第二十五節 確認するという仕事
確認するというのは、どういうことなのだろう。
仕事をしていれば、何かを確認する場面はある。
報告を受ける。話を聞く。資料を見る。関係者に説明する。
必要なことを一つずつ進めていけば、それで確認したことになる。
私は、そう考えていた。
草加部から資料を受け取ったときも、そうだった。
資料には数字が並んでいた。夜勤の業務について、草加部なりに調べ、整理したものだった。
何時に荷物が到着するのか。どれだけの荷物があるのか。時間帯によって、仕事がどのように集中するのか。
草加部は、それをもとに話をしていた。
こちらが判断したことに対して、数字を示し、説明を求めてくる。
私としては、話を聞いていないわけではなかった。
資料も受け取っていたし、草加部が何を言おうとしているのかも分かっているつもりだった。
ただ、資料に書かれていることを、どこまで確認すればいいのか。
そこまで考える必要があるとは思っていなかった。
数字は、あくまでも数字だ。
数字が示していることと、現場で実際に判断しなければならないことは、必ずしも同じではない。
荷物の量が多いからといって、それだけで人員を増やせばいいというものでもない。
時間帯によって仕事が集中しているとしても、それをどう扱うかは、運用全体を見て考える必要がある。
私は、そう考えていた。
だから、草加部の資料を見ても、それだけで判断を変える必要はないと思っていた。
もちろん、資料に書かれている数字が間違っていると決めつけていたわけではない。
ただ、その数字が何を意味するのかについて、草加部と同じ見方をする必要もないと考えていた。
草加部は、数字をもとに運用を考えようとしている。
私は、これまでの経緯や現場の事情も踏まえて判断しようとしている。
それぞれの立場が違うのだから、考え方が違うこともある。
私には、そう見えていた。
だが、数字をもとに判断することと、現場の事情を踏まえて判断することは、本来、対立するものではなかったはずだ。
数字を確認したうえで、現場の事情も考えればいい。
資料が示している実態を確かめ、そのうえで、どのような運用が適切なのかを考えればいい。
それだけのことだった。
しかし、私は、そこまで考えなかった。
草加部の資料を受け取ったことと、その資料が示している問題を確かめたことを、別々に考えていなかったのだと思う。
資料は受け取った。
話も聞いた。
だから、こちらとしても対応している。
そう考えていた。
草加部が求めていたのは、単に資料を見てもらうことではなかったのかもしれない。
数字が示している実態を確認し、その実態に照らして、今の人員配置や運用が適切なのかを考えてほしかったのだろう。
だが、私は、そこまで踏み込んで受け止めていなかった。
草加部の説明を聞くことと、草加部の問題提起を検証すること。
その二つを、きちんと分けて考えていなかった。
それでも、私には、自分が何かを怠っているという感覚はなかった。
資料を受け取っている。
話を聞いている。
必要な相手には説明している。
仕事として、やるべきことは進めている。
そう思っていたからだ。
上層部への説明についても、同じだった。
支店長や部長、社長を含め、関係する人たちに経緯を説明する。
コンプライアンス室にも、必要な説明をする。
自分が把握していることを伝え、これまでの判断について話す。
それが、自分の役割だと思っていた。
説明を求められれば説明する。
確認が必要になれば確認する。
私の中では、そういう整理だった。
ただ、何を確認する必要があるのかを、自分で改めて考えることはなかった。
草加部が示した数字と、自分が下した判断との間に、食い違いがあるのか。
あるとすれば、その食い違いは何によって生じているのか。
これまでの判断を支える根拠は何なのか。
そうしたことを一つずつ確認していけば、説明の仕方も変わっていたのかもしれない。
だが、私は、そこまで考えていなかった。
自分の中では、すでに判断ができていたからだ。
元委員長とも話をしていた。
これまでの経緯もあった。
そのうえで、どう進めていくのかを考えていた。
だから、草加部から資料が出てきても、それをもう一度、判断の出発点に戻して考え直す必要があるとは思わなかった。
私は、確認するという仕事を、自分が必要だと思った範囲で行っていたのだろう。
その範囲が十分だったのかどうか。
私は、そこを考えなかった。
