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幼馴染が100周目過ぎる。  作者: 牧惣一郎


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11/13

皇帝は勇者を嫌っている 後編

翌朝、レオンは匙を持ったまま、寝台の上のセレスティアを見ていた。

「熱い?」

「もう少し」

「さっきもそう言ってたぞ」

「熱いものは熱い」

レオンは匙を器へ戻した。

両腕には、指の付け根から肘の上まで包帯が巻かれている。

傷は見えなくなった。それでも、身体を起こすたびにセレスティアの眉間へ寄る皺は、昨夜から変わらなかった。

寝台へ移れば、少しは安心できると思っていた。

実際には、眠っている間も呼吸を確かめ、彼女が動けば目を覚ました。

「レオンも食べた?」

「これが終わったら」

「先に食べれば」

「待ってる間に、自分でやろうとするだろ」

セレスティアが視線を逸らす。

レオンは粥をすくい直した。

息を吹きかけてから、口元へ運ぶ。

今度は、彼女も何も言わずに食べた。

窓の外では、朝から荷車が行き来していた。

広場に残った人々へ配る水や食料を運んでいるのだと、この建物の女主人が教えてくれた。

食事を終えたら手伝いに行こうと思っていた。

だが、器を持つ腕が重かった。

指先にも、まだ力が入りにくい。

扉が叩かれた。

ケネスが顔を出す。

いつもより背筋が伸びていた。

「セレスティア殿。面会だ」

「また聞き取り?」

「いや」

ケネスは廊下を振り返った。

「陛下がお見えになっている」

レオンは匙を器へ落とした。

*

入ってきた男は、レオンが想像していた皇帝とは違っていた。

冠も長い外套もない。

短く切った黒髪に、軍服に似た簡素な上着。袖口の刺繍と、腰の剣の飾りが目についた。

「そのままでいい」

立ち上がりかけたレオンを制し、男は寝台へ目を向けた。

皇帝アレクシス五世。

後ろには官吏と近衛騎士がいたが、皇帝は廊下で待つよう告げた。

扉はわずかに開けられたままだった。

セレスティアは、その顔を見つめていた。

「……会えた」

「謁見を願い出ていたそうだな」

「うん」

「先にこちらから、礼を言いに来ることになった」

皇帝は寝台へ近づき、両腕の包帯を見た。

「痛むか」

「かなり」

「治療者から聞いた。必要なものがあれば申し出てくれ」

レオンは頭を下げた。

「主任たちは?」

セレスティアが尋ねる。

「二人とも治療を受けている。若い技師の方は、炉へ戻ると言い張っているらしい」

「歩けるの?」

「医師にも同じことを聞かれていた」

セレスティアの口元が少し緩んだ。

皇帝は椅子へ手を掛けた。

「座っても?」

「うん」

腰を下ろし、彼女へ向き直る。

「君が来なければ、被害はさらに広がっていたと報告を受けた。礼を言う」

「私だけじゃ止められなかった」

「あの二人にも伝えた」

皇帝は卓の器へ目を落とした。

「食事の途中だったな」

「少し冷ましてたんです」

レオンが答えると、皇帝は頷いた。

「従者の君も、昨夜から付き添っていたのか」

「従者じゃない」

レオンが返事をするより先に、セレスティアが言った。

皇帝が彼女を見る。

「……それは失礼した」

「幼馴染」

「そうか」

皇帝はレオンへ向き直った。

「君も、休めているか」

「あ、はい。少しは」

セレスティアがこちらを見た。

レオンは器を卓の端へ寄せた。

「あの」

皇帝の目が戻ってくる。

話しかけてから、聞いてもいいものか迷った。

それでも、レオンは続けた。

「昨日、広場にいた人たちは。その後、どうなったんでしょう」

皇帝は彼を見た。

「そうか。君も救護を手伝ってくれたと聞いている。ありがとう」

レオンは小さく頭を下げた。

「帰宅できた者もいる。治療が必要な者は、ここや近隣の施設で手当てを続けている」

皇帝は少し間を置いた。

