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幼馴染が100周目過ぎる。  作者: 牧惣一郎


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7/13

勇者は答えを知らない 前編

セレスティアは裏切り者を知っていた。

百二回の世界で、七十一回。

その男は、王国から去った。

敵将となって戻ったこともある。帝国へ渡ったと聞いただけのこともある。行方さえ分からなくなったこともある。

妹が死ぬ。男が去る。

その二つだけは、変えられなかった。

だから今回は、出会う前に殺すつもりだった。


ゼインの村を離れてから二か月。

二人は境界混住地域から古い北方街道を東へ進み、山裾を抜け、王国と帝国が向かい合う東部国境へ下っていた。数日続いた雨は朝になってようやく止んだ。街道には荷車の轍が深く残り、踏み外すと靴が泥へ沈む。道端の草の先から、まだ雫が落ちていた。

峠の下に、灰色の石壁が見える。

東境砦。王国第三騎士団が守る、対帝国国境の要衝だった。

「あそこ」

セレスティアが言った。

レオンは石に腰を下ろし、靴に入り込んだ小石を取り出していた。

「知り合い?」

「ヴァルター・クロイツ。副団長」

靴を履き直す。

「偉い人じゃん」

「知ってる」

「向こうも?」

「今回は知らない」

レオンは顔を上げた。

「会えるの?」

セレスティアは砦を見ていた。目的地を確認する目ではなかった。遠くにいる誰かの首筋へ、もう刃を当てているような目だった。

「何しに会うんだよ」

「殺す」

風が道端の濡れた草を倒した。

レオンは立ち上がりかけた姿勢のまま止まった。

「……何をした人?」

「裏切る」

「これから?」

「うん」

三年ほど先、王国軍は帝国との戦いで大敗する。前線の一つが崩れた夜、ヴァルターが地図と暗号表を持って帝国へ渡ったことがある。

騎士団二千。補給隊八百。

彼が守備配置を知る場所へ敵が入り、生きて戻れなかった者がいた。

別の世界では、帝国の軍旗を背負った彼自身が、王国の兵を追い詰めた。

セレスティアは人数を言うときだけ、少しゆっくり話した。

「必ずそうなったのか」

「いつも同じじゃない」

帝国へ渡ったあと、名前を聞かなくなったこともある。王国を去ったきり、どこにも現れなかったこともある。

「じゃあ、裏切ってない時も――」

「持ち場から消えた」

彼女が遮った。

「探した。見つからなかった。兵は置いていかれた」

レオンは言い直そうとした言葉を飲み込んだ。

「でも、今はまだ何もしてないんだろ」

「だから、今なら止められる」

「殺す前にほかの方法をさ」

セレスティアがようやく彼を見た。

その目を見て、レオンは自分が軽く口にしたことに気づいた。

「考えた」

「……うん」

「話した。裏切るって教えた。妹が死ぬって言った。死なないようにした」

彼女の指が、剣の柄に触れた。

「遅らせられた。半年の時も、一年の時もあった。でも死んだ。そのあと、あの人は去った」

レオンはすぐには返せなかった。

「七十一回、あの人に会った。全部で助けようとしたわけじゃない。途中から、もう同じだと思った」

セレスティアは指を柄から離した。

その手を見ながら、レオンは何か言おうとし、やめた。

ふと、峠へ登る前に聞いた旅の予定を思い出した。

帝国へ入り、皇帝に会う。それから、いくつかの場所へ寄る。

セレスティアは通る道も避ける宿も会う相手も迷わず決めた。

その先にあるはずのものだけは、一度も具体的に聞いていなかった。

世界が終わらなくなる日。

そこまで辿り着く道を本当に知っているのだろうか。

今、それを聞くのは違う気がした。何度も失敗したと言うセレスティアに自分が知りたいという理由で答えを求めるのは、あまりに勝手だと思った。

「……俺が、先に会ってきてもいいか」

「何のために」

「話をする」

「したって言った」

「お前はした。でも、俺はまだ会ってない」

セレスティアの眉が動く。

「あなたなら変えられるの?」

「分からない」

レオンは砦へ目を向けた。

