勇者より先に死ぬ
レオン・アーヴェルが死ぬまで、あと二年。
本人だけは、その二年を特別扱いしなかった。
七十四歳の春。
世界連盟常設本部の建設現場から槌の音が聞こえていた。人間の石工と魔族の職人が同じ足場に立ち、竜族の記録官が空から測量線を確かめている。
どの国にも属さない土地にどの国のものでもない建物を造る。それだけのことを決めるのに会議は朝から続いていた。
共同設立者の席が一つ空いている。
その本人は家の裏の畑で芋を掘っていた。
「会議に戻って」
銀髪の少女が畝の向こうから言った。
「嫌だ」
「あなたが始めたんでしょ」
「三十年以上前にな」
レオンは鍬を土へ入れた。立ち上がろうとして腰へ手を当てる。
「いてて」
「ほら」
「歳だよ」
「知ってる」
「怖い顔するなよ」
セレスティアは返事をしなかった。
妻のマリエルが死んで、六年が経っていた。
長い病の末だった。
マリエル・フェルン、七十一歳。レオンより三歳年上で、世界連盟がまだ名前すら持たない頃から、散らかった議題を規則へ変え続けた人だった。
最後の日も寝台の脇には書類があった。
ただし、それを読んでいたのは本人ではない。
レオンが握ったままの手をマリエルはもう握り返せなくなっていた。
枕元には、十七歳の姿のままのセレスティアもいた。
「セレスティア」
「何」
マリエルは、夫を見る。
「この人、一人にすると本当に何もしませんから」
「知ってる」
「お願いします」
セレスティアは少しだけ迷ってから、頷いた。
「……うん」
マリエルはそれで終わらなかった。
「でも、あなたも一人にならないでくださいね」
セレスティアは、答えられなかった。
その日の夕方。
マリエルはレオンの手を握ったまま、静かに息を引き取った。
回復魔法で傷は塞げる。熱を下げる術もある。毒を抜くこともできる。
けれど、老いた身体のすべてを若い頃へ戻すことはできなかった。
レオンは声を隠さず泣いた。
セレスティアは隣にいた。
何も言わなかった。
百二回の世界で人の死を見た。家族も、仲間も、敵も見送った。世界そのものが白い光へ呑まれる瞬間も知っている。
それでも、妻を失って泣く六十八歳のレオンを見るのは初めてだった。
葬儀が終わった後、レオンはしばらく墓の前から動かなかった。
大勢の弔問客が帰り、家族も先に家へ戻った。夕方の風が供えられた紙片の端を揺らしている。
セレスティアだけが残った。
「先に死なれた」
レオンが言った。
「そうだね」
「勇者より先に死ぬなんて、規則違反だろ」
「そんな規則ないよ」
「作っておけばよかった」
「誰が守るの」
「マリエルは、守らないな」
二人は少しだけ笑った。
笑った後、レオンの顔はまた老人に戻った。
セレスティアはその横顔を見ないふりをした。
六年後。
芋畑を歩くレオンの背中はさらに小さくなっていた。
マリエルが使っていた机は今も家の一室に残っている。書類の山はもうない。若い書記たちがそれぞれのやり方で仕事を引き継ぎそれでも組織は動いている。
世界連盟の議長も代わった。
レオンは主要な役職を辞めた。
会議へ呼ばれても、出るのは年に数えるほどだった。
「本当に戻らないの?」
セレスティアが聞く。
「戻るよ。飯までには」
「会議」
「そっちは戻らない」
「なんで」
「俺がいなくても決められるなら、その方がいい」
「また、その話」
「また、その顔」
セレスティアは睨んだ。
レオンは芋を籠へ入れた。
七十歳になった頃からレオンは朝起きるのが遅くなった。
以前なら、セレスティアは窓を開け、布団を剥ぎ、必要なら丸めた靴下を投げた。
今は、まず胸を見る。
ゆっくり上下している。
それを確かめてから戸を閉める。
眠っているなら、もう少し眠らせる。
その判断が優しさなのか、怖さなのか、自分でも分からなかった。
昼近くに起きてきたレオンが、茶を飲みながら言う。
「最近、優しいな」
「昔から」
「嘘だな」
「本当」
「石、投げてた」
「十七歳だったから」
「今も十七」
セレスティアの手が止まった。
言った本人も少し遅れて気づいた。
二人は笑った。
最後までは、笑えなかった。
「セラ」
