第八節 報告書を受け取る側
資料が一枚、また一枚と増えていく。
最初は、現場からの説明だった。次に、時間帯ごとの実績が並び、荷物の個数や重量が整理され、夜勤と日勤の比較が加わった。感覚だけでは伝わりにくいことを、数字で示そうとしている。その意図は、分からないわけではなかった。
それでも、資料を開いたとき、私は最初から内容だけを見ていたわけではなかった。
どこまで調べたのか。何を根拠に比較したのか。数字の取り方に抜けはないか。条件はそろっているのか。
確認するべき点はいくつもある。資料を判断材料にするなら、集計の範囲や方法を確かめるのは当然だった。数字が整って見えるからといって、そのまま結論まで受け入れてよいわけではない。
私は、そう考えながらページをめくった。
三月から五月までの実績では、荷物量の割合は夜勤が約六割、日勤が約四割と整理されていた。私が日々見ている景色だけでは、そういう比率を実感することは難しかった。日勤に出てくる荷物には日勤なりの忙しさがあり、目の前の仕事をこなしていれば、一日全体の流れまで意識する余裕はない。
だから、数字を見て確認する意味はあった。
その一方で、私はすぐに別のことを考えた。何をもって荷物量としたのか。便の種類はどう扱ったのか。到着時間と処理時間は区別されているのか。夜勤と日勤では、目にする荷物の流れそのものが違うのではないか。
どれも、確認してよい問いだった。
ただ、問いを並べることと、実際に確認することは違う。確認するなら、資料の作成者に具体的に尋ね、条件をそろえて再計算し、異なる見方があれば並べて検討すればいい。疑問があることは、資料を退ける理由ではなく、次に確かめる場所を示すものだった。
私は、その違いを分かっているつもりだった。
しかし、問いを口にするだけで、すでに検証をしたような気持ちになることがあった。疑問点を挙げれば、資料をうのみにしていないことになる。数字の限界を指摘すれば、経験を踏まえて慎重に判断していることになる。
そのあいだに、数字が示していることを正面から受け止める作業は、後ろへ下がっていた。
資料を作った人間は、何度も説明しようとしていた。少なくとも、私にはそう見えた。だが、繰り返し説明することを、私は必ずしも熱意として受け取らなかった。なぜ、そこまで説明する必要があるのか。なぜ、一度の判断で納得しないのか。なぜ、こちらがすでに考えたことを、もう一度取り上げるのか。
私は、相手の態度を理解しようとしているつもりだった。
けれど、そこには一つ、抜けていた問いがあった。
相手が何度も説明しなければならなかったのは、最初の説明で問題が解決していなかったからではないのか。
その可能性を考えるには、こちらの対応を振り返らなければならない。説明を受けたあと、何を確かめたのか。何を確認せずに判断したのか。必要ないとした理由は、実際の荷物量や人員配置と照らし合わせられていたのか。
そこまで戻れば、資料は単に相手の主張を支える道具ではなくなる。こちらの判断を点検する材料にもなる。
だが、その読み方は、私にとって居心地のよいものではなかった。
私は、判断をする側だった。現場全体を考え、費用や人員の制約を見ながら、実行できる形にまとめる。それが自分の役割だと思っていた。現場の一部分だけを見ている人間の意見に、そのまま従うわけにはいかない。そう考えることには、確かな理由があった。
だからこそ、自分の判断がどこまで確かめられていたかを問うことは、単なる資料の確認では済まなかった。
私はそのことを、まだ認めていなかった。
数字に不足があれば指摘すればいい。経験と合わなければ、その違いを確かめればいい。資料に誤りがあれば、修正を求めればいい。そうした検証を進めるほど、判断の根拠は明確になるはずだった。
ところが、私の中では、検証の入口と出口がいつの間にか逆になっていた。
資料を読んで、何が分かるかを確かめるのではない。資料を読んで、受け入れなくてもよい理由があるかを探す。
自分では、その違いに気づかなかった。
資料の数字が正しいかどうかは、確かめる必要がある。だが、数字を示した人間がなぜそれを示したのかという問いは、数字の正しさとは別の問題だった。
その二つを一緒にしてしまえば、相手に疑わしいところがあると感じるだけで、数字を十分に確かめないままにできる。
そして私は、そうした読み方を慎重さと呼んでいた。