「止めろって言うだけじゃ、駄目なんだろ。だったら、俺も確かめる」

セレスティアは何も答えず、腰に提げた小さな袋を持ち上げた。底で硬貨が二、三枚鳴った。

峠の宿場には、鉱山からの討伐依頼が届いていた。

セレスティアは昨日その話を聞いていた。二人で砦へ行くなら通り過ぎるつもりだったが一人で動くなら寄れる。

しばらくして袋を下ろす。

「二日」

「うん」

「明日の日暮れ。砦の西門。入れなかったら、門の外の宿」

「分かった」

「それまでは、殺さない」

彼女の判断は変わっていない。

レオンのために、二日だけ置いた。

セレスティアは宿場へ戻る脇道に足を向け、振り返った。

「剣を預けろって言われたら預けて。砦の中で喧嘩しない。あと川には近づかない」

「分かってるよ」

「…ちゃんと食べてね」

最後だけ、声が少し小さかった。

レオンは頷いた。

「セラも」

彼女は一度だけ手を上げた。

次の瞬間、道端の草が大きく揺れた。

銀髪は、もう遠かった。



宿場で、セレスティアは鉱山の管理人から依頼書を受け取った。

北の採石道へ降りてきた岩喰い三体。鉱夫二人が負傷し、鉱石を運ぶ荷車も止まっている。

「三体より多かったら?」

「追加で相談する。追うのは坑口から番小屋まで。山の奥は、今回の依頼に入らない」

男は地図へ線を引いた。

報酬は銀貨十枚。顎の石と核の欠片を持ち帰り、現場を確認したあとで払う。

セレスティアは頷き、二枚の依頼書の片方を受け取った。

「一人で行くのか」

「うん」

「剣で皮を切るだけじゃ倒れないぞ」

「核を断つ。顎は残す」

男は黙った。

彼女は地図を畳み、森へ入った。

一体目を見つけるまで、六分。

胸の石の隙間へ刃を入れ、頭が向く前に核を割る。

二体目は流れの向こうにいた。橋へ回る必要はなかった。岩を蹴って川を越え、背へ着地する。

一振りで終わった。

三体目は坑口の奥だった。中に人がいないことを確かめ、暗がりへ入る。

出てきた時には、剣を拭いていた。

番小屋で証拠を置くと、番人は彼女と石を交互に見た。

「管理人は、夕方まで来ないぞ」

「待つ」

確認へ行った鉱夫たちが戻っても、管理人は来なかった。

剣を振るより、支払いを待つ時間の方が長かった。

その間、近くの山道で荷車の列が止まっているのを見つけた。

落ちた岩が一台を押さえていた。人は逃げたが、積んだ小麦が抜けない。

セレスティアは岩の下へ手を入れた。

「荷車、引いて」

御者たちが縄をかけ直した。

車輪が抜けると、岩を谷側へ置き、道を通れる幅まで空けた。

番小屋へ戻ろうとしたところで、御者の一人が追いかけてきた。

「金は、売りに行くまでないんだ。こんなものしか」

パンと干し肉を、両手で差し出した。

先に決めた報酬ではなかった。

「いいの?」

「あんたがいなけりゃ、全部置いて帰るところだった」

セレスティアは受け取った。

「ありがとう」

御者は、礼を言われて少し困った顔をした。

夕方、鉱山の依頼書に完了の印が入り、銀貨十枚を受け取った。

管理人から南の共同牧場にも討伐の依頼があると聞き、道を確かめた。そちらの条件は、着いてから聞くことにした。

宿へ戻ると御者にもらったパンを二つに分けた。

硬い方は自分で食べ、柔らかい方を包み直す。

レオンは硬いパンを食べるとき必ず少し顔をしかめる。

市場が閉まる前に蜂蜜漬けの実も買った。

一人なら速かった。

今日したことを二人でしようとすれば、日暮れまでに宿へ戻れなかっただろう。

部屋の寝台は一人分だった。

「話したって、変わらない」

口にしてみた。

返事はなかった。

セレスティアは剣の柄を拭いた。

明日まで待つ。



東境砦へ続く道は途中から荷車で詰まっていた。

レオンは家財を積んだ車の脇を通った。子供が荷の上で寝ている。鳥籠だけを抱えた老人もいた。車輪が泥に沈むたび、後ろの御者が降りて手伝う。

レオンも一度、肩を貸した。

「なにがあったんですか」

息を整えてから聞くと、御者は首を振った。

「水だよ。川が溢れた」

雨はもう止んでいる。

レオンが空を見ると、男は川上を指した。

「山の方はここより降ったんだ。下の道が流れて、こっちへ回ってる」