「何」
「俺、老けた?」
何十年も前に、一度した質問だった。
「うん」
「どれくらい」
セレスティアはレオンを見る。
白くなった髪。深い皺。骨の浮いた手。少し曲がった背中。立ち上がる時には、机か杖へ一度手を置く。
十七歳の少年とは、何もかも違う。
けれど、寝坊を咎められた時に笑う目だけは同じだった。
「全然かな」
レオンが笑った。
「嘘」
「うん」
「下手」
「知ってる」
それでもセレスティアは言い直さなかった。
「でも、レオンだよ」
老人は、その言葉を聞いて少しだけ肩の力を抜いた。
七十二歳。
春先の雨が屋根を叩く夜。
暖炉の火が弱くなりセレスティアが薪を足そうと立ち上がった時、レオンが呼び止めた。
「お前さ、もし」
嫌な続きだと、声だけで分かった。
「俺が死んだ後、百四周目が始まったら、どうする?」
セレスティアの身体が止まった。
世界核は安定している。深層復元機構も休眠している。
だからといって永遠に安全だと証明されたわけではない。
「もし世界がまた終わって、春へ戻ったら」
レオンは雨の向こうを見るように窓へ目を向けた。
「俺、いるかな」
百二回目まで。
アルカ村に、レオン・アーヴェルという少年はいなかった。
鑑定の日にも。
魔王を倒した後にも。
終焉が空を閉ざした夜にも。
セレスティアの記憶のどこを探しても、彼はいない。
百三回目にだけ現れた。
十七年分の過去を持って。
両親がいて。家があって。寝坊癖があって。セレスティアが窓を割った回数まで覚えていて。
当然のように、幼馴染だった。
けれど、世界の記録にはいなかった。
なら、百四回目は。
そこに彼がいる保証は、どこにもない。
「……いないかも」
セレスティアは初めて口にした。
レオンは静かに頷いた。
「そっか」
「でも」
「うん」
「始めない」
「何を」
「百四周目」
暖炉の火が小さく鳴った。
「世界を終わらせない」
レオンが少し笑う。
「頼もしい」
「絶対」
「うん」
「絶対に」
「分かった」
絶対などないことは、二人とも知っていた。
それでも、今の世界を選び続けると口にすることはできた。
七十四歳の夏。
レオンは相変わらず会議から逃げ、畑へ行き、腰を痛めた。
セレスティアは相変わらず怒りながら籠を持った。
ただ、以前より半歩近くを歩くようになった。
レオンの歩幅に合わせていることをもう隠さなかった。
レオンも気づいていないふりをした。
道の向こうでは、世界連盟本部の骨組みが高くなっていく。
彼らがいなくても建物は建つ。
彼らが黙っていても、他の誰かが決める。
それは、二人が望んだ未来だった。
だからこそ、セレスティアには残酷だった。
春に言われた言葉が、まだ胸の奥へ残っていた。
――俺の言ったこと、守らなくていいからな。
ある夜、セレスティアは食卓の向こうにいるレオンへ聞いた。
「じゃあ、覚えてるのは?」
「何を」
「あなたが言ったこと」
レオンは少し考えた。
「好きにしろ」
「忘れてもいい?」
「それも好きにしろ」
「勝手」
「死んだ奴の都合で、生きてる奴の頭の中まで決めるなよ」
セレスティアは眉を寄せた。
「まだ死んでない」
「まだな」
レオンは笑った。
未来へ命令を残さないことと、何も残さないことは同じではない。
その違いをレオン自身も考え始めていた。
夏になるとレオンは手紙を書き始めた。
朝、机へ向かう。疲れれば昼寝をする。目を覚ませば、また続きを書く。
息子へ。娘へ。孫たちへ。昔の仲間へ。世界連盟でこれから責任を負う者へ。
宛名のない封筒もあった。
「何してるの」
「手紙書いてる」
「見れば分かる」
「なら聞くな」
「誰に」
「未来に、いろいろ」
セレスティアが机へ近づくと、レオンは一番下の紙を手で隠した。
「見せて」
「嫌」
「なんで」
「お前のもある」
セレスティアの手が止まる。
「どれ」
「内緒」
「レオン」
「探せ」
「子供?」
「うん」
セレスティアが部屋を出た後。
レオンはしばらく扉を見ていた。
それから、隠していた紙を開く。
少しだけいつもより丁寧だった。
《セラへ》
何度か書いては消し、最後まで書き終える。
