十三歳の魔王
レオンとセレスティアがアルカ村を出てから六週間が過ぎていた。
アルカ村は王国の北西部にある。
王都はそこから南東へ十日あまり。
勇者として定められた道を進むなら、セレスティアは神殿騎士に伴われ、南へ向かうはずだった。
けれど二人は西門から村を抜けたあと、捜索の目を避けて森の旧炭焼き道へ入りそのまま北へ進んだ。
街道沿いの宿場では、セレスティアが旅人の傷を癒やし、レオンが荷下ろしや薪割りを手伝って、どうにか食事と寝床を得た。
「勇者と一緒なら楽できると思った」
「誰がそんなこと言ったの」
「俺」
「…働け」
結局、六週間のうちにレオンの手には新しい豆が三つ増えた。
北へ向かうほど、空は低く、風は冷たくなった。
なだらかだった丘陵は岩の多い山道へ変わり、やがて王国の地図から道そのものが消えた。
道端には人間の王国と魔族領の境を示す古い石柱が立っている。
もっとも、どちらの国も今ではこの辺りを守っていない。石柱は半ば土に埋もれ、刻まれた二つの紋章は雨風に削られていた。
その石柱からさらに二日。
レオンとセレスティアは、一本の楡の木の陰から谷あいの小さな村を見下ろしていた。
「……子供じゃん」
レオンは言った。
「だから言ったでしょ」
セレスティアは幹に背を預けたまま、村の中央へ視線を向けている。
「四年後に魔王になる」
「でも今十三?」
「うん」
「子供じゃん」
「二回言わなくていい」
王国と魔族領のどちらにも属さない、境界混住地域の村だった。
灰色の石を積んだ家々。小さな畑。低い柵の中で草を食む羊。
広場では、人間の子供と、獣の耳や小さな角を持つ子供が入り交じって走っている。
王都の人間が想像する国境とは、ずいぶん違う。
兵士も砦もない。あるのは、洗濯物と、干し草と、昼食を煮る鍋の煙だけだった。
その中に、一人だけ輪へ入らずに歩く少年がいた。
黒い髪。額から伸びた二本の角。赤い目。痩せた肩には古びた上着が掛かり、両腕には、自分の背丈ほどもある薪を抱えている。
子供たちが脇を駆け抜けても、少年は顔を上げなかった。
「名前は?」
「ゼイン」
「家名」
「ない」
「何で魔王になるの」
セレスティアは答えなかった。
「セラ」
「長いから」
「歩きながら聞く」
「嫌」
「じゃあ帰る?」
「それ私の台詞」
セレスティアは木陰を出た。
レオンもその後を追う。
村へ下る坂道の先で、角のある少年が一度だけ顔を上げた。
赤い目が、遠くからセレスティアを見た。
そして、すぐに逸らされた。
「旅の方ですか」
村長は二人の前で足を止めた。
白髪の混じった小柄な男だった。首から下げた人間の神の護符と家の戸口に刻まれた魔除けの紋様が、この村の複雑な成り立ちを物語っている。
「名前を聞いても?」
「セレスティア」
村長の表情が止まった。
銀色の髪。青い瞳。腰に下げた剣。そして、その隣にいる黒髪の少年。
「……まさか、アルカ村で選ばれたという」
「たぶん、それ」
「勇者様」
今度こそ、村長は深く腰を折った。
「まだ王都にも行ってないけど」
セレスティアが言う。
アルカ村の神官は《天輪の勇者》の出現を王都へ報告していた。同時に、当の勇者が王都とは逆方向へ姿を消したことも。
神殿騎士は北方街道沿いの宿場や礼拝所へ捜索の触れを出した。
商人たちはそれを面白がり、銀髪の勇者が名もない少年と逃げたという話に変えて、さらに先まで運んだ。
二人が森や脇道を選んで歩く間に、噂の方が先に国境へ着いたらしい。
「どうして、このような場所へ」
村長の声は喜びよりも緊張に近かった。
「人を探してる」
「誰でしょう」
「ゼイン」
村長の顔色が変わった。
ほんの一瞬だった。だが、レオンは見逃さない。
「知ってるんだ」
村長は唇を湿らせた。
「……村の孤児です」
「どこ」
「今は、森へ薪を集めに」
セレスティアが歩き出す。
「勇者様」
村長が呼び止めた。
「何」
「あの子は」
そこで言葉が切れた。
村長は周囲を確かめる。道端で籠を編んでいた老人も水を運んでいた女も聞こえないふりをして手を動かしていた。
「少し……問題がありまして」
慎重に選び抜いた言葉だった。
セレスティアが振り返る。
「知ってる」
村長は青ざめた。
何を知っているのか。どこまで知られているのか。
尋ねる勇気はないらしい。
レオンは、村長と森へ続く道とを交互に見た。
村へ入ったときから感じていた居心地の悪さがようやく少しわかった気がした。
森は針葉樹の匂いで満ちていた。
村から少し離れただけで人の声は消え、斧の音だけが乾いた空気を打っている。
ゼインは切り株の脇にしゃがみ、細い縄で薪を束ねていた。
セレスティアが枝を踏む。
少年は顔を上げた。
銀髪と青い瞳、腰の剣を見る。
固まった。
その瞬間。
薪を捨て、逃げた。
「待て!」
レオンが反射的に追う。
「レオン!」
「何!」
「速い!」
「知ってる!」
「何で追ったの!」
