勇者は答えを知らない 後編
食堂を出たあと、レオンは外郭宿舎の裏へ回った。
担架が三つ、壁際に並んでいた。
薬師が手を止め、彼を見る。
「トーマならそこだ」
布の端から靴が見えていた。
泥が乾き、底の模様が分からなくなっている。
朝、荷車へ乗るとき、トーマはその靴を車輪の縁へかけた。先に上がり、レオンへ手を伸ばした。
レオンは担架の横へしゃがんだ。
靴には触れなかった。
隣の兵が小さな木札に名を書いていた。
「家に知らせるんですか」
「ああ。書記が住所を確かめてる」
「副団長がいつも書くって」
兵は頷いた。
「今回はほかの者がやる」
レオンは担架を見た。
「俺も、何か」
言いかけて、止まった。
トーマが何歳だったかも知らない。家族がどこにいるかも知らない。
兵が木札を置いた。
「対岸で見たんだな」
レオンは頷いた。
「話してくれ。分かってる者が少ない」
川上から梁が来た。
トーマが老人を押し上げた。
岸が崩れ、姿が見えなくなった。
セレスティアが引き上げた。
それだけを話すのに何度か息を整えた。
兵は途中で質問し、レオンは分かることだけを答えた。
最後に、礼を言われた。
役に立ったと言われても、嬉しくはなかった。
帰りの廊下には濡れた綱が干されていた。レオンはそれを避け、壁へ背をつけた。
掌の包帯に赤いものが滲んでいた。
握り続けた綱の先にはヴァルターがいた。
自分と兵が引いたから、あの男は生きている。
今夜、セレスティアが殺すかもしれない男。
レオンは目を閉じた。
川でセレスティアに声をかけた。
セラ、ここ。
そう言うと、彼女はすぐに傷へ手を重ねた。
何を考えていたかは、聞かなかった。
殺すつもりの相手を助けながら、彼女は何を考えていたのだろう。
廊下の奥で足音がした。
顔を上げると銀髪が灯りの下を通った。
セレスティアは治療室の前で足を止めた。薬師から何か聞き、頷いた。
腰へ落ちた手が、剣の柄に触れる。
レオンは壁から離れた。
「セラ」
彼女が振り向いた。
「見舞いに行くのか」
「話をする」
「そのあと?」
セレスティアは、すぐには答えなかった。
レオンは近づいた。
扉の内側から、低い咳が聞こえた。
「まだ、殺した方がいいと思ってる?」
「うん」
あまりに普通の返事だった。
レオンは息を吐いた。
「今日、あの人がしたことを見ても?」
「前にも、そういう人だった」
セレスティアは扉を見た。
「怪我した兵を置いて逃げなかった。自分が食べる前に、部下へ食べさせた。家族へ手紙を書いた。そういうことをして、そのあと裏切った」
「……知ってたんだな」
「言ったよ」
レオンは頷いた。
昼にも、同じことを聞いた。
よい人間だと分かれば、殺すのを止められる。
そんなつもりで会いに来た。セレスティアが知らない顔を一つ見つければ、百二回の記憶へ口を挟めると思っていた。
扉の前には、彼女の方が先に立っていた。
「トーマのところ、行った?」
セレスティアが聞いた。
「行った」
彼女の指が、柄の上で動いた。
「あの人が渡した地図で、同じことになった人がいる」
レオンは目を落とした。
「知ってる」
「名前も?」
知らなかった。
彼女はその返事を待たなかった。
「顔も、覚えてる。助けられなかった人だけじゃない。助けたのに、あとで死んだ人も」
声は大きくなかった。
「私が見たのは、数だけじゃないよ」
レオンは、包帯を巻いた手を背中へ回した。
「……分かってるつもりだった」
「あなたは、今日初めてだった。私は、初めてじゃない」
彼女は扉へ向き直った。
レオンはその腕を掴みかけ、やめた。
代わりに、声をかけた。
「場所、変えてもいいか」
セレスティアが彼を見る。
「まだ言うことがある」
彼女の目が細くなった。
「日暮れまでって、言った」
「分かってる」
廊下の向こうで、薬師が二人を見ていた。
セレスティアは、その視線に気づいた。
しばらくして、柄から手を離した。
「ここで騒いだら、あの人が眠れない」
レオンの横を通り、外へ向かった。
殺すつもりの男の眠りを、気にかけていた。
レオンは、その後ろを歩いた。
外郭の裏庭には、壊れた荷車が置かれていた。
昼の救援で車輪が折れたものだった。傍らに、新しい輪と、外された軸が並んでいる。
セレスティアは荷車の前で止まった。
レオンは、少し離れて立った。
「ヴァルターを殺したら、何が変わる?」
彼女は振り向かなかった。
「地図を渡さなくなる」
「それで、二千人と八百人が助かる?」
「助かった人はいる」
レオンは顔を上げた。
「殺したことがあるのか」
「ある」
風が吹いた。
荷車にかけた布が、車輪の上で膨らんだ。
「全部、会う前に?」
「会ってからも」
セレスティアは布を押さえた。
「間に合わなかった時もある。殺さずに捕らえた時もある。兵を別の場所へ移した時も」
「それで?」
「あの夜、襲われなかった場所がある」
「その人たちは、最後まで生きた?」
彼女の手が止まった。
「全員は知らない」
「別の場所で、もっと死んだことは?」
「戦争だから、ほかでも死ぬ」
「ヴァルターがいなくなったせいで負けた場所も、ある?」
セレスティアが振り向いた。
レオンは、彼女の目を見た。
「あるよ」
即答だった。
