第十節 説明する側、判断する側
説明する側は、何が起きているかを伝えようとする。いつ荷物が集中するのか、どの作業に人手が必要なのか、何を変えれば滞りが減るのか。現場で見たことを言葉にし、記録を集め、数字に置き換えていく。
判断する側は、その説明を受けて、配置や費用、他の時間帯への影響を考える。ひとつの現場だけを見て決めることはできない。全体の都合を考え、すぐには変えられない条件も踏まえる必要がある。
その役割の違いそのものは、問題ではなかった。
問題が生まれるのは、判断する側が、説明する側の見ている範囲を知らないまま、自分の見ている範囲だけで全体を判断したときだ。
私は、現場を知らないわけではなかった。毎日の業務を見てきたし、日勤側の忙しさも、そこに必要な人員も分かっているつもりだった。経験があるからこそ、すぐには動かせない事情も分かる。ひとつの提案を受け入れれば、別の時間帯に負担が移ることもある。
だから、自分の判断には根拠があると思っていた。
ただ、その根拠がどこまで全体を覆っていたのか。そこを考えることは、あまりなかった。
日勤の現場で目にする荷物と、夜勤の現場で処理される荷物は、到着する便も、集中する時間も同じではない。日勤の忙しさを知っていることは、夜勤の忙しさまで知っていることにはならない。
それでも私は、自分が知っている現場の感覚を、全体を判断するための尺度として使っていた。
自分が見ていない部分について、説明を受けて初めて知ることがある。そのとき必要なのは、説明が自分の感覚と合うかどうかだけで判断することではない。まず、説明された内容を確認し、実際の記録と照らし合わせることだ。
私も、頭ではそれを理解していたはずだった。
だが、説明が自分の判断と食い違うとき、私はその食い違いを、情報が足りないという問題よりも、説明する側の理解や姿勢の問題として受け取ることがあった。
相手は現場の一部しか見ていない。数字はすべてを表せるわけではない。こちらには全体を考える責任がある。
どれも、完全に間違った言葉ではない。
しかし、正しい言葉であっても、使い方によっては、確認を止めるための壁になる。
「現場の一部しか見ていない」と言うなら、自分が見ていない部分を確かめる必要がある。「数字はすべてを表せない」と言うなら、数字が表している範囲と表していない範囲を分ける必要がある。「全体を考える責任がある」と言うなら、その全体をどの情報で捉えているのかを示す必要がある。
言葉を口にしただけでは、検証したことにはならない。
私は、相手に説明を求めることはあっても、自分の判断がどの情報に支えられているのかを、同じ厳しさで問い直していたとは限らなかった。
その非対称さは、目立つ形では現れない。
会話の中では、こちらが質問し、相手が答える。こちらが疑問を挙げ、相手が資料を示す。表面だけを見れば、慎重に検討しているように見える。
けれど、質問が何度も繰り返される一方で、その答えが判断に反映されなければ、説明する側には別の景色が見えてくる。
何を示しても、また別の疑問が出てくる。説明しても、最初の判断は動かない。ならば、次はもっと詳しい資料を作らなければならない。そうして、説明する側の負担だけが増えていく。
私は、相手が資料を重ねることを、執拗さのように感じることがあった。
だが、説明が届いていないと感じた人間が、さらに説明しようとするのは不自然なことではない。
説明する側は、判断を覆すことだけを求めていたとは限らない。少なくとも、何が根拠になって判断されたのかを知り、実績が判断に反映される道筋を求めていた可能性がある。
私は、その可能性を十分に考えなかった。
自分が判断する立場にいることと、自分の判断が常に正しいことは、別の話だった。
判断する責任があるからこそ、判断の根拠を示す責任もある。経験があるからこそ、経験が及ばない範囲を知る必要もある。
それを認めたとしても、すべての提案を受け入れなければならないわけではない。資料に疑問があれば、確認すればいい。現場全体に不都合があるなら、その不都合を具体的に示せばいい。費用や人員の制約があるなら、条件を整理して説明すればいい。
必要なのは、無条件に相手を信じることではなかった。
自分の判断だけを、検証の外側に置かないことだった。
その違いに気づかないまま、私は説明する側に、説明し続けることを求めていた。




