第五節 判断を守るということ
判断をする立場にいる以上、決めなければならないことはある。
すべての意見を聞き、すべての可能性を検討し、誰もが納得するまで待っているわけにはいかない。現場は毎日動いている。荷物は到着し、仕事は始まり、時間になれば次の勤務帯へ引き継がなければならない。判断を先送りすることも、ひとつの判断になってしまう。
私は、そう考えていた。
だから、何かを決めたあとに、その判断を簡単に変えるべきではないとも思っていた。一度決めたことをすぐに覆せば、現場が混乱する。昨日と今日で方針が変われば、働く人間は何を基準に動けばいいのか分からなくなる。決めたことを維持するのも、管理する側の役割だ。
それは、もっともらしい考えだった。実際、方針を頻繁に変えれば、現場に負担が生じることもある。
ただし、方針を維持することと、その方針が今も妥当かどうかを確かめることは、両立できるはずだった。
私は、その二つを、いつの間にか反対のものとして考えるようになっていた。
三月に出された、午前五時三十分から一時間、夜勤と日勤の勤務時間を重ねるという提案。あのとき、私は必要性を感じなかった。勤務の組み方には全体の調整が必要だし、ひとつの時間帯だけを切り取って変更することが、必ずしもよい結果につながるとは限らない。そうした判断には、理由があった。
問題は、その理由を持っていたことではない。
その理由を、どこまで確かめていたのかということだった。
早朝にどれだけの荷物が到着するのか。荷物が集中する時間帯に、実際に何人が処理に当たれるのか。点呼やほかの付随業務によって、荷物の処理から離れる人間がどれほどいるのか。そうした条件を確かめたうえで、重複時間は必要ないと判断したのか。
それとも、これまでの運用で何とか回ってきたという経験から、今回も必要ないと考えたのか。
私は、その違いを十分に意識していなかった。
経験を基に判断することは、悪いことではない。毎日の仕事を見てきたからこそ、資料に表れない事情を知っていることもある。数字だけでは分からない部分があるという指摘も、間違いではない。
しかし、経験は、確かめることの代わりにはならない。
自分が見てきた範囲で問題が起きていなかったとしても、見ていない範囲に問題がなかったことにはならない。何とか回っていたという事実だけでは、その運用が最も適切だったとも言い切れない。
それでも、私は、これまでのやり方を変える必要があるとは思わなかった。
変える必要があると認めるには、これまでの判断に足りないものがあったと認めなければならない。もちろん、過去の判断がすべて間違っていたということではない。状況が変われば、必要な人員も変わる。新しい数字が出てきたなら、それを基に検討し直すこともできる。
頭では、そう考えることができた。
だが、実際に自分の判断を見直すとなると、話は別だった。
これまで自分が正しいと思ってきたこと。自分の経験を根拠にしてきたこと。現場を知っているから判断できると思ってきたこと。それらをいったん脇に置き、目の前の資料を基に、もう一度考え直す。
その作業は、単に勤務表を変えるかどうかを決めることよりも、ずっと面倒だった。
そして、面倒なことを避けるとき、人間は必ずしも、避けているとは思わない。
別の問題を考える。条件が足りないと言う。資料の見方に疑問を持つ。現場には数字に表れない事情があると説明する。どれも、それだけなら必要な確認であり、妥当な指摘にもなり得る。
だが、それらを並べることで、判断そのものを見直さずに済むなら、確認はいつしか別の役割を持つ。
私は、慎重に判断しているつもりだった。
相手の資料をそのまま受け入れないこと。数字の意味を考えること。現場の事情を忘れないこと。それらは、管理する立場として当然のことだと思っていた。
ただ、その慎重さが、相手の示した事実を検討するために働いていたのか。それとも、自分の判断を変えないために働いていたのか。
私は、その問いを立てていなかった。
相手が数字を示すたび、私は、その数字の不足を探した。相手が説明を重ねるたび、なぜそこまでこだわるのかを考えた。自分の判断が妥当かどうかより、相手の主張をそのまま受け入れてよいのかどうかが気になっていた。
そして、そのことを、自分の責任を果たすためだと考えていた。
判断を守ることは、現場を守ることだ。
私は、そう信じていた。
けれども、判断を守ることが目的になったとき、現場の実態は、その判断を支える材料としてしか見えなくなる。
自分の考えに合う事実は、経験の裏付けになる。合わない事実には、条件の違いや見落としがないかを探す。慎重さという言葉を使えば、どちらも同じ作業のように説明できる。
だが、同じではない。
事実を確かめるために疑うのか。自分の判断を守るために疑うのか。
その違いは、外から見れば小さなものに見えるかもしれない。どちらも資料を読み、条件を確認し、相手の説明を聞いているように見えるからだ。
しかし、最初から結論を変えるつもりがなければ、どれだけ確認しても、判断は変わらない。確認は、結論を検証するためではなく、結論を維持する理由を増やすために続いていく。
私は、自分がそうなっているとは思っていなかった。
私は現場を知っている。経験がある。判断には理由がある。相手の資料にも、まだ確認すべき点がある。
ひとつひとつは、どれも不自然ではなかった。
だからこそ、自分の判断が揺らいでいることに気づきにくかった。
本当に確かめるべきだったのは、相手がなぜ数字を出してきたのかではない。数字が示している現場の姿は、これまで自分が考えていたものと、どこが違うのかということだった。
その違いを確かめたうえで、提案を採用しないという結論に至ることも、もちろんあり得た。
ただ、その場合には、数字を見たうえで、なぜ採用しないのかを説明する必要がある。これまでそうしてきたから、という理由だけでは足りない。少なくとも、これまでのやり方が、今も適切であることを確かめなければならない。
私は、そこまで考えていただろうか。
その問いは、まだ、私の中では形になっていなかった。
私が考えていたのは、相手の資料をどう評価するかであり、相手が何を変えようとしているのかということだった。
そして、気づかないうちに、もうひとつのことを避けていた。
自分の判断を、もう一度、最初から確かめることだった。