「ただ、運び込まれた後で亡くなった者もいる」

レオンは頷きかけて、止まった。

板に載せて運んだ男。

肩を貸した男。

水を飲むために、身体を起こしてくれと頼んできた女。

名前は、ほとんど聞いていなかった。

「気になる者がいるのか」

「……何人か。でも、名前が分からなくて」

「特徴を覚えているなら、係の者に聞いてみるといい。分かる場合もある」

皇帝は廊下へ目を向けた。

ケネスが短く頷いた。

「ありがとうございます」

レオンは器の中へ目を落とした。

セレスティアも、しばらく何も言わなかった。

*

「炉は、もう大丈夫?」

セレスティアが尋ねた。

「停止している。近づける場所から調べているところだ」

「下も?」

「まだ時間がかかるそうだ。主任は、あそこへ人が入ったこと自体、信じ難いと言っていた」

レオンは彼女を見た。

昨夜、何があったのか尋ねても、セレスティアは「止まった」としか言わなかった。

その先を聞けずにいた。

皇帝が続ける。

「君は、炉の仕組みを知らなかったのだな」

「知らない。魔力が出てくるところを抑えた。設備は、二人が動かしてくれた」

「途中から返事がなくなったそうだ」

「喋る余裕がなかった」

皇帝の視線が両腕へ落ちた。

「一度に抑えると、別のところから噴き出す。少しずつ動かしてたら、自分の中までうまく回せなくなった」

包帯の端から覗く指が曲がりかけ、止まる。

レオンは杯を取った。

「水、飲むか」

彼女が頷いたので、口元へ運ぶ。

皇帝は飲み終わるまで待っていた。

「ニーニットに教わったと聞いたが」

「うん。魔力の使い方を」

「弟子を取ったとは聞いていなかった。いつ頃だ」

セレスティアは口を開きかけた。

少し考えてから、レオンを見る。

彼にも、どう答えればいいかは分からなかった。

「……説明が長くなる」

「今は無理をしなくていい。本人が戻れば、君が来たことを伝えておこう」

「たぶん、私のことは知らない」

「教わったのではないのか」

セレスティアは頷いた。

皇帝はしばらく待ったが、彼女は続きを話さなかった。

「その話は、また聞こう」

皇帝は寝台脇の薬瓶へ目を向けた。

「教会にも治療を頼んでいる。ここでできる処置には限りがあるそうだ」

「自分でも治せる」

「セラ」

レオンが口を挟んだ。

二人の目がこちらへ向く。

皇帝の話を遮ったことに気づき、喉が詰まった。

それでも、続けた。

「治してもらえるなら、頼もう。今も痛いんだろ」

セレスティアは包帯へ目を落とした。

「……うん」

皇帝はその返事を聞いてから、椅子へ置いていた手を動かした。

「では、食事を続けてくれ。長く邪魔をするつもりはなかった」

「もう少し、話していい?」

セレスティアが言った。

「会いたかったのは、そのためだから」

皇帝は手を止めた。

「謁見を求めた件か」

「うん」

「何を話したかった」

「あなたと仲良くなりたかった」

皇帝は返事をしなかった。

セレスティアは真面目な顔をしていた。

レオンには聞き慣れた言葉だったが、初めて聞く相手には、何の話か分からないのかもしれなかった。

「私と?」

「うん」

「何のために」

「王国と戦争してほしくないから」

皇帝の表情が変わった。

「誰から、その話を聞いた」

「誰からでもない」

「昨日の事件について、何か知っているのか」

「爆発は初めて見た。でも、戦争は知ってる」

皇帝は彼女を見たまま、背を椅子へ預けた。

「ニーニットのことも、それと同じ。今のニーニットには教わってない」

「今の、とは」

「前の周回」

セレスティアがレオンを見た。

彼は小さく頷いた。

帝国へ来たのは、その話をするためだった。

「私、何度も同じところから生き直してる」

皇帝の眉が寄った。

「世界が終わったり、私が死んだりすると、同じ春に戻る。前のことを覚えたまま」

「生き直す?」

「今まで百二回。今回は百三回目」

皇帝の目がレオンへ向いた。

レオンは口を開かなかった。

