百三回目の春
春の朝。
アルカ村の東に連なる低い丘からやわらかな光が差し込んでいた。
冬の名残を含んだ風が麦畑を撫で、濡れた土と若草の匂いを運んでくる。
村の家々ではとっくに一日の支度が始まっていた。
かまどから白い煙が上がり、荷車の車輪が土を軋ませ、井戸端には水を汲む女たちの声が響いている。
そんな、どこにでもある平和な朝に。
レオン・アーヴェルは寝坊した。
「……やば」
目を開けた瞬間に分かった。
窓から差し込む光がいつもの位置よりずっと高い。屋根の上では鳥が遠慮なく鳴いている。毎朝、階下から聞こえるはずの母親の足音も、食器を重ねる音も、もうしない。
つまり。
完全に遅刻している。
「なんで起こしてくれないんだよ!」
掛け布を蹴飛ばし、寝癖を直す暇もなく部屋を飛び出した。階段を半分ほど駆け下り、残りは足を滑らせて転げ落ちる。
台所の机には、固くなりかけたパンと表面に薄い膜の張ったスープ。
その脇に、折り畳まれた紙が置かれていた。
《三回起こしました。母》
「……嘘だろ」
紙を裏返す。
《四回です。父》
「連携すんなよ」
返事をする相手はもう家にいない。レオンはパンを口にくわえ、片方ずつ違う方向を向いていた靴を履き、壁に立てかけてあった剣を腰へ差した。鞄の中身を確かめる余裕はない。たぶん何も入っていないが、それを気にする余裕はもっとなかった。
家を飛び出したところで、村の中央にある鐘楼から三度目の鐘が鳴った。
澄んだ音が、春の空へ容赦なく広がっていく。
「終わった」
今日だけは遅刻してはいけなかった。
王都から神官と神殿騎士が来る日。十七歳を迎える若者たちが広場へ集められ、《天命鑑定》を受ける日だ。
どのような加護を持つのか。剣、魔術、治癒、鍛冶、農耕――何に適性があるのか。そして、神々がその者にどのような役目を望んでいるのか。
人生で一度だけ与えられる神託。アルカ村では、それを成人の儀式として祝う。
その日に寝坊する。
さすが俺。
自分で呆れながら、レオンは石畳を蹴った。
村の広場は人で埋まっていた。
中央には普段の祭りでは見ない白い天幕が張られている。その下に据えられた神晶石は、大人の頭ほどもある透明な結晶だった。朝日を受けて淡く光り、その周囲を白銀の鎧に身を包んだ神殿騎士たちが囲んでいる。
村人たちは儀式を少しでも近くで見ようと広場の端や家の窓、果ては樽の上にまで陣取っていた。
「レオン!」
人垣の向こうから聞き慣れた声が飛んでくる。
銀色の髪。白いワンピース。細い腕を胸の前で組み、セレスティア・ルーンが立っていた。
幼い頃からレオンは彼女をセラと呼んでいる。
「遅い」
「悪い」
息を切らして答えると、セラは呆れたように目を細めた。
「何回起こしても起きない」
「お前も来たの?」
「窓から石投げた」
「お前か!」
そういえば、朝方に何かが頬へ当たった気がする。夢の中で虫でも飛んできたのだと思っていた。
「痛かったぞ」
「起きない方が悪い」
「石はやめろよ」
「次はもっと大きいのにする」
「殺す気か」
昔からこうだ。
腰まで伸びた銀髪と透き通るような青い瞳。村で一番の美人だとレオンも認めている。
年寄りには気遣いができ、子供には優しく、困っている人間を見れば放っておけない。
ただし。
レオンに対してだけは、性格に重大な問題があった。
「寝癖」
セラが指を差す。
「直す時間なかったんだよ」
「鳥みたい」
「うるさい」
腹は立つ。だが、いつものやり取りを交わせたことに、レオンは少し安心していた。
今朝のセラはどこか変だった。
口調も表情も普段と変わらない。それでも広場へ向けられた目だけがこれから起きることを楽しみにする十七歳のものではなかった。
懐かしい場所を見ているようで。
同時に、墓場を見ているようでもあった。
神殿騎士が巻物を広げ、名前を読み上げる。
呼ばれた若者が一人ずつ天幕へ入り、神晶石に手を触れた。
