↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
91/95

第四節 退職という名の撤退

戦場から兵を引く。

言葉にすれば、ずいぶん格好がいい。

実際にやることは、退職である。

戦国武将なら陣を引き払うところだが、こちらは制服を返し、必要な書類を出し、残った手続きを済ませる。馬も旗印もいらない。必要なのは、退職日と書類の確認くらいだ。

天下を狙うわけでもない人間が、職場を離れるだけで、ずいぶんと大げさな話になった。

だが、俺にとっては、ただ仕事を辞めるというだけではなかった。

一年間、夜勤の実態を調べ、数字を集め、改善を求めてきた。

自分にできることは、できるだけやったつもりだった。

それでも、最後の判断をするのは自分ではない。

ならば、いつまでもそこに残り続ける理由はなかった。

俺は、会社全体を敵に回したかったわけではない。

誰かを打ち負かして、勝利宣言をしたかったわけでもない。

ただ、自分が問題だと考えた運用について、事実を整理し、記録を残し、必要な報告をした。

それで、一区切りだった。

もっとも、頭でそう整理できたからといって、気持ちまできれいに片づくわけではない。

納得できないことは残っていた。

不公平だと思う気持ちも残っていた。

こちらが何度も説明しようとしたことが、十分に受け止められたとは思えなかった。

だから、退職を決めたからといって、急に相手を理解できるようになったわけでも、これまでの対応を許せるようになったわけでもない。

ただ、もう、そこに自分の時間を注ぎ続けるのはやめようと思った。

それだけだった。

退職というのは、便利な区切りである。

会社に行かなくてよくなる。

顔を合わせる必要もなくなる。

仕事上のやり取りも、基本的には終わる。

少なくとも、そうなるはずだった。

しかし、辞めるからといって、それまでの経緯が消えるわけではない。

何を調べたのか。

どんな数字が出ていたのか。

何を報告したのか。

どのような判断があったのか。

そうした記録は、退職届を出したからといって、まとめて消えてくれるわけではなかった。

むしろ、離れると決めたからこそ、残しておく必要があった。

俺がいなくなった後、誰かが同じ問題に直面するかもしれない。

そのとき、何も記録がなければ、また最初からになる。

以前から、そういうことを考えていた。

人が辞めれば、その人が担っていた仕事も一緒になくなる。

そう思っているのなら、ずいぶん都合がいい。

人間は退職届を出せば職場からいなくなるが、仕事まで一緒に連れていってくれるわけではない。

荷物は残る。

点呼も残る。

毎日の運用も残る。

誰かが、それを引き受けなければならない。

俺は、その現実を知っていた。

だから、記録を残した。

それは、辞めた後に会社を困らせるためではない。

自分がいなくなった後のことまで、いつまでも自分の責任にしないためでもあった。

やるべきことを終え、必要な記録を残し、退職する。

その先の運用をどうするかは、残った人たちが決めることだ。

そして俺は、自分がいなくなった後に、何が起きるかについても、ある程度は予想していた。

一人でできるという判断があった。

人員は足りているという認識があった。

ならば、俺がいなくなっても、その判断に基づいて運用は続いていくはずだった。

もちろん、実際にどうなるかは、その時点では分からない。

予想が当たる保証もない。

だが、少なくとも、俺がいなくなれば、それまで俺が担っていた仕事を誰かが担う必要がある。

そのことだけは、間違いなかった。

俺は、そこまで考えたうえで退職を決めた。

自分がいなくなれば、何かが変わるかもしれない。

反対に、何も変わらないかもしれない。

どちらであっても、それは俺が決めることではない。

ここで、ひとつだけ区別しておきたい。

俺は、現場が困ることを望んで退職したのではない。

誰かに失敗させるために辞めたのでもない。

ただ、これまで自分が引き受けてきたものを、これ以上、無期限に引き受け続けることはしないと決めたのだ。

その結果、何が起きるのか。

それを考える責任まで、俺が抱える必要はなかった。

「一人でやれ」と言うのは簡単だ。

人員は足りていると判断するのも簡単だ。

だが、その判断を実際の運用に落とし込み、毎日の仕事を回していくのは、別の話である。

そこには、荷物がある。

時間の制約がある。

休みもある。

人員配置の問題もある。

書類の上で人数を減らすことと、その人数で業務を継続できることは、同じではない。

その違いを、俺は一年間、数字で示そうとしてきた。

だからこそ、最後まで自分が支え続けるのではなく、判断した側に、その判断の先を委ねることにした。

退職は、逃げなのか。

そう見える人もいるだろう。

問題があるなら、最後まで残って改善するべきだ。

そう考える人もいるだろう。

それも、ひとつの考え方ではある。

だが、最後まで残ることだけが責任の取り方ではない。

自分にできることをやり、必要な記録を残し、それ以上は自分の権限を超えると判断して離れる。

それも、ひとつの選択だ。

いつまでも残って説明を続けることが、必ずしも現場のためになるとは限らない。

まして、相手を理解させることが目的になってしまえば、当初の目的から遠ざかってしまう。

俺は、そこから降りることにした。

もちろん、きれいに割り切れたわけではない。

腹は立っていた。

納得もしていなかった。

自分の分析や努力を、もっと正面から受け止めてほしかったという気持ちも残っていた。

それでも、退職を決めた。

感情が完全に整理されるのを待っていたら、いつまでたっても辞められなかっただろう。

人間というのは、納得してから動くとは限らない。

納得できないままでも、ここで終わりにすると決めることはできる。

俺は、そうした。

会社を辞める。

現場を離れる。

自分にできることは終わらせる。

そして、残った問題を、残った人たちに委ねる。

それが、俺にとっての撤退だった。

戦場から離れたからといって、戦場そのものがなくなるわけではない。

俺がいなくなった後も、夜は来る。

荷物は到着する。

朝になれば、日勤が始まる。

現場は、何事もなかったかのように動き続ける。

ただし、その現場を誰が、どのような体制で支えるのか。

そこは、これからの判断に委ねられることになった。

俺は、そこを離れた。

戦いを終わらせるために、相手を倒す必要はなかった。

自分が担うべき仕事を終え、自分の責任と権限の範囲を見定め、そこから先は引き受けない。

俺が選んだのは、そういう終わり方だった。

そして、退職すればすべてが終わると思っていたわけでもない。

むしろ、退職後の対応についても、俺は記録を残すつもりでいた。

なぜなら、俺が見届けたかったのは、退職そのものではなかったからだ。

これまでの経緯を踏まえたうえで、最後の手続きがどのように進むのか。

そこにも、これまでと同じようなことが起きるのか。

それとも、今度は違うのか。

俺は、そこを確認しようと思っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。