「逃げたから!」
「それ理由になってない!」
木々の間を、黒い影がすり抜ける。
茂みを跳び越え、傾斜を滑り、倒木の上を駆ける。十三歳とは思えない速さだった。毎日この森を歩いている者の足取りでもある。
対してレオンは、知らない森を勢いだけで走っていた。
結果は早かった。
苔のついた根に爪先を引っ掛ける。
「痛っ!」
派手に転び、湿った落ち葉へ顔から突っ込んだ。
前を走っていたゼインが振り返る。
一瞬。
口元が緩んだ。
「……今笑ったな!」
「知らない!」
初めて聞いた声は少しかすれていた。
魔王の声ではない。
悪戯がバレた普通の子供の声だった。
結局、ゼインを捕まえたのはセレスティアだった。
当然といえば当然だった。
レオンが起き上がったときには少し先の木の下でセレスティアが少年の上着の襟をつかんでいた。暴れるゼインを片手で止めている。
「離せ!」
「無理」
「何なんだよ!」
「話がある」
「嫌だ!」
「聞いて」
「勇者が俺に何の用だよ!」
勇者。
吐き捨てるような言い方だった。
レオンは服についた葉を払いながら、ゼインの顔を見る。
恐れている。
だが、それだけではない。
ゼインが恐れているのは、勇者そのものというより、自分が何か裁かれるようなことをしたのではないかという不安なのかもしれない。火が勝手に噴き出すようになってから、周囲の目が変わったことをレオンはまだ知らなかった。
セレスティアも気づいたはずだった。
けれど、その手は緩まなかった。
三人は森の奥にある開けた場所へ移った。
ゼインは大樹に背をつけ、膝を立てて座っている。両手は自由だった。逃げても無駄だと分かったらしい。
鳥の鳴き声が、遠くで一度響いた。
「で」
レオンが聞く。
「何でこいつが魔王になるの」
セレスティアは少し黙った。
ゼイン本人へ話すつもりはなかったのかもしれない。
しかし、ここまで来て隠せる話でもなかった。
「村が焼かれる」
ゼインが顔を上げる。
「四年後」
「誰に」
「王国軍」
「何で」
「領主の命令に逆らった罪」
レオンは木々の向こうにある村の方角を見た。
「この村、王国の領地じゃないだろ。どうしてそんな命令を受けるんだよ」
「だから見せしめになる」
「何で」
「二年後、戦争が始まる」
セレスティアの声が変わった。
十七歳の少女ではない。
百二回、同じ歴史を見てきた者の声だった。
「王国北部の領主の一人が、戦争を口実に魔族排斥令を出す。王国全体の決まりじゃない。でも軍を持った領主が『追い出せ』と命じれば、抵抗できない村もある」
「……ここは?」
「拒否する。昔から一緒に暮らしてきた人たちを、追い出せないから」
話すたびに、セレスティアの目から今の森が消えていく。
代わりに、まだ起きていない炎が映る。
「見せしめに焼かれる。ゼインの育ての親も死ぬ」
「村人もほぼ全員」
「……俺は」
ゼインの声が小さくなる。
「ゼインだけ生き残る」
沈黙。
風が枝を揺らした。
「その後」
「魔族側に拾われる。四年後、北方の一領を武力で奪って魔王になる。七年後、魔王たちを従えて王国に宣戦布告。十二年後――」
セレスティアは、そこで少し止まった。
「王都を焼く」
魔族領における《魔王》は、魔族すべてを統べる唯一の王ではない。
土地を持ち、そこに暮らす者を支配し、同時に庇護する領主の称号だった。小さな谷を治める者もいれば、街をいくつも支配する者もいる。その上に、北方一帯の魔王を従える《北方大魔王》が立つ。
過去百二回のゼインは十七歳で最初の領地と魔王号を奪った。そして憎悪と戦いの中で勢力を広げ、やがて北方全域を支配した。
ゼインは何も言わなくなった。
十三歳の両手が膝の上で強く握られていた。
「俺が?」
「うん」
「嘘だ」
「本当」
「俺、魔王なんてならない」
「なる」
「ならない!」
「百二回見た」
ゼインが立ち上がる。
「なんだよそれ!俺は!」
赤い瞳の奥で、怒りが火花のように揺れた。
セレスティアが睨む。
ただそれだけで、ゼインは続きを飲み込んだ。
レオンが二人の間へ入る。
「待て」
「何」
「お前、今までこいつどうしたの」
「いろいろ」
「いろいろって」
「殺した」
ゼインが固まる。
レオンも固まった。
「……は?」
「監禁した」
「三回」
「他には?」
「村ごと移住させた」
「それでどうなった?」
「別の場所で戦争が起きた」
「育ての親だけ助けた」
「それは?」
「別の人が死んで魔王になった」
「改心させた」
「おお」
「一度だけ神官になった」
「おお!」
「その周回ではもっと酷い魔王が出た」
レオンは額を押さえた。
「面倒くさ」
「だから言ったでしょ」
「言ってない」
誰を助けても、別の誰かが死ぬ。
火元を消せば、別の場所から炎が上がる。
セレスティアが短く並べた失敗の一つ一つに、本当は何年もの時間と、数え切れない死があった。
その重さを、レオンはまだ知らない。
