第四節 自分が見ている範囲
日勤には、日勤の忙しさがある。
それは間違いのないことだった。
朝になれば荷物が動き、人が動き、次々と対応しなければならないことが出てくる。夜のうちには見えなかったものが、日が昇ると一気に目の前に現れる。日勤で働く人間には、日勤で働く人間にしか分からない苦労がある。
私は、そのことを疑っていなかった。自分の目で見ている。自分の経験がある。毎日、現場で何が起きているかを知っている。そう思っていた。
だから、日勤の忙しさを説明することはできても、夜勤の忙しさを同じ精度で説明できるかと問われれば、話は別だった。
だが、その違いを、私は深く考えなかった。
自分が見ている範囲が、現場全体の姿に近い。少なくとも、そう考えることに不自然さはなかった。
日勤で扱う荷物には、日勤の時間帯に到着するものがある。夜勤には、夜勤の時間帯に到着するものがある。荷物の流れが違えば、仕事の見え方も違う。
本来なら、そこから考え始めるべきだった。
しかし、人間は、自分の知らない仕事を想像するより、自分の知っている仕事を基準にして考えるほうが楽なのだ。
日勤が忙しい。だから、日勤の人員が足りないのではないか。
夜勤にも忙しい時間帯があるのかもしれない。だが、それは夜勤の側で工夫すべき問題ではないのか。
そんなふうに考えれば、話は簡単になる。
自分が知っている現場の問題は、現場の問題として扱える。自分が十分に知らない現場の問題は、そこにいる人間の工夫や努力に委ねることができる。そうすれば、自分の判断を大きく見直す必要はない。
私は、そこまで意識して考えていたわけではなかった。
ただ、日勤の忙しさは分かっていた。夜勤の忙しさについては、自分が日勤について知っているほどには分かっていなかった。
そして、その差を、私は自分の判断を慎重にする理由ではなく、夜勤側の主張をそのまま受け入れなくてよい理由にしていた。
知らないことを、判断できないこととして扱うのではなく、相手の言うことを簡単には信じられないこととして扱っていたのだ。
もちろん、私は自分のことをそんな人間だとは思っていなかった。
現場を知っている人間が、現場の実情を踏まえて判断する。それのどこが間違っているのか。私には、そう言えるだけの経験があると思っていた。
経験は、確かに判断の助けになる。
ただし、経験があることと、全体を把握していることは同じではない。
その違いを、私はまだ、自分の問題として考えていなかった。
資料に示された数字は、私がそれまで抱いていた印象とは違っていた。三月から五月までの実績では、夜勤帯が取扱個数のおよそ六割、日勤帯がおよそ四割を占めていた。
少なくとも、荷物の個数を単純に比べる限り、夜勤の取扱量が日勤より少ないという見方とは一致していなかった。
だが、現場の仕事は、荷物の個数だけで決まるわけではない。荷物の重さもある。到着する時間帯もある。荷物が集中する時間もある。荷物を処理する人間が、常にその作業だけをしているとは限らない。
個数が多いからといって、直ちに負担が大きいと断定できるわけではない。
私は、そう考えた。
それ自体は、間違いではなかった。
数字を読むときには、集計の条件を確かめなければならない。比較する対象が同じなのか。何を数え、何を数えていないのか。数字だけでは分からない事情があるのではないか。そうした確認は必要だ。
しかし、私はそこで、もう一歩先へ進んでしまった。
数字に不足があるかもしれない。だから、数字を出した人間の見方にも問題があるのではないか。
その二つは、本来、分けて考えるべきだった。
資料の集計条件に疑問があるなら、条件を確かめればいい。数字だけでは判断できない部分があるなら、その部分を追加で調べればいい。
ところが私は、資料の不十分さを考えるうちに、資料を作った人間そのものを疑うようになっていた。
この人間は、何を分かっていて、何を分かっていないのか。自分たちの仕事を、どこまで正確に理解しているのか。数字を示すことで、何を認めさせようとしているのか。
いつの間にか、確認すべきものが変わっていた。
私は、現場の実態を確かめているつもりだった。
けれども、実際には、目の前に出された数字を、これまでの自分の判断とどう両立させるかを考え始めていたのかもしれない。
数字が正しいなら、これまでの見方を修正する必要がある。数字に不足があるなら、その不足を指摘すればいい。
