どこまでやれば、十分なのか
俺は、できることを一つずつ進めてきた。
現場の荷物量を記録し、便ごとに整理し、時間帯別に分析した。
夜勤と日勤の実態を比較し、従来の認識と実際の数字に違いがあれば、その違いを説明できるようにした。
人員配置についても、ただ増やしてほしいと求めるのではなく、どのような業務が、いつ、どれだけ発生しているのかを示した。
タイミーの導入にあたっては、運用方法のたたき台を作り、配置人数や曜日ごとの条件についても検討した。
必要な資料を作り、報告し、改善案を提出する。
その過程で、少なくとも、以前は感覚や経験則だけでは見えにくかった勤務実態を、具体的な数字で確認できるようになった。
それは、俺たちが取り組んできた成果の一つだった。
だが、資料を作ることと、組織の判断を変えることは同じではない。
どれだけ詳しく分析しても、資料を受け取った側が、その内容を判断に使わなければ、現場の運用は変わらない。
改善案を提出しても、採用するかどうかを決めるのは別の立場にいる人間だった。
配置を変更する権限も、必要な人員を確保する権限も、俺たちがすべて持っていたわけではない。
それでも、問題が残っていれば、現場ではその問題に向き合い続けることになる。
荷物は毎日到着する。
人員配置が決まらなければ、その日の作業は現場で何とかしなければならない。
判断の理由が十分に共有されなくても、作業そのものが止まるわけではない。
だからこそ、現場で働く人間は、目の前の問題を放置できない。
しかし、目の前の問題に対応できることと、その問題を生み出している仕組みまで変えられることは違う。
俺は、その境界を考えるようになっていた。
自分にできることが残っているからといって、すべてを自分で解決できるわけではない。
説明が足りないのであれば、説明する。
数字が不足しているのであれば、記録を追加する。
分析に誤りがあれば、修正する。
それは当然のことだった。
自分の考えが正しいと決めつけず、反対の見方からも検証する必要がある。数字だけで説明できない事情があれば、それも考慮しなければならない。
俺自身の分析にも、限界はある。
だからこそ、確認できる事実と、そこから導いた推測を分けてきた。
ただし、必要な検証を重ね、説明できる材料をそろえたあとまで、現場の一人がすべての判断を引き受けることはできない。
提案を採用するかどうか。
どの勤務帯に、どれだけの人員を配置するのか。
変更した運用を、どのような基準で評価するのか。
そこには、判断する側の責任がある。
俺がその責任まで代わりに背負おうとすれば、できることとできないことの区別がなくなってしまう。
それでは、改善を一人の人間に依存させないという、これまでの取り組みとも矛盾する。
俺が残したかったのは、俺がいなければ動かない仕組みではなかった。
俺がいなくても、現場の実態を確認し、必要な対策を考え、実施した結果を検証できる仕組みだった。
そのために必要な記録と分析方法を残す。
判断に必要な事実を整理する。
そして、判断する側が使える形で渡す。
そこまでが、俺にできる仕事だった。
その先まで、自分一人の責任にする必要はない。
改善に責任を持つことと、組織の判断すべてに責任を負うことは違う。
俺は、ようやくその違いを整理できるようになっていた。