だが、目の前にいる十三歳の顔から血の気が引いていくことは分かった。
「俺」
二人が見る。
「を、殺したの?」
セレスティアは目を逸らさない。
「うん」
正直だった。
「何回」
答えるまでに、わずかな間があった。
「……九回」
森からすべての音が消えたように感じた。
「帰る」
ゼインが言った。
薪は森の中へ置いたままだった。
セレスティアは止めない。少年は二人を見ず、村へ続く道を歩いていく。
細い背中が木々の間へ消えるまで、レオンは黙っていた。
「セラ」
「何」
「今の必要だった?」
「何が」
「殺したって」
「聞かれたから」
「そうだけど、子供だぞ」
「四年後には何万人殺す」
その言葉に、レオンの顔が変わった。
「だから何だよ」
「何って」
「今、何かしたか?」
セレスティアが黙る。
「薪拾ってただけだろ」
青い瞳が細くなる。
「レオン」
「何」
「未来を知らないから言えるの」
「そうだよ」
即答だった。
「知らない。だから今のこいつしか見れない」
「私は知ってる!」
「分かってる」
「王都が燃える!」
「うん」
「子供も死ぬ!」
「うん」
「私の仲間も!」
「うん」
「何回も見た!」
「うん」
セレスティアが叫ぶ。
「じゃあ、何でそんなこと言えるの!」
森の鳥が一斉に飛び立った。
レオンはしばらく答えなかった。
分かったふりだけはしたくなかった。
百二回の死も、燃える王都も、自分は見ていない。セレスティアの絶望を本当の意味で理解することもできない。
「だって」
ゼインが消えた森を見る。
「今まだ、やってないじゃん」
セレスティアは、レオンを睨んだ。
「未来の罪で裁くなって言いたいの?」
「うん」
「綺麗事」
「そうかも」
「じゃあ四年後、本当に魔王になったら?」
「止める」
「殺す?」
「必要なら」
「遅い」
「なんで」
「何万人も死んでからじゃ遅い!」
セレスティアの声が再び強くなる。
レオンも引かなかった。
「じゃあ今殺すのか?」
「……」
「薪を拾っていただけの子供を?」
「……」
「何もしてないのに?」
セレスティアは答えない。
できないのではない。
彼女は、九回できた。
その九回とも、必要な決断だと思っていた。そして九回とも、世界は別の壊れ方をした。
レオンは続ける。
「俺は未来知らない。だから間違うかもしれない」
「……」
「お前は知ってる。でも、百二回うまくいかなかった」
セレスティアの顔が歪んだ。
責めるために言ったのではない。
それでも、その言葉は百二個の傷を正確に抉った。
「だったら」
レオンは言った。
「知らないやり方、一回くらいやってもいいだろ」
風が二人の間を通り過ぎる。
セレスティアは目を伏せた。
未来を知らないことを彼女は弱さだと思っていた。
けれど今、その無知だけが選べる道を、レオンは示している。
「何するの」
長い沈黙のあと、セレスティアが聞いた。
「村救う」
「簡単に言う」
「四年後、焼かれるんだろ」
「うん」
「じゃあ、焼かれないようにする」
「何十回もやった」
「お前が?」
「うん」
「一人で?」
「……」
答えはなかった。
仲間がいなかったわけではない。だが、結末を知るのはいつもセレスティア一人だった。何が失敗し、誰が死ぬかを説明しても、信じてもらえるとは限らない。
だから、最後には自分一人で決めた。
「今回、俺いるじゃん」
セレスティアは、本気で呆れた顔をした。
「剣、中」
「うるさい」
「魔術、低」
「覚えてる」
「金、なし」
「増やす」
「どうやって」
「知らん」
「何もないじゃん」
「一個ある」
「何」
レオンは笑った。
「暇」
世界を救う者が持つには、あまりにも頼りない財産だった。
セレスティアは、しばらく黙った。
そして。
ほんの少しだけ笑った。
「ホント馬鹿」
村へ戻るとゼインの家は空だった。
村の外れにある小さな石造りの家。戸口には割れた椅子が一脚あり、窓辺には洗いかけの木皿が残されている。森から戻っていないのか、二人を避けてどこかへ隠れたのかは分からない。
「勇者様」
追ってきた村長が、重い声で呼んだ。
「何」
「あの子を」
言いにくそうに視線を落とす。
「連れて行っていただけませんか」
「何で」
「……近頃、妙な力を使うようになりまして」
「どんな」
村長は家の裏へ回った。
土壁の一部が黒く焼け、木の柵は半ば炭になっている。草の焦げた匂いが、まだわずかに残っていた。
「火が」
「ゼインがやったの」
「怒ると、出るのです」
村長は黒い跡を見たまま答えた。
「村の者も、怖がっている」
火を使う魔術師は、珍しくない。けれど、怒れば本人の意思と関係なく家が燃えるのなら、話は別だった。
少し離れた家の窓から、誰かがこちらを見ていた。セレスティアと目が合うと、すぐに布が引かれる。
セレスティアは知っている。
これが、最初の一歩だった。
孤立。
恐れ。
排除。
そして、四年後の炎。
