第十話 世界は誰の足元にもない
地球が、空へ落下を始めた。
それは比喩ではなかった。
闘技場の床が沈み。
大学本部棟が軋み。
中央広場に立つ学生たちの身体が、一斉に空へ引かれる。
「うわああああっ!」
「防壁を展開しろ!」
「飛行系の命題を持つ者は周囲を支援!」
観客席が混乱に包まれる。
座席から投げ出された学生たちを、教員が空中で受け止める。
ある者は風を壁に変え。
ある者は重力を反転させ。
ある者は、宙へ無数の鎖を張り巡らせた。
だが。
そのすべてが、次の瞬間には黄金へ染まっていく。
「駄目だ!」
観客席の学生が叫ぶ。
「能力で作った足場まで、獅堂の支配下に入ってる!」
人間を支えるもの。
落下を防ぐもの。
位置を固定するもの。
それらはすべて、獅堂剛毅にとっての「地面」だった。
「俺を支えるものは、俺の礎だ」
獅堂の声が、世界全体から響く。
「礎の上にあるものは、俺が支える」
大気が黄金へ変わる。
「支える以上、俺が位置を決める」
重力が黄金へ変わる。
「誰も落とさない」
空間そのものに、金色の亀裂が走る。
「何一つ、俺の手から失わせない!」
獅堂の万象は我が礎が。
闘技場を越え。
大学都市を越え。
世界を支える法則へ接続していく。
だが。
「獅堂!」
俺は叫んだ。
「それは、お前の力じゃない!」
「何?」
「お前の命題が、黒い月に利用されてる!」
獅堂の黄金の中へ。
黒い筋が混じり始めている。
足元から。
両脚。
胴体。
首。
まるで、黒い月から伸びた糸に操られているように。
「ふざけるな……!」
獅堂が右腕を振るう。
空を覆う岩盤が動き。
黒い月へ叩きつけられる。
だが岩盤は、月へ届く前に消えた。
破壊されたのではない。
初めから存在しなかったことにされたように。
『下位世界による観測者への干渉を確認』
黒い月から、声が降る。
『観測経路の固定を開始』
黒い眼が。
獅堂を見つめる。
『基準点を、獅堂剛毅へ設定』
「基準点?」
澄玲が観客席で端末を操作する。
「黒瀬零! 獅堂剛毅から離れてください!」
「どういうことだ!」
「彼の位置が、世界全体の原点へ変更されています!」
空中に数式が浮かぶ。
獅堂の位置。
その一点を中心として。
大地。
大気。
大学都市。
空間。
すべての座標が再計算されている。
「世界のすべてが、獅堂を基準に配置される」
澄玲の顔から血の気が引く。
「もし完了すれば、獅堂剛毅が動くだけで世界全体の位置が変動します」
「俺が世界の中心になる?」
獅堂が呟く。
『訂正』
黒い月が答えた。
『あなたは中心ではない』
黄金を侵食する黒が、さらに広がる。
『観測対象を固定するための杭である』
獅堂の表情が変わる。
「杭だと?」
『世界は不安定である』
黒い月の眼が開かれる。
『複数の光速度』
『複数の時間方向』
『複数の因果関係』
『複数の歴史』
『対象世界は、自らが単一の世界であることを証明できていない』
闘技場の空に。
無数の景色が重なる。
海に沈んだ帝都神律大学。
空中に浮かぶ大学都市。
廃墟となった中央広場。
人類が存在しない地球。
俺が獅堂に敗れた世界。
獅堂が入学前に死亡した世界。
それらが。
一枚の映像へ無理やり押し込められていく。
『ゆえに、基準点を設定する』
『すべての可能性を、一つの座標へ収束させる』
『獅堂剛毅』
『あなたは世界を支える礎となれ』
「ふざけるな!」
獅堂が吼える。
「誰が、お前の杭になるか!」
両足を踏みしめる。
黄金の線が黒を押し返す。
だが。
そのたびに、獅堂の皮膚が裂けた。
肩。
腕。
頬。
全身から血が噴き出す。
「獅堂、止めろ!」
「止めたら落ちる!」
「何が!」
「全部だ!」
獅堂の声に。
初めて、恐怖が混じった。
「今、俺が手を放したら!」
観客席。
大学。
大地。
世界。
「全部が、別々の方向へ落ちる!」
六年前。
獅堂の故郷で起きた《逆位地殻災害》。
大地が複数の下へ引き裂かれ。
父親を含む多くの人間が、別々の空へ落ちていった。
今。
同じ光景が。
世界規模で再現されようとしている。
