残ったのは、数字と判断の記録だった
振り返ってみれば、俺が続けてきたことは、特別なことばかりではなかった。
荷物の到着実績を集める。
便ごとに整理する。
曜日や時間帯による違いを調べる。
日勤と夜勤の業務量を比較する。
その結果を資料にまとめ、改善のための判断材料として提出する。
一つひとつを見れば、地道な作業だった。
だが、それまで感覚や経験則で語られることの多かった問題を、数字で確認できるようにするには、記録を積み重ねる必要があった。
一日だけ荷物が多かったからといって、それを通常の状態だとは言えない。
反対に、荷物が少ない日があったからといって、いつも少ないとも言えない。
曜日による違いもあれば、便ごとの違いもある。荷物が集中する時間帯もあれば、付随する作業に人手を取られる時間帯もある。
だから、一定期間の実績を集め、条件をそろえて比較する必要があった。
その作業を続けたことで、夜勤の仕事を単純に「荷物が少ないから人員も少なくてよい」と片づけることはできなくなった。
少なくとも、実際の荷物量や重量、時間帯ごとの集中状況を確認したうえで、配置の必要性を検討するための材料はそろった。
それは、俺たちが残したものだった。
ただ、資料が残ったからといって、それだけで現場が変わるわけではない。
数字を見ても、何を重視するかによって判断は異なる。
配置を変更することもできるし、変更しないという判断もできる。
しかし、どちらを選ぶにしても、実績を確認し、判断の根拠を整理し、実施後の結果を確かめることはできるはずだった。
俺が残したかったのは、特定の結論を永久に正しいものとして固定する資料ではない。
その時点での実態を示し、条件が変われば再び検証できる資料だった。
荷物量が変われば、必要な人員も変わるかもしれない。
便の到着時間が変われば、作業が集中する時間帯も変わるかもしれない。
新しい人員配置を導入すれば、それまでとは違う問題が生じる可能性もある。
だから、過去の分析結果をそのまま当てはめ続けるのではなく、新しい実績を加えながら判断を更新していく必要があった。
改善とは、一度答えを出して終わるものではない。
実態を確認し、判断し、結果を検証する。
その繰り返しだった。
そして、その作業を続けるためには、記録を作った人間がずっと現場にいなければならない、という状態を避けなければならなかった。
俺がいなくなったあとでも、誰かが数字を確認できる。
必要であれば、同じ基準で集計できる。
過去と現在を比較し、配置の変更が妥当だったかどうかを検証できる。
そこまでできて初めて、数字は個人の手元にある資料ではなく、現場の運用を考えるための共通の材料になる。
もちろん、それを実現するには、資料を保管するだけでは足りない。
実際に使い、判断に反映し、結果を確認する人が必要だった。
数字を残すことはできる。
判断材料を整えることもできる。
しかし、その材料を使い続けるかどうかまでは、俺一人では決められなかった。
数字を残すことと、数字を生かし続けること。その間には、組織の判断と行動があった。
俺が続けてきた仕事は、そこで一つの区切りを迎えようとしていた。




