第二節 午前五時三十分からの一時間
三月に、夜勤と日勤の勤務時間を一時間だけ重ねる案が出た。
午前五時三十分から、午前六時三十分まで。
朝に荷物が集中するのであれば、その時間帯に人員を重ねる。夜勤の仕事が日勤の時間帯にずれ込むことも減らせる。考え方は分かる。分からないわけではなかった。
ただ、私は、そこまで必要なのだろうかと思った。
夜勤は午前六時まで。日勤は午前六時から始まる。勤務時間は、すでにつながっている。わざわざ三十分早く来てもらい、さらに三十分重ねる。その一時間に、どれだけの意味があるのか。
人を配置するということは、時間を埋めれば済む話ではない。人を増やせば費用もかかる。必要性を説明できなければ、いつまでも続けられるものではなかった。
それに、夜勤だけを見て決めるわけにもいかない。日勤にも仕事があり、そこで働く人間にも事情がある。夜勤の負担を減らすことが、そのまま全体にとって最善の方法になるとは限らない。
私は、全体を考えていた。少なくとも、そのつもりだった。
午前六時を過ぎても仕事が残ることはある。しかし、それは勤務時間を重ねるだけで解決する問題なのだろうか。荷物の到着が遅れたのかもしれない。作業の進め方に問題があったのかもしれない。日によって状況が違うこともある。
一時間重ねれば解決する。そう簡単に言えるものではなかった。
だから、必要ないと判断した。
当時の私には、それなりの理由があった。むやみに人員を増やさない。既存の勤務体制を基本に考える。限られた人員を、夜勤だけでなく全体の中で配置する。どれも、管理する側として間違った考えではない。
ただ、その判断を下す前に、私は何を確認しただろう。
午前五時台に、実際にどれだけの荷物が到着していたのか。その荷物を何人で処理していたのか。点呼や付随業務のために、仕分け作業から離れる人間がいたことを、どこまで考慮していたのか。
私は、それらを一つずつ確かめる必要があるとは、強く感じていなかった。
現場を見ていれば、おおよそのことは分かる。朝が忙しいことくらい、知らないわけではない。しかし、忙しいことと、人員を追加しなければ処理できないことは違う。そう考えていた。
数字があれば、判断の助けにはなるだろう。けれど、数字だけで現場のすべてが分かるわけではない。経験を積んだ人間には、その場の状況から判断できることもある。私は、そうした経験を無視してまで、数字に合わせる必要はないと思っていた。
その考え自体は、今でも理解できる。
問題は、経験で判断することと、経験によって自分の判断を検証しなくなることが、同じではないという点だった。当時の私は、その違いを意識していなかった。いや、意識する必要があるとさえ思っていなかった。
提案した側は、朝の荷物が集中することや、夜勤の仕事が日勤帯にずれ込むことを問題にしていたのだろう。
しかし、仕事が残るからといって、すぐに人員を重ねるという考え方でいいのか。まずは、今の体制でできることを考えるべきではないのか。
私は、提案そのものの妥当性を考えているつもりだった。必要性があるのか。費用に見合うのか。ほかの方法はないのか。管理する側として、当然の確認だと思っていた。
だから、必要ないと判断したことに、特別な問題があるとは感じなかった。提案を退けたという意識も、それほど強くはなかったのかもしれない。
ただ、今の段階では必要ない。それだけのことだった。
けれど、提案した側にとっては、そうではなかったのだろう。実際の仕事量を見てほしい。人員が足りているのか、確かめてほしい。経験や印象だけではなく、実績を基に考えてほしい。そうした思いがあったのかもしれない。
私は、その思いをどこまで理解していただろう。提案の内容は見ていた。しかし、その提案が出てきた背景まで、同じように見ていたとは限らない。
そして、必要ないと判断した後、私はその判断を検証するために、何をしただろう。実際の荷物量を確認しただろうか。時間帯ごとの処理状況を調べただろうか。人員が足りなかった日と、足りていた日を比較しただろうか。
それとも、これまでの経験から必要ないと考え、そのままにしていたのだろうか。
当時の私は、そこまで深く考えていなかった。
必要性が明確でないものを、簡単に認めるわけにはいかない。それは、管理する側としての責任だ。そう考えていた。
ただ、その責任には、もう一つの側面があった。必要ないと判断するのであれば、なぜ必要ないのかを、実際の状況に照らして確かめること。そして、当初の判断と異なる事実が見つかったなら、判断を改めること。
私は、その二つを同じ重さでは考えていなかった。
人員を増やすには理由が必要だ。それは、よく分かっていた。
しかし、人員を増やさない判断にも、同じように理由が必要だということを、どこまで意識していただろう。
午前五時三十分からの一時間。
その提案は、当時の私には、勤務時間を重ねる必要があるかどうかという話に見えていた。だが、提案した側が見ていたのは、それだけではなかったのかもしれない。
朝の荷物が集中すること。その荷物を処理する人員が限られていること。一人が別の業務に回れば、実際に作業できる人数が減ること。そして、仕事が残れば、次の勤務帯に引き継がれること。
そうした一連の流れを、どう考えるかという話だったのだろう。
私は、その一部を知っていた。けれど、一部を知っていることと、全体を把握していることは違う。そのことに、私はまだ気づいていなかった。
必要ないと判断した。その判断は、当時の私の中では、合理的なものだった。だからこそ、その後も私は、自分の判断を前提に考えることができた。
提案が受け入れられなかった側が、どのように受け止めたのか。なぜ、同じ話が何度も持ち出されることになるのか。そして、なぜ相手が、これまでの経験や感覚だけでは納得しなくなっていくのか。
その理由を考えるよりも先に、私は、自分の判断には理由があると考えていた。
その理由を確かめることよりも、自分の判断を維持することのほうが、いつの間にか自然になっていたのかもしれない。