「追い出すの?」
レオンが聞く。
村長は黙った。
「育てたんでしょ」
「だが」
「何年」
「十二年」
「赤ん坊から?」
「……そうだ」
村の近くで、亡くなった母親に抱かれていたゼインを見つけたのは村長だった。以来、村の女が乳を分け、今の育ての親が引き取った。畑仕事のできない幼い頃は、皆が少しずつ食べ物を出した。
この村は、確かにゼインを育てた。
けれど、王国の兵が巡回に来ることはない。魔族領の魔王の使いも姿を見せない。
人間と魔族が共に暮らせる代わりに、誰からも守られない土地だった。
「じゃあ」
レオンは、少し怒った。
「十三年目に怖くなったから捨てるの?」
「お前に何が分かる!」
村長が怒鳴った。
家の窓が、いくつか閉じる。
「子供一人で家を燃やせる! もし人を焼いたら!」
「その時は」
村長の声が詰まる。
追い出したいのではない。
追い出さなければならないと思い始めている。
レオンも黙った。
村長の恐怖は正しかった。
火は人を選ばない。ゼインが善人でも、子供でも、燃えた家の中に誰かがいれば死ぬ。
怖い。
当然だった。
だからといって、捨ててよい答えにはならない。
「じゃあ」
レオンは言った。
「燃やさない方法考えよう」
「何を」
「怒っても火出ないように」
「そんなことできるのか」
レオンがセレスティアを見る。
「できる?」
「私を見ないで」
「俺、魔術適性、低。お前、勇者」
「こういう時だけ便利に使わないで」
「でも魔法詳しい」
セレスティアは焼け跡へ近づき、炭化した木片へ指を触れた。
残った魔力の流れを確かめる。
「……調べる」
三日。
セレスティアは村の古い記録と旅の途中で手に入れた魔術書を調べた。ゼインの育ての親から幼い頃の様子を聞き、本人の魔力を何度も測った。
ゼインは初日こそ二人を避けたが、三日目には諦めたように家へ戻ってきた。
結論。
ゼインは《魔核暴走体質》だった。
強い感情に反応し、体内の魔力が本人の意思とは無関係に火属性へ変換される。怒りや恐怖が引き金となり、抑えようと焦るほど魔力は強くなる。
極めて珍しい。
そして、治らない。
「終わった」
レオンが言う。
「早い」
「じゃあどうする」
「制御を覚える」
「できる?」
「たぶん」
「誰が教える」
セレスティアが、嫌な顔をした。
レオンは笑う。
「勇者」
「嫌」
「何で」
「面倒」
「世界救うより?」
「…」
翌朝。
村外れの草地でゼインの前にセレスティアが立った。
夜明け前の冷たい空気の中、ゼインは腕を組み、露骨に不機嫌な顔をしている。レオンは少し離れた岩へ腰を下ろし、村でもらった固いパンをかじっていた。
「修行する」
「嫌」
「する」
「嫌だ」
「火、出なくしたいでしょ」
ゼインが黙る。
昨日、村の子供が彼の家の前を避けて歩いた。その光景を、ゼイン自身も見ていた。
「私が教える」
「何で」
「レオンがうるさいから」
「人のせいにすんなよ」
少し離れたところで、レオンが言った。
「あと」
セレスティアは続ける。
「四年後」
ゼインの肩が強張った。
「あなたが魔王になるなら、その時は止める」
「殺す?」
「必要なら」
レオンが何か言おうとする。
セレスティアが先に言った。
「でも」
赤い目を正面から見る。
「今は殺さない」
「……」
「今のあなたは」
少しだけ迷う。
「まだ何もしてないから」
岩の上でレオンが笑った。
セレスティアは睨む。
「真似した」
「知ってる」
ゼインは二人を交互に見た。
そして初めて、自分を殺したことのある勇者の前で、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
修行は、酷かった。
「火!」
「出すな!」
「出るんだよ!」
「抑えて!」
「だから、できねえ!」
爆発。
赤い炎と土煙が広がり、見学していたレオンが地面を転がる。
「俺、関係なくない!?」
「近くにいるから!」
「理不尽!」
最初の二週間。
ゼインは魔力を抑えようとするたびに何かを燃やした。訓練用に積んだ石壁。水を張った桶。セレスティアが地面へ描いた魔法陣。
一か月目。
畑の端を燃やした。
村人総出で火を消し、その夜、ゼインは誰にも見つからないよう焦げた土を掘り返した。翌朝そこへ新しい種をまいたのは、レオンだけが知っている。
二か月目。
火を出す方向を選べるようになった。
そして、真っ先にレオンの髪を燃やした。
「お前、絶対わざとだろ!」
「違う!」
「笑ってる!」
「笑ってない!」
「セラも笑うな!」
「ごめん」
謝りながら、セレスティアの肩も震えていた。
水をかぶったレオンが怒鳴り、ゼインが腹を抱える。
初めて。
ゼインが、村の中で普通に笑った。
その声を聞いて、少し離れて見ていた子供たちも笑った。
半年後。
火は出なくなった。
正確には、出しても消せるようになった。