草加部が何度も数字を示してくることについても、私は、別の受け止め方をするようになっていた。
「どこも一緒なんで」
「一人でやってるので」
私は、そうした説明をしていた。
こちらとしては、現場の事情を踏まえて話をしているつもりだった。
どこも同じような状況で仕事をしている。ほかの現場でも、一人で仕事をこなしている。
そう説明すれば、夜勤だけが特別なわけではないと伝わるはずだった。
しかし、草加部が示していたのは、ほかの現場も同じかどうかという話だけではなかった。
実際に何時に荷物が到着し、どれだけの荷物を扱い、どの時間帯に業務が集中しているのか。
草加部は、そうした数字をもとに、夜勤の運用について考えてほしいと訴えていた。
それでも私は、草加部の資料を一つずつ確認するより、これまでの現場の事情を説明する方に意識が向いていた。
「どこも一緒なんで」
「一人でやってるので」
そうした説明をしているうちに、私の中では、こちらの考えは伝えているという認識になっていた。
草加部が納得しないことを、草加部自身の問題として考えるようになっていた。
なぜ、こちらの説明で納得しないのか。
なぜ、いつまでも数字を持ち出してくるのか。
私は、次第にそう思うようになっていた。
しかし、相手が納得していないということは、必ずしも相手に問題があるということではない。
こちらの説明が十分でなかった可能性もある。
こちらが確認すべきことを、確認していなかった可能性もある。
草加部が求めていたのは、判断を変えることだけではなく、その判断に至った根拠を確かめることだったのかもしれない。
だが、私は、そういう方向には考えなかった。
草加部の態度が気になっていた。
話し方や、こちらへの接し方が気になっていた。
そのため、草加部が何を確認してほしいと求めていたのかよりも、草加部がどのように話をしてくるのかということに、意識が向いていた。
私は、そのことを特別おかしいとは思っていなかった。
仕事の話であっても、相手とのやり取りは大切だ。
どのような内容であっても、伝え方というものがある。
そうした考え自体は、間違っていないと思う。
ただ、伝え方に問題があると感じたからといって、話の内容まで確認しなくてよくなるわけではない。
草加部の態度について考えることと、草加部が示した数字を確かめることは、別のことだった。
私は、その二つを切り分けて考えていなかった。
そして、草加部が声を荒らげたことも、私の中に残っていた。
話をしている中で、草加部が声を荒らげた。
その事実は、私にとって、草加部の態度を問題にする理由になった。
やはり、話の進め方に問題がある。
こちらの判断に納得できないからといって、そういう態度を取る必要があるのか。
私は、そう考えた。
草加部が声を荒らげたことと、草加部が示していた数字の妥当性は、本来、別々に考えるべきことだった。
声を荒らげたからといって、資料の数字が変わるわけではない。
話し方に問題があったとしても、それだけで業務上の指摘が間違いになるわけではない。
だが、私の中では、草加部の態度が、草加部の主張を受け止める際の見方にも影響していた。
私は、草加部の言い方を気にしていた。
その一方で、草加部が何を示していたのかについては、十分に掘り下げていなかった。
それでも、自分では、必要な対応をしていると思っていた。
資料を受け取った。
説明を聞いた。
関係者に話をした。
草加部の態度についても、問題があると感じていた。
それらを考え合わせれば、自分の対応に大きな問題があるとは思えなかった。
確認するという仕事は、資料を受け取ることだけではない。
説明を聞くことだけでもない。
自分が正しいと思っている判断についても、必要であれば、その根拠を確かめなければならない。
相手の態度が気に入らなくても、示された事実まで、その印象で扱ってはいけない。
本当は、そういうことだったのだろう。
だが、私は、自分が確認すべきことを、十分に確認できていなかったのかもしれないという考えには至らなかった。
私には、仕事を進めているという認識があった。
必要な説明もしている。
自分なりに考えて判断している。
だから、自分の対応は間違っていない。
そう思っていた。
確認したつもりでいることと、本当に確認できていることは、違う。
その違いを、私はまだ理解していなかった。
そして、草加部が何を確かめてほしかったのかという問いも、私の中では、答えが出ないまま残っていた。




