
「来てくれたんだね、お兄ちゃん」
零が一歩、踏み出す。
その瞬間。
灯の背後へ、もう一人の黒瀬零が現れた。
年齢も。
顔も。
服装も同じ。
ただし。
右目には、神代緋月の眼帯の下と同じ、赤い文字列が回転している。
もう一人の零は、灯の首へ刃を当てていた。
「止まれ」
もう一人の零が告げる。
「それ以上近づけば、黒瀬灯を殺す」
「お前は誰だ」
零の問いに。
もう一人の黒瀬零は、静かに答えた。
「三年前」
赤い右目が輝く。
「神代緋月の眼を奪い、黒瀬灯を世界から消した――」
刃が。
灯の首へ食い込む。
「本物の黒瀬零だ」