封筒には入れなかった。
代わりに、机の端に積んでいた古い革表紙の帳面を開く。若い頃から使い続け、資金繰りや会議の愚痴や、後世には残したくない失敗まで書いた帳面だった。
最後の頁へ紙を挟む。
「ガレス」
夕方、書類を届けに来た息子へ帳面ごと差し出した。
「これ、預かって」
「何で俺が」
「俺が持ってると、そのうち捨てる」
「捨てないでよ」
「だから預ける」
ガレスは呆れながら受け取った。
紙が一枚、最後の頁に挟まっていることには気づかなかった。
七十五歳の秋。
北方の三領で長雨と冷夏が重なった。
麦が実らず、冬を越す穀物が足りない。
世界連盟の会議は三日続いた。
救援そのものに反対する者はいない。
問題は、どの倉庫を開けるか。どの街道を優先するか。誰が費用を負担するか。
レオンの家にも三通の使いが来た。
助言を求める書状。
出席を願う書状。
最後の一通には、《創設者としての裁定》と書かれていた。
レオンは三通とも読み、卓の端へ置いた。
「行かないの?」
「ガレスがいる」
「揉めてる」
「若い代表もいる」
「あなたなら早く決められるかもしれない」
「だから行かない」
セレスティアの顔が険しくなる。
「何で」
「俺がまとめたら、次も俺を呼ぶ」
「でも、困ってる」
「困ってる時に自分たちで決めないと、俺が死んだ後もっと困る」
「死ぬって言わないで」
レオンは黙った。
それから、少しだけ言い方を変えた。
「俺は、もういない状態を作らないといけない」
「同じ!」
セレスティアが立ち上がる。
「練習なんてしなくていい。いなくなったら、その時に考えればいい!」
レオンは目を丸くし、やがて笑った。
「それ、俺みたい」
「……うるさい」
「その時の奴ら、だろ」
「うるさい!」
三日後。
会議は、レオン抜きで結論を出した。
全員が満足したわけではない。負担が重いと反対した地域もあった。救援が間に合わず、住民を移さなければならない村も残った。
それでも、麦を積んだ荷車は北へ出発した。
ガレスから報告書が届いた。
レオンは朝から夕方までかけて読んだ。
「俺なら――」
言いかけて止まる。
「何」
「違うやり方をしたと思う」
「どこ」
いくつか挙げた後、レオンは報告書を閉じた。
「でも、これでいい」
「納得した?」
「半分」
「残りは?」
「俺の問題じゃない」
突き放したのではなかった。
自分と違う答えが残ることまで含めて、手放そうとしていた。
冬の間にレオンは七十六歳になった。
誕生日は家族だけで祝った。
大きな宴会は断った。記念演説も断った。記念像の除幕式は知らせを読んだだけで寝たふりをした。
孫が持ってきた小さな焼き菓子だけは二つ食べた。
春を迎える頃には、起き上がれない日が増えた。
目を覚ましても、身体が命令を聞かない。
指へ力が戻るのを待つ。寝台の縁へ座る。呼吸を整える。それから杖へ手を伸ばす。
それだけで朝が半分終わる日もあった。
セレスティアは手を貸す時と待つ時を覚えた。
何でも代わりにやればいいわけではない。
何もしないことが優しさになるわけでもない。
世界を救うより難しいと思った。
ある春の日。
庭の花が散り始めていた。
レオンは毛布を掛け、椅子に座っていた。セレスティアは隣で、落ちてくる花びらを数えている。
「綺麗」
「毎年見てる」
「今年も」
「うん」
百二回の春にも花は咲いた。
けれど、散ることを惜しいと思ったことはなかった。
世界が戻れば、また咲いたからだ。
今、目の前を流れる一枚は二度と同じ枝へ戻らない。
その当たり前が、胸を締めつけるほど綺麗だった。
レオンが口を開く。
「俺、来年――」
「言わない」
「まだ何も」
「言う顔だった」
レオンは笑った。
「じゃあ、百年後」
「もっと駄目」
「お前、百年後もいるかな」
セレスティアは少し考えた。
「分からない」
「そっか」
以前なら、そんな答えを嫌った。
今は、それを聞いて笑える。
「じゃあ、いたら頼みがある」
「何」
「俺の像、全部壊して」
セレスティアは吹き出した。
「無理」
「何で」
「増えすぎ」
「そんなに?」
「去年も増えた」
「最悪」
「自業自得」
