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幼馴染が100周目過ぎる。  作者: 牧惣一郎


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3/13

勇者は英雄を殺す

レオン・アーヴェルが死んで、三百十一年が経った。その日。

勇者セレスティアは、レオン・アーヴェルを殺すことにした。



世界連盟常設本部の代表議場は春だというのにひどく冷えていた。

大陸中央部の共同管理地。どの国にも属さない石造りの建物に人間諸国、魔族諸領、獣人自治領、森人評議会から選ばれた代表が集まっている。

竜族の席にいるのは議決権を持たない観察使節だった。

世界連盟は世界を治める政府ではない。

加盟した国や領が、それぞれの決定権を残したまま、通商、共同捜査、災害救援、紛争仲裁について話し合う場所だ。

それでも、八十四の議決権を持つ代表が半円形に並ぶ光景にはひとつの世界がここへ収まったかのような重さがあった。


その中央に、銀髪の少女が立っている。

十七歳ほどにしか見えない顔。

剣を腰に提げた旅装。

歴史書が《勇者》と呼び、本人はその肩書をほとんど使わないセレスティアだった。

彼女は加盟地域の代表ではない。議決権もない。この日は、世界核解放の当事者であり、連盟創設期を知る参考人として招かれていた。


だからこそ、議長は聞き間違いであってほしいという顔をした。

「……もう一度、お願いできますか」

セレスティアは正面の壁を指差した。

議長席の上。

大人が四人並んでも隠れきらない、巨大な肖像画が掛かっている。

レオン・アーヴェル。

白髪を整え、遠くを見据え、片手に連盟創設文書を持つ晩年の姿だった。

実物より背筋が伸びている。

実物より鼻が高い。

そして、実物なら絶対にしなかった顔で未来を睨んでいた。

「あれ、撤去して」

羽根筆の音まで止まった。


「始祖の肖像を、ですか」

「うん」

「議事進行上、何か支障が?」

「あるよ」

セレスティアは代表席を見回した。


「みんな、あれを見ながら話すでしょ」

誰も目を合わせない。


「『始祖ならどう考えたか』」

人差し指を折る。


「『始祖の理念に反していないか』」

二本目。


「『アーヴェル原則の精神に適合するか』」

三本目を折り、息を吐いた。


「もう聞き飽きた」

議長の隣で、法務顧問が小さく咳払いをした。


「しかしレオン・アーヴェルは、世界連盟の理念形成に大きな役割を果たした方です。あなたにとっても、その……」

「幼馴染」

即答だった。


「はい。その御本人を、否定なさるのですか」

セレスティアは肖像を見上げた。

威厳に満ちた老人の顔。その下にいるのは、会議が長いと窓から逃げ、畑で芋を掘っていた男とは別人に見えた。


「うん」

短い返事が石壁へ跳ね返る。


「今日から私がレオン・アーヴェルの敵になる」

議場が騒然となった。

世界を百二回やり直した勇者が死んで三百十一年になる英雄へ宣戦布告した瞬間だった。


事の始まりは、三年前に遡る。

東方都市国家ベルネが、世界連盟の正式加盟を申請した。

ベルネには国王がいない。

七つの大商会が道路、上下水道、備蓄庫、治安隊などの公共事業を分担し、住民評議会が十年ごとに契約を更新する。評議会議員は各街区から選ばれ、契約を打ち切られた商会は行政から外れる。