道の先では、兵が荷車を二列に分けていた。

人を乗せた車は門の外の広場へ。救援物資を積んだ車は別の道へ。

門に近づくと兵がレオンを止めた。

「身分と用件を」

「えっと、副団長さんに会いたいんですけど」

兵は訝しんでレオンの足先から頭の先まで見た。平凡で悪人には見えない風貌。寝癖がついた頭の少年。

「今は難しい。救援の指揮がある」

「待ちます」

「知り合いか」

「いえ。同行者が知っていて」

「同行者は」

「セレスティア・ルーン。明日の夕方、ここへ来ます」

兵は一度黙り、詰所へ別の者を呼んだ。

銀髪。青い瞳。アルカ村で《天輪の勇者》に選ばれた少女。

王都の神殿から回された捜索触れが出てきた。

「剣を預かる。身元を確認するまで、こちらで待ってもらう」

レオンは剣を外した。

門脇の部屋へ通され、扉が閉まる。

鍵の音がした。

「……待つ方か」

窓には格子があった。

外から聞こえるのは、軍靴と荷車の音だった。誰かが空の桶を運んでいる。子供の泣き声が、時々混じった。

一刻ほどして、若い兵が水を持ってきた。

「妙な真似はするなよ」

「しないよ」

「勇者の連れだか何だか知らないが、今は――」

「ご苦労様です。ここからは私が引き継ぎます」

廊下から別の声がした。

扉の向こうに焦げ茶色の髪を短く切った男が立っていた。

磨かれた鎧に紺色の外套。外套の裾は泥に濡れ、剣の鞘の端には使い込んだ傷があった。

若い兵が姿勢を正す。

「クロイツ副団長」

「ここからは私が引き継ぎます」

男はレオンへ向き直った。

「王国第三騎士団副団長、ヴァルター・クロイツです。お待たせしました」

想像していたより普通の男だった。

二十九歳。名門クロイツ家の次男。

そのことは峠で聞いていた。

何千人も死なせたという話と目の前の声がうまくつながらなかった。


聴取室の机には、村の名と荷車の数を書いた紙が積まれていた。

通った経路。セレスティアと別行動をしている理由。砦へ来た目的。

レオンは知っていることを答えた。

殺されるかもしれないと言えば、真剣に聞いてもらえるだろう。

だが、二日の猶予をくれた彼女を、そんな形で軍へ知らせるつもりはなかった。

「国境を渡る前に、話を聞きたくて」

「帝国へ?」

「はい。本人は、皇帝に会うと言ってます」

ヴァルターの手が止まった。

「王国の使節としてですか」

「違うと思います。任命もされてませんしね」

ヴァルターは捜索触れを裏返した。

「神託は確認されていますが、王都での認証は未了です。外交資格もない。勇者という呼び名だけで、国境を越えられるわけではありません」

「向こうでも、同じことを言われますかね」

「おそらく」


戸口へ伝令が来た。

北の渡し場へ荷車を通せない。徒歩なら行けるが、担架を運ぶ道は泥が深い。

別の兵は、土手へ回す人が足りないと言った。

ヴァルターは机の紙を見た。

「道へ魔獣が残れば土も食料も運べません。掃討の兵は、そのまま。避難を終えた荷車を物資と怪我人の運搬へ回してください」

伝令が出ると若い兵が食事を持ってきた。

ヴァルターはレオンを見る。

「食事は」

「朝は」

兵へ頼み、もう一つ椀を持ってきてもらった。

豆と芋の煮込みだった。

「待機中の方にも食事は出すように」

兵へ言ってから彼は匙を取った。

「兵を増やせないんですか」

レオンが聞く。

「応援は求めています。ただ、道が傷んでいる。砦の警備も空にはできません」

芋を一つ食べ次の紙を読む。

レオンは、その手を見ていた。

「嫌になったりしないんですか」

彼は少し顔を上げた。

「しますよ。家に帰りたい日も、上官と意見が合わない日も」

匙を椀の縁へ置いた。

「それと、職務を放り出すことは別です」

レオンは頷いた。

今の言葉を、セレスティアへ持ち帰ろうと思った。


外郭宿舎には、来訪者より避難してきた者が多かった。

レオンに割り当てられた部屋にも、荷を置ける場所はあまりなかった。

身元確認は続く。内郭へは入らない。武器は預けたまま。

それでも、廊下を通る兵から頼まれた。

「歩けるか。食料を運ぶ手が足りない」

レオンは荷を置き、ついていった。

粉袋を積んだ荷車から、宿舎の炊事場へ運ぶ。