「鍛冶適性」
結晶に橙色の光が走る。鍛冶屋の父親が大声を上げ、周囲から歓声が起きた。
「治癒術適性」
緑の光に包まれた少女の母親が、顔を両手で覆って泣く。
「土属性魔術」
拍手が湧く。畑の多いアルカ村では、土属性の魔術師は下手な剣士よりよほど歓迎される。
レオンは列の後ろで欠伸をした。
「緊張しないの?」
隣に立つセラが聞く。
「別に」
「どんな天命が欲しい?」
「金持ち」
「そういうのじゃない」
「じゃあ、腰の痛くならない農夫」
「夢ないね」
「平和が一番」
何気なく言った言葉だった。
けれど、セラは返事をしなかった。
青い瞳の奥から一瞬だけ光が消えた。何百年も前のことを思い出した老人のような、ひどく疲れた表情だった。
「……そうだね」
「何」
「何でもない」
また、それだ。
今朝から何度も彼女は何でもないと言う。そのたびに何でもなくない顔をしている。
問い詰める前に、騎士の声が響いた。
「レオン・アーヴェル」
「はい」
人垣を抜け、天幕の中へ進む。
近くで見る神晶石は氷の塊のようだった。内部には細い光が幾重にも絡み合い、ときおり文字とも紋章ともつかない形を作っては消えている。
年嵩の神殿騎士が無表情に顎を引いた。
「手を」
レオンが右手を触れる。
冷たい。
すぐに結晶が淡く光った。先ほどまでの若者たちに比べると、ずいぶん頼りない光だった。
「剣術適性、中」
騎士が読み上げる。
「魔術適性、低」
広場のどこかで、父親が小さく唸った気がした。
「神聖加護……なし」
さっきまで騒がしかった村人たちが、妙に静かになる。
加護を持たない者は珍しくない。剣術が中なら、村の自警団に入るには十分だ。魔術が低くても、火種を作る程度はできるかもしれない。
少なくとも、レオン本人に落ち込むほどの結果ではなかった。
「天命適性」
そこで、騎士の声が止まった。
神晶石の奥を覗き込み、眉をひそめる。
「……記載なし?」
背後にいた神官が近寄ってきた。
「貸せ」
別の、小ぶりな晶石が運ばれる。レオンは言われるまま、もう一度手を置いた。
今度は何の反応もない。
「故障?」
「いや。魔力への反応はある」
神官は何度か晶石を叩き、レオンの顔と見比べた。不可解そうではあったが、危険を感じた様子はない。
「まあいい。稀にある」
「終わり?」
「終わりだ」
期待していなかったとはいえ、あまりにも雑だった。
肩をすくめて列へ戻る。
そして。
セラが真っ青になっていることに気づいた。
「どうした?」
「……何でもない」
「顔やばいぞ」
「何でもない」
「腹痛い?」
「違う」
「じゃあ――」
「レオン」
名前を呼ばれ、言葉が止まった。
低い声だった。
十七年間、一度も聞いたことのない声。怒っているのでも、呆れているのでもない。目の前の現実を信じることができず、無理に確かめようとする声だった。
「あなた」
セラの指先が震えている。
「本当にレオン?」
レオンは思わず笑った。
「何それ」
「答えて」
「レオン・アーヴェル。十七歳。昨日、お前に芋を投げられた」
「それは一昨日」
「じゃあ一昨日」
「……」
「ほら」
いつもなら、ここで呆れるか、もう一度何かを投げてくる。
だが、セラは笑わない。
視線を神晶石へ向け、それからもう一度レオンを見る。
まるで、知っているはずの世界に突然現れた、正体の分からない化け物を見るように。
その目が、レオンには少しだけ悲しかった。
「セレスティア・ルーン」
騎士に呼ばれ、セラの肩が大きく揺れた。
逃げ出すことを考えたように見えた。けれど広場中の視線が集まる中、彼女はゆっくりと天幕へ向かった。
神晶石に触れる。
次の瞬間。
白い光が爆発した。
天幕を透かし、広場を呑み込み、村全体を昼より明るく染め上げる。衝撃に似た風が吹き抜け、鐘楼の鐘が誰の手も触れていないのに鳴り始めた。
甲高い音が幾重にも重なり、空から声が降る。