完成された制度ではなかった。

商会同士の取引が不透明だという批判もあったし、貧しい街区ほど評議会への発言力が弱いという問題もあった。

だが、奴隷制度はない。

種族によって住居や職業を制限する法もない。

侵略戦争を行ってもいない。

連盟の審査団が求めた会計公開と住民の異議申立制度についても、ベルネ側は受け入れる用意を示していた。

それでも申請は却下された。

通知書に記された理由は、一行だった。

《始祖理念との根本的不整合》

根拠とされたのは、《アーヴェル原則》第七条。

《公権力は領域住民から直接委託されなければならない》

審査委員会は、営利組織である商会が行政を担うベルネの制度は、始祖レオンが重んじた民衆主権に反すると判断した。

セレスティアは通知書を三度読み返した。

「レオンが、こんなこと言ったの?」

審査に同席した始祖学者は、眼鏡を押し上げた。

「『始祖政治論』第三巻に明記されています」

「本人が書いた?」

「いえ。死後百二十七年に、当時の研究者たちが発言と実践を体系化し――」

「じゃあ、レオンじゃないじゃん」

「始祖思想の正統な解釈として、百年以上の判例が――」

「本人じゃないじゃん」

学者は困った顔をした。

セレスティアも同じくらい困っていた。


《アーヴェル原則》は、レオンが書いた憲章ではない。

レオンが死んだ翌週、連盟の臨時総会は、彼の名を冠した永久憲章を作らないと決めている。

創設時の意見書も、反対論も、失敗した案も、公開文書庫へ残した。

未来の人間が、自分たちで読み、自分たちで決められるようにするためだった。

けれど百年が経ち、二百年が経った。

種族平等。

奴隷制度の禁止。

相互防衛。

越境犯罪の共同捜査。

紛争の仲裁。

連盟が守ってきた規則の多くは、レオンが生きていた時代の会議や覚書に起源を持つ。その由来を説明する便宜から、《アーヴェル原則》という呼び名が生まれた。

最初は通称だった。

次に注釈書の見出しになった。

やがて加盟審査の基準として二十四条に整理され、共同仲裁院が条文を解釈し、大学が判例を研究するようになった。

いつしか議論は、条文が今も必要かではなく、レオンなら何を望むかを当てる作業へ変わった。

《始祖学》。

専門家がいる。

講座がある。

博士号まである。

セレスティアは初めて知った日、三日ほど寝込んだ。

五十九年を一緒に生きた自分ですら、レオンが三百年後の商会行政について何を言うかなど分からない。

分からないのに、分かったふりをする人間ばかりが増えていた。


議場で肖像の撤去を求めた夜、セレスティアは常設本部裏手の酒場にいた。

代表や書記官が使う店ではない。

荷車引きと建設職人が集まり、豆の煮込みと黒パンが安い店だった。三百年前から増築を繰り返した店内は、梁の高さが場所によって違う。

「また飲んでる」

向かいから声がした。

一人の青年が、書類鞄を抱えて立っている。

ノア。二十六歳。

中央史料院の研究員で、大学では《初期アーヴェル思想史》を研究していた。

つまり。

「敵」

セレスティアが言うと、ノアは眉を下げた。

「ひどいな。僕は昼の議場で、あなたの発言を擁護したんですよ」

「始祖学者でしょ」

「歴史を調べることと始祖を崇拝することは別です」

「本当?」

「たぶん」

自信のない返事をしてノアは隣へ座った。

主人へ薄い麦酒を頼み、濡れた鞄を膝へ載せる。

「ベルネの件ですね」

「うん」

「審査委員会にも理屈はあります。連盟が仲裁や共同防衛を引き受ける以上、加盟者が最低限の統治責任を果たしているかは確認しなければならない」

「それは分かる」

セレスティアは木杯の縁を指でなぞった。

「でも、どうして基準がレオンなの」

「共通する物語は、異なる国や種族を結びます」

「物語と法律は同じ?」

ノアは答えかけ、口を閉じた。


店の隅で職人たちが今日の賃金を巡って言い争っている。誰も肖像を見上げてはいない。それでも自分の取り分について、自分の言葉で怒っていた。

「三百十一年だよ」

「何がです?」

「レオンが死んでから」

「正確には、今日で三百十一年と四か月です」

「細かい」

「歴史学者なので」

セレスティアは酒を一口飲んだ。


「いつまで、死人に決めさせるの」

今度こそ、ノアは答えなかった。



翌週、セレスティアはノアに連れられて大学へ行った。

中央史料院に隣接する始祖学部の図書館は古い神殿より大きかった。

天井近くまで棚が続く。

棚。

棚。

棚。

全部、レオンだった。

