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幼馴染が100周目過ぎる。  作者: 牧惣一郎


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勇者は葬式に来ない


レオン・アーヴェルが死んで37年が経った。


そして。

彼の息子も93年の生涯を終えた。

勇者はレオンの葬式に来なかった。

後世の歴史書にはそう書かれている。


正確には。

葬儀にはいた。

ただ墓地には来なかった。







大陸西部同盟の首都に朝から細い雨が降っていた。

石畳は濡れ、礼拝堂の尖塔には低い雲が絡んでいる。軒先に下げられた白布は風を吸うたび重く揺れ、その中央に刺繍された黒い麦穂が濡れた町を見下ろしていた。

麦穂は、ガレス・アーヴェルが議長だった頃に決めた西部同盟の紋章である。


剣でも、王冠でもない。


毎年育ち、刈られ、翌年また蒔き直すもの。

それがいいと本人が言ったらしい。

その本人は、三日前から一度も口を開いていない。

礼拝堂の中央に置かれた棺の前で、アルト・アーヴェルは立ち尽くしていた。

黒檀の蓋はまだ閉じられていない。

中にいるのは、レオンが20歳の時に迎えた赤ん坊だった男だ。

レオンの長男。

ガレス・アーヴェル。

享年93。

大陸西部同盟初代議長。

人魔恒久和平協定の締結者。

76地域共同会計制度の設計責任者。

《始祖の意志を継ぐ者》。

弔辞の草案には、まだ肩書が六つ続いていた。

アルトにとっては、小言の多い祖父だった。


「セレスティア様は?」

棺の前でアルトは尋ねた。

正確には祖父だったものに。

返事はない。

生きていた頃なら質問の仕方が悪いと叱られたはずだ。

誰に聞いている。

何を確認したい。

返答によって次の行動は変わるのか。

そういう人だった。

「きっと来れないと思う」

背後から姉のミラが答えた。

42歳。

アルトより15歳上で、家族の中では祖父に最も遠慮がなかった。

濡れた外套を脱ぎ、棺の脇に用意された椅子へ掛ける。

喪服の袖口には朝から走り回ったせいで泥が付いていた。

「……やっぱり?」

「北方の竜族と境界諸領の会合へ出た後、竜の飛行路で事故があって、山の向こうへ行ったまま」

「連絡は」

「出した。西部の通信晶から三回。竜谷の基幹点から一回」

「返事は?」

「《向かう》って、一言だけ」

ミラは棺を見た。

「間に合わないね」

大陸北端から西部同盟までは、地図の上で指を滑らせるようには移動できない。

竜が飛んでも天候と風向きがある。夜を越えずに飛べる距離にも限界がある。

ガレスは『待つな』と遺言していた。

その言葉に従い、葬儀は予定どおり今日行われる。


「お祖父ちゃん、怒るかな」

ミラが言った。

アルトは少し考えた。

「怒らないんじゃない?」

「なんで?」

「セレスティア様だから」

「何それ」

自分でも分からない。

ただ、祖父は生前、何度も言っていた。

――セラにはセラの時間がある。

アルトにはその意味はよく分からなかった。

勇者セレスティア。

世界最強の剣士。

十七歳の姿のまま100年以上を生きる、不老の少女。

終焉王と100回以上戦ったと伝えられ、世界核を解放した六人の一人。

そして。

始祖レオン・アーヴェルの幼馴染。

礼拝堂の壁には有名な晩年の肖像画が掛けられている。

白髪のレオン。

17歳ほどにしか見えないセレスティア。

その隣に、黒髪をきっちり結ったマリエルがいて、少し離れた椅子にガレスと姉が座っている。

誰も正面を向いていない。

画家が諦めるまで、レオンが何度も姿勢を崩したからだという。

「幼馴染ってさ」

アルトは言った。

「何?」

「どんな感じなんだろうな」

「は?」

「これで幼馴染って言われても、分からないだろ」

片方は、皺だらけの老人として死んだ。

片方は、今も肖像画と同じ顔で大陸のどこかを歩いている。

ミラは絵を見上げた。

「恋人説」

「本人が否定してる」

「じゃあ何だったの?」

「知らないよ」