「あの人が守った場所もある。代わりに来た人が、兵を逃がせなかった時もある。知ってる」
レオンは口を閉じた。
知っていて、なお選んでいる。
「何も考えずに殺そうとしてると思った?」
「……違う」
「じゃあ、何を聞きたいの」
レオンは、荷車の折れた軸を見た。
昼、通れない道があるせいで、物資の荷車は遠い道へ回った。そこを盗賊に狙われた。
どこか一つを直せば、全部が直るわけではない。
そんなことは、今日初めて知った彼より、セレスティアの方がよく知っている。
それでも、聞かなければならなかった。
「あの人を殺した世界では、世界は救えた?」
セレスティアは動かなかった。
「救えなかった」
「妹さんを助けた時は?」
「最後まで助けられてないって、言った」
レオンは息を吸った。
「帝国へ行ったら、何ができる?」
「皇帝に会う」
「それは聞いた。会って、どうする」
「前とは違う話をしたい。あの人が何を考えてるかも、確かめたい」
「それで、世界は崩れなくなる?」
彼女の顔から、表情が消えた。
「それだけで、全部変わるわけじゃない」
「じゃあ、その次は」
「ほかにも、行く場所がある」
「全部行ったら?」
セレスティアは、答えなかった。
レオンは、彼女についていけばよいと思っていた。
落ちる橋も、会う相手も、最後に世界が崩れることも知っている。
その間をつなぐ道も、知っているはずだった。
「セラ」
彼女は目を逸らさなかった。
「世界を救う方法って、本当はまだ分かってないんじゃないか」
庭の向こうで、誰かが薪を下ろした。
乾いた音が続いた。
セレスティアは、瞬きもしなかった。
やがて、唇が動いた。
「分かってたら」
その先は、すぐには出てこなかった。
レオンは待った。
彼女は一度、息を吸い直した。
「分かってたら、百二回もやってない」
声が、庭の石壁へ当たった。
レオンの肩が強張った。
「……うん」
「うん、じゃない」
セレスティアが近づいた。
「失敗したって話した。助けられなかったって話した。それでも、まだやろうとしてるのに」
レオンは返せなかった。
彼女の手が、剣の柄を握った。
抜くためではなかった。指が白くなるほど、そこを握っていた。
「分からない。どこを変えたらいいか、分からない。だから、知ってるところから変えてる。何もしなかったら、また同じになる」
言葉が速くなった。
「帝国へ行っても、違う魔王を倒しても、終わった。王国に残った時も、遠くまで逃げた時も。分からないよ。私だって、分からない」
レオンは一歩、近づこうとした。
彼女が手を上げた。
来ないで、と言われた気がして、止まった。
「じゃあ、何もしなくていいの?」
セレスティアが問う。
「最後には死ぬから、二千人が死んでも同じ? トーマも、あと何年か生きたって同じ?」
「違う」
レオンは、そこだけはすぐに言った。
「じゃあ、止めないで」
「世界が救えないなら、何人死んでもいいって言ってるんじゃない」
「でも、あの人を残すんでしょ。あの人のせいで死ぬ人がいるって聞いて、それでも」
レオンは黙った。
セレスティアは、彼の返事を待っていた。
その顔を見て、レオンは自分がどれほど勝手な期待をしたか知った。
知らないと言わせたら、話が進むと思っていた。
彼女が答えを持っていないと確かめれば、殺すのを止める理由になると思っていた。
そんな簡単な話ではなかった。
「今日、俺はトーマを助けられなかった」
声が掠れた。
「ヴァルターを引いてた。トーマが下にいるって知ってて、綱を離さなかった」
セレスティアの眉が動いた。
「離したら、もう一人死んだ」
「うん。そう言われた。俺もそう思った。でも、助けなかった方は死んだ」
掌が疼いた。
「その時、どっちが正しいかなんて、考えられなかった。お前を呼んで、どうにかしてくれると思った」
セレスティアの手が、柄から少し緩んだ。
「お前なら分かる。お前なら助けられる。そう思って、勝手にそう期待して」
「今日は、間に合わなかった」
「今日だけの話じゃない」
レオンは顔を上げた。
「旅のことも、そうだった。お前が行こうって言えば、そこへ行けばいいと思ってた。世界を救う順番を知ってるんだと思ってた」
セレスティアは唇を結んだ。
「そんなこと言ってない」
「うん。俺が勝手に、そう思った」
彼は、痛む手を開いた。
「そのまま、ヴァルターを殺すのだけ止めようとしてた。お前のやることは、そこだけ間違ってるって」
庭の向こうの音が止んだ。
「そんな言い方は、してない」
「でも、そうだった。ほかは任せて、自分が嫌なところだけ止めてた」
セレスティアは、少し目を伏せた。
レオンは続けた。
「だから、分からないならやめろって言いたいんじゃない。何のためにやるか、俺にも話してほしい」
「犠牲を減らすため」
「それは分かった。世界が崩れるのを止めるためには?」
彼女は、答えなかった。
「ヴァルターが裏切ったせいで、世界が崩れたのか」
「……それだけじゃない」
「あの人が死んだ時も、崩れたんだろ」
セレスティアは頷いた。
「なら、その二つは、同じじゃないんだろ」
レオンは彼女を見た。
「あの人を殺せば、あの人の裏切りはなくなる。でも、それを世界を救うために必要なことだって言えるのか」