「何もしてない」
「世界救った」
「お前もだろ」
「私は像いらないって先に言った」
「ずるい」
長く笑った後、レオンの笑いは咳に変わった。
咳は、以前より長く続いた。
セレスティアは椅子の横へ膝をつき、背をさする。
「ゆっくり」
何度も言う。
自分へ言っているのか、レオンへ言っているのか分からない。
息が戻るまで、長い時間がかかった。
「セラ」
「何」
「怖い?」
「何が」
「俺が死ぬの」
「……怖い」
「俺も」
昔、四十三歳のレオンが言った言葉と同じだった。
死ぬのは怖い。痛いのも、病気も、老いるのも嫌だ。
それでも今日を今日として使う。
セレスティアは、その意味を五十年以上かけて少しだけ理解していた。
初夏。
雨の日が増えた。
レオンは長い見舞いを断るようになった。
昔の仲間。世界連盟で一緒に働いた者。一度しか会ったことのない遠方の代表。
一人につき短い時間だけ話す。
大義を語る者には天気の話をし、感謝を述べる者には半分忘れたと答え、泣く者にはまだ死んでいないと笑った。
英雄へ別れを告げに来た者たちは、最後には一人の老人へ別れを告げて帰った。
家族が来る日は、少しだけ長く起きていた。
ガレスは会議の報告を持ってきたが、途中から孫の失敗談になった。
娘は父の好物を作り、ほとんど食べられなかった分を自分で食べながら泣いた。
ひ孫の一人が、木彫りの小さな鳥を置いた。
「何これ」
「お守り」
「効く?」
「多分」
レオンは笑い、枕元へ置いた。
最後の日も雨だった。
朝から細い雨が降り続き、窓硝子の上を無数の雫が流れていた。
レオンはほとんど目を開けなかった。
呼吸の間隔が、少しずつ長くなる。
医師は家族へ連絡するよう告げた。
昼前にはガレスと娘が来た。
午後には孫とひ孫たちが集まり、狭い家へ入りきれない者は軒下で雨を避けた。
世界連盟本部にも知らせは届いた。
会議を止めないでほしい、という書き置きが残っていた。
それだけだった。
最後まで、自分の死を世界の予定表へ入れるつもりはなかった。
ガレスは紙を畳み、黙って胸元へしまった。
セレスティアは何も言えなかった。
夕方。
家族が一人ずつ部屋を出た。
最後にガレスが父を見て、それからセレスティアへ小さく頭を下げる。
何かを託すためではない。
父の最後の時間を、最も長く隣にいた者へ返すためだった。
扉が閉じた。
雨音と浅い呼吸だけが残る。
セレスティアは寝台の横へ椅子を寄せた。
掛布から出た手を両手で包む。
冷たい。
それでも、まだ僅かに指が動いた。
「怖い?」
セレスティアが聞く。
レオンは嘘をつかなかった。
「うん」
「私も」
「そっか」
同じものを恐れる二人が、ただ隣にいる。
今度は、セレスティアがそれで十分だと信じる番だった。
「セラ」
レオンが言う。
「何」
「村を出た日」
「うん」
「俺、一緒に行くって言っただろ」
春の朝が蘇る。
寝坊して走ってきた少年。整っていない旅装。安物の剣。金も持っていなかった。
何が待つかも知らず、それでも一人で行かせなかった少年。
「うん」
「間違ってなかった?」
セレスティアは答えを探した。
正しかった、と言えば簡単だった。
レオンがいたから世界を救えた。レオンがいたから百三回目を選べた。
どちらも本当だった。
けれど、それを正解と呼べば、レオンの人生を世界のための手段にしてしまう気がした。
百二回、セレスティアは正解を探した。百三回目だけは、正解のない道を歩いた。
「分からない」
初めて、心からそう答えた。
レオンが笑った。
「なら、よかった」
「何で」
「お前、やっと正解探すのやめたから」
セレスティアも笑った。
「誰のせい」
「俺?」
「あなた」
「じゃあ褒めろ」
「嫌」
「けち」
笑うと涙が出た。セレスティアは拭かなかった。
「セラ」
「うん」
「明日」
セレスティアの顔が歪む。
「嫌」
「聞け」
「嫌」
「明日、俺はいないかもしれない」
「言わないで」
「でも、お前はいるかもしれない」
握った手へ力を込める。
「怖い」
「うん」
「明日が怖い」
「うん」
「来てほしくない」
レオンは少し考えた。