世界中の歴史学者が100年議論しても答えの出ない、意味のない問い。



午前十時。

礼拝堂の鐘が三度鳴った。

各国と各地域の使節が席に着く。

西部同盟を構成する14地域の代表。

王国、帝国、聖都から派遣された弔問団。

魔族諸領の大使。

獣人自治領の救護会代表。

竜族は間に合わず、短い弔辞だけが通信晶で届いた。

全員がガレスを悼みに来たはずだった。

けれど、席へ着いた人々の多くが開くたびに礼拝堂の扉を見た。

勇者は来るのか。

不老の少女は二代続けてアーヴェル家の死を見届けるのか。

その姿を見れば、歴史の連続性を確認できる。

そんな期待が雨と一緒に礼拝堂へ入り込んでいた。

アルトは腹が立った。


式が始まった。

最初の弔辞を読んだのは、西部同盟の現議長だった。

「ガレス・アーヴェル卿は、始祖レオンの遺志を余すところなく受け継ぎ――」

ミラが小さく鼻を鳴らした。

アルトも同じ気分だった。

祖父はその呼ばれ方を嫌っていた。

何をしても父の続きにされる。

反対すれば、始祖の謙虚さまで受け継いだと言われる。

それでは逃げ道がない。

弔辞は続く。

ガレスがまとめた和平協定。

飢饉の年に開いた共同備蓄。

四つの地域を脱退させずに済ませた、三年越しの会計制度。

どれも本当に祖父がした仕事だ。

それなのに、説明のたびレオンの名が先に置かれる。

死んだ者にまで、父親の影がかかっていた。


二人目の弔辞が終わりかけた時だった。

礼拝堂の外で低い羽音がした。

窓硝子が震え、軒の雨水が一斉に落ちる。

参列者が顔を上げた。

扉が開く。

冷たい風と雨の匂いが入り込んだ。

黒い外套。

銀色の髪。

腰に一本の剣。

少女。

その背後で黒い竜が濡れた翼を畳んでいた。

肖像画と。

同じ顔だった。

「遅れてごめん」

勇者セレスティアは息を切らしながら言った。

礼拝堂中が静まり返る。

各国の使節も、騎士団長も、魔族の大使も立ち上がった。

「いいよ、いいよ。そういうの」

セレスティアは片手を振った。

誰も座らない。

「……座って?」

誰も動かない。

少女は露骨に困った顔をした。


アルトは思った。

思っていたのと違う。

もっと威厳のある人だと思っていた。

北の空から竜で現れたというのに、濡れた髪が頬へ張り付き、外套の裾から水が落ちている。

片方の靴には泥が詰まり、腰の剣も、神話に出てくる聖剣ではなく使い込まれた普通の剣だった。

「ミラ」

「何」

「普通の女の子に見える」

「聞こえるよ」

「え」

セレスティアがこちらを見ていた。

「聞こえてる」

アルトは青ざめた。

「も、申し訳ございません!」

「別にいいけど」

セレスティアは外套を脱いだ。

係の者が慌てて受け取りに来る。

少女は礼を言い、空いていた最後列の席ではなく、棺へ向かって歩き始めた。


途中。

高さ五メートルのレオン像の前で止まった。

剣を地面へ突き立て、遠くを睨む壮年の英雄。

台座には刻まれている。

《未来は我らの手によって選び取るものである》

セレスティアの眉間に皺が寄った。

「増えてる……」

「何がです?」

アルトが、思わず尋ねた。

「変な像」

「始祖像です」

「知ってる」

「現在確認されているだけで、世界に247基あります」

「そんなに!?」

勇者が本気で驚いた。

「誰が許可したの?」

アルトは答えられない。

国家事業だった。

「レオン、こういうの一番嫌いなのに……」

セレスティアは台座の文章を指でなぞった。

「これも言ってない」

「趣旨を要約したものだと」

「本人は《知らない奴が勝手に決めるな》って言っただけだよ」

要約には、ずいぶん勇ましさが足されていた。


セレスティアは棺の前へ立った。

その瞬間。

顔から表情が消えた。

「ガレス」

小さな声だった。

誰も聞いたことのない声。

勇者ではなかった。

不老の聖女でもなかった。

赤ん坊の頃から知っていた男の死を前にしたただの少女だった。

頬の皺。

白くなった眉。

節の太い指。

かつて会議机を叩き、父親のずさんな書類を突き返していた手は、胸の上で静かに組まれている。

「老けたね」

当たり前だ。