《レオン・アーヴェル政治思想》

《始祖軍事論》

《アーヴェル倫理学》

《レオンにおける自由概念》

《始祖の食文化と政治哲学》

最後の一冊でセレスティアの足が止まった。

「何、これ」

「近年、評価の高い研究です」

「食文化?」

「始祖が黒パンを好んだ事実から、庶民性と政治思想の関係を――」

「パンしかなかったから食べてただけだよ!」

声が丸天井へ響いた。

閲覧机にいた学生たちが一斉に振り向く。

司書が唇へ指を当てた。

セレスティアは頭を下げた。

ノアは笑いを堪えていた。

「何がおかしいの」

「いえ。研究対象から直接反論を受けられる学部は、世界でもここだけだと思って」

「私は研究対象じゃない」

「始祖の幼馴染ですからかなり重要な一次証言者です」

「もっと嫌」


地下書庫は、地上よりさらに冷えていた。

火災を避けるため明かりには封光石が使われ、湿度を一定に保つ術式が壁へ薄く刻まれている。

ノアは保管官へ三枚の許可証を渡し、鍵の掛かった棚から平たい箱を取り出した。

「現存する最古級のレオン直筆記録です。原本は傷みが進んでいるので、触れるのは僕が」

白い手袋で帳面を開く。

斜めに傾き、時々行から落ちる字。

見覚えがあった。

汚い。

本当に汚い。

だからこそ、懐かしかった。

《東の橋、修理必要》

《魔族側との会議、木曜》

《セラがまた勝手に行った。帰ったら怒る》

胸の奥で、遠い日の扉が不意に開いた。

怒られると思って帰ったら、レオンは先に眠っていた。翌朝になって説教を始めたが、途中で自分も無断で出掛けていたことが発覚し、マリエルに二人まとめて叱られた。



「どうしました?」

「何でもない」

声が少し掠れた。


ノアは気づかないふりをして、頁をめくった。

《会議長すぎる》

《王様たち話長い》

《腹減った》

ノアの表情が、研究者から一人の若者へ戻っていく。

「これが、本当に……」

「レオンだよ」

「もっと、政治思想に関する記述はないんですか」

「ないの?」

「後半に、少し」

指示された箇所を読む。

《国の形なんて、俺には分からん》

ノアが固まった。

次の行。

《百年後の奴らが、自分で決めればいい》

書庫の静けさが、急に重くなった。

セレスティアは帳面とノアを見比べる。

「ねえ」

「……はい」

「アーヴェル原則第七条って?」

「公権力の直接委託を、始祖が普遍的原理として――」

セレスティアは、帳面の文字を指差した。

《国の形なんて、俺には分からん》

「真逆じゃん」

「……少なくとも、今の資料だけを読めば」

「真逆じゃん!」

また司書に怒られた。


調査が始まった。

最初、セレスティアは一週間もあれば終わると思っていた。

ノアは、最低でも半年かかると言った。

結果として、四か月後の中間報告に間に合わせるだけで、史料院の研究員十二人が夜明けまで働くことになった。

通信晶で送れるのは、短い照会と回答だけだ。

三百年前の会議録、手紙、会計帳、各地域が保管する写本は、封印を施した箱に入れ、使者と護衛が街道や海路を運んだ。

届いた記録は、紙の繊維、墨、筆跡、封蝋、保管経路を一つずつ確認した。

セレスティアは記憶を求められた。

だが、何でも答えられるわけではなかった。

「この会議の日、レオンは何色の上着を?」

「覚えてない」

「この発言をした時の表情は?」

「その会議、私いなかった」

「後世の証言集では、常に隣席していたと」

「してないよ。私も仕事あったから」

英雄のそばには、いつも勇者がいた。

後世の画家はそう描いた。

実際には、別々の場所で働き、何か月も会わない時期があった。喧嘩して口を利かない日もあった。

人間の五十九年は、肖像画一枚に収まるほど整っていない。


調査の途中、同じ日付を持つ二冊の会議録が見つかった。

一冊では、レオンが加盟条件の強化に賛成票を投じている。

もう一冊では、その日、レオンは北方の洪水対応で欠席していた。

紙も本物。

墨も本物。

それぞれの保管庫へ入った経路も途切れていない。

単なる偽造では説明できなかった。

ノアは帳面を抱え、世界共同観測院へ走った。

白い観測室で二冊を待っていたのは、黒髪と白い瞳を持つ女だった。

エルディア。

かつて世界を一つの未来へ固定していた管理端末であり、今は世界核の異常を監視する観測者。

レオンを知る、もう一人の生存者だった。

彼女は手を触れずに二冊を見た。

「いずれも、この世界に接続する因果履歴を持っています」

「両方、本物ということですか」

