第七節 正しさが人を遠ざける
人は、正しいと思っていることを、わざわざ疑おうとはしない。
自分には経験がある。現場を見てきた。判断するだけの理由もある。そう思っていれば、異なる意見が出てきたとき、まず考えるのは、自分の判断が間違っている可能性ではなく、相手の説明に足りないものがある可能性だった。
私は、相手の言い分を聞いていなかったわけではない。
資料も見た。数字も確認した。提案の内容も分かっていた。だから、自分なりに検討しているつもりだった。
ただ、相手が何を説明しているのかを聞くことと、相手がなぜそれを説明しようとしているのかを疑うことは、同じ場面の中で起きていた。
話の内容を確かめる前に、話を持ち出した理由を考える。数字の意味を検討する前に、数字を並べた意図を推測する。そうした考え方が、私の中では、慎重な判断の一部になっていた。
相手の言うことをすべて受け入れる必要はない。それは当然だ。仕事の現場では、主張が食い違うこともある。資料に不備があることもある。提案が実行できないこともある。だからこそ、判断する側には、内容を吟味する責任がある。
しかし、吟味することと、最初から距離を置くことは違う。
私は、その違いを意識していなかった。
相手が数字を示すたびに、私は、数字の裏に何があるのかを考えた。集計の仕方に問題はないか。比較する条件は適切か。現場の事情を十分に分かっているのか。そうした問いは、どれも必要なものだった。
けれども、同じように、自分の見方にも問題がないかと考えただろうか。
自分が知っている範囲だけで全体を判断していないか。これまでのやり方を、理由を確かめないまま正しいものとして扱っていないか。数字が示した結果を受け止める前に、受け入れなくてよい理由を探していないか。
私は、そうした問いを、相手に向けるほどには自分に向けていなかった。
相手の主張には、確認が必要だった。自分の判断には、経験があった。
その違いが、私には大きく見えていた。
経験は、目の前の状況を理解する助けになる。過去に起きたことを知っていれば、同じような問題を予測できる。何が現場の負担になるのか、どこに無理が生じるのか、実際に働いてきた人間だから分かることもある。
だが、経験があるからといって、いつでも正しいとは限らない。経験は、見てきたものを教えてくれる一方で、見てこなかったものを教えてはくれない。
私は、そのことを、一般論としてなら理解できたと思う。
けれども、自分の判断について考えるときには、その一般論を適用しなかった。
相手の説明が自分の経験と合わなければ、相手が現場を十分に知らないのだと考えた。自分の経験と合わない数字があれば、数字の見方に問題があるのだと考えた。自分の判断を変えるより、その判断を維持できる説明を探すほうが、自然だった。
私は、相手を遠ざけようとしていたわけではない。
少なくとも、そう思っていた。
必要な確認をしているだけだ。現場の混乱を防ごうとしているだけだ。簡単に方針を変えないようにしているだけだ。私には、そう説明できる理由があった。
だが、相手から見れば、どうだっただろう。
資料を作り、数字をそろえ、提案の理由を説明する。そこで返ってくるのが、数字の不足を指摘する言葉や、提案した理由への疑いばかりだったとしたら。自分が伝えようとしている問題ではなく、自分がなぜそれを伝えようとしているのかを問われ続けたとしたら。
相手は、何を説明すればよいのか分からなくなったかもしれない。
荷物の量を示せば、個数だけでは判断できないと言われる。時間帯を示せば、作業の内容が違うと言われる。人員配置を説明すれば、現場には数字に表れない事情があると言われる。
それぞれの指摘には、確かに一理ある。
しかし、どこまで説明すれば、判断の前提そのものを見直してもらえるのか。その基準が見えなければ、説明する側は、同じことを何度も証明しなければならなくなる。
私は、相手が資料を重ねていくことを、不思議に思っていた。
なぜ、そこまで細かく調べるのか。なぜ、一度の説明で終わらないのか。なぜ、これまでの判断に納得しないのか。
だが、説明しても判断が動かないと感じていたなら、相手にとって、資料を増やすことは自然な選択だったのかもしれない。
もちろん、相手が実際に何を感じていたのか、私は知らない。確かめたわけでもない。
ただ、少なくとも、私は、相手が示した内容よりも、相手がそれを示す姿勢に注意を向けるようになっていた。
その結果、相手の説明は、私にとって、現場を理解するための材料であると同時に、警戒すべきものにもなっていった。
相手が何を言っているかだけではなく、なぜ言っているのか。どこまで話を広げるつもりなのか。誰に何を認めさせたいのか。
その問いが増えるほど、相手の言葉を、そのまま受け止めることは難しくなった。
私は、冷静に判断しているつもりだった。感情で決めるのではなく、資料を見て、条件を確かめ、現場の事情を考える。そうしているのだから、むしろ慎重なのだと思っていた。
しかし、慎重さが相手への不信と結びつけば、どんな説明も、疑いの対象になり得る。
疑うこと自体が悪いわけではない。問題は、疑いを向ける方向が偏っていくことだった。
相手の数字は疑う。相手の経験は疑う。相手の意図も疑う。
その一方で、自分の経験や判断の前提は、同じようには疑わない。
それでは、検証しているように見えても、実際には片側だけを検証していることになる。
私は、自分がそんなことをしているとは考えていなかった。
むしろ、自分こそが、現場の事情を踏まえて冷静に判断していると思っていた。だから、相手の主張をそのまま受け入れないことは、責任ある態度だと考えていた。
けれども、責任ある態度であるかどうかは、疑問を持った回数では決まらない。
何を疑い、何を確かめ、何を確かめないままにしているのか。その違いが、判断の質を決める。
私は、相手の説明に不足があるかどうかを考え続けた。
そのあいだ、自分の判断に不足があるかどうかを、同じ熱心さで確かめることはなかった。
そのことに気づいていたなら、何かが変わっただろうか。
今となっては、分からない。
そのときの私は、自分が相手を遠ざけているとは思っていなかった。ただ、正しい判断をするために必要なことをしている。そう信じていた。
そして、その正しさを守ろうとするほど、相手が伝えようとしていた問題は、私から遠ざかっていった。