若い兵が一人、先に袋を抱えた。

「重いから、底を持って」

「分かってる」

「昨日、一人落とした。粉が泥に入ると、もう駄目だ」

レオンは抱え直した。

炊事場を三往復したところで、兵が名を聞いた。

「レオン」

「トーマ。明日も運ぶなら、朝にここへ来てくれ」

「俺、明日は西門で人を待つんだけど」

「夕方?」

「そう」

「昼なら、間に合う」

トーマは簡単に言った。

レオンも、そのつもりで頷いた。

宿舎の庭には、毛布が干されていた。十分には乾かない。女たちが端を絞り、竈の熱の届く場所へ移す。

レオンは空いた紐を張るのを手伝った。

一人でヴァルターに会えた。

話も聞けた。

では、どうすれば裏切りを防げるのか。

袋を運んでも、紐を張っても、答えは浮かばなかった。

その夜、部屋へ戻ると、靴の中まで湿っていた。

脱いで壁際へ置き、蜂蜜漬けでも食べたいな、と思った。そういえば、疲れた日に彼女が黙って渡してくることがある。

レオンは目を閉じた。

明日、会ったら何を言うか。

いい人だった。

それだけで、彼女は剣を下ろすだろうか。

峠で聞いた声を思い出す。

遅らせられた。でも死んだ。

眠るまで、その言葉が離れなかった。


南の共同牧場で、セレスティアは牙猪二頭の討伐を引き受けた。

報酬は銀貨四枚。番人が案内し、二頭とも倒したことを確認する。

水を逃れて、山側の畑へ来た魔獣だった。

一頭目は振り向く前に倒し、二頭目は隣の畑へ逃げ込む前に先へ回った。

番人は、案内の杖を持ったまま立っていた。

「解体も、頼めるか」

「依頼には、入ってない」

「すまん。こっちは人を呼ぶ」

依頼主が番人の確認を聞き、銀貨を払った。

牧場の女が肉も包もうとしたので、干したものを選んでもらった。こちらは報酬ではなく、お礼だという。

「隣の集落へも行くのかい」

「砦へ行く」

「そうか。向こうに、うちの婆さんがいるんだ。村を出ているといいんだが」

セレスティアは顔を上げた。

「ここから、川の方?」

「そう。渡し場の下」

知っている場所だった。

以前の世界でも、この時期に水が出た。

街道が傷み、低いところの畑が使えなくなる。砦では荷車を待たされ、橋を渡るのが一日遅れる。

その記憶はあった。

セレスティアは包みを受け取り、砦へ向かう途中で川側へ寄った。

曲がり角を越えて、足が止まった。

畑がない。

濁った水の上に、屋根の先だけが浮かんでいた。

家の中を、魚籠と板戸がゆっくり流れていく。

渡し場へ下りる階段は、半分崩れていた。

「……こんなに」

ここへ下りたことがなかった。

以前は上の街道を通って、砦の門へ行った。

水が出たことを知っていても、その下に何が残ったかは知らなかった。

セレスティアは、覚えている街道を見上げた。

そこからは、家の屋根が見えない。

近くで、兵が木を運んでいた。

村人と一緒に土手を補強している。少し離れた場所で、別の兵が盾を構えていた。

濡れた藪から、牙猪が一頭出てきた。

兵が槍を突き出す。

セレスティアはその横を通り、魔獣の首を断った。

兵が息を飲む。

「ほかは?」

彼女が聞くと、兵は林を指した。

「まだいます。ただ、今は人を出せなくて」

その向こうに、布を巻いた足が見えた。

老婆が二人の村人に支えられている。

セレスティアは兵へ言った。

「あっち、運んで」

自分は藪へ入った。

狭い道の先に、地面を掘った跡が続いていた。

一頭、二頭。

剣が濡れる。

倒したところへ印になる石を置いた。

戻ると、老婆は荷車へ乗せられていた。

「礼は、どちらへ」

兵に聞かれ、セレスティアは首を振った。

「今はいい」

「では、名を。上官に報告します」

「セレスティア・ルーン」

兵が、今度ははっきりと彼女を見た。

「勇者殿?」

「西門で、人と会う」

彼女は砦の方角を指した。

「ここ、まだ人がいる?」

兵は紙を取り出した。

見つけた者、避難した者、まだ確認できていない者。

名の横に、印がついている。

牧場の女が話した老婆の名を聞くと、兵は紙を確かめ、たった今運んだ方だと答えた。

セレスティアは少し息を吐いた。