けれど、誰も笑えない。

セレスティアは棺の縁へ手を置いた。

「元気なガレスに最後に会ったの、いつだっけ」

ミラが答えた。

「12年前です」

「そんなに?」

「はい」

12年前。

ガレスは81歳だった。

西部諸地域の会合を終えた夜、セレスティアを家へ呼び、食べきれない量の夕食を並べた。

その時、彼は言ったという。

――俺の葬式くらい、途中で逃げないでよ。

セレスティアは、式には行くと約束した。

「……そっか」

セレスティアは目を閉じた。

「ごめん」

それだけだった。


葬儀は再開された。

セレスティアは家族席の端に座った。

弔辞の中でレオンの名が出るたび僅かに眉を動かしたが、口を挟まなかった。

今日は歴史を訂正する日ではない。

ガレスを送る日だ。

最後に棺の蓋が閉じられる。

木と木が触れる低い音が礼拝堂へ響いた。

ミラが唇を噛む。

アルトは祖父の顔が見えなくなったことより、その音が二度と戻らないことを告げた気がして初めて涙を落とした。

隣でセレスティアは泣かなかった。

ただ、両手を固く握っていた。


式が終わると、棺を運び出す準備が始まった。

雨は上がっていた。

墓地へ向かう鐘が鳴るまで、少しだけ時間がある。

セレスティアは、集まってくる弔問客を避けるように礼拝堂の裏へ回った。

庭園の池のほとりに腰を下ろす。

厨房で渡された固いパンを取り出すと、片側が潰れ、端が少し焦げていた。

セレスティアは焦げたところからかじった。

今日、ガレスは丘の墓地へ入る。

37年前に土へ埋められたレオンの墓とその隣にあるマリエルの墓から少し離れた場所だった。

棺の上へ落ちる土の音を、セレスティアは知っていた。

知りすぎていた。

それでも、まだ行かないとは決めていなかった。

決められずに、パンを食べていた。


アルトは礼拝堂裏の庭園でセレスティアを見つけた。

池のほとりに座り、固いパンを食べている。

「セレスティア様」

「ん?」

「隣、よろしいでしょうか」

「いいよ」

座る。

池の水面に雲の切れ間から差した光が揺れている。

しばらく無言だった。

「それ、美味しいですか?」

「普通」

「そうですか」

会話が終わった。

世界を救った勇者と何を話せばいいのか分からない。

セレスティアがパンを半分に割る。

「いる?」

「いただきます」

焦げた方を渡された。


「アルト、だっけ」

「はい」

「ガレスの孫?」

「はい」

「レオンの……」

セレスティアは指を折り始めた。

「ひ孫?」

「そうなります」

「もう、ひ孫かぁ」

妙にしみじみ言う。

アルトは、ずっと聞きたかったことを尋ねた。

「祖父は、立派な人でしたか?」

セレスティアがこちらを見る。

「ガレス?」

「はい」

「立派だったよ」

即答だった。

胸の奥にあった固いものが、少しだけ緩む。

「レオンより、ずっと」

「え」

「真面目だったし」

「始祖より?」

「うん」

「優秀だったんですか?」

「たぶん」

「たぶん……」

セレスティアは笑った。

「レオンは優秀とかじゃなかったから」

まただ。

始祖について語る時だけ、この人は歴史書とまるで違うことを言う。


「始祖は、どんな人だったんですか?」

セレスティアはパンを食べるのをやめた。

「普通」

「……それだけですか?」

「うん」

「ですが、始祖はあなた方と世界を救った」

「救ってないよ」

アルトは固まった。

アーヴェル家の夕食でそれを言えば、少なくとも三人は立ち上がる。

「レオンが死んだ時、世界は全然救われてなかった」

「では、何をしたのです」

セレスティアは池を見る。

風が渡り、赤い魚の影が水草の下へ隠れた。

「始めただけ」

「何をです?」

「知らない人と一緒に、分からないことを決める仕組み」

「それが世界連盟では」

「世界連盟だけじゃない」

焦げたパンを一口かじる。

「失敗しても、次の人がやり直せるようにした。自分がいなくても続くようにした」

「それを、救ったと言うのではありませんか」

「言わない」

返事は早かった。

「救ったことにしたら、みんな終わったと思うから」