ノアが聞く。

「物質年代と作成者の記憶痕跡に、偽造を示す差はありません。ただし、同一の過去から同時に成立した記録ではありません」

世界核の余白が減り、異なる可能性が局所的に重なる現象。

百二十九年前、北方で二つの家族が同じ女性を娘として記憶した事件と、同じ種類の異常だった。

「では、どちらを法的に正しい記録として扱えば?」

エルディアは数秒、沈黙した。

昔なら、より安定する一冊を選び、もう一冊を誤りとして切り捨てただろう。

「それは、私が決定することではありません」

白い目がノアを見る。

「事実として確定できないものを、確定できないと記録してください」

「始祖本人の意思は、どう解釈すべきでしょう」

「本人は死亡しています」

あまりに簡潔で、セレスティアは少し笑った。

エルディアは続ける。

「応答不能な人物の意思を、観測によって代行するべきではありません」

四百年近く前、どうしたいかと尋ねられても答えられなかった管理者が、今は自分の判断で、死人の代わりになることを拒んでいた。


中間報告は、二十四条を四つに分けた。

レオン本人が明確に主張したと確認できるもの、六条。

発言の一部と一致するが、適用範囲が後世に拡張されたもの、五条。

出典または因果履歴を確定できないもの、八条。

本人の記録と明確に矛盾するもの、五条。

ただし、ノアは結論に太い線を引いた。

《由来が誤っていることは、現在の条文が不要であることを意味しない。》

奴隷制度の禁止が、レオンの一言から生まれたのか、名も残らない被害者や実務家の積み重ねから生まれたのか。

その答えによって、奴隷制度を復活させてよいことにはならない。

問うべきなのは、今を生きる者が、その条文を自分の責任で選び直せるかどうかだった。

初期連盟の採決手続、予算分担、加盟条件の原案の多くが、レオンではなくマリエル・フェルンと無名の書記官たちの筆であることも確認された。

後世の本は、それらをまとめて《レオンの構想》と呼んでいた。

レオンは方向を示した。

だが、制度を一人で作ったのではない。

それは名誉を奪う発見ではなかった。

三百年かけて、一人へ集めすぎた功績を、実際に担った人々へ返す作業だった。


ノアは論文を発表した。

題名は、《アーヴェル原則の歴史的形成と始祖本人の思想との差異》。

刺激的な見出しを避け、確認できた史料、確認できない史料、因果重複の可能性を分けて書いた。

それでも、学界は燃えた。

新聞も燃えた。

議場も燃えた。

もちろん本当に燃えたわけではない。

ただし、ノアの借家の窓には本物の石が飛んできた。

大学は論文を撤回しなかった。史料院は原本の閲覧記録を公開し、反論論文にも同じ書庫の利用を認めた。

セレスティアがノアの家の前へ立とうとすると、本人に断られた。

「世界最強の勇者が玄関にいたら、僕が脅して黙らせたみたいになるでしょう」

「石は?」

「雨戸を厚くしました」

「犯人は」

「町の司法官が捜査しています。あなたが捕まえに行く仕事ではありません」

「面倒」

「法ですから」

ノアの声は震えていた。

怖くないわけではない。

それでも彼は、見つけたものを見なかったことにしなかった。

始祖を研究してきたからこそ、始祖という物語より史料を選んだ。

一番強く反発したのは、アーヴェル家だった。


「論文の公的利用を、いったん停止してください」

男は怒鳴らずに言った。

エドワード・アーヴェル。

六十二歳。

レオンが養子に迎えたガレスから続く、アーヴェル家十五代当主。

そして、加盟地域間の条約紛争だけを扱う世界連盟共同仲裁院の院長だった。

中央政府の最高法院長ではない。

だが、連盟憲章をどう読むかについて、彼の判断は大きな重みを持つ。


「撤回しろ、ではないんですね」

ノアが確かめる。


「史料を隠せとは言わない。因果重複を含む中間報告を加盟審査や裁判が直ちに引用することを止めてほしいのです」

机の上には論文へ反応した地域からの書状が積まれていた。


ある領主は始祖由来でないなら奴隷禁止条項も再検討すべきだと主張している。

ある商人組合は共同捜査から離脱すれば税を減らせると騒いでいる。

エドワードの懸念は家名の名誉だけではなかった。


「三百年かけて積み上げた秩序は、一つの論文で分解できるほど単純ではない」

「だからこそ、どこまでが史料でどこからが後世の選択かを分ける必要があります」

「その区別を新聞の見出しはしてくれない」

ノアは黙った。

エドワードは部屋の隅にいたセレスティアへ視線を移した。