《見つけた》
それは耳で聞く声ではなかった。頭蓋の内側に直接響き、身体の奥まで震わせる声だった。
神官が跪く。騎士たちが一斉に頭を垂れ、何が起きたか分からない村人たちも、それに倣って地面へ膝をついた。
レオンだけが、状況を理解できずに立っていた。
《天輪の勇者》
《世界は再び汝を選ぶ》
「……再び?」
思わず呟く。
セラの肩が震えた。
祝福を受けた少女の震えではない。判決を聞かされた囚人のものだった。
《終焉に備えよ》
神託が終わり、光が消える。
一瞬の静寂。
直後、広場が割れそうな歓声に包まれた。
「勇者だ!」
「セレスティアが!」
「この村から勇者が出たぞ!」
彼女の両親が抱き合って泣いている。神官は地面へ額をつけ、神殿騎士たちは抜いた剣を空へ掲げた。
その中心で。
セラだけが俯いていた。
「……また」
歓声に紛れるほど小さな声。
「またか」
すぐ近くにいたレオンだけが、それを聞いた。
その日の夜、アルカ村は祭りになった。
広場には長机が並び、倉から運び出された酒樽がいくつも開けられた。肉を焼く匂いが漂い、楽師でもない村人が太鼓を叩き、踊りの輪が夜遅くまで続いた。
勇者セレスティア。
明日には神殿騎士の護衛を受け、王都へ出発する。そこで国王に謁見し、聖剣を授けられ、世界を救う旅に出るのだという。
大人たちは早くも、セラの子供の頃の話を英雄譚に仕立てていた。川で溺れた話は、激流から幼子を救った話へ変わり、森で迷った話は、魔獣を退けた話へ変わっている。
「勇者か」
少し離れた柵に腰掛け、レオンは喧騒を眺めた。
幼い頃、川へ落ちて泣いていたセラが。
蛇を見てレオンを盾にしたセラが。
家の窓を割った罪を全部レオンになすりつけようとしたセラが。
「なんか笑えるな」
口に出すと、本当におかしくなった。
同時に、胸のどこかが少し冷えた。
明日から彼女はいなくなる。王都へ行き、やがては世界中の誰もが知る人間になる。
剣術適性、中。魔術適性、低。加護なし。天命は記載なし。
そんな自分が隣にいる理由は、もうないのかもしれない。
それでも、祝うべきことだと思った。
思おうとした。
その夜。
セラはいなくなった。
最初に気づいたのは彼女の母親だった。
部屋は空。旅に使えそうな外套と鞄がなくなり、机の上に置かれていたはずの王都行きの支度には手がつけられていない。置き手紙もなかった。
「騎士様に知らせろ!」
「西の畑を探せ!」
酔いの残る村が蜂の巣を突いたような騒ぎになる。
レオンは、なぜか行き先が分かった。
セラが本当に一人になりたい時に向かう場所は昔から決まっている。
西門。
その先の森へ続く道。
月明かりの下を走る。春の夜気は冷たく、宴で吸い込んだ煙のせいか喉が痛んだ。村の灯りが遠ざかるにつれて道は暗くなり、木々のざわめきだけが大きくなる。
やがて、街道の先に銀色の髪が見えた。
「セラ!」
少女が止まる。
ゆっくり振り返った顔には、驚きが浮かんだ。次に、怯え。そして、それを覆い隠すような怒り。
「何で来たの」
「何でって」
「帰って」
「嫌だ」
「帰って!」
森の鳥が一斉に飛び立った。
初めて、本気で怒鳴られた。
「何だよ」
「来ないで」
「理由を言えよ」
「言えない」
「じゃあ帰らない」
「レオン!」
「お前、一人で王都へ行く気?」
「違う」
「じゃあどこ」
「遠く」
「だからどこ」
「分からない」
レオンは黙った。
珍しい。
セラが「分からない」と言った。
彼女は子供の頃から間違っていても必ず答えを出す人間だった。分からないことを分からないままにしておくのが嫌いでレオンが諦めた問題まで一人で考え続ける。
そのセラが今、道さえ決めずに逃げようとしている。
「何があった?」
「何も」
「嘘」
「帰って」
「嫌」
「お願い」
最後の言葉だけ、声が震えていた。
「あなたは来ちゃ駄目」
「何で」
