第十六節 記録に残るもの、残らないもの
出来事が起きたとき、その場にいた人間が見ていたものは、必ずしも同じではない。
誰かは、作業の流れを見ている。誰かは、声の大きさを聞いている。誰かは、指示が守られたかどうかを気にしている。そして、誰かは、その前に何が起き、どんな説明が繰り返され、何が放置されてきたのかを見ている。
同じ時間、同じ場所にいたとしても、記憶に残るものは違う。
記録を作るとき、その違いはさらに大きくなる。書き手は、起きたことをすべて書くことはできない。何を重要と考え、どこから書き始め、どこで話を終えるか。その選択によって、出来事の意味は少しずつ形を変える。
だから、記録があるというだけで、そこに書かれた内容が出来事のすべてだとは限らない。反対に、記録に残っていないという理由だけで、その出来事がなかったとも言い切れない。
もちろん、記録にないことを、あったと断定することもできない。残っている記録と、当事者が覚えていることと、あとから推測したこと。それぞれを混ぜずに扱う必要がある。
私は、数字や資料を残すことに意味があると考えていた。印象や記憶だけでは、話が食い違ったときに確かめようがない。数字なら、集計の条件を示し、元の記録に戻り、別の人間が検証することができる。
けれども、数字にも、記録にも、見える範囲がある。
荷物の個数や重量は記録できる。到着した時刻も、作業にかかった時間も、一定の条件をそろえれば比較できる。しかし、名簿上は二人いても、一人が別の作業をしていたという状況は、人数だけの表からは読み取れないことがある。誰が何をしていたかを記録していなければ、その時間の実態は、別の資料や現場確認を重ねなければ見えてこない。
つまり、数字は万能ではない。だが、万能でないことは、数字を見なくてよい理由にもならない。
数字に欠けているものがあれば、何が欠けているのかを特定し、必要な情報を追加すればいい。記録の条件に問題があれば、条件を明らかにして読み直せばいい。記録が足りないという指摘は、調査を終わらせるためではなく、次に何を確かめるべきかを示すために使うことができる。
ところが、人は、自分にとって都合のよい記録の使い方を選ぶことがある。
書かれている一文を取り出し、それだけで全体を説明したことにする。自分が覚えている場面を中心に据え、それ以外の経緯を背景へ押しやる。あるいは、記録にないことを理由に、確認そのものを不要とする。
そうした読み方は、必ずしも意図的な嘘から始まるわけではない。自分が重要だと思ったことを中心に記憶し、その記憶に合う情報を先に拾う。自分の理解と食い違う情報が出てくると、そちらの条件や書き手の姿勢が気になり始める。そうしているうちに、記録を読む目的が、出来事を理解することから、自分の理解を守ることへ変わってしまう。
そのとき、記録は事実を確かめるためのものではなく、自分の見方を支える材料になる。
私は、相手が提出した資料を見ながら、その作り方や意図を気にしていた。そこに誤りがないかを確かめることは必要だった。しかし、資料の数字を検証することと、提出した人間の姿勢を評価することを、いつの間にか同じ作業のように扱っていた。
それでは、相手の記録に不足が見つかったとき、自分の判断に不足がなかったかを確かめる機会まで失われてしまう。
記録には、書いた人間の視点がある。読む側にも、読む側の視点がある。だからこそ、一つの記録だけで結論を出さず、異なる資料を照合し、関係者の説明を聞き、必要に応じて現場を確かめる。そこまでして初めて、記録は判断の根拠として使えるものになる。
職場で何か問題が起きたとき、最後に目立った言動だけが記憶に残ることがある。声を荒らげた人間がいれば、その声は強い印象を残す。一方で、そこに至るまでのやり取りや、何度も伝えられていた問題、判断が先送りされていた経緯は、同じ強さでは記憶されないことがある。
目立った言動をなかったことにする必要はない。だが、それだけを取り出して、そこに至るまでの経緯を消してしまうのも正確ではない。
出来事を正確に理解するためには、問題となった言動そのものと、その前後に何があったのかを、分けて確認する必要がある。前後の経緯があったからといって、言動の責任がなくなるわけではない。言動に問題があったからといって、それ以前に起きていた問題まで消えるわけでもない。
どちらか一方だけを記録に残せば、全体像はゆがむ。
組織が記録を扱うときに必要なのは、誰か一人を正しい人間、誰か一人を間違った人間と決めることではない。何が確認できていて、何が当事者の説明にとどまり、何が推測なのかを分けることだ。その区別があれば、意見が食い違っていても、どこから確認を進めればよいかが見えてくる。
記録は、人を裁くためだけにあるのではない。判断がどのように行われ、どの情報が使われ、何が検討されなかったのかを、あとからたどるためにもある。
私は、数字を残すことで、あとから確かめられるようにしたいと考えていた。その考え自体は、今も変わらない。
ただ、数字を残すことと、数字を使って確かめることは同じではなかった。記録が手元にあっても、読みたいところだけを読み、都合の悪い問いを避ければ、記録は残っていても検証は行われない。
記録が何を語るかだけでなく、読む側が何を見ようとしなかったのか。それもまた、記録から問われることだった。