「あなたもです。なぜ止めないのです」

「何を?」

「始祖の名が都合よく引き裂かれている」

「今まで都合よく使ってたのを調べ直してるだけでしょ」

「あなたにとっては幼馴染でも我々にとっては法の連続性を支えた人物です」

「違う」

セレスティアの声が低くなった。


「あなたがレオンの家族なのは、否定しない」

エドワードは、わずかに目を見開いた。


「ガレスも、その後の人たちも、ちゃんと家族だった。血がつながってるかなんて関係ない」

セレスティアは一歩、机へ近づいた。


「でも、あなたはレオンの口じゃない」

「我々は、始祖の意思を継ぐ責任を――」

「継いでないよ」

「侮辱するな」

「してるのは、そっち」

エドワードの手が震えた。


「始祖の名がなければ、種族平等も奴隷禁止も守れない地域がある。その現実をあなたは剣で解決できるのですか」

正しい問いだった。

セレスティアはすぐには答えられなかった。

力ならある。

奴隷商を倒し、牢を壊し、逃げ道を作ることはできる。

だが、自分が去った後も続く法を、剣で作ることはできない。


「……守る条文は、残せばいい」

ようやく言った。


「なぜ残すのかをレオンの名前じゃなくて、今の人が決めるの」

「今の多数が、誤ったら?」

「止める。話す。負けたら、また変える」

「あまりに不安定だ」

「生きてるって、そういうことでしょ」

エドワードは首を振った。


「三百年後の問題に始祖が答えられないことくらい分かっています。それでも、共通の名があったから争いを止められた時代がある」

「だったら、その時に止めた人たちの名前を出してよ」

セレスティアの声が大きくなる。


「死んだ一人に、全部やらせないで」

拳が机へ落ちた。

厚い天板の角が乾いた音を立てて割れた。

ノアとエドワードが同時に一歩下がる。

セレスティア自身も自分の手を見た。

壊すつもりはなかった。


けれど、三百十一年積もったものが、力加減より先に出た。

「レオンは知らないよ!」

声が震えた。


「今の国も、今の魔導技術も、今の経済も、あなたたちのことも!」

目の奥が熱くなる。


「知らない人に、答えと責任を押しつけないでよ!」

部屋が静まり返った。

言い切った瞬間、セレスティアは気づいた。

困るたびに、自分も考えていた。

レオンなら、どうする。

レオンなら、何と言う。

レオンなら。

レオンなら。

王都で道を選ぶ時も。

見知らぬ村が地図から消えた時も。

リゼットが銅像を爆破した時も。

自分で決めるのが怖くなるたび、記憶の中の少年を呼び出していた。

彼なら何か言ってくれると思っていた。

記憶の中のレオンは、反論しない。

歳も取らない。

セレスティアが聞きたい言葉を、いつまでも言わせることができる。


「……私もだ」

声は、誰に向けたものでもなかった。


「ずっと、やってた」

怒りが抜けると、割れた机だけが残った。

セレスティアは小さく頭を下げた。


「机、ごめん」

エドワードは何も言わなかった。

ノアが、壊れた角を拾った。


「備品弁償の書類は、僕がもらってきます」

「それ、レオンもよく書かされてた」

「知っています。史料が大量に残っています」

笑う場面ではなかった。

それでもセレスティアは少しだけ笑った。


その夜、セレスティアは一人で墓地へ行った。

レオンの墓石は小さい。

名前と生没年だけを刻んでほしいという、本人の遺言どおりだった。

ただし、墓地の周囲は遺言どおりではない。

寄進で建った礼拝堂。

英雄の生涯を描いた回廊。

土産物を売る小屋まである。

「絶対、嫌がってるよね」

夜は門が閉じられているため、観光客はいない。

セレスティアは墓石の脇へ腰を下ろした。

指で刻まれた名をなぞる。

三百十一年前、皺だらけになったレオンは、自分が死んだ後の話を何度もした。

セレスティアは、そのたびに怒った。

聞けば本当になるような気がして、最後までまともに聞こうとしなかった。

それでも、一つだけ覚えている。

――俺の言ったこと、守らなくていいからな。


「ずるい」

墓石へ額を預ける。


「私が守りたくなるって、分かってたくせに」

返事はない。

死者は否定しない。

許しもしない。

だから、生きている者が決めるしかない。


「明日、ちゃんと私が言う」

セレスティアは顔を上げた。


「あなたが望んだ、じゃなくて」

墓地の向こうに、常設本部の灯が見える。

「私が、そうしたいって」




四か月後。