最後まで正しい慰めを探さなかった。
「じゃあ、来たら怒ればいい」
セレスティアは涙の間から笑った。
「誰に」
「明日に」
「馬鹿」
「うん」
「怒ったら帰る?」
「多分、帰らない」
「役に立たない」
「でも、怒ってる間は生きてる」
明日を受け入れろとも、前を向けとも言わない。
来てしまった朝へ腹を立てながらでも、そこにいればいい。
レオンらしい、ひどく不格好な助言だった。
また少し、時間が過ぎた。
レオンの呼吸は、さらに浅くなった。
「レオン」
「ん」
「一緒に」
続く言葉が声にならない。
レオンは、分かったように目を細めた。
「行けない」
「知ってる」
「ごめん」
「何で謝る」
「分からない」
「じゃあ、謝るな」
セレスティアは頷いた。
世界核へ戻って時を巻くことも、禁じられた術で魂を留めることもしなかった。
レオンが自分で選んだ終わりを、最後の瞬間だけ自分の願いで奪うことはできなかった。
「セラ」
掠れた声が、最後に名前を呼んだ。
「何」
セレスティアは身を寄せる。
レオンの口元が、ほんの少しだけ笑った。
「楽しかった」
息を吸う。
一度、吐く。
次の息は来なかった。
レオン・アーヴェルは死んだ。
七十六歳だった。
セレスティアは手を離さなかった。
家族が静かに部屋へ入ってくる。
娘が父の胸へ顔を伏せた。孫たちは声を抑えきれず、ガレスは寝台の脇へ膝をついた。
誰かが泣くたび、別の誰かが肩を抱いた。
セレスティアだけが泣かなかった。
悲しみが大きすぎて、身体のどこへ置けばいいのか分からなかった。
ただ、待っていた。
白い光を。
十七歳の春を。
鑑定の日を告げる鐘を。
理屈では来ないと分かっている。
周回は一人の死で始まるものではない。
それでも百二回分の記憶が、すべてを失った後には春へ戻るのだと待っていた。
何も起きなかった。
夜が深くなった。
レオンの手は、もう温かくならない。
「戻って」
小さく言う。
返事はない。
「戻ってよ」
禁じられた術を使うつもりはなかった。世界を終わらせるつもりもなかった。
ただ、願うことだけは止められなかった。
雨は少しずつ弱くなる。
空が薄くなる。
「嫌」
朝が来る。
鳥が鳴く。
遠くの本部から鐘が鳴る。
アルカ村の鑑定の鐘とは違う。
七十六年を生きたレオンが、会議から逃げるたび聞こえないふりをした鐘だった。
セレスティアは目を閉じた。
次に開けば、十七歳の春かもしれない。
そんなはずはないと知りながら、最後の一瞬だけ願った。
目を開く。
部屋は同じだった。
古い寝台。枕元の木彫りの鳥。雨に濡れた窓。
七十六歳の翌朝。
レオンは、死んだままだった。
世界は、続いていた。
セレスティアは泣いた。
百二回の終焉でも出したことのない声で泣いた。
戻らなかったことが悲しい。
朝が来たことが憎い。
世界が終わらなかったことが嬉しい。
矛盾した感情が一度に溢れた。
「……救えた」
レオンを救えなかった朝に、世界を救えたと知った。
「世界」
涙のまま、少しだけ笑う。
「救えたよ」
聞く人は、もういなかった。
葬儀は七日後に行われた。
家族だけで送りたいという希望は通らなかった。
近隣の国と領から代表が来た。遠い土地からは短い弔意だけが通信晶で届き、正式な書状は後日運ばれることになった。
常設本部の大ホールには、巨大な肖像画が掲げられた。
三十歳ほどのレオンが、山の稜線へ向かって剣を構えている。
鼻は本人より高い。外套も立派すぎる。
セレスティアは、式が始まる前からそれを睨んでいた。
「帰りたい」
棺の横にいたガレスが言う。
「まだ始まってない」
「もう帰りたい」
「父さんも言いそう」
「絶対言う」
セレスティアは肖像を指した。
「誰、あれ」
「父さん」
「違う」
ガレスは泣きながら笑った。
弔辞は長かった。
レオンがいたら、三回は寝ている。
《始祖レオン・アーヴェル》
《未来を人の手へ取り戻した英雄》
《世界連盟の父》
聞くたび、セレスティアの眉間に皺が寄る。
鑑定の日、彼が考えていたのは世界ではない。
未来の統治理論など持っていなかった。
一人で決めるな。困ったら集まれ。分からないなら分からないまま話せ。