それから、印のない名を見た。

「あと、どこ?」



レオンは翌朝、トーマと救援物資の荷車に乗った。

西門の兵には夕方戻ると伝え、セレスティアが先に来た時のため、行き先を書いた紙も預けた。

川沿いの高台に、作業拠点があった。

ヴァルターが納屋の外で御者へ荷の行き先を伝えていた。砦は司令官が守り、こちらは副団長が率いるという。

「手伝いに?」

「夕方、人と会うまで」

「無理をしないで。兵の指示する場所でお願いします」

レオンは粉袋を下ろした。

納屋の前で、大工が折れた柱を選り分けていた。新しい材を運ぶ道へ魔獣が出たため、流された納屋の材を仮橋に使うという。

持ち主の男が、一本を押さえていた。

柱には短い傷が並び、子供の名が彫られている。

「これは、持っていかないでくれ」

ヴァルターは別の納屋の材を使うよう頼み、運ぶ人手も出した。

レオンとトーマが、その柱を担いだ。

戻り道で、レオンは聞いた。

「副団長の妹さんは、ここにいないのか」

「南の街だよ。去年、うちの薬を手配してくれた。副団長は知らなかったらしくて、礼状に困ってた」

「兄妹なのに?」

「だからじゃないか。妹が世話した薬で、部下を治したんだ。ありがとうだけだと足りないって」

トーマが笑った。

「結局、四枚書いてた」

レオンも少し笑い、それから、笑えなくなった。

この男を、妹の命と引き換えに失う。

セレスティアは、その未来まで知っている。




昼過ぎ、セレスティアが作業拠点へ来た。

レオンは空の桶を重ねていた。

先に気づいたのは、彼女だった。

「何してるの」

「桶」

「見れば分かる」

レオンは振り返った。

剣の鞘に泥がついている。荷袋は出発したときより膨らみ、肩に食料の包みが乗っていた。

「西門は?」

「紙、読んだ」

彼女は彼の手を見た。

「怪我は」

「してない」

「食べた?」

「昼は、まだ」

セレスティアは包みからパンを出し、渡した。

レオンは受け取り、彼女にも一つ返す。

「お前は」

「まだ」

二人は納屋の陰へ座った。

彼女が報酬袋を下ろすと、硬貨が重い音を立てた。

「稼いだな」

「鉱山と、牧場」

「そんなに速く?」

「一人なら」

彼女は淡々と言った。

レオンは袋を見た。

「そのパンも?」

「岩をどかしたら、もらった。こっちの肉は、牧場の人から」

「依頼じゃなくて?」

「依頼は魔獣。肉は、お礼だって」

レオンは頷き、パンを食べた。

柔らかかった。

「で」

セレスティアが言う。

「会った?」

「会った」

彼は身元確認と聴取のことを話した。

部下の言い方を制したこと。食事を気にかけたこと。忙しくても、こちらの話を聞いたこと。

今朝から何をしているかも。

セレスティアは遮らなかった。

「そういう人だよ」

話し終えると、彼女は言った。

「……知ってた?」

「負傷した兵の名前、よく覚えてる。兵の家族にも手紙を書く。酒は弱い」

パンをちぎる。

「だから、信じられた」

レオンは食べる手を止めた。

自分が見たものは、彼女の知らない一面ではなかった。

「いい人だったって、言おうと思ってた」

「うん」

「でも、それで裏切らないとは言えないんだな」

彼女の手も止まる。

レオンは作業拠点を見た。

ヴァルターが、担架で運ばれてきた者へ身を屈めている。

「殺していいとは、やっぱり思えない。でも、俺が一日見たことで、お前の話を間違いだとは言えない」

セレスティアは長く黙った。

「じゃあ、どうするの」

「まだ分からない」

「二日、待った」

「うん」

彼女はパンの端を見つめた。

「分からないまま待って、間に合わなくなったことがある」

レオンは顔を上げる。

「魔王になる人を、全部止めた時もある」

セレスティアの声が低くなった。

「殺さずに。話して。違う道を作って。今度こそって、思った」

彼は聞いた。

「そのあと、知らない魔王が生まれた」

彼女はちぎったパンを包みの上へ置いた。

「前の方が、まだよかった。どう戦えばいいか、知ってたから」

誰が生きたか、誰が死んだか。

そこまでは言わなかった。

「あの人がいたら、妹を守る。部下も守る。そのために、また変える。変えた先に何があるか、分からない」