どちらにしても、私は自分の判断をそのまま維持できる理由を探していた。
そのことに気づかなければ、検証はいくらでも続けられる。一つの疑問に答えが出ても、別の疑問を見つければいい。条件が足りないと言い、現場には数字に表れない事情があると言い、経験しなければ分からないことがあると言えばいい。
それらは、どれも間違いとは限らない。
だからこそ、都合よく使うこともできる。
私は、数字を軽視していたわけではなかった。ただ、数字が自分の考えと一致しないとき、その数字を受け入れることよりも、受け入れなくてよい理由を探すほうへ、少しずつ傾いていた。
そして、その変化を、私は慎重さだと思っていた。
夜勤の人間が何を考えているのか、分からなくなっていた。
最初は、人員配置の話だったはずだ。どの時間帯に、どれだけの荷物が到着するのか。何人いれば処理できるのか。どこに負担が集中しているのか。そうしたことを確認し、必要であれば配置を見直す。それだけの話だった。
だが、資料が増えるにつれて、話は単純ではなくなっていった。
夜勤の取扱量は、私が思っていたほど少なくない。早朝には荷物が集中する。しかも、帳簿上の人数と、実際に荷物の処理に使える人数は同じではない。点呼や付随する作業に人手を取られれば、配置されている人数がそのまま処理能力になるわけではなかった。
一つひとつを見れば、理解できない話ではなかった。
それでも、私は素直に受け止められなかった。
なぜ、ここまで細かく調べる必要があるのか。なぜ、これまでのやり方では不十分だと言わなければならないのか。なぜ、自分たちの仕事を説明するだけではなく、会社の判断そのものにまで踏み込もうとするのか。
私は、そんな疑問を持つようになっていた。
夜勤の負担を軽くしたいだけなら、現場で相談すればいい。人員が足りないなら、その時間帯の状況を説明すればいい。
それなのに、資料を作り、数字を集め、過去の判断と照らし合わせる。そこまでしなければならない理由が、私には分からなかった。
いや、分からなかったというより、分かろうとしていなかったのかもしれない。
もし、相手が単に人手を増やしてほしいと言っているだけなら、こちらも必要性を判断すればいい。必要なら対応し、必要がなければ説明すればいい。
しかし、相手が数字を使って、これまでの判断の前提そのものを問い直そうとしているのだとしたら、話は変わってくる。
その資料は、単なる要望書ではなくなる。これまで何を根拠に判断してきたのか。誰が現場の実態を把握していたのか。なぜ、その配置が妥当だと考えられていたのか。そうした問いまで、こちらに返ってくることになる。
私は、そこに居心地の悪さを感じ始めていた。
ただし、その居心地の悪さを、自分の判断が揺らいでいるからだとは考えなかった。むしろ、相手のやり方に問題があるのではないかと思った。
現場の運用には、数字だけでは判断できない事情がある。長く働いてきた人間にしか分からないこともある。机上の分析だけで、すべてを決められるわけではない。
それは、そのとおりだった。
けれども、数字だけで決められないことと、数字を使って確かめる必要がないことは違う。
私は、その違いを見失いかけていた。
相手の資料に不備があれば、それを指摘すればいい。数字の読み方に問題があれば、別の見方を示せばいい。
それなのに、私は、なぜ相手がそこまでやるのかを気にしていた。
相手が何を証明しようとしているのか。誰の判断を変えようとしているのか。そして、どこまで話を広げるつもりなのか。
資料の内容を確かめることよりも、資料を持ってきた人間の意図を読み取ることに、注意が向いていた。
私は、相手を警戒しているつもりだった。現場を守るためには、簡単に相手の主張を受け入れるわけにはいかない。そう考えていた。
だが、何から現場を守ろうとしていたのだろう。
仕事の混乱か。不必要な人員変更か。それとも、これまで自分たちが正しいと考えてきた判断を、見直さなければならなくなることか。
私は、その三つを区別していなかった。
区別しないまま、すべてを現場のためだと考えていた。
そのほうが、自分にとっては都合がよかった。自分の判断を守ることと、現場を守ることが、同じ意味になっていたからだ。
そして私は、相手の資料を検証するという名目で、相手そのものを疑うようになっていた。
そのときの私は、まだ、それを間違いだとは思っていなかった。