「私、全部同じだなんて――」
セレスティアは言いかけた。
昼、レオンへ話した自分の言葉を思い出した。
ヴァルターが残れば、また先が変わる。
対処する相手を一人消せば、その先まで守らなくてよくなる。
何を守るために、その先を短くしようとしていたのか。
兵の命と、自分がもう一度見たくない敗戦を、今ここで分けようとすると、言葉が足りなかった。
「あの人が裏切るって分かってて、残す方がいいって、あなたは言える?」
彼女が聞いた。
「言えない」
レオンは答えた。
「それでも止めるの?」
「今は、止めたい」
セレスティアの目が鋭くなった。
「ずるい」
「うん」
「うんって言えば、済むと思わないで」
レオンは口を閉じた。
彼女は荷車へ手を置いた。
布の下には、まだ荷が残っている。明日、村へ運ぶものだった。
「知らない魔王が生まれた時、何人死んだか知ってる?」
「知らない」
「私、元の魔王の方がよかったって思った。誰を助ければいいか、どこへ行けばいいか、そっちなら知ってたから」
布を押さえた手が、震えた。
「人を助けたのに、そのせいで、もっと助けられなくなった。何度も」
レオンは近づかなかった。
「じゃあ、ヴァルターを殺したあとも、同じことが起きるかもしれないんだろ」
セレスティアが彼を見た。
「あるよ。だから、後から困ることがないなんて言ってない」
「でも、あの人を残す時だけ、知らない未来になるのが怖いって言った」
彼女は黙った。
「殺しても、変わる。残しても、変わる。どっちが世界を救う方へ近いかは、まだ分からないんだろ」
レオンの声は小さくなった。
「なのに、俺には殺す方だけ、決まってるみたいに聞こえた」
セレスティアは、布から手を離した。
「……私には、生かすことだけが正しいみたいに聞こえた」
レオンは頷いた。
二人とも、その先をすぐには言えなかった。
庭の入口へ、薬師が来た。
「見舞いなら明日にしろ。もう眠った」
セレスティアは顔を向けた。
「容体は?」
「今夜は越せそうだ。傷が開かなければな」
「……分かった」
薬師はレオンの手も見た。
「そっちのもまた血が出てる。あとで来い」
去っていく足音が、廊下へ消えた。
セレスティアは治療室のある方を見ていた。
眠っている男を殺すのに、起こす必要はない。
彼女が剣を抜けば、レオンには止められない。
セレスティアは、そのことを知っていた。
レオンも知っている。
それでも、二人とも庭を動かなかった。
「今夜は、殺さない」
やがて、彼女が言った。
レオンは、すぐには頷かなかった。
「明日は?」
「分からない」
セレスティアが彼を見た。
「あなたが正しいと思ったわけじゃない」
「うん」
彼女は眉を寄せた。
レオンは、言い直した。
「聞いた」
「あの人を殺す理由と世界を救うためにすること。分けて考える。……今は、うまく分けられない」
言い終えるとセレスティアは荷車から離れた。
レオンが、横へ並ぼうとした。
「先に、手を見てもらって」
彼女は言った。
「話は、終わってないよ」
レオンは頷いた。
治療室へ向かう廊下で、彼女は半歩先を歩いていた。
いつもと同じ距離だった。
その夜は、手を伸ばさなかった。
翌朝、ヴァルターは窓際の寝台にいた。
肩と腹に包帯が巻かれている。顔色は悪かったが、意識ははっきりしていた。
枕元に、書きかけの紙がある。
セレスティアはそれを見た。
「兵の家へ?」
「昨日亡くなった者の記録です。手紙は、まだ」
ヴァルターはペンを置いた。
「助けていただき、ありがとうございました。お二人とも、怪我は」
レオンは包帯を見せた。
セレスティアは立ったままだった。
「私、あなたを殺しに来た」
ヴァルターの目が、彼女の腰へ落ちた。
レオンは扉の近くで足を止めた。
部屋には、三人しかいなかった。
「その剣を抜くつもりですか」
「今は、抜かない」
「…理由を伺います」
声が変わっていた。
助けられた相手を見る柔らかさが消え、部下へ危険を確かめる時の声になった。
セレスティアは、椅子へ座った。
「あなたは王国を裏切る」
「帝国との内通を疑っているのですか」
「今じゃない」
「では、何を根拠に」
「前の世界で、そうなった」
ヴァルターは、レオンを見た。
レオンは頷いた。
セレスティアが彼を見た。
昨夜までなら、レオンは彼女の知識を証拠のように話したかもしれない。
今回は、言わなかった。
セレスティアはヴァルターへ向き直った。
「あなたの妹。エレナは、セルノの薬種商で働いてる」
「それは知っています」
「ミハイルという帝国人と付き合ってる。結婚したい。でも、家には言ってない」
彼の指が、寝台の端を掴んだ。
「妹から聞いたのですか」
「前の世界で」
セレスティアは、未来を話した。
三年ほど先に始まる戦い。
届かない補給。現場の判断を退ける命令。負けて帰った者へ押しつけられる責任。
ヴァルターは、それでも持ち場を守った。
その間に、エレナが内通者として拘束された。
父も兄も助命を求めた。セレスティアが証拠を集め、無実を示したこともある。
半年、処刑を遅らせた。
一年、生き延びたこともある。
それでも、最後まで助けられたことはなかった。
