第十三節 決めなかったことの重さ
決めないことも、ひとつの判断である。
そう言うと、少し大げさに聞こえるかもしれない。けれど、現場では、決定を先送りしたあいだにも時間が進み、荷物は到着し、人は作業を続ける。判断が保留されていても、現場の運用まで止まってくれるわけではない。
何かを変えると決めれば、その結果に責任を持たなければならない。配置を変えれば、費用が動く。別の時間帯に負担が移るかもしれない。予想していなかった問題が起きる可能性もある。
だから、すぐに結論を出さず、確認を重ねることには意味がある。
ただし、確認を重ねることと、決めないままでいることは同じではない。
確認するなら、何を確かめるのかを明らかにする。どの記録が不足しているのか、どの条件が分かれば判断できるのか、いつまでに確認するのか。そこが定まっていれば、保留にも目的がある。
反対に、何が分かれば結論を出せるのかが示されないまま、疑問だけが増えていくなら、確認は終わりのない作業になる。
私は、その違いを十分に考えていただろうか。
三月の提案を受け入れなかったこと自体が、必ずしも間違いだったとは限らない。その時点で把握していた状況や、人員配置、費用、日勤帯への影響を考慮して、現状維持を選ぶこともあり得る。
問題は、その判断を、あとから得られた情報に照らして見直せるかどうかだった。
六月に分析資料が提出されたとき、私は、集計方法や対象時間、荷物の種類、到着と処理の違いを確認する必要があると考えた。それは正当な確認事項だった。
けれど、確認を終えた先に何があるのか。どのような結果なら、三月の判断を維持し、どのような結果なら、再検討するのか。私は、その基準を明確にしていただろうか。
基準がなければ、確認は判断につながらない。判断につながらなければ、資料をどれだけ増やしても、現場の運用は変わらない。
その間も、夜勤の作業は続いていた。
数字に表れた負荷が適切に処理されているのか。人員配置は実態に合っているのか。特定の時間帯に負担が集中していないか。そうした問いは、判断が保留されているからといって消えるものではなかった。
決めなかったことによって、誰かに負担が残る場合がある。
それは、決定を先送りした人間が、必ずしも意図していた結果ではないかもしれない。慎重に検討しているつもりでも、結果として現場に負担を残すことはある。
意図と結果は、分けて考えなければならない。
誰かが悪意を持っていたと決めつける必要はない。しかし、悪意がなかったことだけで、判断の結果を検証しなくてよいことにもならない。
私は、相手の意図を推測することに多くの時間を使っていた。だが、運用を判断する立場に必要だったのは、意図の推測だけではなかった。
どの問題が確認され、どの問題が未確認なのか。どこまで分かっていて、何が分かっていないのか。何を根拠に現状を維持し、いつ再検討するのか。
その区別を明らかにすることだった。
判断を変えることには、確かに負担がある。だが、判断を変えないことにも、結果がある。現状維持は何もしないことではなく、今の運用を続けるという選択だからだ。
私は、現状を維持する判断には、説明が必要ないように感じていたのかもしれない。新しい提案をする側が、その必要性を証明しなければならない。こちらは、変える理由が十分でないと判断すればよい。
しかし、現状維持を選ぶなら、現状が適切だと考える理由も問われるべきだった。
変える側だけに根拠を求め、変えない側は根拠を示さなくてもよい。その非対称さを、私は当たり前のものとして受け入れていたのではないか。
もちろん、すべての提案に応じることはできない。限られた人員や費用の中で、優先順位をつける必要はある。だが、採用しないと決めることと、提案が示した問題をなかったことにすることは違う。
提案を採用しなくても、示された問題を認め、別の方法を検討することはできる。すぐに変更できなくても、再検討の条件や時期を明らかにすることはできる。
そうした道筋があれば、決定が保留されていても、検討は前に進む。
私は、判断を下すことの重さばかりを考えていた。判断しないままでいることにも、同じように重さがあるということを、十分には考えていなかった。
何も決めていないように見える時間にも、現場は動いている。そこで働く人間は、決定が出るまで待つことができない。
その事実を、資料の数字は静かに示していた。