ノアの中間報告と反論論文が公開され、八十四の代表地域で公聴会が始まった。

セレスティアは再び演壇に立った。


「提案があります」

前回と同じ議場。

前回と同じ肖像。

ただし今回は、肖像を外せと頼むだけではない。


「《アーヴェル原則》を連盟の法源から外してください」

ざわめきが広がる。


「種族平等や奴隷制度禁止も廃止するのですか」

南部代表が問いかけた。


「しない」

セレスティアは首を振った。


「必要な条文は新しい憲章へ書き直す。今いる加盟者が、自分の名前で約束する」

「何を基準に?」

「今、生きてる人」

反対席から声が飛ぶ。


「始祖の理念を捨てるのか!」

「うん」

「あなたは始祖の幼馴染ではないか!」

「だから言ってる」

壁の老人を見る。


「レオンは、死んでる」

正面から言うと、胸が痛んだ。

痛んでも、言葉を変えなかった。


「レオンは責任を取れない。私も、いつか取れなくなる。エルディアだって。」

人間、魔族、獣人、森人、そして竜族の観察使節。

一人ずつ見る。


「だから、あなたたちが決めて」

議場の空気が変わった。


「間違えてもいい、とは言わない。間違えたら傷つく人がいるから」

ベルネの申請書を演壇へ置く。


「でも、絶対に間違えない死人を作るより、生きてる人が理由を話して、責任を持って、必要なら直せる方がいい」

セレスティアは、少しだけ笑った。


「死人より、生きてる人を信用しようよ」






その日の採決は、新憲章を作るための改定会議を開くかどうかだけを問うものだった。

賛成、四十一。

反対、四十三。

否決。

議長が木槌を打った。

セレスティアは、掲示板の数字をしばらく見つめた。


「負けた」

傍聴席から降りてきたノアが、額へ手を当てる。


「一度で通ると思っていたんですか」

「ちょっと」

「八十四地域の利害と、三百年分の判例があるんですよ」

「私、勇者なのに」

「議場では一票も持っていません」

「それを理由に票を寄越せと言った瞬間、今回の主張が全部壊れます」

「……分かってる」

分かっているから、剣へ手を掛けなかった。

昔なら、失敗だと思った。

計画どおりにならない。

正しい未来にならない。

ならば、やり直す。

今は違う。


「じゃあ、次はどうする?」

「少なくとも二つの代表団に反対理由を聞きます。票を移すだけなら二つで足りますが、憲章の発効には加盟地域の三分の二以上の批准が必要です」

「もっといるの?」

「たくさん」

「面倒」

「共同体ですから」

ノアは笑った。

セレスティアも笑った。

やり直せない世界には、次の一手があった。


それから一年あまり、セレスティアは戦うより多く椅子へ座った。

北方の魔族領では、始祖の名を外すことが人間中心の歴史を終わらせるのか、それとも奴隷禁止を弱めるのか、夜まで議論した。

獣人自治領では、古い条文が部族ごとの慣習を無視していると聞かされた。

港湾都市では、共同捜査の手続を変えれば密輸商だけが喜ぶと怒鳴られた。

ベルネでは、七商会の一つが会計公開に反対している事実を知った。

セレスティアは、ベルネが正しいと決めつけるのもやめた。

住民評議会へ行き、貧しい街区の代表と話し、商会から仕事を外す手続が本当に使えるのかを確かめた。

現地の人間は、英雄の幼馴染だからと遠慮はしなかった。

「あなたは十日で帰る。私たちは十年ここで暮らす」

そう言われた。

正しかった。

セレスティアは謝り、帰らずにもう十日残った。

ノアは起草委員会へ史料を運び続けた。

彼の仕事は、レオンの本当の教えを見つけることではなくなった。

誰が、いつ、どんな事情で規則を作ったのか。

どの条文で誰が救われ、誰が排除されたのか。

後から検証できる形で残すことだった。

研究対象から英雄を下ろすと、そこには大勢の人間が現れた。


最大の争点は、奴隷制度禁止と種族平等を、将来の多数決だけで覆せないようにする方法だった。


公開審議の日、エドワードが起草委員会へ立った。

「あなた方は、未来の自由を尊重すると言う。では百年後、多数が奴隷制度を望んだ時も、その自由を認めるのですか」

議場が静まる。


セレスティアは答えなかった。

この問いに剣で答えてはいけない。

代わりに、奴隷制廃止運動の記録を研究してきた魔族の法学者が口を開いた。

「新憲章では、身体の所有、種族による法的劣位、本人の同意なき身分固定を、加盟条件の最低線とします。改定には通常の三分の二ではなく、加盟地域の四分の三に加え、各種族代表会議の同意を必要とする」