怒りを消すことはできない。恐怖をなくすこともできない。だからセレスティアは、感情を抑えるのではなく、あふれた魔力を手のひらへ集め、自分の意思で形を与える方法を教えた。
ゼインが指を鳴らす。
小さな炎が灯り、揺れる。
もう一度指を閉じると、煙も残さず消えた。
村人たちの反応も変わっていた。
今でも怖がる者はいる。焼け跡を見れば、簡単には忘れられない。
それでも、以前ほどではない。
鍛冶場ではゼインの火が重宝され、夕方には子供たちが彼を遊びへ誘うようになった。育ての親の家からも、笑い声が聞こえる。
ゼインは村に残った。
その当たり前の結果に、セレスティアは戸惑っていた。
「何」
荷物をまとめながら、レオンが聞く。
「違う」
「何が」
「前は」
「うん」
「修行させても、村には戻れなかった」
「何で」
「私が連れて行ってたから」
「へえ」
「魔王にしないために」
未来を変えるため、火種を自分の手元へ置いた。
けれど勇者に連れられた少年を、村人は以前と同じ目では見られなかった。ゼイン自身も、自分はここにいてはいけないのだと思うようになった。
「今回残した」
「うん」
「で」
「……」
「どうなる?」
セレスティアは、村の広場を見る。
子供に呼ばれたゼインが、面倒そうな顔で歩いていく。
「分からない」
レオンは笑う。
「また言った」
「うるさい」
未来を知らないという言葉は、以前より少しだけ軽くなっていた。
出発の日。
北風に、秋の匂いが混じっていた。
村の入口まで来たところで、ゼインが走ってきた。
「勇者」
「何」
「これ」
布袋を差し出す。
中には干し肉とパン、それに小さな林檎が二つ入っていた。
「村のみんなから」
「ありがとう」
セレスティアが受け取る。
ゼインは、それ以上何も言わない。半年間教わった礼も、別れの言葉も、口にするには気恥ずかしいらしい。
「あと」
ゼインがレオンを見る。
「お前」
「何」
「弱いな」
「半年見て、最初にそれ?」
「勇者の隣にいるのに」
「余計なお世話」
「剣、教えてもらえよ」
「嫌」
セレスティアが即答した。
「何でお前が断る」
「面倒」
ゼインが笑う。
「じゃあ、また」
レオンが手を上げる。
「四年後な」
ゼインの顔が止まる。
「……何で四年」
「魔王になる年」
「お前!」
「冗談」
ゼインは殴った。
レオンは避けられなかった。
村人たちの笑い声に送られ、二人は再び街道へ出た。
村を離れて半日。
振り返っても、もう屋根は見えない。
「セラ」
「何」
「四年後」
「うん」
「本当に魔王にならなかったら?」
セレスティアは歩きながら答える。
「分からない」
「また」
「だって」
セレスティアは、少し笑った。
「今回、初めてだから」
レオンは、それ以上何も言わなかった。
その言葉が、嬉しかった。
自分が特別だと認められたからではない。
百二回の記憶に閉じ込められていたセレスティアが、初めて今の世界を見ている気がしたからだ。
その一か月後。
ゼインは、魔王になった。
予言より、三年以上早く。
復讐ではなく。
村を守るために。
ただし。
自称だった。
知らせを受けたレオンは、北東へ延びる旧街道の宿屋で、しばらく黙った。
隣では、セレスティアが腕を組んでいる。
「……なったじゃん」
レオンは言った。
「言わないで」
「私は言った」
「分かった」
「百二回」
「分かったって」
「だから」
「分かった!」
宿の客が一斉に二人を見る。
レオンは声を落とした。
「何があったの」
知らせを運んできた行商人は、境界の村が《赤牙衆》に襲われたのだと話した。
赤牙衆は、魔族領と境界地域を渡り歩く略奪集団だった。数は三十に満たない。軍隊ではない。統一された国の兵でもない。
だからこそ厄介だった。
どの魔王にも仕えず、どの法にも従わない。守りのない村へ現れ、食料と金を奪い、若者を連れていく。村を支配するつもりはなく、奪えるだけ奪えば次へ移る。
赤牙衆は、あの村にも冬越しの食料と、働ける若者三人を要求した。
村長は拒んだ。
その子らの親に、渡してよいかと聞けるはずがなかった。隣の村にも助けを求めたが、返事は「こちらも守るので精一杯だ」だった。
戦いを指揮したのは、ゼインではない。
村長だった。
猟師と木こりを集め、戦える大人を十六人に分ける。子供と戦えない者は石造りの貯蔵庫へ。村へ入る細い橋には荷車を横倒しに置いた。橋を抜けても家々の間は狭く、大勢で突っ込めない。弓を持つ猟師は斜面に潜み、鍬や斧を持つ者は曲がり角で待つ。
ゼインに任されたのは、合図まで火を出さないことだった。
「勝手に飛び出すなよ」
村長が念を押す。
「分かってる」
「怖くなったら下がれ」
「……分かってる」
村長は少年の角を一度見てから、背を向けた。
襲撃は夜明け前に始まった。
赤牙衆は二十七人。
村の守り手は十六人。
最初の矢で荷車の陰にいた男が肩を射抜かれた。続いて火矢が納屋に突き立ち、乾いた屋根が燃えた。守り手が火を消しに走れば、橋の防備が薄くなる。