アルトは墓地の方を見た。

「行かないのですか」

何を指しているか、説明する必要はなかった。

セレスティアの指が止まる。

「まだ、分からない」

「祖父は、来てほしいと言っていました」

「式には来た」

「墓地にも」

「言ってない」

子供のような言い分だった。

けれど、横顔はひどく疲れていた。

「始祖の時もですか」

「うん」

セレスティアは手の中のパンを見る。

「お葬式にはいた。埋めるところだけ、見なかった」

「なぜ」

「見たら、終わるから」

「もう終わっています」

言ってから、アルトは後悔した。

少女は怒らなかった。

「そうだね」

それだけ言って、残ったパンを口へ入れた。

「歴史書には」

アルトは慎重に続けた。

「あなたが始祖の葬式へ来なかったと書かれています」

「知ってる」

「訂正しないのですか」

「したよ。三回」

「それでも?」

「《式にはいたが埋葬には立ち会わなかった》って言ったら、次の版で《勇者は悲嘆のあまり葬儀を途中退席した》になった」

アルトは頭を抱えたくなった。

「その次は?」

「《永遠の別離を受け入れられなかった》」

「間違ってはいないのでは」

「だから嫌なの」

遠くで墓地へ向かう鐘が鳴った。

セレスティアは立ち上がり服の裾に付いた草を払った。

「本当のことほど、歴史書に入ると変な顔する」

礼拝堂の正面へ戻ると棺が運び出されるところだった。

濡れた白い花びらを踏み参列者が列を作る。

セレスティアもアルトと一緒に礼拝堂の階段を下りた。

墓地の門が見える。

その瞬間、足が止まった。

見れば、ガレスが死んだことだけではなく、レオンの死まで37年分新しくなる。

「行けない」

セレスティアはようやく決めた。

アルトは理由を聞かなかった。

「分かりました」

それだけ言って棺を追った。

勇者は、墓地へ来なかった。


その夜。

アルトとミラは祖父の遺品を整理した。

執務室には半世紀分の紙が積まれている。

条約原本。

会議録。

各地域から届いた陳情。

歴史的価値を持つものには記録院の札を付け、私物は家族へ返す。判断がつかないものは保留箱へ入れる。

午後十一時を過ぎても、机の半分しか見えなかった。

「お祖父ちゃん、何でも残しすぎ」

ミラが、40年前の小麦価格表を持ち上げる。

「捨てたら、後で比較できないって」

「じゃあ、これも?」

欠けた皿の破片だった。

裏に、ガレスの字で《父が割った。本人は娘のせいにした》と書かれている。

「……家族箱」

「歴史的価値あるでしょ」

「ないよ」

「始祖が割った皿だよ」

「そういうのを増やすから、変な像が世界に247体もできるんだ」

二人で笑った。

笑った後、部屋が急に静かになった。


机の一番下の引き出しに収められた書類箱の底に、一冊の帳面があった。

革の表紙は擦り切れ、紐を通す穴が何度も補修されている。

表には、ガレスの字で書かれていた。

《父から預かったもの》

アルトの手が止まる。

「始祖の?」

ミラが覗き込む。

「たぶん」

開く。

最初の頁。

《セラが一人で何とかしようとするので、人を増やす。》

次。

《魔族と話す。たぶん話せる。》

《竜族。怖い。セラに任せたい。》

《金がない。》

次の頁にも。

《金がない。》

さらに次。

《本当に金がない。》

アルトは帳面を閉じた。

「……嘘だろ」

世界を変えた始祖の手記。

歴史学者なら奪い合う一次史料。

その三割が資金繰りだった。

ミラは肩を震わせている。

「笑うなよ」

「だって、像の台座に刻めばいいじゃない。《本当に金がない》」

「全部撤去される」


読み進めると字は少しずつ変わった。

若い頃の乱れた文字。

会議に慣れた頃の速い文字。

老いてからの震えを隠すようにゆっくり書いた文字。

途中にはマリエルの追記もある。

《この予算案では来月、全職員へ紙の代わりに木の葉を配ることになります。再提出。》

その下に、レオンの字。

《木の葉は駄目らしい。》

さらに後ろ。

《俺が死んだ後のこと。》

そこから、字が少し丁寧になっていた。

《ガレスに全部やらせるつもりはない。》