「死ぬから」
「は?」
「みんな死ぬ」
セラは笑った。
楽しいからでも、呆れたからでもない。笑わなければ立っていられない人間の顔だった。
「何回やっても」
レオンは何も言えない。
「王都に行っても」
「魔王を倒しても」
「神を殺しても」
「世界を統一しても」
「全部、駄目」
「何の話?」
「百二回」
「……」
「百二回やった」
「何を」
セラが顔を上げる。
月明かりを映した青い瞳から涙が一筋こぼれた。
「この世界を」
風が吹く。
木々の枝が擦れ合い、長い長い溜息のような音を立てた。
「十七歳の今日」
「毎回、ここから始まる」
セラは途切れ途切れに話した。
「世界が滅びる」
「死ぬ」
「戻る」
「また十七歳」
「全部、覚えてる」
最初の頃は、神託を祝福だと思った。
王都へ行き、聖剣を受け取り、仲間を集めた。魔王を倒せば救えると思った。駄目なら、もっと強くなった。軍隊を集め、国を一つにした。敵だった者と手を結び、神に縋り、最後にはその神さえ殺した。
選択を変えた。
順番を変えた。
救う人間と見捨てる人間を変えた。
それでも、最後には世界がなくなった。
「お父さんが死ぬ」
「お母さんが死ぬ」
「村が焼ける」
「王国が滅びる」
「魔王も死ぬ」
「仲間も」
「敵も」
「最後は全部」
「なくなる」
レオンは途中から理解することを諦めた。
話が大きすぎる。昨日まで芋を投げてきた幼馴染が、百二回も世界の滅亡を経験したと言っている。
普通なら信じない。
けれど、嘘には聞こえなかった。
セラは嘘をつく時、必ず左耳に触れる。本人は気づいていないが昔からそうだった。
今、両手は強く握られたまま震えている。
「百二回?」
「うん」
「ってことは」
レオンは真剣に考えた。
「お前、千歳超えてる?」
セラが固まった。
「……そこ?」
「いや、重要だろ」
「もっと他にあるでしょ!」
「だって」
「世界が滅びるって言ってるの!」
「それも重要」
「それも!?」
怒鳴った顔が、ほんの一瞬だけ昔のセラに戻った。
レオンはわざと笑う。
たぶん、自分まで怯えた顔をしたら、彼女は二度と戻ってこない。
「で」
レオンは尋ねた。
「俺は?」
セラの顔が変わる。
「何が」
「百二回。どうしてた?」
沈黙。
答えは、もう分かった。
「いなかったんだ」
セラがゆっくり首を振る。
「一度も」
「……へえ」
「レオン・アーヴェルなんて人間」
「うん」
「一度も存在しなかった」
レオンは自分の両手を見る。畑仕事でできた小さな傷。剣の稽古で固くなった掌。
足もある。腹も減っている。頬には、今朝セラが投げた石の痛みがまだ残っている。
「でも、いるな」
「それが怖いの!」
セラが叫ぶ。
「百二回!」
「この村の全員を知ってる!」
「誰が何歳で死ぬかも!」
「誰が誰と結婚するかも!」
「誰が裏切るかも!」
「全部!」
「なのに!」
震える指がレオンへ向けられる。
「あなたを知らない!」
「うん」
「何で平気なの!」
「何が?」
「自分が存在しないはずの人間なの!」
レオンは少し考えた。
「でも」
「何」
「母ちゃん、俺を産んだって言ってるし」
「……」
「父ちゃんも俺の父ちゃんだし」
「……」
「お前も幼馴染だろ」
セラが黙る。
百二回分の確信と、十七年分の記憶。その二つが彼女の中でぶつかっている。
「じゃあ」
レオンは肩をすくめた。
「いるんじゃない?」
セラが泣いた。
声を上げず、ただ涙だけを流した。
レオンは困った。昔からこいつが泣くと弱い。
「セラ」
「来ないで」
「分かった」
一歩近づく。
「来ないでって!」
「分かったって」
もう一歩。
「聞いてない!」
「聞いてる」
「帰って!」
「嫌」
「何で!」
レオンは少し考える。
勇者。世界滅亡。百二回。
正直、何一つ分からない。
目の前にいる少女が実際にはどれほど長く生き、何を失ってきたのかも想像できない。