「まだだ!」
ゼインは声のする方を見た。
セレスティアと訓練した半年が頭をよぎる。怒れば火を放ってしまう。怖くなれば、さらに燃える。だが今は、手を開き、息を整えることができる。
燃え広がろうとする屋根の炎を魔力で風下へ逸らす。村人がそこへ水桶を運んだ。火を消したのはゼイン一人ではなかった。
橋の手前で村長が片手を上げる。
合図だった。
ゼインは橋板の上へ細く炎を這わせた。
火属性の術は珍しくない。赤牙衆にも術者はいる。それでも、後ろの者は前へ詰められず、先に橋を越えた数人だけが荷車の陰へ押し込まれた。
斜面から猟師の矢が降る。
村人たちが曲がり角から飛び出した。
一人が足を負傷して倒れ、もう一人が腕を射抜かれた。赤牙衆の一人は捕らえられ、頭目も前へ出たところで肩を斬られた。
橋の向こうには、まだ数の優位があった。だが、前へ出るには狭い道で仲間を踏み越えなければならない。村を囲んで長く戦うほどの食料も持ってきていない。傷ついた者を連れて帰れば、奪った物など残らない。
頭目は舌打ちした。
「引くぞ!」
命令に従わない者を怒鳴りつけ、傷ついた仲間を引きずらせる。略奪者たちは橋の外へ退いていった。勇敢さに負けたのでも、魔法を恐れたのでもない。奪える物より、失う物の方が大きくなったからだ。
圧勝ではなかった。
村人は七人が負傷し、二軒の家が焼けた。ゼインも肩を斬られ、最後には立っているのがやっとだった。
勝どきを上げる者はいなかった。
負傷者のための水が運ばれ、焼けた家から煤だらけの鍋が一つ取り出された。
「また来るかな」
ゼインが村長へ聞いた。
「分からん」
「次はもっと大勢かもしれない」
「そうだな」
「あいつらが戻ってきたら、誰が守る?」
村長は返事をしなかった。
王国の兵はここを守らない。魔族領の魔王たちも、この谷を自分の領地とは言わない。誰かの庇護があれば狙われなかった、とまでは言えない。それでも、助けを求める相手のいないことだけは確かだった。
ゼインは、セレスティアに初めて会った日のことを思い出した。
――四年後、あなたは魔王になる。
あの時は、自分が人を殺し、村を焼かせるような存在になると聞こえた。
だが魔王とは、領地を持ち、そこに暮らす者を守る立場でもある。
「……俺がなる」
「何にだ」
「魔王」
村長が少年を見た。
「お前、魔王を名乗る意味が分かっているのか」
「村を守るんだろ」
「守るだけじゃない。食わせて、揉め事を裁いて、他所の領主に頭も下げる。名乗るだけなら誰にでもできるが、認めてもらえると思うな」
「……そうなのか」
「それに、別の魔王の目にも留まる。お前一人が危ないんじゃない。村も巻き込む」
ゼインは焼けた二軒の家を見る。
片方の家の主は、負傷した妻の手を握っていた。彼はゼインを見て、小さく頭を下げた。それでも、賛成する顔ではなかった。
「また余計な敵を呼ぶなら、困る」
誰かが言った。
「今までどおり村長がいればいい」
別の声もした。
「今までどおりで、これになったんだろ」
意見は割れた。
ゼインは、しばらく口を開けなかった。
怖かった。さっきまでの戦いより、村の人たちの顔を見る方が。
「今すぐ従えとは言わない」
ようやく言った。
「俺、領地のことも法律も分かんない。だけど、今度あいつらが来たら、また守りたい」
村長はため息をついた。
「まず傷を治せ。話はそれからだ」
それで議論が終わったわけではない。
それでも翌日から、ゼインは自分のことを《国境の魔王》と名乗り始めた。
誰の承認もない、ただの自称だった。
村はまだ、王国にも魔族領にも属していなかった。
二人は来た道を引き返した。
三日後。
村の入口には、焼け焦げた荷車がまだ横たわっていた。壁を失った家には布が張られ、怪我をした村人が片手で瓦礫を運んでいる。
広場の中央に、ゼインがいた。
黒い鎧はない。
王冠もない。
肩に包帯を巻き、村人と一緒に焼けた木材を片づけていた。
「まだ弱そうだな」
先に言ったのはレオンだった。
「お前より強い」
「魔王の第一声、それ?」
「勇者」
ゼインがセレスティアを見る。
「戻ってきたんだ」
「うん」
「俺」
少しだけ得意そうに笑う。
「魔王になった」
「自称でしょ」
「うるさい」
近くで聞いていた鍛冶屋が笑った。
「魔王様、そっちの柱も運んでくれ」
「自分でやれよ」
「村を守るんだろう?」
「それとこれは別だ!」
村人は半分冗談で、半分本気で、ゼインを魔王と呼んでいた。
ただ、呼ばない者もいる。焼けた家の主は、ゼインに助けられたことを感謝しながらも、次の襲撃を心配していた。
魔王を名乗るには、土地と住民、そして周囲の領主が認めるだけの実績がいる。ゼインにはまだ、どれも足りない。
「勝手に村を領地にしたつもりになるなよ」
村長の声に、ゼインは口を尖らせた。