《あいつには、あいつの人生がある。》

《できる奴がやればいい。》

《人間じゃなくてもいい。》

《アーヴェル家じゃなくてもいい。》

《セラだけにやらせるのは絶対駄目。》

アルトは何度も同じ行を読んだ。


最後の頁。

《いつか誰も俺を知らなくなる。》

《それでいい。》

《俺の名前が残らなくても、やってることだけ残ればいい。》

礼拝堂の巨大な像を思い出す。

世界に247基。

教科書にはレオンの肖像が三種類も載っている。

アーヴェル家では、子供が文字を覚える前から《始祖の家の者》として人前へ出される。

アルト自身も15歳で初めて議場の傍聴席へ座った日、何を考えているかではなく横顔がレオンに似ているかを新聞に書かれた。

ミラが帳面を覗き込む。

「ずいぶん勝手だね」

「何が」

「自分の名前が残らなくていいって言うなら、残された方が困ることも書いておいてよ」

アルトは答えられなかった。

死者は必要な説明をいつも足りないまま残す。


夜が明ける前。

ミラは先に部屋を出た。

明日の弔問客へ返す書状が残っている。死者を送った翌日にも、役所と家は動く。

アルトは帳面を机へ置いたまま、一人で窓を開けた。

雨は止み、東の空が薄く明るくなっている。

礼拝堂の屋根の向こうに、巨大な始祖像の頭が見えた。

像は未来を睨んでいる。

その足元で、生きている人間が排水溝の泥を掻き出していた。

たぶん、世界を残しているのはあちらだ。

アルトは帳面を閉じ、革紐を結んだ。

祖父がこれを自分に遺したのかは分からない。

ただ、父から受け取った物を最後まで手元へ置いていた。

それだけは確かだった。


朝八時。

セレスティアは北へ戻ることになった。

昨日、彼女を運んだ黒い竜は、礼拝堂裏の広場で眠っている。飛び続けた翼を痛めており、帰りは竜谷の使者と数日かけて飛ぶことになった。

同じ竜へすぐ自分を乗せることをセレスティアは断った。

代わりに北方街道を行く馬を一頭借りた。

それでも少女は、先に城門へ向かった。

待っている間、町の外で剣を振るのだという。

「セレスティア様!」

アルトは帳面を抱えて走った。

少女が振り返る。

「これを」

両手で差し出す。

表紙を見た瞬間、セレスティアの顔色が変わった。

「……どこにあったの」

「祖父の書斎です」

受け取らない。

ただ、《父から預かったもの》という文字を見ている。

「お持ちになりますか」

「いい」

「ですが、始祖の――」

「ガレスが持ってたなら、次はあなたが持ってて」

「私が?」

「うん」

セレスティアは少し笑った。

「私が持つと読まないから」

冗談のように聞こえなかった。

帳面をアルトへ戻した時、最後の頁から一枚の古い紙が滑り落ちた。

紙は、セレスティアの靴の後ろへ落ちる。

アルトは気づかない。

少女は、彼が帳面へ目を落とした間に紙を拾い、外套の内側へしまった。

表に書かれた《セラへ》という四文字だけで、誰の字か分かった。


「最後の頁を読みました」

アルトが言うと、セレスティアの動きが止まった。

「始祖は、自分の名前など残らなくていいと」

「うん」

「では、我々アーヴェル家は何を継げばいいのでしょう」

生まれてから何度も聞いた答えを、どこかで期待していた。

責任。

使命。

始祖の志。

けれど、セレスティアは少し考えただけで言った。

「別に、何も」

「え?」

「継がなくていいよ」

「ですが」

「レオンの子孫だからって、レオンの続きをやる必要ない」

アルトは言葉を失った。

アーヴェル家に生まれた。

だから、始祖の使命を継ぐ。

重いと思うことすら申し訳ないと教えられてきた。

目の前の少女はそれを一言で捨てた。


「では」

アルトは、声を絞り出した。

「誰が、次の終焉と戦うのです」

「私」

セレスティアは当然のように答えた。

「それは私の仕事だから」

「でも」

言葉が先に出た。

「あなた一人では、勝てなかったのでしょう!」

城門の衛兵が振り返る。

近くにいた従者が息を呑んだ。

世界最強の勇者に敗北を突きつけた。

アルトは青ざめた。

「申し訳――」