ただ、一つだけ分かる。
「お前」
「……何」
「一人で行く気だろ」
セラは答えない。
「だったら嫌だ」
「何が」
「一人で行かせるの」
「何で」
「幼馴染だから」
セラの顔が歪んだ。
「幼馴染って何」
「は?」
「百二回目まであなたはいなかった!」
「うん」
「私の本当の幼馴染じゃない!」
「でも、今回はそうだろ」
「違う!」
「何が」
「違う!」
否定する声は強いのに足はもう前へ進もうとしない。
「じゃあ」
レオンは聞いた。
「俺と遊んだ記憶、ない?」
セラが止まる。
「川で魚を捕った」
「……ある」
「森で迷った」
「ある」
「お前ん家の窓を割った」
「あなたが」
「二人で逃げた」
「……ある」
「初めて酒を飲んで吐いた」
「十五歳」
「お前も」
「私は吐いてない」
「嘘」
「……」
百二回にはなかった記憶。
けれど、セラにとっては確かに過ごした十七年間だった。川の水の冷たさも、森で聞いた獣の声も、割れた窓を見て二人で青ざめた夕暮れも今の彼女の中にある。
「じゃあ」
レオンは笑った。
「幼馴染じゃん」
セラは何も言えなかった。
「それに」
レオンは続ける。
「百二回、失敗したんだろ」
セラの目が鋭くなった。
「簡単に言わないで」
「悪い」
「何人死んだと思ってるの」
「分からない」
「何回、一人になったと思ってるの」
「分からない」
「何も知らないくせに!」
「うん」
即答すると、セラが黙った。
「知らない」
レオンは腰の安物の剣を叩いた。鞘の金具が頼りない音を立てる。
「世界の救い方も魔王の倒し方も知らない。お前が見た百二回のことも分からない」
「……」
「だから、今回のことも分からない」
「私は百二回――」
「俺がいる世界は初めてじゃん」
セラが止まる。
今日、神晶石に天命が映らなかった人間。
彼女の記憶にも神々の予定にもいなかった人間。
「なら」
レオンは笑う。
「百三回目は、まだやってない」
春の夜。
月の下で、少女は百二回分の記憶を背負っている。
少年は、明日のことすら知らない。
「……怖い」
セラが言った。
神託を受けた勇者としてではなく、幼馴染として。
「未来が?」
「違う」
「じゃあ何」
「期待するのが」
レオンは、ようやく少しだけ理解した。
セラは百二回、「今度こそ」と思った。
仲間を信じた。神器を集めた。魔法を極めた。政治を学び、軍隊を率い、神々の声に従った。
今度こそ救える。
今度こそ、誰も失わずに済む。
そう期待するたび、すべてを失った。
だから百三回目は、何も期待しないと決めた。
誰も仲間にしない。
誰も愛さない。
誰も守ろうとしない。
自分だけで戦い、失敗しても自分しか傷つかないようにする。
そこへ、知らない男が現れた。
幼馴染の顔をして。
「期待しなくていいよ」
レオンが言う。
セラが顔を上げた。
「俺も、世界を救えるとか思ってない」
「……」
「たぶん弱いし」
「弱いよ」
「知ってるの?」
「剣、中」
「鑑定をそのまま言うな」
セラの口元が、ほんの少し緩んだ。
「でも」
レオンは言う。
「明日、飯を食えるとか」
「雨が降らないとか」
「そういうのくらい、期待してもいいだろ」
「何それ」
「知らん」
「適当」
「得意だから」
長い沈黙のあと、セラは袖で目を拭いた。
「帰って」
「嫌」
「……本当に来るの?」
「うん」
「死ぬよ」
「嫌だな」
「怖くないの?」
「怖い」
「じゃあ――」
「でも」
レオンは振り返った。
遠くにアルカ村の灯りが見える。あの一つに自分の家がある。今頃、母親は怒り、父親は騎士たちと一緒にセラを探しているだろう。
そこへ戻れば、いつもの暮らしを続けられるかもしれない。
それでも。
目の前の少女を一人で行かせた自分をたぶん一生許せない。
「お前を一人で行かせる方が嫌」
セラは何か言おうとして、口を閉じた。
「荷物」
レオンが言う。
「何」
