第十一節 数字の向こうにいる人間
作る側は、現場で起きていることを伝えたい。受け取る側は、提出された数字だけで判断するわけにはいかない。集計の条件は妥当か。抜けている情報はないか。ほかの時間帯への影響はどうか。そうした確認は、本来、必要な仕事だった。
ただ、疑問には二つの向きがある。
ひとつは、事実を確かめるための疑問だ。もうひとつは、目の前の事実を受け入れずに済む理由を探す疑問である。
その二つは、口に出した言葉だけでは見分けにくい。どちらも「確認が必要だ」という形を取る。どちらも、慎重さや責任感を装うことができる。
違いが現れるのは、答えが出たあとだ。
集計条件に問題があれば、修正する。記録に欠落があれば、補う。数字の意味を取り違えていたなら、解釈を改める。事実を確かめるための疑問は、確認の結果によって、次の判断へ進んでいく。
一方、判断を守るための疑問は、答えが出ても終わらない。ひとつの疑問が解消されると、別の疑問が生まれる。確認する項目は増えていくのに、判断の根拠は変わらない。
私は、そこにある違いを、十分に意識していなかった。
数字を扱うとき、私は自分を慎重な人間だと思っていた。現場の感覚だけで決めるのではなく、記録を確認する。説明を聞き、条件を吟味する。安易に結論を出さない。それは、判断する立場に必要な姿勢だと考えていた。
しかし、慎重であることは、結論を変えないことではない。
確認の結果、当初の判断を維持することもある。反対に、判断を修正しなければならないこともある。どちらになるかは、確認する前から決まっているわけではない。
もし、どれだけ確認しても結論が動かないのだとしたら、確認の方法だけでなく、自分が何を守ろうとしているのかも見直す必要がある。
私は、資料を作る側の意図を考えた。なぜ、そこまで細かく数字を集めるのか。なぜ、何度も説明しようとするのか。なぜ、こちらの判断に納得しないのか。
その問い自体が、間違っているわけではない。人が何を考え、何を求めているのかを知ることも、話し合いには必要だ。
けれど、その問いに気を取られるほど、私は別の問いから離れていった。
資料は、何を示しているのか。
集計された数字は、どの時間帯に、どれほどの荷物が動いていたことを示すのか。そこから、どんな配置上の問題が考えられるのか。判断を変える必要がないというなら、その理由は何か。
人の意図を推測することは、数字を検証することの代わりにはならない。
それでも、相手への疑念は、事実への疑問よりも扱いやすかったのかもしれない。
数字には、確かめるべき条件がある。記録には、限界がある。分析には、解釈の幅がある。そこを丁寧に見ていけば、自分の判断が揺らぐ可能性もある。
しかし、資料を作った人間に問題があると考えれば、数字を正面から受け止めなくても済む。相手の態度や動機を疑うことで、資料そのものの意味を後回しにできる。
それは、意識して選んだ策略というより、判断を守ろうとするうちに身についた読み方だったのかもしれない。
私は、相手の資料を読んでいるつもりだった。実際には、資料の中から、自分の判断を維持できる箇所を探していたのではないか。
そう考えると、資料をめぐるやり取りの意味が少し変わって見える。
数字を示す側が、数字だけでは伝わらないと思って説明を重ねる。受け取る側は、説明が増えるほど、相手の執着を疑う。相手がさらに資料を出すと、その行為自体が疑念の材料になる。
こうして、伝えようとする努力が、かえって伝える相手への不信を強めてしまう。
どちらか一方の人間が、最初からすべてを意図していたとは限らない。小さな行き違いが重なり、相手の行動を悪い方向に解釈するようになり、いつしか、その解釈を裏づけるものばかりが目につくようになる。
その循環の中では、最初に確認すべきだった問題が、少しずつ見えなくなっていく。
夜勤と日勤の荷物量の違いは、誰かの性格を評価するために集められた数字ではなかった。少なくとも、数字そのものが示していたのは、時間帯ごとの実績と、そこにある運用上の問いだった。
それをどう受け止め、どこまで確認し、何を変えるか。そこにこそ、判断する側の仕事があった。
私は、資料を作った人間のことを考えすぎる一方で、資料が示す問題を考える時間を減らしていたのかもしれない。
数字は、誰かの味方をするために並んでいたわけではない。