セレスティアが目を丸くしている。

次の瞬間。

笑った。

「そうなんだよね」

嬉しそうだった。

「100回以上やって、1回も勝てなかった」

「なら」

アルトは帳面を抱き直した。

「俺もやります」

「なんで?」

「アーヴェルだからではありません」

言ってから、自分の声が少し震えていることに気づいた。

「俺の世界だから」

セレスティアの表情が止まった。


少女はすぐには答えなかった。

城門の外に朝の街道が伸びている。

荷馬車が通り、農夫が会釈し、門番が通行証へ印を押す。

そのどれもがアルトが生まれる前からあり、彼が死んだ後も誰かが使うはずの世界だった。

「…何をするの」

セレスティアが聞いた。

「まだ、分かりません」

「分からないのに?」

「始祖も、最初は分かっていなかったのでしょう」

「あいつは最後までよく分かってなかったよ」

「では、それでいいです」

セレスティアは、少しだけ困った顔をした。

それから、アルトの肩を一度叩いた。

「困ったら、人に聞いて」

「はい」

「私にも」

その一言は、勇者の約束というより、頼ることを覚えかけた誰かの申し出に聞こえた。


昼前。

黒い竜が目を覚ました。

セレスティアはその鼻先を撫で、礼を言った。

それから借りた栗毛の馬の鞍へ上がり、北を向く。

アルトとミラが城壁の上から見送った。

「何を話したの」

ミラが聞く。

「何も継がなくていいって」

「へえ」

「驚かないの?」

「お祖父ちゃんも、似たこと言ってたから」

「聞いてない」

「あんたには言わなかったんでしょ」

「なんで」

「言われたら、反発して余計に継ごうとするから」

図星だった。

馬がゆっくり歩き始める。

セレスティアは一度だけ振り返り、片手を上げた。

やがて、銀色の髪は北方街道の木立へ隠れた。


その三日後。

西部同盟北端の山林で、道に迷った測量隊が一枚の道標を見つけた。

苔むした石柱に、村の名が刻まれている。

地図にも同じ名があった。

村道。

井戸。

共同墓地。

住民128名。

300年分の戸籍と納税記録。

しかし、道標の先には森しかなかった。

人が住んだ跡もない。

木を切った跡も、井戸を埋めた跡もない。

村が滅びたのではない。

村だけが、最初から存在しなかったように見えた。

測量隊は記録の誤りだと考えた。

ところが、森の奥で一基の墓石を見つけた。

そこには今も西部の港で生きている男の名が刻まれていた。

死亡年は17年前だった。


報告書は、ガレスの埋葬から五日後に首都へ届いた。

本来なら地方測量局の照合係が処理する案件である。

だが、同じ村名が世界連盟の古い災害記録にも残っていた。

西部同盟議会は、臨時調査団を出すことにした。

アルトも同行を申し出た。

「喪中だろ」

上司に止められた。

「祖父は喪中を理由に仕事を休む人を叱っていました」

「こんなこと言うのはなんだが、亡くなった人の悪いところを継ぐな」

それでも記録院の代表として参加を認められた。

現地まで馬車で六日。

途中の村々では、その名を知る者と知らない者が半分ずついた。

知っている者は、北へ半日行けば着くと言う。

知らない者は、あそこには昔から森しかないと言う。

どちらも嘘をついているようには見えなかった。


調査団は、地図どおりの場所へ着いた。

森があった。

樹齢二百年を超える木が並び、村道が通る余地はない。

測量士が方位を確認する。

戸籍官が原簿を開く。

地図師が距離を測り直す。

すべて一致している。

間違っているのは、現実だけだった。

アルトは、墓石の前へ立った。

刻まれた男の名は、港湾組合の会計係だった。

通信晶で照会すると、本人が返事をした。

《私は生きています。北端の村には行ったこともありません》

その声を聞きながら、アルトは墓石の裏を見る。

小さな字で、妻と二人の子の名が彫られていた。

港の男は独身だった。

あり得た人生が、墓だけを残して森に押し出されている。


調査団は七日間、現地に留まった。

村は現れなかった。

けれど、夜になると井戸の水音を聞いた者がいた。

森の中で、誰も弾いていない鐘の音がした。