「手続があれば、悪法も正当化される」

「その危険は消えません」

法学者は認めた。


「しかし《始祖が望まない》の一言で審議を閉じるより、誰が賛成し、誰が反対し、誰が傷つくかを公にする方が、抵抗する場所を残せます」

エドワードはセレスティアを見る。


「あなたも同じ答えですか」

「うん」

「未来を信じすぎている」

「信じてないよ」

セレスティアは即答した。


「人は間違える。隠す。自分だけ得しようとする。三百年見てきたから知ってる」

それでも、と続ける。


「だから、名前を残すの。レオンの名前じゃなくて、決めた人の名前を。間違えた時に、誰へ言えばいいか分かるように」

責任を死者へ預けない。

それは未来を楽観する制度ではない。

生きている者から逃げ道を奪う制度だった。

エドワードは反論しなかった。

賛成もしなかった。

ただ、次の審議にも出席した。


新憲章の採決は、改定会議の設置が否決されてから十三か月後に行われた。

賛成、五十八。

反対、二十二。

棄権、四。

改定案は可決された。

だが、その日だけでは発効しない。

各地域へ全文が持ち帰られた。短い要旨は通信晶で先に送られ、正式な原本と対訳、少数意見は使節が運んだ。

王国議会。

魔族諸領の領主会議。

獣人自治領の集会。

森人評議会。

港湾都市の住民投票。

それぞれ異なる手続で批准が審議された。

必要数へ達したのは、さらに七か月後だった。

旧《アーヴェル原則》は、法的根拠として廃止された。

そのうち、現在も必要だと合意された条文は、現代の言葉で新憲章へ移された。

種族平等は残った。

奴隷制度禁止も残った。

越境犯罪の共同捜査も紛争仲裁も残った。

相互防衛は自動参戦ではなく、地域ごとに参加を決める仕組みへ改められた。

そして、どの条文の解釈にも《レオン・アーヴェルならどう考えたか》を法的根拠として用いてはならない、と明記された。

ベルネは会計公開と住民による契約解除手続を整え、翌年に正式加盟を認められた。

それは、ベルネ自身が制度を直し、加盟地域が審査した結果だった。


エドワードは最後まで反対票を投じた。

発効の翌朝、彼は共同仲裁院の法廷へ入り、書記官たちへ新しい判例集の作成を命じた。

「旧原則を引用している全判決へ、効力の範囲と新憲章上の根拠を付記してください」

若い書記官が戸惑った。


「院長は、改定に反対だったのでは」

「反対でした」

「では、なぜ」

エドワードは、机上の新憲章を開いた。


「私の反対意見も、採決記録へ残っています。それで十分です」

指先で発効日を確かめる。


「法は、私が賛成した時だけ法になるのではない」

その日の午後、議場の肖像画を史料院へ移すための執行文書にも署名した。

家名を消されたくないという気持ちはなくなっていない。

新憲章が古い秩序より優れていると完全に納得したわけでもない。

それでも、自分の負けをレオンの名で覆そうとはしなかった。


百年後、歴史書はエドワードを《改定反対派の代表》と短く記す。

だが、彼がその後十年かけて新憲章の判例体系を整えたこともまた、同じ歴史の一部だった。


肖像画が外される日、議場には足場が組まれた。

作業員たちが縄を掛け、壁から巨大な額を少しずつ浮かせる。

落とせば三百年ものの文化財が壊れるため、誰もが慎重だった。

撤去は破壊ではない。

肖像は中央史料院へ移され、《三世紀にわたり代表議場へ掲げられた政治的図像》として保存される。

ノアは足場の下で、移送目録を抱えていた。

セレスティアは、その隣に立つ。


「寂しいですか」

「ちょっと」

「自分で外せと言ったのに」

「それとこれとは別」

壁から離れた肖像が、縄に支えられてゆっくり降りてくる。

間近で見ると、塗り重ねられた絵具の罅まで見えた。

やっぱり、鼻が高すぎる。

セレスティアは額縁へ手を伸ばした。

描かれた老人ではなく、その向こうにいる少年へ触れるように、指で木の縁を撫でる。


「お疲れ」

「誰に言ったんです?」

「幼馴染」

それ以上は言わなかった。

勇者は英雄を殺した。

名前を消したのではない。

墓を壊したのでも、記録を燃やしたのでもない。

答えることのできない男を三百年後の議場から家へ帰したのだ。



新憲章には、《レオン・アーヴェル》という名前が一度も登場しない。

《セレスティア》も、《エルディア》もない。

誰か一人を、未来の所有者にしないためだった。

代わりに、前文にはこう記された。

《この憲章は、現在を生きる者の合意によって成立する。》

《未来を生きる者は、我々の判断に無条件には拘束されない。》

《必要ならば、変えよ。》

最後の一文を巡り、起草委員会は十七日揉めた。

法文として乱暴すぎる。