だいたい、その程度だった。
立ち上がりかける。
ガレスが外套の袖を掴んだ。
「何する気」
「訂正」
「今日だけ我慢して」
「でも」
「父さん、こういうの嫌いだった」
「だから」
「本人がいない日くらい、その場で喧嘩しないでよ」
その言い方が少しレオンに似ていて、セレスティアは座り直した。
式が終わる。
棺は、本部の裏手につくられた小さな墓地へ運ばれる。
家族と参列者が、ゆっくり後ろへ続いた。
セレスティアは、ホールの出口までは歩いた。
そこで足が止まった。
雨上がりの土。
深く掘られた穴。
棺の上へ落ちる土の音。
それを見れば、二度と戻らないことが、朝よりもっと確かになってしまう。
ガレスは何も言わなかった。
来てほしいとも、逃げるなとも言わない。
ただ、セレスティアが列から離れるのを見送った。
後世の歴史書は、勇者はレオンの葬儀へ来なかったと書く。
正確には。
葬儀にはいた。
墓地へ、行けなかった。
セレスティアは一人で家へ戻った。
机。椅子。読みかけの本。折り畳まれた眼鏡。壁に立て掛けられた杖。枕元の木彫りの鳥。
全部、七日前とほとんど同じだった。
七日前まで、それらは老人が暮らすための道具だった。
今は、遺品だった。
レオンの椅子へ座りかけて、やめた。
床へ座る。
椅子を引く音まで家から消したくなかった。
扉の向こうで、三度ノックが鳴った。
返事をしないでいるとエルディアが入ってくる。
黒い髪。白い瞳。
四百年後も変わらない顔を、この時もしていた。
セレスティアと同じように。
エルディアは、レオンがよく使った椅子へ座った。
「そこ」
『何です』
「レオンの席」
エルディアはすぐ立とうとした。
「いい」
セレスティアが止める。
「座ってて」
誰かが座ったからといって席の主が消えるわけではない。
誰も座らないままにしておいても戻ってくるわけではない。
長い沈黙の後、エルディアが言った。
『世界核は正常です』
セレスティアは目を閉じた。
「今、それ聞きたくない」
世界が正常だからレオンは戻らなかった。
成功の証明が今だけは刃のようだった。
『失礼しました』
「ねえ」
『はい』
「悲しい?」
昔なら、エルディアは定義を確認し、症状を列挙し、長い計算の後で《おそらく》と答えただろう。
今は違った。
『悲しいです』
セレスティアが顔を上げる。
「即答できるようになった」
『はい』
「学習した?」
エルディアは首を横へ振った。
『いいえ』
白い瞳が、主のいない椅子を見る。
『今は、分かります』
「どれくらい」
『かなり』
セレスティアは少しだけ笑った。
「そっか」
『はい』
レオンを知る最後の二人が、返事のない家で座っていた。
夜になっても、セレスティアは家を出なかった。
エルディアが帰った後、窓を開ける。
遠くで本部の灯が点いている。
レオンがいなくても会議は続く。
ガレスたちは明日の議題を決める。
誰かが反対し、誰かが怒り、たぶん一度では決まらない。
それでいい。
そのはずだった。
けれど、目を閉じると別の春が浮かぶ。
アルカ村。
神晶石。
十七歳。
百二回、同じ場所から始まった世界。
そして、百二回とも。
レオンはいなかった。
セレスティアは、誰もいない部屋で振り返った。
椅子は空いている。
十七歳の春に追いかけてきた少年も。
二十五歳でマリエルと結婚した男も。
子供を育て、会議から逃げ、芋を掘った老人も。
もういない。
それでも、その五十九年は確かにあった。
百二回の記憶には、一日も存在しないのに。
「ねえ、レオン」
返事はない。
「なんで、あなたはいたの」
春の朝。
寝癖のついた黒髪。安物の剣。何も持たずに走ってくる少年。
知らない。
なのに、幼馴染だった。
セレスティアは目を閉じた。
「なんで、百三回目だけ」
声が、少し震えた。
「私の幼馴染だったの」
皆様ここまで読んでいただきありがとうございます。
拙い文章ではありますがお楽しみいただけたでしょうか?
「面白い!」「続き読みたい!」など思った方は、ぜひブックマーク、評価、いいねをよろしくお願いします。
作者のやる気が漲ります!