「だから俺が支える!」
獅堂の足元に。
巨大な黄金の王座が現れる。
「俺が全部の位置を決めれば!」
王座は、空へ向かって伸びていく。
「誰も落ちずに済む!」
獅堂の背中に。
無数の金色の鎖が接続される。
その先には。
建物。
人間。
山。
海。
大気。
星。
世界を構成する、あらゆるもの。
獅堂は。
本当に一人で世界を支えようとしていた。
「馬鹿野郎……」
俺は拳を握る。
「そんなもの、一人で支えられるわけないだろ!」
「俺が支えなきゃ、誰が支える!」
「そこにいる全員だ!」
「何?」
「俺たちは物じゃない!」
俺の声が、闘技場へ響く。
「お前に置き場所を決めてもらわなきゃ、存在できない荷物じゃない!」
「自由にさせれば落ちる!」
「落ちないために手を借りることと!」
空中を覆う黄金の地盤へ手を触れる。
「どこへ行くかまで、お前に渡すことは違う!」
「同じだ!」
「違う!」
獅堂が世界を支えている。
それは事実だ。
今、あいつが力を解除すれば。
大学都市だけでなく。
世界を構成する座標そのものが、無数の可能性へ分裂する。
だが。
だからといって。
獅堂一人が、全員の位置を決める必要はない。
「九条!」
俺は観客席へ向かって叫ぶ。
「この状況を問題として定義できるか!」
澄玲がこちらを見る。
「現在、私は査問の外部観測者です!」
「答えを教えろとは言ってない!」
俺は言う。
「選べる道があるか、それだけ示してくれ!」
澄玲の瞳に。
白い数式が流れ始める。
「問題を定義します」
彼女が両手を広げる。
「獅堂剛毅一名へ集中した世界座標の決定権を、世界を崩壊させずに分散する方法」
白い光が。
観客席から闘技場へ広がる。
「私の命題は――世界は解を持つ!」
闘技場の空に。
一本の白い線が現れた。
だが。
その線は、すぐに途切れる。
「解が成立しない?」
澄玲が目を見開く。
「条件が不足しています!」
「何が足りない!」
「世界を構成する各存在が、自らの位置を選択すること!」
獅堂が叫ぶ。
「そんなことができるか!」
「できる!」
俺は即答した。
「ここは《公開査問》だ!」
闘技場にいる全員が。
俺と獅堂の議論を観測している。
どちらの命題が正しいか。
どちらの結論を採用するか。
その判断を行うために。
「《公開査問》は、審査官だけが答えを決める制度じゃない!」
俺は審査席を見る。
久世教授が。
僅かに笑った。
『続けなさい、黒瀬君』
「観測者は、ただ見てるだけじゃない!」
講義で習った。
命題は。
思想を世界法則として発現させる。
ならば。
この場にいる数万人が。
自分の立つ場所を選べると考え。
その選択を行動で示したなら。
それ自体が。
一つの巨大な論証になる。
「全員に聞く!」
俺は叫んだ。
「獅堂に、自分の位置を決めてほしい奴はいるか!」
観客席が静まり返る。
「獅堂が間違ってると言ってるんじゃない!」
俺は続ける。
「今、あいつは俺たち全員を支えてる!」
それは認める。
獅堂の力がなければ。
俺たちは既に、複数の世界へ引き裂かれている。
「だから選べ!」
俺は観客席を見渡す。
「支えられたまま、獅堂が決めた場所へ残るか!」
右手の円環が光る。
「それとも!」
自分の胸を叩く。
「支えてもらった力を使って、自分の場所を自分で選ぶか!」
最初に動いたのは。
一人の女子学生だった。
風を操る命題を持つ学生。
彼女は獅堂の黄金に固定された座席から立ち上がり。
自ら風を生み出した。
「私は、自分で立つ!」
獅堂の力を拒絶したのではない。
黄金の地面を踏み台にして。
自分の風へ移った。
続いて。
岩を操る男子学生。
「俺もだ!」
獅堂の地盤から一つの岩を切り離し。
自ら選んだ位置へ浮かべる。
「ここに立つ!」
別の学生。
別の教員。
別の研究者。
次々と。
黄金の地面から力を受け取りながら。
その先の位置を、自分で選び始める。
「私の命題で、落下方向を固定する!」
「負傷者はこちらへ!」
「防壁の第三層を独立させろ!」
「観客席ごとに座標を分ける!」