何を必要とするのか不明確だ。

《適正な手続に従い改正することを妨げない》と書くべきだ。

様々な意見が出た。

手続と要件は、もちろん本文へ細かく書いた。

それでも前文の一行だけは、セレスティアが原案のままでよいと言った。

ノアも賛成した。

エドワードは反対意見書に、《法文として不格好である》と記した。

発効後、最初の公式注釈書を編む時には、その不格好な一文を一字も変えなかった。



それから、ちょうど百年後。

レオンの死から四百十三年が経った日。

世界核の奥に眠っていた深層復元機構が起動した。


カイル・アーヴェルの呼びかけを聞きながらセレスティアは、百二年前に初めて肖像を外せと言った議場を思い出した。

そして、ちょうど百年前に成立した新憲章を思い出した。

「レオン・アーヴェルは、四百十三年前に死にました」

カイルは自分の言葉で続ける。

「これは我々の世界です」

「だから、我々が戦います」

肖像は、もう議場にない。

《アーヴェル原則》も、もうない。

レオンを実際に知る者は、セレスティアとエルディアしか残っていない。

それなのに、目の前には、レオンが夢見た以上の世界があった。

ノアが英雄の言葉を歴史から下ろした。

エドワードは反対し、それでも採決の後は新しい憲章を守った。

その二人を知らない世代が、同じ憲章さえ自分たちで読み直し、修正し、ここまで運んだ。

ようやく。

本当に、ようやく。

世界は彼の手を離れた。

それこそが、レオンの残したものだった。


そして――。

勇者セレスティアがレオン・アーヴェルを殺すことにした日から、三百十三年前。


「腰、痛え……」

畑で、一人の老人が芋を掘っていた。

白髪。

深い皺。

少し曲がった腰。

七十四歳。

後世では《運命から世界を解放した始祖》と呼ばれる男。

その本人は、土のついた芋を見て、虫に食われた部分を親指で確かめていた。


「レオン」

声がして、振り返る。

畑の畦に、銀髪の少女が立っている。

十七歳の姿。

五十七年前、アルカ村を出た朝と何一つ変わらない。


「おお、セラ」

「何してるの?」

「見りゃ分かるだろ。芋」

「会議は?」

セレスティアは、丘の向こうを指差した。


大陸のどの国にも属さない共同管理地に、世界連盟常設本部の新しい棟が建ち始めている。

今日は、その設置規程と予算分担を決める会議のはずだった。


「逃げてきた」

「……あなたが発言する時間、もう過ぎてるよ」

「話、長えんだよ。あいつら」

「あなたが始めたんでしょ」

「だからって、俺が最後まで決める必要ないだろ」

「あるよ」

「ない」

老人は芋を籠へ放り込んだ。


「もう、若い奴らの方が今のことを知ってる」

「でも、みんなレオンに聞きたがる」

「聞かれても分からん」

あっさりと言い、次の株へ鍬を入れる。

土の中から、小さな芋が三つ転がった。


「セラ」

レオンが顔を上げた。

身体は老いている。

声も若い頃より低く、長く話せば咳が混じる。

それでも目だけは、安物の剣を持って村を追いかけてきた少年とあまり変わっていなかった。


「俺たちが、決めすぎるな」

セレスティアは眉を寄せる。


「急に何?」

「会議でさ。俺の意見が出るまで採決を待とうって言い出した奴がいた」

「待てばいいじゃん」

「よくない」

レオンは鍬へ両手を載せた。


「俺が正しいから待つんじゃない。俺の名前を使えば、自分で決めなくて済むから待つんだ」

風が畑を渡る。

建設中の本部から、槌の音が遅れて届いた。


「どうせ俺は、もうすぐ死ぬ」

「その話、嫌い」

「知ってる」

「しないで」

「でも、する」

レオンは笑った。


「お前は残るからな」

セレスティアは黙る。

世界は続く。

それは二人で望んだ未来だった。

その未来に、いつか自分だけが立つことを、彼女はまだ受け入れられない。


「だから」

レオンは言った。

「俺の言ったこと、守らなくていいからな」

「何、それ」

「未来のことなんて分かんねえし」

「また、それ?」

「百年後には、百年後の事情があるだろ」

セレスティアは、少し怒ったように答えた。


「私はいるよ」

老人は笑った。


「だから、心配なんだよ」

レオン・アーヴェル。

享年、七十六。


その死まで、あと二年。


皆様ここまで読んでいただきありがとうございます。

拙い文章ではありますがお楽しみいただけたでしょうか?

「面白い!」「続き読みたい!」など思った方は、ぜひブックマーク、評価、いいねをよろしくお願いします。

作者のやる気が漲ります!


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