「お前だけ準備してるの、ずるい」
「……」
「俺、何も持ってない」
「帰れば?」
「嫌」
「じゃあどうするの」
「途中で買う」
「お金は?」
「ない」
「帰って」
「嫌」
「ほんとに何で来たの!」
レオンは笑った。
「一緒に行く」
その言葉は、後世、何千回も引用されることになる。
《始祖レオン、運命への宣戦布告》
歴史書には、この瞬間、人類が天命から解放される第一歩を踏み出したと書かれる。
違う。
そんな大層なことをレオンは何も考えていなかった。
世界を変えようとしたのでも神に逆らおうとしたのでもない。
ただ。
幼馴染が泣いていた。
だから追いかけた。
それだけだった。
二人は歩き出した。
王都とは逆方向。月を背にして、北へ伸びる街道を進む。
「どこへ行くの」
歩き始めてすぐ、レオンが聞いた。
「北」
「何で」
「魔王領」
「え」
「嫌なら帰って」
「……いきなり魔王?」
「まだ魔王じゃない」
「どういうこと」
「十三歳」
「子供じゃん」
「四年後に魔王になる」
「殺すの?」
「前は殺した」
セラの声に感情はなかった。けれど、何も感じていないのではない。感じすぎたものを、百二回かけて押し殺した声だった。
「今回は?」
問いかけに、セラは少し迷った。
「分からない」
今夜、二度目の「分からない」。
レオンは笑った。
「いいじゃん」
「何が」
「さっそく分かんない」
「……うるさい」
二人は歩く。
やがて夜の色が薄れ、東の空に最初の光が差した。
セラが百二回見た朝。
どの朝も、ここから世界の終わりへ続いていた。
でも今は、隣に知らない少年がいる。
セラは少しだけ怖かった。
そして。
本当に少しだけ、楽しみだった。
その頃。
世界の最果て。
地図にも神話にも記されず、生きた者が辿り着くことのできない白い空間で、一人の女が目を開けた。
黒い髪。
白い瞳。
後に終焉王と呼ばれる管理端末、エルディア。
彼女の前には、無数の光が浮かんでいた。
未来。
千。万。億。
選択のたびに枝分かれし、互いに重なり、やがて一つの正史へ収束していく世界の可能性。
エルディアは、そのすべてを観測していた。
ただ一つを除いて。
無数の光の中に、小さな黒点がある。
何もないのではない。
見えない。
「……何?」
初めてのことだった。
勇者セレスティア。その隣に、誰かがいる。
名前を検索する。
ない。
天命。
ない。
魂籍。
ない。
神々の記録。
ない。
なのに、存在している。
「誰?」
問いに答えるものはいない。
百三回目の世界で初めて、エルディアは未来を見ることができなかった。
朝の街道。
夜露に濡れた草が光り、遠くの山並みが薄い青に浮かんでいる。村から持ち出した水筒をセラが確かめる横で、レオンの腹が盛大に鳴った。
「セラ」
「何」
「腹減った」
「さっきパン食べてたでしょ」
「走ったから」
「知らない」
「勇者」
「何」
「飯」
「自分で何とかして」
「世界を救う人が冷たい」
「帰れば」
「嫌」
セラは深く息を吐いた。
百二回。
彼女は数え切れないほどの仲間を集めた。
剣聖。
大賢者。
竜王。
魔王。
皇帝。
神殺し。
世界史に名を残す英雄たち。
どの周回にもレオン・アーヴェルはいなかった。
そして百三回目。
彼女が最初に連れて歩くことになったのは。
剣術適性、中。
魔術適性、低。
加護、なし。
金、なし。
食料、なし。
未来、なし。
ただの少年だった。
「……最悪」
「何が?」
「今回」
レオンは朝日の中で笑った。
「まだ始まったばっかだろ」
セレスティアは、その言葉を。
五十九年後まで、忘れない。
皆様ここまで読んでいただきありがとうございます。
拙い文章ではありますがお楽しみいただけたでしょうか?
「面白い!」「続き読みたい!」など思った方は、ぜひブックマーク、評価、いいねをよろしくお願いします。
作者のやる気が漲ります!