「分かってる」
そう言って、何もかも分かった顔はしなかった。
「殺す?」
ゼインが、不意に聞いた。
セレスティアは長い間黙った。
百二回分の記憶がある。
自分が殺したゼイン。ゼインに殺された仲間。炎に包まれる王都。道を埋めた死体。
すべてが、目の前の十三歳と重なる。
けれど今、彼の後ろにあるのは、焼かれた王都ではない。
守り切った村だった。
「今は」
セレスティアは言った。
「殺さない」
ゼインが笑う。
「そっか」
レオンも笑った。
問題は、それで終わらなかった。
国境で十三歳の少年が魔王を名乗った。
噂だけが南へ走り、王国北境を預かる辺境伯の砦へ届いた。
王都ではない。
国王も将軍も来ない。
やって来たのは、辺境伯の代理官と十二人の国境警備兵だった。
魔族領の近隣魔王たちは、今のところ動かなかった。国境の小村で少年が何を名乗ろうと、領地を守る実力がなければ意味はない。だからといって、いつまでも見逃される保証もなかった。
彼らにとって、境界混住地域は領外であると同時に、放置できない隣地でもある。魔王を名乗る者が街道沿いに現れたなら、規模が小さいうちに確かめる必要があった。
さらに、近隣四村の村長たちも集まった。
人間が多い村。
魔族が多い村。
両方が暮らす村。
どの村も、赤牙衆のような略奪者と、国境警備兵による越境捜索の両方に悩まされていた。犯人を追って兵が村へ踏み込み、誰かを拘束する。隣村が報復し、街道が閉じる。
国同士の戦争ではない。
記録にも残らない小さな衝突が、何年も続いていた。
会合は、村の穀物倉で開かれた。
交渉を進めたのはゼインではない。
村長たちだった。
ゼインは村の代表の隣に座り、質問されたときだけ答えた。十三歳に国境の法律も交易税も分からない。分からないことは、分からないと言った。
その代わり。
「略奪者が来たら、追い返せるか」
代理官に聞かれたとき、ゼインは答えた。
「村のみんなとなら」
自分一人でとは、言わなかった。
会合は十三時間続いた。
レオンは途中で寝た。
「おい」
机の下でゼインが蹴る。
「何」
「お前が話し合えって言ったんだろ」
「長い」
「国境の取り決めだぞ」
「話、長い」
「起きろ」
「起きてる」
「目を開けろ」
「レオン!」
日が沈む頃、取り決めが成立した。
互いの村を襲わない。
犯罪者を種族だけで庇わず、証拠を添えて引き渡す。
街道を共同で巡回する。
月に二度、境界市場を開き、限られた品の交易を認める。
対象は、辺境伯領北端の二つの集落と、境界混住地域の四つの村。
王国と魔族領の和平ではない。
期間も、まず一年。
小さな約束だった。
署名の最後。
ゼインは紙の前で止まった。
「家名」
書記が言う。
「ない」
「地位」
「魔王」
代理官が眉を上げる。
「自称だろう」
「今はな」
ゼインは、煤で汚れた親指を赤い印泥へ押しつけた。
書面の端に、小さな指印が残る。
《ゼイン。家名なし。国境の魔王――自称》
後世、この取り決めはこう呼ばれる。
《第一次人魔停戦協定》
人間と魔族が、種族ではなく土地の代表として結んだ、最初の継続的な協定。
後世の学者は書く。
《始祖レオン・アーヴェルの種族融和思想は、この時すでに完成していた》
違う。
本人は会合の途中で三回寝た。
署名後の第一声は。
「飯まだ?」
だった。
夜。
村の見張り台。
長い会合を終えた人々の灯りが、眼下の家々に一つずつ消えていく。北には魔族領の山々が黒く沈み、南には王国へ続く街道が夜の中へ延びていた。
手すりへ肘をついたレオンの隣に、セレスティアが立つ。
「ねえ」
「何」
「もし」
「うん」
「ゼインが本当に王都を焼いたら」
レオンは黙った。
「あなた」
セレスティアが聞く。
「後悔する?」
少し考える。
「する」
「やっぱり」
「めちゃくちゃする」
「……」
「自分のせいだって思う」
「うん」
「でも」
レオンは夜空を見る。
「今殺してても、後悔したと思う」
セレスティアは黙る。
「だったら」
レオンは言った。
「後で、自分で選んだって言える方にする」
「正しい方じゃなくて?」
「正しいかどうか」
レオンは笑った。
「未来見えないから、分からん」
セレスティアはレオンの横顔を見た。
百二回、正解を探してきた。そのたびに世界が終わり、春へ戻った。
レオンは正解を知らない。その代わり、間違えたらどうするかを考えている。
「変なの」
「何が」
「あなた」
「今さら?」
「うん」
セレスティアは少し笑った。
四年後。
ゼインは十七歳になった。
その頃には、自称ではなくなっていた。
最初の一年で、共同巡回路を二本増やした。
二年目の飢饉では、境界市場を通じて南から穀物を買い、北の村へ運んだ。
三年目には、水場を巡って争っていた二つの集落の間に立ち、双方が納得する利用日を決めた。
失敗もした。
税を集めすぎて怒鳴られた。盗人を信じて逃がした。街道警備の配置を誤り、商隊が襲われた。
