第十五節 確認する側の仕事
ひとつは、資料の正確さを確かめること。もうひとつは、資料が示した結果を、自分の判断に照らして確かめることだ。前者だけを繰り返し、後者を避け続けることもできる。細かな疑問をひとつずつ並べれば、いつまでも結論に進まなくて済むからだ。
私は、慎重に確認しているつもりだった。
数字の出どころを問い、集計方法を考え、現場には数字だけでは分からない事情があると説明した。それらは、どれも間違った問いではなかった。現場を管理する側が、資料の条件を確かめるのは当然の仕事である。
けれども、その問いを重ねる一方で、私は別の問いを後回しにしていた。資料の数字に疑問を向けるのと同じように、自分が頼ってきた経験や、これまでの配置判断にも疑問を向けていたか。そこまでは、十分に確かめていなかった。
もし、示された数字がおおむね正しかったら。もし、夜勤の荷物が自分の想定より多く、朝方に作業が集中しているのだとしたら。三月に必要ないと判断した重なり時間を、もう一度検討する必要があるのではないか。
その問いに向き合うには、資料を作った人間の説明を聞くだけでは足りなかった。自分たちの運用を確かめる必要があった。現場の人員配置を見て、付帯作業に誰がどれだけ時間を取られているかを確かめ、荷物が集中する時間帯に実際に何人が仕分けに当たれるのかを見なければならなかった。
数字は、現場そのものではない。だが、現場を見に行く理由にはなる。
たとえば、午前五時台の荷物が平均で約五百個に達しているとき、名簿上の人数だけを見て「二人いる」と数えても、実態を捉えたことにはならない。そのうち一人が別の作業に従事していれば、荷物を処理できる人数は一人になる。人数の記載と、作業に使える人数は同じではない。
その違いを確かめるには、誰かの説明を疑うだけでは足りない。自分の目で作業を見て、時間を測り、記録と照合する必要がある。説明した人間に偏りがあるかもしれないのと同じように、受け取る側の経験にも偏りはある。どちらか一方だけを検証の対象にする理由はなかった。
それでも、報告を出した側ばかりが説明を求められ、判断した側は「現場を知っている」という言葉の内側にとどまるなら、確認は片側にしか働かない。
資料を出す人間には、根拠を示す責任がある。受け取る人間には、その根拠を確かめ、必要なら自分の判断を修正する責任がある。どちらかの責任だけを重くしても、問題の全体像は見えてこない。
私は、数字を出した人間が何を考えていたのかを気にしていた。なぜ、そこまで報告を続けるのか。なぜ、こちらの判断に何度も疑問を投げかけるのか。その理由を考えること自体が無意味だったわけではない。報告の背景を知ることも、組織で仕事をするうえでは必要だろう。
しかし、相手の動機を考えることと、相手が示した事実を確かめることは別だった。
動機に疑いを持ったからといって、数字の意味が変わるわけではない。報告者に不満があったとしても、朝方に荷物が集中しているかどうかとは関係がない。資料に誤りがあれば、誤りを指摘すればいい。正しければ、その結果を運用の検討に使えばいい。そこに、報告者への好き嫌いを挟み込む必要はなかった。
私はその区別を、頭では理解できたのかもしれない。だが、実際の判断では、二つを切り離せていなかった。
自分の判断を守りたい気持ちが強くなるほど、資料の細部は反論の材料に見え、報告者の言葉は自分を責める言葉に聞こえてくる。そうなると、確認は事実に近づくための作業ではなく、判断を変えずに済む理由を探す作業へと変わっていく。
その変化は、はっきりとした宣言を伴うものではない。本人は、最後まで慎重に仕事をしているつもりでいられる。だからこそ、厄介だった。
組織に必要なのは、報告する人間を無条件に信じることではない。管理する人間を無条件に信じることでもない。誰が報告したかにかかわらず、根拠を確かめ、異なる見方があれば並べ、必要な現場確認を行い、判断の理由を記録することだ。
それは、誰かを負かすための手続きではない。誰かの面目を守るための手続きでもない。判断が妥当だったかを、あとから別の人間がたどれるようにするための仕事である。
報告書は、提出した時点で役目を終えるわけではなかった。受け取った側が確認し、判断し、運用に反映して初めて、組織の記録として意味を持つ。
もし確認の結果、当初の判断が正しかったのなら、その根拠を示せばよい。状況が変わっていたのなら、変化した条件を示せばよい。判断が不十分だったのなら、どこが足りなかったのかを認め、次の判断に生かせばよい。
いずれの場合も、必要なのは報告者の人格を評価することではなかった。
私は、相手が何を見ていたのかを考え始めていた。けれども、相手の景色を想像するだけでは、まだ足りなかった。自分が見ていた景色を、同じように検証の対象に置かなければならなかった。
正しいと思っていた人間が、間違っていたと認めるのは簡単ではない。だが、認めることを避けるために確認を続けるなら、その慎重さは、いつか現場を守る力ではなくなる。
確認する側にも、確認されるべきものがある。
それは、資料の数字だけではなかった。数字を前にしたとき、自分は何を確かめ、何を確かめずに済ませようとしているのか。その仕事の仕方そのものだった。