「王国に処刑された時もある。帝国が、王国に殺されたように見せた時も」
セレスティアは、窓の光へ目を細めた。
「あなたが去ったあと、分かったこともある。分からなかったことも。全部、同じじゃない」
ヴァルターは口を挟まなかった。
「軍の地図と暗号表を渡した時がある。あなたが帝国の兵を率いて、戻ってきた時もある。去ったと聞いただけで、そのあと何をしたか知らない時も」
「……私が?」
「うん」
セレスティアは頷いた。
「妹が死んで、あなたが去る。そこを、最後まで変えられなかった」
長い沈黙のあと、ヴァルターが息を吐いた。
「その話を、事実として受け入れることはできません」
セレスティアは黙って聞いた。
「妹の勤め先も、交際相手も、私が知らないだけで調べることはできる。未来を知っている証明にはならない」
「そうだね」
「ただ、確認はします。妹に関する情報をお持ちなのは、確かです」
彼は枕元の紙を寄せた。
その一番上に、トーマの名が書かれていた。
セレスティアは、それを見た。
ヴァルターが、自分の話す未来と目の前の紙をどう結びつけたか、彼女には分からなかった。
「地図を渡した私のせいで、何人亡くなったのですか」
彼が聞いた。
「確かに分かるのは、騎士団二千。補給隊八百。そのあとまで含めたら、全部は数えられない」
ヴァルターは、目を閉じた。
「妹が死んだから、ですか」
「その前から、いろいろあった」
「事情があっても、兵を売ってよい理由にはなりません」
その言葉は、同じ男から聞いたことがあった。
「前も、そう言ってた」
ヴァルターは目を開けた。
「では、今、私が何を言っても変わりませんね」
セレスティアは答えなかった。
彼は紙へ手を置いた。
「父と兄は領地の者に責任があります。私は、ここの兵と住民に。王都の誰かへの怒りと、その責任は別です」
「知ってて、越えたんだよ」
彼女は言った。
ヴァルターの指が止まった。
「……あなたの話が本当なら、そうなのでしょう」
レオンは、扉から離れた。
「セラは前にも、妹さんを助けようとしたんです。今、裏切らないと言っても、それだけで変えられる話じゃない」
「では、何を求めているのですか」
レオンはセレスティアを見た。
彼女が、自分で答えた。
「今、妹が無事か、確かめたい」
「それなら、手紙を書きます。私が行けるなら――」
「傷が開く」
セレスティアが遮った。
「知ってる。あなた、前も行こうとした」
ヴァルターは、包帯を見た。
自分の足で確かめられないことが、口惜しいようだった。
「届けていただけますか」
彼が聞いた。
セレスティアは頷いた。
「ただ、妹に会えば全部変わるとは思わないで」
「そこまでを、お約束いただこうとは思いません」
ヴァルターはペンを取った。
「私からも、一つ伺います」
セレスティアが見る。
「私は、あなたに助けられました。その時から、殺すつもりだったのですか」
レオンは、彼女の手を見た。
「うん」
セレスティアは答えた。
ヴァルターはペンを持ったまま止まった。
「では、なぜ」
セレスティアはしばらく考えた。
「あそこに、老人もいた」
「私を先に引き上げた」
「あなたが落ちたら、あの人も落ちる」
「そのあと、傷を押さえたのは」
セレスティアはレオンへ目を向けた。
「……レオンに呼ばれたから」
それ以上の説明は出てこなかった。
ヴァルターは頷かなかった。
セレスティアも答えに納得した顔ではなかった。
彼は目を落とし、妹宛ての手紙を書き始めた。
ペンを握ると腹が痛むらしく、時々止まった。
レオンは卓を寝台の近くへ寄せた。
セレスティアは、窓から入る風で紙が飛ばないよう押さえた。
セルノへは二日かかった。
砦の南へ下る街道は、ところどころ水に削られていた。
初日の午後、セレスティアが先へ走った。
レオンは足を止めずに歩いた。
しばらくして、彼女が戻ってきた。道の先で倒れていた荷車を起こし、馬を外すのを手伝ったという。
「礼、もらった」
袋から、煎った豆を出した。
レオンは二粒、受け取った。
「依頼じゃなくて?」
「急に倒れた荷車の依頼、先に受けられないでしょ」
「そうか」
彼女は三粒まとめて口へ入れた。
少し歩いてから、レオンが言った。
「先に街へ行っててもいいぞ」
「一緒に話すんでしょ」
「うん。でも、道で待たなくても」
「一緒に行く。そう言ったのはレオン。」
彼は口を閉じた。
セレスティアは豆の袋をしまった。
「別のことをする時は、する。それでいい」
レオンは頷いた。
言い合った翌日でも、彼女は食べ物を分けた。
そのことと、昨夜の問いを許したかどうかは、別なのだと分かった。
二日目の夕方、セルノへ入った。
橋の両側に倉庫が並び、王国と帝国の貨幣が同じ秤へ載せられている。
薬種商の軒先で、エレナ・クロイツは麻袋の口を縫っていた。
焦げ茶色の髪を結った、二十四歳の女だった。
手紙を渡すと彼女は印章を確かめ、二人を店の奥へ通した。
最初の数行を読んで、顔色が変わった。
「兄は、怪我をしたんですか」
「治療を受けています。話もできます」
レオンが答える。
「昨日、手紙を書いてくれました」
エレナは便箋を持つ手を下ろした。
「兄はなんでも後から言うんです。いつも。もうよくなったから心配するなって」