数万人の命題が。
一斉に発動した。
炎。
風。
氷。
光。
影。
重力。
時間。
それぞれの思想が。
それぞれの場所を作っていく。
世界を支えていた一本の黄金の鎖が。
枝分かれする。
一人。
十人。
百人。
千人。
無数の選択へ。
「馬鹿な……」
獅堂が呟く。
「俺の支配が、分散していく」
「違う」
俺は答える。
「お前の支えが、届いてるんだ」
「何?」
「誰も、お前の力を否定してない」
獅堂の地面を使い。
そこから。
自分の選んだ位置へ移っている。
「お前が支えたから、あいつらは選べた」
獅堂の目が揺れる。
「でも、行き先までお前が決める必要はない」
「それでは……」
獅堂の声が震える。
「それでは、俺は何のために立っている」
「支えるためだろ」
「同じだ!」
「違う!」
俺は黄金の地面を蹴る。
空へ。
獅堂へ向かって落下する。
「地面は、その上に何を建てるかまで決めない!」
獅堂の前へ。
「礎は!」
拳を握る。
「可能性を支えるものだ!」
獅堂が拳を振るう。
黄金の鎧。
大地の質量。
世界を支える力。
そのすべてが込められた一撃。
俺も右拳を前へ出す。
出力では勝てない。
正面から衝突すれば。
俺の腕が砕ける。
だから。
「未証明!」
二つの拳が衝突する結論を保留。
音が止まる。
俺と獅堂の拳が。
互いの寸前で静止する。
「また止めるだけか!」
「違う」
俺は左手を伸ばす。
獅堂の拳を掴む。
「お前の力を借りる」
「俺の拳で、俺を倒す気か!」
「それだけじゃない!」
獅堂の拳に込められた力。
世界を支える力。
誰も落としたくないという願い。
それを。
ただ反作用として利用するのではない。
「獅堂」
「何だ!」
「俺を支えろ」
「今さら、何を――」
「俺は、お前の力が必要だ!」
獅堂の目が見開かれる。
「お前が支えてくれなきゃ、ここには届かなかった!」
澄玲の解。
緋月の校正。
天城先輩の観測。
観客たちの選択。
そして。
獅堂の地面。
全部があったから。
俺はここへ来た。
「だから認める!」
俺は叫ぶ。
「俺は、お前に支えられている!」
「なら!」
「でも!」
獅堂の拳を。
俺自身が選んだ方向へ押す。
「この先は俺が選ぶ!」
獅堂の力を。
俺の前進へ変える。
支配されるのではない。
拒絶するのでもない。
支えられた上で。
自分の結論を選ぶ。
「疑うだけじゃ、前には進めない」
短い言葉が。
自然に胸から溢れた。
「支えられることを恐れず、それでも答えを手放さない」
右手の円環が。
無数の途切れを残したまま。
星の軌道のように回転する。
「俺は、俺の選んだ場所へ行く!」
未証明を終了。
獅堂の拳に込められていた力が。
俺の身体へ流れ込む。
骨が軋む。
皮膚が裂ける。
それでも。
すべての力を、前へ。
獅堂へ向かう一撃へ変える。
「これが!」
俺の拳が。
獅堂の黄金鎧を砕く。
「俺の反証だ!」
拳が、獅堂の胸へ届いた。
衝撃。
黄金の王座が崩壊する。
獅堂の身体が。
戦闘区域の外へ向かって吹き飛ぶ。
だが。
俺も反作用で逆方向へ飛ばされた。
下には、戦闘区域の床。
触れれば。
特殊条件に違反する。
俺は空中で身体を回転させる。
近くに地面はない。
岩も。
壁も。
利用できる物体もない。
それでも。
獅堂がいる。
戦闘区域外へ飛ばされながら。
あいつは右手を伸ばした。
「黒瀬!」
獅堂の手のひらに。
最後の黄金の地面が生まれる。
俺の背後。
俺が蹴れば。
床へ落ちずに済む位置。
だが。
その地面を作れば。
獅堂は俺を助けることになる。
査問で敗北しながら。
対戦相手を支える。
獅堂は一瞬。
迷った。
黒衣の人物の言葉。
――黒瀬零を支えよ。
――ただし、彼が望む場所へ立たせてはならない。
――黒瀬零の死を阻止した場合、第二証明は失敗する。
獅堂は。
それらすべてを振り払うように吼えた。
「行き先はお前が決めろ!」
黄金の地面が完成する。
「だが!」
獅堂が笑う。
「二度と落とさねえ!」
俺は。
その地面を蹴った。
獅堂が作り。
俺が使い方を選んだ地面。
身体が上方へ跳ねる。