レオンは、パンを持ったまま彼女を見た。

「じゃあ、その魔王を倒したら?」

セレスティアの指が止まった。

「倒したよ」

「世界は?」

納屋の向こうから、馬の嘶く声がした。

「……最後には、同じだった」

レオンは、次の問いを飲み込んだ。

それなら、なぜ。

何を変えれば、最後が変わる。

彼女は先に、別の話へ戻った。

「殺せば、それで全部終わるって思ってるんじゃない」

セレスティアは、袋の紐を結んだ。

「そのあとに困ることはある。でも、あの人を残したまま、その先まで守るよりは」

言葉が途切れた。

納屋の向こうから、ヴァルターが呼ぶ声がした。

セレスティア殿、と。

彼女は顔を上げた。

報告の兵から、魔獣を倒したことを聞いたらしい。

「力をお借りしたい場所があります。まず、状況を説明させてください」

彼女はレオンを見た。

それから、立ち上がる。

「今は、こっち」

剣の柄へ手を置いた。

レオンもパンを包み直した。

二日の猶予は、日暮れで終わる。

今はまだ、昼だった。


ヴァルターが示したのは、上流の支流だった。

石橋が落ち、集落への道が切れている。畑側の迂回路には魔獣が出た。

「牙猪が少なくとも五頭。大型種もいます。向こうには、怪我人を含めて十二人」

村人が、地図へ道を書き足した。

セレスティアはその線を追った。

以前は橋が落ちたと聞いて上の街道へ回った。砦を出る時には、道はもう通れていた。

その間、十二人がここにいることは知らなかった。

「橋は、直せる?」

「本来の橋は日数がかかります。まず綱と足場で、人だけを渡す。資材はあります。問題は林です」

「私が行く」

「人が逃げ込んでいる可能性もあります。林全体を崩すような攻撃は避けてください」

彼女は頷き、レオンへ食料の包みを預けた。

「そっちは?」

「板と綱を運ぶ。そのあと、歩けない人を」

セレスティアは、彼が行く場所を確かめてから林へ向かった。

案内の兵を入口へ残し、一人で入る。

一頭目は濡れた枝の向こうにいた。

剣を抜く。

地面へ倒れると、二頭目と三頭目が走ってきた。

横へ回り、二度、刃が光った。

その先で、子供が泣いていた。

石の祠に、男と子供がいた。男は畑の支柱を握っている。

「出なくていい。迎えに来る」

林の奥で、低い唸り声がした。

黒い背に枝を引っかけた裂爪熊が、岩を割りながら立ち上がる。

岩を砕く一撃なら、すぐ終わる。その後ろに、祠がある。

セレスティアは刃を体へ寄せた。

爪が振り下ろされる。

左へ半歩。伸びた腕の内側から刃を入れ、倒れる重い体の向きを肩で変えた。

祠へは、石の欠片も飛ばなかった。

「歩ける?」

男は足を見た。

「捻った。子供は歩ける」

男を肩へ担ぎ、子供へ手を出す。

小さな目が、彼女の指の血を見た。

セレスティアは衣で拭いた。

「これなら?」

小さな手が、伸びてきた。


レオンが板を運び終えたころ、川向こうへ最初の綱が渡った。

村の舟を使っていた。

濁流の速い場所を避け、渡し守が岸沿いへ進む。向こうの木へ綱を結び、兵が張りを確かめる。

落ちた橋の脇に残った石の土台へ、仮の足場を据えた。

大工が板を渡し、細い通路を作る。

荷車は通せない。

人と担架だけを、一人ずつ渡す。

「押すな。前が止まったら、自分も止まれ」

トーマがレオンへ言った。

「落ちたら?」

「落ちないようにする」

「そうだけど」

トーマは綱を持ち上げた。

「運ぶ時は、これを腰へ。向こうにも、支える者がいる」

レオンは頷いた。

渡る前に、担架なしで一度歩いた。

板の下で水が鳴る。

上から見るより、ずっと速かった。

対岸から、兵が手を伸ばす。

レオンは掴み、足場へ上がった。

林の方から、セレスティアが戻ってきた。

男を担ぎ、子供と手をつないでいる。

兵が男を受け取った。

「まだ、人がいた」

彼女が言う。

掃討隊へ、魔獣を倒した位置を伝える。

兵は確認へ入った。数と道を確かめ、安全な範囲へ布を結んで戻る。

作業員が動き始めた。

セレスティアは足場の上にいるレオンを見た。

彼は手を上げる。

彼女も一度だけ上げた。

「向こうは?」