手紙へ目を戻す。
途中でまた止まった。
「私のことを、確かめてほしい?」
セレスティアは椅子に座った。
「あなたが、帝国と内通してると疑われるかもしれない」
エレナの目が、奥の引き出しへ動いた。
「ミハイルのこと?」
「知ってる」
彼女は顔を覆った。
「兄に、どこまで話したんですか」
「結婚したいことも」
エレナは手を下ろした。
「どこで聞いたんですか」
セレスティアは、答える前に一度、レオンを見た。
彼は助け舟を出さなかった。
彼女が自分で言った。
「前の世界で」
エレナは、意味が分からないという顔をした。
セレスティアは、世界を何度もやり直していることを話した。
全部を説明するには長すぎた。
それでも、未来を知っているとだけ言って済ませなかった。
なぜ妹を訪ねてきたのか。なぜ兄がその話を信じきれないのか。前にも訪ね、助けようとしたことがあると話した。
「私は、死んだんですか」
エレナが聞いた。
セレスティアは頷いた。
エレナは、兄の手紙を膝へ置いた。
窓の外で、荷車の車輪が鳴った。
「今すぐ、店を閉めて逃げた方がいいという話ですか」
「すぐとは限らない」
「では、いつ?」
「三年ほど先だった。早くなったことも、遅くなったこともある」
「逃げれば、助かる?」
セレスティアは、答えなかった。
エレナは二人を見た。
レオンも、助かりますとは言えなかった。
彼女は、手紙を卓へ置いた。
「……何をしたらいいか、分からなくなりますね」
セレスティアの指が、膝の上で動いた。
昨夜、自分が言った言葉だった。
分からない。
だから、知っているところから動く。
エレナは立ち上がった。
「まず、今の話をします」
引き出しから仕入れ帳を出し、卓へ置いた。
帝国産の薬品を買っている。北方で流行した熱病に効くから。仕入れ先も、数量も、販売先も記録されていた。
家に隠している手紙は、ミハイルとのものだった。
結婚して、どちらの国に住むかを相談していた。
セレスティアは、帳簿のある日付を見た。
前にも見た数字だった。
内通の代金だとされた金額を、店主と一緒に確かめた。その金は、薬の仕入れに使われていた。
証明できた。
その時は、処刑を止められた。
「ここまでは、知ってる」
彼女が言った。
エレナは帳簿を閉じなかった。
「今も、同じですか」
セレスティアが顔を上げた。
「私は、自分が死んだ時のことを覚えていません。これは、今日まで私がつけた帳面です」
彼女は、直近の頁を開いた。
昨日の取引があった。
今日、午前の取引も。
セレスティアはそこまで読んだ。
それから、帳簿をエレナへ返した。
「今は、薬の金だね」
エレナは、小さく頷いた。
別の封筒も、引き出しから出てきた。
差出人の名はなかった。
《時が来れば、あなたと兄君の安全を保証する》
それだけが書かれていた。
「知らない人から。気味が悪くて、捨てようと思ったんですけど」
レオンは紙を見た。
「兄君って、どちらの?」
「それも、分かりません」
セレスティアは、手紙の端へ触れた。
同じような文面を見たことがある。
偽物の証拠に混ぜられていたことも、ヴァルターが去ったあとに見つけたこともある。
「帝国の人間か?」
レオンが聞いた。
「そうだった時もある」
セレスティアは手を引いた。
「でも、これを書いた人は分からない」
エレナは封筒を手元へ戻した。
「兄には、知らせたいです。でも、その前にミハイルにも聞きたい。勝手に彼のことを話すのは」
「あの人は、知らなかった」
セレスティアが言った。
エレナは彼女を見た。
「前には?」
セレスティアは、口を閉じた。
しばらくして、頷いた。
「……前には」
エレナは店の外へ声をかけ、使いの少年へミハイルを呼んでくるよう頼んだ。
戻って、椅子へ座る。
「待ってもらえますか」
セレスティアは頷いた。
レオンは、卓に置かれた兄の手紙を見ていた。
未来の処刑を知っているからといって、この人の今日を全部、二人が決めてよいわけではなかった。
ミハイルは、閉店前に来た。
背の高い帝国人だった。二人を見て立ち止まり、エレナの話を聞くうちに、顔が険しくなった。
「そんな手紙が来たのか」
「あなたにも、似たものは?」
「ない。商会に届いたものなら、明日、確かめる」
彼は封筒を持ち上げ、裏を見た。
差出人の名は、やはりなかった。
「兄に渡したい」
エレナが言う。
「交際のことも話す。家へも」
ミハイルは彼女を見た。
「帰ってこいと言われるかもしれない」
「言われると思う」
「嫌だと言える?」
エレナは、すぐには答えなかった。
その沈黙へ、セレスティアは口を挟まなかった。
レオンも待った。
エレナはしばらくして、便箋を出した。
「戻るかどうかは、まだ決めない。返事を聞いてから考えたい」
ミハイルは頷いた。
「僕のことも、自分で話す。隠しておいて、君だけに説明させるのは違う」
彼は、セレスティアへ向いた。
「僕も、死んだことがあるんですか」
彼女は頷いた。
「詳しいこと、聞けますか」
エレナのペンが止まった。
セレスティアは、二人を見た。
話せることはあった。
ただ、その情報だけで、この二人が助かるとは言えなかった。
「聞いたら、今までみたいには働けないかもしれない」
