第九節 必要ないものが、必要になる
六月二十二日に最終報告を提出したあと、七月になって、話が変わった。
日勤側でもタイミーが必要だという。夜勤側の勤務時間を短くし、その分を日勤側へ振り分ける方向で調整する。そういう話が出てきた。
私は、その説明を聞いて、まず状況が変わったのだろうと考えた。三月と七月では、荷物の量も、人員の配置も、仕事の進み方も違っている。現場は毎日同じではない。判断が変わること自体は、おかしなことではなかった。
そこまでは、今でも間違っていないと思う。
問題は、判断が変わったことではなかった。何が変わったから判断が変わったのか。その説明が、私の中でははっきりしなかったことだ。
三月には、午前五時三十分から六時三十分まで、夜勤と日勤が重なる一時間を設ける案があった。朝の荷物が集中する時間帯に、引き継ぎと作業の余裕をつくるためだった。だが、そのときは必要ないという判断で見送られた。
そして七月には、日勤側に人手が必要だという話が出て、夜勤側の時間を削って回す案が検討される。
三月に必要ないとされた一時間が、七月には別の形で必要になっていた。
私は、そこに矛盾があると感じた。けれど、その矛盾をどう扱うかは、別の問題だった。
業務量が変わったのなら、変化を確かめればいい。配置が変わったのなら、どこがどう変わったのかを見ればいい。作業分担が変わったのなら、その内容を並べて比べればいい。三月の判断と七月の判断を、同じ条件だと決めつける必要はなかった。
それでも、説明の空白が気になった。
なぜ、三月には必要ないとされたのか。なぜ、七月には夜勤の時間を短くする方向になったのか。判断の基準は同じだったのか。誰が、どの情報をもとに考えたのか。
そうした疑問は、業務を検証するためのものだったはずだ。
だが、私はいつしか、疑問の向け先を変え始めていた。
説明が足りないことを確かめるより、説明する人間が何を考えているのかを疑う。判断の根拠を探すより、なぜこちらに異議を唱えてくるのかを考える。
そのほうが、簡単だったのかもしれない。
判断の根拠を確かめるには、自分が知らない情報がある可能性を認めなければならない。自分の理解が足りていないかもしれないと考え、これまでの見方をいったん脇へ置く必要もある。
一方、相手の態度や言い方に問題があると考えれば、自分の判断を動かさずに済む。相手の説明の仕方を問題にすれば、説明された内容そのものに向き合うのを先送りできる。
私は、自分がそんなことをしているとは思っていなかった。
むしろ、慎重に見極めているつもりだった。現場の声をそのまま受け取るのではなく、全体を考える。ひとつの数字だけで決めない。人員配置には費用もあり、日勤側の事情もある。簡単に結論を出すべきではない。
どれも、管理する側が考えるべきことだった。
だからこそ、その言葉は自分を守るのにも都合がよかった。慎重さを理由に、確かめるべきことまで保留にできる。全体を見るという言葉で、自分が見ていない部分をそのままにできる。
私は、判断を変えないことと、軽率に判断しないことを、いつの間にか同じものとして扱っていたのかもしれない。
けれど、本当は違う。判断を変えないことが慎重さなのではない。新しい情報が出てきたときに、以前の判断と照らし合わせ、必要なら見直すこともまた慎重さの一部だった。
三月と七月の判断が違っていたとしても、それだけで誰かが間違っていたと決まるわけではない。状況が変わったのなら、変わった理由を確認すればいい。基準が変わったのなら、その理由を確かめればいい。
必要だったのは、誰かを責めることではなかった。
それなのに私は、説明の空白を前にして、そこを埋める事実より先に、相手についての解釈を置こうとしていた。
その瞬間、話し合うべき対象は、少しずつずれていく。
夜勤と日勤の間に、どれだけの荷物があり、どの時間に作業が集中し、誰が何を担っているのか。そうした問いから、相手はなぜこの話を持ち出すのか、なぜ納得しないのか、という問いへ。
問いが変われば、集める情報も変わる。
業務を知るために記録を見るのではなく、相手を疑う理由を探すために、記録の不完全さを探す。判断を検証するために経験を使うのではなく、判断を維持するために経験を持ち出す。
その違いは、外から見れば小さなものだったかもしれない。私自身にも、はっきりとは見えていなかった。
私は、日勤を守るために考えているつもりだった。現場全体を混乱させないために、慎重に判断しているつもりだった。
だが、守ろうとしていたものの中には、現場の安定だけでなく、自分が一度下した判断も含まれていた。
それを認めないままでは、三月と七月の違いを、本当の意味で確かめることはできなかった。