ヴァルターが聞いた。

「大きいのは倒した。南の藪に、まだ小さい足跡がある。そっちも見てくる」

「避難路へ回り込ませないよう、お願いできますか」

「うん」

彼女は水を飲み、また林へ向かった。

レオンとトーマは担架を運んだ。

最初は、足を折った男だった。

「下、見ない方がいいよ」

レオンは言った。

男が苦しそうに笑う。

「お前も、見てるぞ」

彼は慌てて前を向いた。

二人目は老婆。

三人目は、熱を出した子供だった。

母親が後ろをついてくる。

対岸で薬師が受け取る。

一人、渡れた。

それだけで、レオンは少し息を吐いた。

作業の音が続いていた。

板を叩く音。綱を張る声。空の樽を転がす音。

遠くで、馬が鳴いた。

ヴァルターのもとへ騎馬の兵が来た。

「物資隊が襲われています。南の迂回路で、弓を持った者が」

彼の顔が変わる。

「人数は」

「見えたのは八人。荷を切り離して、運ぼうとしています」

帝国の軍旗はなかった。

軍勢でもなかった。

救援物資の荷車が護衛の薄い道を通ると知り、待っていた者がいる。

ヴァルターは騎兵の隊長を呼んだ。

「護衛に合流してください。追跡は不要。人と荷を拠点まで戻す」

「林の掃討へ入る予定の者も?」

「四名だけ。残りは避難路の警戒を続ける」

兵が走る。

レオンは担架の柄を握り直した。

救援物資には、水も食料も薬も積まれている。

守らなければ、この場所に残る者が困る。

それでも、兵が四人減った。

空いた仕事へ、ほかの者が回る。

トーマも呼ばれ、対岸の見張りへ走った。

レオンは、別の兵と担架を運ぶことになった。

名前を聞く暇はなかった。


異変に最初に気づいたのは、大工だった。

木槌を止め、川上を見る。

水に、枝が増えていた。

細い枝だけではない。根のついた木が、濁流の向こうで回っている。

「上で、また崩れたぞ」

声が飛ぶ。

足場の下を、太い幹が通った。

綱が鳴る。

ヴァルターは対岸へ声をかけた。

「渡るのを止めてください! 足場から離れる!」

レオンは担架を下ろした。

向こう岸に、まだ五人いた。

担架を待っていた老人が二人。歩ける者が三人。

トーマが、その人たちを高い場所へ誘導する。

「上へ! 荷は置いて!」

流木が、足場の脇へぶつかった。

板が跳ね、綱の一本が石の縁へ擦れた。

大工が別の綱を取る。

「これを渡せれば、支えられる!」

舟はまだ向こう岸だった。

川へ出せる流れではない。

ヴァルターは足場へ一歩出て、すぐに戻った。

渡る場所を変える。

大工へ短く聞き、石の土台へ綱を回す。

「こちらを切り離して、向こうへ寄せられますか」

「寄せるだけなら。向こうに、引く者が要る」

ヴァルターが、対岸へ叫んだ。

トーマが聞き、二人の村人と綱を掴む。

残っていた板を向こうへ寄せる。

足場が、少し回った。

老人の一人は足を動かせない。

トーマが背負おうとしたところへ、岸の土が落ちた。

村人が滑り、木へ掴まる。

トーマは老人を下ろし、その腕へ手を伸ばした。

レオンは、こちら岸から綱を投げた。

届かない。

拾って、もう一度。

今度は枝に引っかかった。

ヴァルターが綱を受け取り、レオンと兵へ持たせた。

「離さないでください」

彼は自分の腰へ端を結び、まだ残っている石の縁を渡った。

板の先へ手をかけ、対岸へ上がる。

落ちかけた村人を、トーマと引き戻した。

川上で、何かが折れる音がした。

大きな幹が見えた。

「離れて!」

ヴァルターが叫ぶ。

綱を掴んでいた村人が、老人を担ぎ上げた。

もう一人の老人は動けない。

ヴァルターは肩へ腕を回させ、トーマに前を支えさせた。

二人で岸の上へ運ぶ。

その足元が、崩れた。

流木は足場を打ち、板が折れた。

跳ねた梁が、岸の石へ当たる。

トーマが老人を押し上げた。

ヴァルターも体を寄せた。

レオンの手元で、綱が急に張った。

兵と二人で引く。

腰が前へ持っていかれる。

別の兵が、後ろからレオンの帯を掴んだ。

「引け!」

レオンは踏ん張った。

綱の先に、ヴァルターが見える。

脇腹を梁が打ち、片膝が崩れていた。

それでも老人の腕を離さない。