そのたびに、村長たちへ頭を下げた。
間違えたと認め、次の方法を考えた。
十三歳の少年に軍を率いることはできなかった。
けれど四年間、村々の争いを聞き、街道を守り、冬を越す方法を覚えることはできた。
十七歳の春。
いつからだったのか、はっきりした日はない。
揉め事が起きれば、人々は村長と一緒にゼインを呼んだ。街道の警備を増やすときも、税を集めるときも、外から商人が来たときも。
「国境の魔王に話を通せ」
そう言われることが、少しずつ増えていた。
境界の十四集落が、ゼインを領主として認める連判状へ署名した。
新しい支配を始めるための紙ではなかった。
四年かけて生まれた帰属をようやく文字にしただけだった。
魔族領側の二人の魔王は、承認を渋った。
領地を一つ増やせば、守る責任も増える。力の足りない少年を魔王と認め、その背後まで守らされるのは御免だった。
一方で、ゼインが境界の谷を引き受ければ、二人の領地は王国側と直接接しなくて済む。魔族領そのものを外から侵させないという、魔王たちの暗黙の責任も果たしやすくなる。
残るのは、ゼインに国境を預けられるかどうかだった。
承認の前に行われた腕試しで、ゼインは年長の魔族戦士に二度地面へ転がされた。三度目も勝てなかった。
その後、谷道に立てられた三十枚の木盾へ一斉に火を走らせ、左右の斜面まで炎を伸ばして進路だけを塞いだ。
見ていた二人の魔王は、そこで初めて黙った。
「次に百人来たら、守れるか」
一人の魔王が聞いた。
「俺一人じゃ無理だ」
広間に沈黙が落ちる。
「だから、十四の村で備える。橋も直したし、巡回路も増やした。俺が間違ったら、村長たちが止める」
「情けない答えだな」
「一人で全部守れるって嘘つくよりはいいだろ」
承認した二人の魔王は、最後まで気前のいい顔をしなかった。
その日から、魔族領側の記録では十四集落は《ゼイン領》――魔族領の一部として扱われた。
王国側は、それを認めなかった。
辺境伯にとって、曖昧だった境界地域が一つの領地として固まることは、干渉できる余地が減ることでもある。これまで巡回兵が踏み込めた谷へ入れば、今度は越境だと抗議される。
境目がはっきりするほど、両側の緊張は少し高くなった。
それでも辺境伯は、四年間の実態を無視できなかった。
土地の帰属は認めない。だが、ゼインが魔王を名乗るのなら谷の治安も、魔族領側から武装勢力が抜けて王国へ向かうことも、まずゼインの責任として扱う。
それは命令ではない。ゼインは王国の臣下ではなかった。
ただ、責任を負わない者を領主として扱うつもりもない。それが辺境伯の態度だった。
やがて、辺境伯の砦から届く公文書の宛名が変わった。
《国境の魔王 ゼイン殿》
土地の帰属を認める文言は最後までなかった。
住民には人間も魔族も獣人もいる。昨日まで耕していた畑を今日から捨てる者はいなかった。
ただ、税を納める先と外敵が来たときに責任を負う者が決まった。
領地がある。
民がいる。
魔王たちが認めている。
王国さえ、その名で手紙を寄越す。
その日。
ゼインは本当に《国境の魔王》になった。
百二回のゼインも、同じ十七歳で魔王になった。
けれど過去の彼は、焼けた村の上で称号を奪った。
百三回目の彼は、生きている人々から称号を託された。
同じ魔王。
意味だけが、まったく違っていた。
その夜。
世界の最果て。
白い空間に浮かぶ無数の光を、エルディアは見ていた。
本来の未来。
十七歳のゼイン、北方の一領を武力で奪取。魔王位を獲得。
北方諸領を武力で併合。
人類領へ侵攻。
王都陥落。
十二万四千人死亡。
勇者セレスティアと決戦。
ゼイン死亡。
細部に違いはあっても、その結末だけは百二回変わらなかった。
それが、消えている。
代わりに、見たことのない未来が枝のように増えていた。
停戦。
同盟。
裏切り。
和平。
戦争。
結婚。
混血。
新しい国家。
無数。
観測し、選別し、収束させるための演算が追いつかない。
「……何をした?」
エルディアは、初めて恐れた。
勇者ではない。
セレスティアではない。
その隣にいる、何も見えない男。
レオン・アーヴェル。
彼が一人動くたび、未来が一つではなくなる。
それは、まだ四年先のこと。
ゼインの村を最初に発った、その翌朝。
レオンは起きた。
遅刻した。
「レオン!」
宿の階下から、セレスティアが怒鳴る。
「出発!」
「今行く!」
「三回起こした!」
「聞いてない!」
「石投げるよ!」
「宿でやるな!」
客室を飛び出す。
廊下に置かれた水桶へ足を取られ、転ぶ。
立つ。
また走る。
未来。
知らない。
でも。
昨日より、少し増えた。
皆様ここまで読んでいただきありがとうございます。
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作者のやる気が漲ります!