床へ触れない。
獅堂の身体だけが。
戦闘区域の外へ落ちていく。
透明な防壁が。
あいつを受け止めた。
警告音。
そして。
『獅堂剛毅選手、戦闘区域外へ到達!』
闘技場全体へ。
判定音が響く。
『戦闘上の勝者――黒瀬零!』
歓声が爆発した。
◇
だが。
世界の落下は止まっていない。
「まだだ!」
澄玲が叫ぶ。
「獅堂剛毅の支配権は分散していますが、黒い月との接続が残っています!」
空を見る。
黒い月。
巨大な眼。
獅堂を杭として利用できなくなった今。
観測者は。
別の方法で世界を固定しようとしている。
『基準点の喪失を確認』
『代替処理を開始』
黒い月から。
無数の黒い線が伸びる。
今度は。
獅堂一人ではない。
闘技場にいる全員へ。
『個別座標を消去』
『対象世界を単一観測記録へ圧縮する』
「全員を一つの記録にする気か」
天城先輩が観測端末を見る。
「世界そのものを、変更不能な過去へ変えようとしている!」
世界を一つの記録へ固定する。
それは。
世界に存在するすべての選択を終わらせること。
死と同じだ。
「黒瀬君!」
久世教授の声。
『戦闘は終了した! 今からは査問ではなく、法則災害への対応となる!』
「分かってます!」
特殊条件も終了した。
もう地面へ立ってもいい。
だが。
俺は降りなかった。
今。
地面へ立てば。
世界を一つの基準へ固定しようとする黒い月へ、再び足場を与える気がした。
灯の学生証が光る。
――第二証明、進行度。
――九九パーセント。
最後の一パーセント。
画面に。
あの言葉が表示される。
――世界を地面から解放せよ。
「地面から解放する」
地球を消すことではない。
重力をなくすことでもない。
獅堂の力を否定することでもない。
地面とは。
自分の位置を決める基準。
黒い月は。
世界全体を一つの観測記録へ固定し。
すべての存在へ、唯一の位置と結論を与えようとしている。
なら。
解放すべき地面とは。
「世界そのものだ」
俺は呟く。
世界が。
すべての存在を包む唯一の枠組みである限り。
その外から観測する者は。
世界全体を一つの物体として扱える。
地面。
標本。
記録。
名前が違うだけで。
構造は同じだ。
「黒瀬零」
澄玲が俺を見る。
「何をするつもりですか」
「世界が一つだという結論を止める」
澄玲の表情が凍った。
「それは危険です」
「分かってる」
「一つの世界であることを否定すれば、すべての法則の接続が失われます」
光速度。
時間。
因果。
空間。
歴史。
それらが。
同じ世界に属しているという根拠が消える。
《第一宇宙観測環》が、昨日から見失っていたもの。
「世界が崩壊します」
「否定はしない」
「では、何を」
「保留する」
世界が一つである。
その結論を。
一瞬だけ。
「その間に、全員が自分の位置を選ぶ」
「数万人だけではありません!」
「分かってる!」
世界には。
この場にいない人間がいる。
動物。
植物。
海。
山。
星。
自ら選択を言葉にできない存在もある。
「だから、世界をばらばらにはしない」
俺は右手を見る。
途切れた円環。
「一つに決めないだけだ」
「違いが分かりません」
「俺にも完全には分からない」
「その状態で実行するのですか!」
「研究って、最初から全部分かってやるものじゃないだろ!」
「限度があります!」
そのとおりだ。
失敗すれば。
世界全体が。
本当に分解される。
だが。
他に方法はない。
黒い月の線が。
俺の胸へ触れる。
『対象世界の終端処理を開始』
すべてが。
一つの静止した記録へ変わり始める。
観客の声が止まる。
風が止まる。
光が止まる。
人々の表情が。
写真のように固定されていく。
選択が終わる。
世界が死ぬ。
「違う」
俺は黒い月を睨む。
「世界を終わらせるのは、お前じゃない」
右手を空へ向ける。
「世界が一つの完成した答えだというなら」
途切れた円環が。
大学都市を包む。
さらに。
大地。
空。
星空へ。
俺一人の出力ではない。
《公開査問》で生まれた。
数万人の選択。
獅堂の支え。