トーマは、岸の下へ消えていた。

「トーマ!」

レオンが叫んだ。

返事がない。

声を張ろうとして、息が詰まった。

対岸へ、新しい綱が飛んだ。

弧を描くより速く、銀髪が水を越えた。

セレスティアだった。

彼女は対岸の木へ綱を回し、兵へ投げ返した。

ヴァルターの肩を掴む。

次に、彼が支えていた老人を引き上げる。

「この人、お願い」

村人へ渡した。

レオンは綱を握ったまま叫んだ。

「下に、トーマが!」

セレスティアが川へ向く。

姿は見えない。

木と土と泡が、速く流れている。

彼女は川下へ走った。

レオンは綱を離そうとして、兵に止められた。

「まだ引け! 副団長が!」

ヴァルターの足元から、石が抜ける。

レオンはもう一度引いた。

掌の皮が裂けた。

向こう岸の村人が、ヴァルターの鎧を掴む。

やっと、体が岸の上へ移った。

レオンは、その場に膝をついた。

綱を握った手が開かない。

セレスティアが、少し下流から戻ってきた。

肩に、トーマを担いでいた。

レオンは顔を上げる。

彼の腕は、彼女の背で揺れていた。

セレスティアは地面へ下ろし、薬師を呼んだ。

自分はすぐにヴァルターへ戻った。

鎧の下から、血が出ていた。

「留め具、外して」

レオンは走った。

綱で傷ついた指が、うまく動かない。

セレスティアが二つ外し、彼も残りを外した。

折れた梁の端が、鎧の継ぎ目から衣を裂いていた。

血が衣を染める。

レオンは布を受け取り、傷へ押し当てた。

「セラ、ここ」

彼女が手を重ねる。

ヴァルターが、顔を上げようとした。

「残っていた人は」

「上にいる」

セレスティアが答えた。

「全部?」

彼女は一度、岸の人を見た。

兵が数え、頷く。

「全部」

ヴァルターは目を閉じた。

レオンが呼びかけると、まだ返事はあった。

背後で薬師が、トーマの衣を開いていた。

レオンは振り向けなかった。

セレスティアは傷を押さえ、川上を見た。

自分が知っていたのは、橋が落ちたことと、街道が一日閉じたことだった。

この岸で綱を握っていた兵の名は、知らなかった。


救援物資の荷車は、夕方までに戻った。

盗賊は兵が来ると逃げた。切られた荷紐と、矢の刺さった車体が残った。

御者が一人、腕を怪我していた。

奪われた袋がいくつかあったが、水と薬は戻った。

それを受け取る場所には、担架が並んでいた。

ヴァルターは砦へ運ばれた。

トーマも、同じ列にいた。

レオンは荷車へ乗るまで、彼のそばに立っていた。

薬師が首を振ったとき、一度だけ名前を呼んだ。

返事はなかった。

朝、粉袋の底を持つよう言った声が、まだ耳に残っていた。

砦へ戻ると、もう日が暮れていた。

西門の兵が、レオンの預けた紙を返す。

「会えたようだな」

彼は頷いた。

セレスティアは隣にいた。

食堂で、二人は温かい椀を渡された。

食べなければ、と思う。

レオンは匙を持ったが、しばらく動かせなかった。

セレスティアも黙っていた。

一人で働いた報酬袋が、彼女の荷の中にある。

依頼を受け、魔獣を倒し、人を助けた。

速く動けた。

今日は、その速さでも届かない場所があった。

レオンはようやく芋を一つ食べた。

喉を通ると、急に腹が空いた。

食べ終えるまで、二人とも何も話さなかった。

そのあと、セレスティアが椀を置いた。

「ヴァルター、起きてるかな」

レオンは彼女を見た。

「見舞い?」

答えが、すぐには返ってこなかった。

彼女の手は、腰の剣へ落ちていた。

「セラ」

レオンは匙を置いた。

「まだ、殺した方がいいと思ってる?」

セレスティアは顔を上げた。

「うん」

今日、彼が人を守ったことを、彼女は見た。

過去にも、見ていた。

レオンは、もうそれを知っている。


皆様ここまで読んでいただきありがとうございます。

拙い文章ではありますがお楽しみいただけたでしょうか?

「面白い!」「続き読みたい!」など思った方は、ぜひブックマーク、評価、いいねをよろしくお願いします。

作者のやる気が漲ります!


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