彼女が言った。
ミハイルは、少し考えた。
「それでも、知りたいです」
エレナも、頷いた。
セレスティアは話した。
記憶にある出来事と、後から人に聞いたことは、分けて話した。
ミハイルが拘束された理由は、周回ごとに同じではなかった。彼自身が何をしたかを確かめられなかった世界もある。
分からないところでは、分からないと言った。
ミハイルは途中で何度か、エレナへ目を向けた。
最後まで聞くと、封筒を卓へ戻した。
「今日の商会の記録なら、確かめられます。明日の朝、店へ持ってきます」
彼は、その先を約束しなかった。
自分を信じてほしいとも言わなかった。
エレナは、便箋へ最初の一行を書いた。
兄の怪我を案じる言葉だった。
それから、ミハイルについて書き始めた。
二人が帰るまで、何度か書き直した。
宿への道で、レオンが言った。
「今日のことで、助かると思う?」
セレスティアは歩きながら首を振った。
「まだ、思わない」
「同じことを、前にもした?」
「証拠を集めた。家にも話した。二人を逃がしたこともある」
「うん」
「あなたが言ったから、初めて妹を助けようとしてるんじゃないよ」
レオンは足を緩めた。
「分かってる」
セレスティアも止まった。
「それ、昨日から何度も言う」
「……ごめん」
彼女は、川へ目を向けた。
「助かった時も、嬉しかった。半年でも、一年でも。世界が最後に終わったから、意味がなかったとは思わない」
レオンは頷いた。
「俺も、そう思う」
「でも、また死んだ。ずっと守ってないと死ぬ。ずっと守ったら、ほかに行けない」
彼女の声が、少し低くなった。
「この二人を助けてる間に、別のところで死ぬ人がいる。先に知ってたのに、間に合わなかった人も」
レオンは、昨日の祠を思い出した。
父と子を助けたセレスティアは、林へ戻った。
川で岸が崩れた時には、そこにいなかった。
「全部は、できないんだな」
言ってから、彼は唇を噛んだ。
セレスティアがこちらを見た。
「勇者なのに?」
レオンは首を振った。
「そう思ってた。昨日まで」
彼女は、何も答えなかった。
宿の戸口へ着くと、彼女が足を止めた。
「トーマを助けるのを、やめればよかったって思ってる?」
「思ってない」
レオンは答えた。
「ヴァルターを引いたのも?」
彼は、包帯を見た。
しばらく考えてから、顔を上げた。
「やめればよかったとは思ってない。でも、それで全部よかったとは、言えない」
セレスティアは、その返事を聞いた。
「私も、そういうのがある」
彼女は戸を開けた。
今夜は、レオンが先に入るまで押さえていた。
砦へ戻ると、外郭の庭に新しい荷車が並んでいた。
西から応援が来たという。
兵の数が増え、炊事場の煙も太くなっていた。
ヴァルターは治療室の椅子に座っていた。
レオンが卓を寄せると、彼は礼を言い、妹の手紙を開いた。
一度読んだ。
それから、初めへ戻ってもう一度読んだ。
エレナの字の横には、ミハイルの署名がある。
交際していること。不審な手紙が来たこと。商会で今、確認していること。
戻るかどうかは、返事を聞いてから自分で考えたい、と書かれていた。
ヴァルターは紙を膝へ置いた。
「生きているのですね」
セレスティアは頷いた。
「今は」
彼は、その言葉で顔を曇らせた。
彼女は言い直さなかった。
知らない差出人の封筒を、卓へ置く。
ヴァルターはそれを読み、受け取った日付を確かめた。
「家へも知らせます。軍にも、関係する範囲で報告する」
「前にも、そうした」
セレスティアが言った。
彼は顔を上げた。
「同じことをして、妹は死にましたか」
「死んだ時がある。もっとあとに、別の理由で」
「では、どうすればよいと思いますか」
セレスティアは答えなかった。
ヴァルターは、その沈黙を見ていた。
「私には、あなたの経験がありません。今あるものから考えるしかない」
彼は妹の手紙へ触れた。
「ですが、あなたが妹を連れ戻さず、この手紙を届けてくださったことには感謝します」
セレスティアは視線を落とした。
「守る方法が見つかったわけじゃない」
「伺いました」
「あなたが裏切らなくなったとも、思ってない」
ヴァルターは、しばらく黙った。
「承知しています」
彼は、紙を卓へ戻した。
「それなら、なぜ今も、私を生かしているのですか」
レオンは、彼女へ目を向けた。
代わりに答えるつもりはなかった。
セレスティアは、剣の鞘を見た。
「あなたを殺せば、あなたの裏切りは止まる。でも、それを世界を救うために必要なことだと決めていいか、今は分からない」
ヴァルターは、レオンへ目を向けた。
彼は何も言わなかった。
「だから、今すぐ殺すとは決めない」
「今後も、そうだとは限らない」
「うん」
ヴァルターは背もたれへ体を預けた。
痛みのためか、それ以外のためか、額に汗が浮いていた。
「穏やかな約束ではありませんね」
「嘘をつくより、いいと思った」
彼はすぐには返さなかった。
セレスティアは、椅子から立った。
「あなたが何を選ぶか、知らないままになることもある。私が来られない時もある」
「帝国へ行かれる」
「うん。予定は変えない」
「では、知らせを届ける場所を決めましょう」
ヴァルターは新しい紙を取った。