澄玲の解。
緋月の校正。
すべてが。
俺の別の結論を成立させる前提になる。
「その答えを、今だけ未証明へ戻す!」
頭の中で。
何かが裂けた。
俺自身と。
世界の境界。
「未証明!」
その瞬間。
世界が消えた。
◇
光も。
闇も。
時間も。
空間もない。
何も存在しないのではない。
何が存在するか。
まだ決まっていない。
世界という一つの枠が。
結論として成立する直前。
すべての可能性が。
互いに接続されずに浮かんでいる。
俺は。
そこにいた。
身体があるのかも分からない。
それでも。
自分が黒瀬零であることだけは分かる。
前方に。
無数の光があった。
一つ一つが。
誰かの選択。
誰かの位置。
誰かの命題。
獅堂の黄金。
澄玲の白。
緋月の赤。
天城先輩の青。
数え切れない光が。
ばらばらのまま浮かんでいる。
黒い月は。
それらを一つの箱へ押し込もうとしていた。
『世界は単一でなければならない』
声が響く。
『単一でなければ、観測できない』
「それは、お前の都合だ」
『観測されないものは、存在を証明できない』
「なら」
俺は手を伸ばす。
「証明してやる」
一つの光へ触れる。
それは。
獅堂の選択。
誰も落とさない。
だが。
行き先までは奪わない。
別の光。
澄玲の選択。
問題を正しく定義し。
本人が選べる解を示す。
緋月。
矛盾を消すのではなく。
矛盾したまま存在できる状態を守る。
「世界は、一つの答えじゃない」
光同士を。
一つへ溶かさない。
それぞれの色を残したまま。
関係だけを結ぶ。
「違う答えが」
線が伸びる。
「互いを否定せず」
別の線。
「支え合っている」
無数の光が。
星座のようにつながっていく。
一つの中心はない。
一つの上下もない。
誰かが誰かを支え。
支えられた者が、さらに別の誰かを支える。
無数の関係。
無数の座標。
それでも。
完全にばらばらではない。
「それが、俺たちの世界だ」
『定義不能』
黒い月が告げる。
『中心を持たない世界は、単一世界として成立しない』
「成立しなくていい」
『何?』
「お前が一つの物として掴める世界なんて」
俺は黒い月へ手を伸ばす。
「ここには、もう存在しない」
世界を破壊するのではない。
世界という。
すべてを一つへ閉じ込める概念を。
結論として終わらせる。
「世界は、誰の足元にもない」
俺は言った。
「観測者である、お前の下にも」
黒い月に。
初めて亀裂が入った。
『対象世界の統一性、喪失』
『観測不能』
『観測不能』
『観測不能』
巨大な眼が。
俺を見失う。
「観測できないなら」
俺は笑った。
「未証明のまま帰れ」
黒い月が砕けた。
◇
音が戻る。
光が戻る。
時間が動き始める。
俺は。
闘技場の上空にいた。
大学都市。
観客席。
大地。
すべてが元の位置へ戻っている。
地球は。
空へ落ちていない。
黒い月も消えている。
人々が。
自分の身体を確かめる。
「戻った……?」
「今、何が起きた?」
「世界が、消えたような……」
《第一宇宙観測環》から。
緊急報告が届く。
――世界統一性の一時的消失を確認。
――継続時間、〇・〇〇〇〇〇〇三秒。
――当該時間内、対象宇宙は単一世界として成立せず。
――構成要素の相互関係により、再構築を確認。
久世教授が。
その報告を見つめている。
「黒瀬君」
声が震えていた。
『君は今』
教授は。
一度、言葉を止める。
『世界を殺したのか』
「違います」
俺は答える。
「世界が一つの答えだって考えを、止めただけです」
『学術上、それを世界の死と呼ぶ』
「物騒な定義だな」
灯の学生証が光る。
――世界の死亡を確認。
続いて。
――世界の再成立を確認。
そして。
――第二証明、完了。
――証明者、黒瀬零。
――対立命題、獅堂剛毅。
――両者による共同証明を承認。
「共同証明?」
戦闘区域外。
防壁に支えられていた獅堂が。
ゆっくりと起き上がる。
「俺が、お前と?」
「不満か」
「勝手に共同研究者へ入れるな」
「俺に言うな。学生証に言え」
次の文章。
――証明結果。
