第六節 資料が問い返してくるもの
資料を読むときには、数字だけを見ればいいわけではない。
何を集計したのか。どの期間を対象にしたのか。どの時間帯で区切ったのか。比較する数字は、同じ条件で並べられているのか。そこを確かめなければ、数字が正しくても、結論を誤ることがある。
私は、そのことを分かっているつもりだった。
だから、資料を見るなら、まず条件を確認する必要がある。夜勤と日勤を比べるのであれば、どの時間帯に到着した荷物を、どちらの勤務帯の実績として扱っているのか。個数だけなのか、重量も含めているのか。荷物の種類や作業内容の違いは、どのように考慮しているのか。
そうした点を確かめることは、資料を否定するためではない。正しく判断するために必要な作業だ。
ただ、私は、その作業をどこまで本来の目的に沿って行っていただろうか。
資料の数字が自分の認識と一致していれば、私は、それを現場の実態を示す材料として受け止めただろう。だが、数字が自分の認識と違っていたときには、まず、どこかに見落としがあるのではないかと考えた。
その疑問を持つこと自体は、おかしくない。
問題は、疑問を持ったあとだった。
集計条件を確認し、違いがあれば整理する。数字だけでは分からない作業があるなら、その内容を調べる。実際の人員配置と、荷物の処理に従事できる人数が違うなら、その差を確認する。そうやって、分からないことを一つずつ確かめていけばよかった。
しかし、私は、確かめるべきことが残っているという事実を、自分の判断を変えなくてよい理由として扱い始めていた。
条件が分からない。現場の事情が十分に反映されていない。数字だけでは仕事の負担を測れない。どれも、検証の入口にはなる。
けれども、入口に立ったまま、先へ進まないこともできる。
分からないことがあるから、判断を保留する。それなら、まだよかったのかもしれない。
私の場合は、分からないことがあるから、相手の主張をそのまま受け入れる必要はない、と考えていた。
そこには、小さな違いがあるようで、実際には大きな違いがあった。
夜勤と日勤の荷物量を比較する資料が示されたとき、私は、まず数字の見方に目を向けた。個数が多いとしても、重量や作業内容は違うかもしれない。時間帯によって、荷物の集中の仕方も異なる。ひとつの割合だけで、どちらの負担が大きいかを決めることはできない。
その指摘は、必要だった。
しかし、その指摘をしただけでは、夜勤の実態が分かったことにはならない。個数だけでは足りないというなら、重量も見ればいい。作業内容が違うというなら、何がどのように違うのかを確認すればいい。人員配置に問題があるかどうかを判断するなら、名目上の人数だけでなく、実際に荷物の処理に当たれる人数を確かめればいい。
数字に不足があるなら、追加で調べればいい。
それは、相手の資料を否定することとは違う。
私は、その違いを理解しているつもりだった。けれども、実際には、数字に不足があることを示すだけで、数字が示した問題そのものを先送りできるようになっていた。
資料を作った側は、現場のすべてを知っているわけではない。そう考えることはできる。だが、私もまた、現場のすべてを知っているわけではなかった。
自分の目で見ている範囲がある。経験から分かることがある。その一方で、自分の目が届いていない時間帯もある。自分が直接作業していない仕事もある。自分が把握していない負担もある。
その可能性を、私は相手と同じように、自分にも当てはめる必要があった。
しかし、相手の資料に対しては、見落としがあるかもしれないと考えたのに、自分の認識に対しては、同じ程度の疑いを向けていなかった。
相手には、現場を十分に理解していない可能性がある。自分には、現場を長く見てきた経験がある。
私は、その違いを、自分の判断が正しいことの裏付けにしていた。
経験は、確かに大切だ。だが、経験がある人間にも、見落としはある。長く同じやり方を続けていれば、そのやり方が前提になり、別の方法を考える機会が少なくなることもある。
何年も問題なく続いてきたように見える運用でも、実際には、誰かが無理をして補っていたのかもしれない。人員が足りない時間帯を、現場の工夫や個人の努力で埋めていたのかもしれない。何とか回っていることと、適正な配置であることは同じではない。
私は、その可能性を、どこまで考えていただろう。
資料は、単に数字を並べたものではなかった。少なくとも、私にとっては、これまで当然だと思っていた見方を問い直す材料になり得るものだった。
夜勤の荷物は少ない。早朝の負担は、夜勤側の工夫で対応できる。人員を重ねる必要はない。
そうした考えが、実際の数字や作業の状況と合っているのか。資料は、そのことを確かめるきっかけになっていた。
しかし私は、資料が問いかけている内容よりも、資料を出してきた人間の姿勢を気にするようになっていた。
なぜ、そこまで調べるのか。なぜ、これまでの判断にこだわって異議を唱えるのか。なぜ、数字を並べてまで説明しようとするのか。
そうした疑問に答えが出たとしても、夜勤の荷物量が変わるわけではない。早朝に何人が実際の作業に当たれるのかという問題も、それだけでは解決しない。
相手の意図を考えることと、現場の実態を確かめることは、別の作業だった。
私は、その二つを混ぜていた。
相手の説明に納得できないと感じると、資料にも納得できない理由を探した。資料の数字に疑問があると、作成した人間の考え方にも疑問を持った。そうして、ひとつの疑問が、次の疑問を呼んでいった。
その間にも、現場の仕事は続いていた。
荷物は到着する。人は配置される。時間が来れば、次の勤務帯へ仕事を引き継ぐ。運用が適切かどうかという問いは、誰かが納得するまで待ってくれるわけではない。
判断を保留するにも、理由がいる。判断を維持するにも、理由がいる。
私は、提案を採用しない理由を持っているつもりだった。
けれども、その理由は、現場の実態を確かめた結果だったのか。それとも、これまでの判断を維持するために、後から積み上げていたものだったのか。
その違いを見分けるには、資料の数字だけでなく、自分の判断の作り方も見直さなければならなかった。
私は、まだそこに手をつけていなかった。
資料に足りないものを探すことはできる。相手の説明に不足があることを指摘することもできる。だが、自分が見ていないものを認めることは、それより難しかった。
自分の判断を疑うということは、これまでの経験をすべて否定することではない。
それでも私は、判断を見直すことと、これまでの自分を否定することを、どこかで重ねていたのかもしれない。
だから、数字を確かめるよりも、数字を出してきた人間を気にした。
そして、相手が何を考えているのかを推測することで、自分が確かめるべきことから、少しずつ離れていった。