妹の手紙の返事。差出人について分かったこと。家からの知らせ。
交易商会に預け、二人が受け取れる場所を決めた。
その紙を書くことが命を救うと、セレスティアは思わなかった。
以前にも、手紙を待った。
知らせが来た時には、もう処刑が終わっていたこともある。
「嫌な知らせでも、送って」
彼女が言った。
「知らせたら、あなたが戻ってくると考えないで。間に合わないこともある」
ヴァルターは頷いた。
「それでも、黙るよりは」
セレスティアは、紙に書かれた商会の名を見た。
「もし、王国を去りたくなったら」
彼が顔を上げる。
「その前に、知らせて」
「止めるためですか」
彼女は少し考えた。
「誰を守りたくて、そうするのか聞きたい」
ヴァルターは、長い間答えなかった。
やがて、妹の手紙をもう一度手に取った。
「私一人で決める前に、家にも、あなた方にも知らせます」
未来の自分を否定する誓いではなかった。
セレスティアは頷いた。
帰り際、ヴァルターがレオンを呼び止めた。
「トーマの最後について、話してくださったそうですね」
レオンは足を止めた。
「少しだけです」
「手紙に書きます。ご家族へ」
彼は、枕元の紙を示した。
トーマの名が、まだそこにあった。
レオンは紙を見て、頷いた。
「粉袋の持ち方を、教えてもらいました」
ヴァルターが彼を見る。
「あと、担架も。俺が下を見てたら、前を見ろって」
声が続かなくなった。
ヴァルターは、待った。
レオンは息を整えた。
「それも、書いてもらえますか」
「ええ」
ヴァルターはペンを取った。
セレスティアは、扉を開けたまま待っていた。
その夜、セレスティアは荷袋の中身を寝台へ並べた。
銀貨。干し肉。折り畳んだ地図。
鉱山の依頼書には、完了の印がある。
レオンは、それを見た。
「これは、分かりやすいな」
「何が」
「何をしたら終わりか、書いてある」
セレスティアは依頼書を裏返した。
三体の岩喰い。坑口から番小屋までの道。
討伐の確認。銀貨十枚。
彼女は、それを袋へ戻した。
「世界には、書いてない」
レオンは頷いた。
セレスティアは、地図を開いた。
帝国へ続く道へ、指を置く。
「帝国には行く」
「うん」
「この春に戻った時、先に行こうって決めた。まだ、やってないことがある」
レオンは地図を見た。
「皇帝に会ったことは、あるんだろ」
「ある。戦争を止めろって要求した。取引もした。でも、話が終わったら、それで終わりだった」
彼女の指が、帝国の国境に沿って動いた。
「王国で生まれたから、帝国は敵だと思ってた。だいたい後にした。王国でできることをやってから、帝国をどうにかしに行った」
「今回は、先にどうにかする?」
「違う」
セレスティアは、彼を見た。
「皇帝と、仲良くなる」
レオンは、すぐには返さず、彼女の顔を見直した。
「友達?」
「そこまでは知らない。何を考えてるか聞いて、できることがあったら一緒にやる。終わっても、話せるようにしておく」
「それが、やってないことか」
セレスティアは頷いた。
「あの人が私の言う通りにしなくても、すぐ敵に戻さない」
彼女は地図から手を離した。
「そのつもりで来たのに、ヴァルターは会う前に殺そうとした」
レオンは、袋の横の剣を見た。
彼も、帝国へ行く理由を聞いていたつもりだった。
世界を救うために必要だと聞けば、その先は任せた。皇帝が思った通りに動かなかった時、彼女がどうするかまでは考えていなかった。
「それで、世界を救えるかは」
言いかけて、レオンは止まった。
セレスティアが彼を見る。
「分からないよ」
「うん。ごめん。また同じ聞き方をした」
彼女は依頼書の入った袋を見た。
これを終えたら、世界が救える。
そう書いた紙は、どこにもない。
「皇帝が戦争を始めなかったら、助かる人はいると思う。それでも、ほかで戦争になるかもしれない」
「ほかも、聞かないと分からないんだな」
「そう。皇帝が、仲良くしてくれるかも」
レオンは、向かいの椅子へ座った。
セレスティアも寝台の端へ腰を下ろした。
「私が見たこと、あの人にも話す」
「百二回のこと?」
「うん。何を変えたかも、何人殺したかも」
彼の視線が、彼女の手へ落ちた。
セレスティアは、それを見逃さなかった。
「あなたが聞いたことだけじゃない。帝国で、私がしたこともある」
レオンは顔を上げた。
「全部聞いたあとでも、話せる?」
「お前の話は、聞く」
「皇帝と話せるか、聞いた」
彼は口を閉じた。
少し考えてから、答え直した。
「その時、皇帝が何を言うかも聞く。お前の代わりに、俺が知ってるみたいには話さない」
セレスティアは、地図の折り目を指で押さえた。
「信じないと思う」
「うん」
「嘘だと思うかもしれない。怖いから、捕まえたいと思うかもしれない」
レオンは包帯を巻いた手を、膝の上へ置いた。
皇帝の前で何が言えるか、分からない。
軍に囲まれても、ここで言ったことを繰り返せるのかも。
「俺は、話を途中で終わらせないようにしたい」
彼は言った。
「お前が何をしたかを聞いて、その話だけで、今のお前を決めてしまわないように」
「それを、皇帝にも言える?」
レオンは彼女を見た。
「言う。怖くなって黙ってたら、呼んでくれ」
セレスティアの唇が、少しだけ動いた。