地面へ置いた測量紐が、朝には石畳の形に曲がっていた。

全員が同じ現象を見たわけではない。

だから、報告書は割れた。

異常を認める者。

集団錯覚だとする者。

古い地図の改竄を疑う者。

アルトは、どれか一つを正しいと決めなかった。

祖父の帳面を開く。

《分からない時は、違う場所にいる奴の記録を並べる。》

その下に、マリエルの字がある。

《並べるだけでは結論になりません。ですが、結論を急ぐよりはましです。》

アルトは、新しい紙を出した。


首都へ戻ると、各地域の記録院へ照会を送った。

地図にあるのに、現地にない場所。

死んだ記録と、生きている本人。

同じ出来事について、両立しない公文書。

短い概要だけを通信晶で返すよう求めると、回答は十二日で二十三件集まった。原本と物証は、後から使者が運ぶことになった。

北方には、冬だけ別の場所へ出る橋がある。

帝国東部では、百年前に廃止された税の納付書が毎年届く。

聖都の星辰記録には、存在しない塔の影が三夜続けて書かれていた。

魔族領の一村では、母親だけが存在を覚えている子供の部屋が残っている。

地域ごとには、記録ミスとして処理できる程度の異常だった。

並べると偶然では済まない。

世界はずっと小さく軋んでいた。

誰も同じ机へ記録を置いていなかっただけだ。


翌月。

アルト・アーヴェルは、西部同盟議会へ一つの法案を提出した。

《世界異常共同観測局設置法》。

目的は軍隊を作ることではない。

終焉王を討つことでもない。

各地域が別々に持つ地図、戸籍、星辰、竜脈、気候の記録を、異常が起きた時だけ照合できる場所を作る。

加盟は任意。

原本は各地域が持つ。

中央が正しい記録を決める権限は持たない。

必要な時に違いを見つけられるようにする。

説明を終えると議場は静かだった。

最初に出た質問は予算だった。

「新しい役所を作る金は、どこから出すのです」

アルトは始祖の帳面を思い出した。

「……そこは、これから考えます」

議場の半分がため息をついた。

少しだけ、レオンの気持ちが分かった。


法案は、一度否決された。

費用が大きい。

各地域の戸籍を中央へ渡せない。

異常の定義が曖昧。

終焉王の再来を口実に権限を集める危険がある。

反対には十分な理由があった。

アルトは反対者を世界を理解しない者とは呼ばなかった。

三日後。

名称から《局》を外した。

常設庁舎を諦めた。

各地域から一人ずつ担当者を置き、月に一度、記録の写しではなく異常の項目だけを送る仕組みに変えた。

予算は、西部同盟記録院の空き机二つと、既存の通信晶一基。

参加を表明したのは七地域だった。

《世界異常共同観測室》。

名前だけは大きい。

実物は雨漏りする部屋と若い記録官三人から始まった。


最初の会議の日。

議場には採択された側より反対した側の方が多く残っていた。

アルトは演壇へ立った。

「これは、アーヴェル家の仕事ではありません」

ざわめきが起きる。

「勇者の仕事でもない」

始祖の遺志を継ぐためでもない。

終焉王という一人の敵を想定し、世界を一つの指揮へ従わせるためでもない。

地図の上にある村と、森の中にない村。

生きている男と、その男の墓。

同時に正しい二つの記録を、どちらか一方の誤りとして消さないためだ。

アルトは、祖父の棺を思い出した。

古い帳面。

焦げたパンを食べる17歳の少女。

会ったことのない一人の男。

「我々の世界の話をしましょう」

その日。

レオン・アーヴェルの戦いは、初めてアーヴェル家の手を離れた。


北へ向かう街道。

セレスティアは栗毛の馬をゆっくり歩かせていた。

西部同盟の城壁は見えなくなり道の両側に広い森林が続く。

さっきから鞄ばかり見ている。

馬が耳を後ろへ向けるたび見られているような気がした。

セレスティアは街道脇の木陰で馬を止め、鞍を下りた。

少女は諦め鞄を開いた。

一枚の紙が入っている。

アルトには黙っていた。

帳面を差し出された時、最後の頁から落ちたものだ。

古い紙。

見覚えのある字。

《セラへ》

それだけで、37年前の声が蘇った。


紙を開く。