――支えることは、位置を奪うことではない。
――自由とは、支えを拒絶することではない。
――存在は、相互に支えられながら、自らの位置を選択できる。
獅堂は。
しばらく文章を見つめていた。
「……悪くない」
「何が」
「俺たちの論文題目だ」
「もう論文を書く気か?」
「《公開査問》の結果は論文化が義務だ」
俺は審査席を見る。
久世教授が頷いた。
『提出期限は一か月後だ』
「聞いてない!」
『共同筆頭著者として提出しなさい』
「共同筆頭?」
俺と獅堂の声が重なる。
『なお、査読者は私が務める』
久世教授は楽しそうだった。
『再現性のない世界消失を、研究成果として認めるつもりはない。詳細な理論説明を期待している』
「再現しろって言うのか!」
『世界を再び消せとは言っていない』
「絶対、少し期待してるだろ!」
観客席から。
大きな笑いが起きる。
その後。
拍手。
一人。
二人。
やがて。
闘技場全体が。
割れんばかりの拍手に包まれた。
◇
『戦闘結果』
『黒瀬零の勝利』
『特殊条件』
『達成』
『命題理論審査』
『黒瀬零、獅堂剛毅、双方合格』
『対立命題への反証および包摂』
『成立』
久世教授が立ち上がる。
『主席審査官として、本査問の最終結果を宣言する』
俺と獅堂が。
互いを見る。
『本《公開査問》は、勝敗による一方の否定をもって終了しない』
『両者は、互いの前提を認めた上で、従来より広い結論を共同で成立させた』
『よって』
教授の声が。
大学都市へ響き渡る。
『黒瀬零と獅堂剛毅。両名の命題を、学術的に有効な命題として承認する』
闘技場の中央。
俺の右手に浮かぶ途切れた円環。
獅堂の足元に広がる黄金の線。
二つが。
一瞬だけ交差する。
黒い円環の一部へ。
黄金の光が残った。
獅堂の黄金の地面には。
小さな途切れが生まれていた。
互いの思想が。
互いの命題へ影響を残している。
「黒瀬」
「何だ」
「次は負けない」
「今日も審査では引き分けみたいなものだろ」
「戦闘では俺が負けた」
「気にするんだな」
「当然だ」
獅堂は拳を差し出す。
「今度は、世界を巻き込まずに戦う」
「それは最低限守れ」
俺も拳を合わせる。
その瞬間。
右手の円環が。
小さく脈打った。
未証明。
名前は変わっていない。
能力も。
まだ完成していない。
だが。
確かに。
昨日までとは違う。
俺は。
世界が提示した結論を止めるだけではなく。
他者の答えを受け入れながら。
その先に、新しい結論を作れるようになった。
それがどこへつながるのか。
今はまだ分からない。
未証明のままだ。
だから。
証明する価値がある。
◇
その夜。
誰もいない《第七公開査問庭》。
戦闘の痕跡が残る中央に。
一人の少女が立っていた。
黒瀬灯。
白い制服。
長い黒髪。
ただし。
身体の半分が、星空の向こうへ透けている。
「第二証明、完了」
灯は。
誰もいない観客席を見上げる。
「やっぱり、お兄ちゃんなら世界を殺せた」
背後に。
十三枚の翼を持つ黒衣の人物が現れる。
『予定より早い』
「そう?」
『黒瀬零は、単一世界の外部を認識した』
「うん」
『次の証明を開始すれば、彼はあなたの現在位置へ近づく』
灯は。
少しだけ寂しそうに笑った。
「それでいいよ」
『接触すれば、黒瀬零は真実を知る』
「そのために呼んだんだもん」
『真実を知れば、彼はあなたを救わない』
灯の笑顔が消える。
沈黙。
長い沈黙の後。
彼女は答えた。
「それでも」
胸元へ手を当てる。
そこには。
零と同じ。
途切れた円環が浮かんでいた。
「選ぶのは、お兄ちゃんだから」
灯の姿が。
星の光へ変わっていく。
「次は、《第零学部》で待ってる」
最後に。
彼女の声だけが残った。
「私が消えた、本当の理由を証明して」
ここまで本作を読んでいただきありがとうございます。
今回までを『第1章 帝都神律大学・入学編』としたいと思います。
章の終わりには各章で登場した用語や登場人物などの設定をまとめた設定資料集を1話分挟むようにしたいと考えています。
次章もよろしくお願いいたします!