「大きな声で?」
「普通でいい」
彼女は目を落とした。
「世界が終わるところ、あなたは見てない」
「うん」
「私が覚えてること、見せることもできない」
レオンは頷いた。
「でも、行き先まで一人で決めて、一人で説明しなくてもいいだろ」
セレスティアは、しばらく地図を見ていた。
やがて、畳んで袋へ入れた。
「あの人に会うまで、何もしないわけじゃない」
「うん」
「助けたい人がいたら、助ける。止めることもある。ヴァルターのことも、終わってない」
「俺も、何でも止めるって約束はできない」
彼女は袋の口を閉じた。
「何でも任せるのも、やめて」
「うん」
レオンは返事をしてから、地図をもう一度出していいか聞いた。
二人で、国境を越えてからの道を確かめた。
「皇帝に会える場所は?」
「帝都」
「行けば、すぐ会える?」
「それは、まだ分からない」
レオンは、帝都までの距離を指で辿った。途中の町で、どれだけ食べ物を買い足せるか聞いた。
セレスティアは、知っている宿場を三つ挙げた。
皇帝の返事は分からない。そこへ歩いていく支度はできた。
彼女は、今度は小さな包みを出した。
蜂蜜漬けの実だった。
「食べる?」
「いいのか」
「買ったのは、言い合う前」
「今も、くれるんだな」
セレスティアは包みを開いた。
「嫌いになったから、怒ってるわけじゃない」
レオンは一つ、受け取った。
彼女も一つ食べた。
甘いものを食べても、昨夜の言葉は消えなかった。
セレスティアはレオンの手を見て、包帯の端が浮いていると指摘した。
彼が巻き直そうとすると、指が届かなかった。
彼女が手を伸ばした。
その手は、今夜も温かかった。
翌日の正午、交易橋が開いた。
二人は砦の交易担当を通じ、帝国側の交易官へ入境を申請していた。
認められたのは、私人として橋を渡り、対岸の交易所へ入ることだった。
皇帝への拝謁が約束されたわけではない。
王国の使節でもなかった。
セレスティアの剣には、白い封布が巻かれていた。
レオンはそれを見て、結び目がほどけないか確かめた。
「自分で、ほどかないでくれよ」
「知ってる」
「慣れてるって言って、前に――」
「今回は、ほどかない」
彼は口を閉じた。
セレスティアは、少しだけ口元を緩めた。
ヴァルターは杖をつき、外郭の門まで来た。
後ろの兵が、何度も戻るよう声をかけていた。
「ここまでです」
ヴァルターは兵へ言った。
セレスティアが、同じ言葉を重ねた。
「ここまで。帰って」
彼は、少し笑った。
「妹にも、似たことを書かれました」
交易官宛ての手紙を、レオンへ渡す。
アルカ村で《天輪の勇者》の神託を受けたセレスティア・ルーンと、同行者レオン・アーヴェル。
王都での認証は未了。第三騎士団の指揮下にはない。
東境砦周辺の救援と、魔獣掃討に協力した。
彼が確かめられたことだけが、書かれていた。
レオンは、手紙をしまった。
「ありがとうございます」
ヴァルターは、セレスティアへ向いた。
「あなたの話が、すべて本当かどうかは、今も分かりません」
「うん」
「しかし、妹が私へ話せずにいたことは分かりました。これから返事を書きます」
彼女は頷いた。
「知らせ、待ってる」
「間に合わないこともある、と伺いました」
ヴァルターは、川向こうを見た。
「それでも送ります」
セレスティアは、しばらく彼を見ていた。
「私も、間に合うって約束はしない」
「ええ」
「でも、読めたら返事をする」
ヴァルターは頭を下げた。
二人も、別れを告げた。
橋へ進むと、川の音が近くなった。
雨の濁りは、まだ残っていた。
レオンは欄干の綱を見て、包帯を巻いた手を引っ込めた。
セレスティアが隣で足を緩め、荷袋の重みを肩へかけ直した。
レオンが、向こう岸の黒い軍旗を見た。
「皇帝に会ったら、まず何を聞く?」
「向こうに聞かれる方が、先だと思う」
「誰だ、お前たちは、って?」
「何しに来た、も」
レオンは少し笑った。
「俺は、まだうまく答えられないな」
セレスティアも、すぐには答えなかった。
世界を救うため。
いつもなら、それで終わらせた。
帝国の動きを確かめることも、ヴァルターを殺すことも、魔獣を倒すことも、その言葉の中へ入れていた。
レオンは、もうそれだけでは頷かない。
彼女は、封じられた剣へ目を落とした。
「世界を救いたい」
レオンが彼女を見る。
「でも、方法はまだ分からない」
言っても、剣は軽くならなかった。
覚えている死者の顔も消えない。
ヴァルターが今、助けられたとは思わなかった。エレナの未来を変えたとも言えなかった。
それでも、レオンは横を歩いていた。
「じゃあ、まず皇帝に会うところからだな」
レオンは言った。
「仲良くするのは、向こうが決めるから」
セレスティアが彼を見る。
「私も決めるよ」
「そうだな。お互いに」
彼女は少し考えてから、頷いた。
橋の終わりで、帝国の兵が二人を待っていた。
セレスティアは歩幅を戻した。
レオンも、隣へ並んだ。
百二回歩いた先に、救えた世界は一つもない。
そのことを、今度は彼も知っている。
二人は、予定どおり帝国領へ入った。
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