《これをお前が読んでるってことは、たぶん俺は死んでる。》

「だいぶ前にね」

風に消えないよう、少し大きな声で返した。

《で、たぶんまた一人でやろうとしてる。》

「してない」

少し間を置く。

「……ちょっとしか」

《俺の子供とか孫とかが手伝うって言っても、断るな。》

セレスティアは眉をひそめた。

「ずるい」

死んだ後に届く言葉は、言い返しても撤回されない。

《でも、やりたくないって言ったら絶対やらせるな。》

《俺たちが始めたからって、あいつらには関係ない。》

《ただ、もし》

そこで字が少し滲んでいる。

手が震えたのか。

咳をしたのか。

インクへ水を落としたのか。

もう、確かめることはできない。


《俺を知らない奴が、自分でやるって言ったなら》

《その時は頼っていいと思う。》

セレスティアは紙を持ったまま、長く黙った。

さっきの青年の声が蘇る。

――俺の世界だから。

アルトは、レオンと会ったことがない。

家名と像と教科書を通してしか知らない。

それでも、自分でやると言った。

命じられたからではない。

血筋の責任でもない。

セレスティアは手紙を胸元へ寄せた。

「……言ったよ」

誰もいない空で、少女は笑った。

「ちゃんと言ったよ、レオン」


手紙には、もう少し続きがあった。

《あと、葬式に来ないのは勝手だけど、せめて生きてるうちに会いに行け。》

セレスティアの笑顔が消えた。

「遅い」

《ガレスは真面目だから、お前が来なくても怒らない。だから余計に行け。》

「……遅いよ」

12年前。

ガレスは、夕食を用意して待っていた。

もっと早く戻るつもりだった。

北の調査が終わったら。

次の護衛が済んだら。

その次に。

時間がある者ほど、会う日を後へ送ってしまう。

セレスティアには明日が多すぎた。

ガレスには、もう残っていなかった。

風の中で、紙が震えた。

「ごめん」

今度は、棺ではなく手紙へ言った。


馬が草を食む音だけが、街道脇に続いた。

セレスティアは西を振り返った。

町はもう見えない。

戻っても、墓地へ行けるかは分からない。

できないことを、できると言うつもりもなかった。

戻るか。

自分へ問い、首を振る。

「戻らない」

それでも。

手紙を丁寧に畳む。

「次は、もう少し早く行く」

誰の次かは言わなかった。

手紙を鞄の一番奥へしまい馬の鞍へ戻った。

北の空には雨雲の切れ間がある。

その向こうで山の雪が白く光っていた。


《世界異常共同観測室》は、最初の一年で三度閉鎖されかけた。

予算不足。

担当者の退職。

異常など存在しないと主張する政権からの通信停止。

そのたび、別の誰かが机を借り、記録を運び、通信晶を修理した。

10年後。

参加は29地域になった。

100年後。

国家を越えた。

200年後。

種族を越え、竜脈と星辰の記録まで同じ時刻で照合するようになった。

そして、376年後。

76の基幹観測点が、中央平原の復元塔を囲んだ。

歴史書は、その始まりをこう記す。

――アルト・アーヴェルは、始祖の遺志を受け継ぎ、世界統一への第一歩を踏み出した。

それもまた、少しだけ間違っている。

彼が継いだのは、レオンの答えではない。

答えを一人で決めないという、不便な方法だった。


再び北へ向かう街道で。

セレスティアは未来を知らない。

アルトの小さな観測室が、何度名前を変えるのかも。

世界が、また壊れかけることも。

自分が三百七十六年後も、十七歳の姿で剣を握ることも。

何一つ知らない。

もう。

知る必要もなかった。

馬の蹄が、街道へ乾いた音を刻む。

少女は顔を上げた。

その先にあるのは、決められた未来ではない。

ただ、自分で向かうと決めた北の空だった。


皆様ここまで読んでいただきありがとうございます。

拙い文章ではありますがお楽しみいただけたでしょうか?

「面白い!」「続き読みたい!」など思った方は、ぜひブックマーク、評価、いいねをよろしくお願いします。

作者のやる気が漲ります!


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