自分が説明しても、聞いたことを繰り返すだけになる。

セレスティアは、自分が覚えていることを話した。

村を出たこと。

王国や教会で出会った人々と、世界を救おうとしたこと。

魔王を倒したことも、戦争を止めたこともあった。

それでも、また同じ春へ戻った。

皇帝は途中で何度か質問した。

いつの春なのか。

戻る前に持っていたものはどうなるのか。

ほかに覚えている者はいるのか。

セレスティアは、分からないことには分からないと答えた。

「では、ニーニットも君を覚えていない」

「今は、まだ会ってないから」

「君だけが、教わったことを覚えているのか」

「うん」

皇帝は口元へ手を当てた。

セレスティアは少し待ってから、続きを話した。

「帝国とも戦った」

「王国の側でか」

「教会と一緒だったこともある」

「そのときも、私が皇帝だった?」

「そう」

「どうなった」

セレスティアは皇帝を見た。

「あなたを殺したことがある」

皇帝の手が口元から離れた。

椅子が軋んだ。

廊下で足音がする。

皇帝は扉へ顔を向けた。

「呼ぶまで待て」

足音が止まった。

レオンは、セレスティアと皇帝の顔を交互に見た。

過去に帝国と戦ったことは聞いていた。

だが、目の前にいる人へ、それを話す場面は想像していなかった。

皇帝が尋ねた。

「それを聞いて、私がどう思うと考えた」

セレスティアは答えなかった。

「君の話を、私は確かめられない。だが、自分を殺したと言われて、平然と聞けると思わないでほしい」

彼女の視線が落ちた。

「……隠したくなかった」

皇帝は肘掛けへ手を置いた。

指が、ゆっくりと曲がる。

誰も話さなかった。

レオンは何か言おうとした。

けれど、どう言えばいいのか分からなかった。

セラは悪くない。

そう言うのは簡単だった。

だが、何があったのかを、自分は見ていない。

「帝国へ行こうって言ったのは、セラです」

皇帝の目が彼へ向いた。

「皇帝と仲良くなるんだって、村を出てから言ってました。俺には、どうやって会うつもりなのかも分からなかったんですけど」

レオンは膝の上の手を握った。

「今のセラが、そのために来たのは知っています」

皇帝は彼を見ていた。

「君も、その過去を覚えているのか」

「いえ。聞いただけです」

「信じている?」

「はい」

今度は、すぐに答えた。

皇帝は窓の方を見た。

外では誰かが人を呼んでいた。

寝台へ向き直るまで、少し時間があった。

「なぜ、私と戦った」

「帝国が王国へ攻めてきたから。止めないといけないと思った」

「それは、君が決めたことか」

セレスティアは少し間を置いた。

「うん」

皇帝は彼女を見ていた。

「そのときの私が何を考えていたかは、聞いたのか」

「聞いたこともある。でも、戦ってからだった」

セレスティアは包帯へ目を落とした。

「いつも王国にいた。帝国が攻めてきたら戦った。攻めてくる前に、どうにかしようとしたこともある」

皇帝の口元が硬くなった。

「でも、戦争が始まる前に、何でそうするのか、聞きに来たことはなかった」

彼女は顔を上げた。

「今回は、王国にも教会にも行ってない。レオンと、今までやらなかったことをしてる」

皇帝は二人を見た。

やがて、肘掛けから手を離した。

「君の話を、今ここで信じろと言われても無理だ」

「うん」

皇帝は彼女の腕へ目を落とした。

「ただ、ニーニットの技を扱い、あの炉を止めたという報告は受けている。君の説明を、聞かなかったことにもできん」

セレスティアは黙っていた。

「今の私が何を考えているかなら、話せる」

彼女は小さく頷いた。

*

「王国の土地が欲しいの?」

皇帝は眉を寄せた。

「戦争をしてまで欲しいとは思わん」

「国が大きくなるのに」

「守る場所も増える。役人を置き、道を維持し、作物が採れなければ食わせねばならん」

セレスティアは黙って聞いていた。

「王国を併呑すれば、魔族領との境も帝国が守ることになる。今ある国境だけでも兵が要る」

「交易してる方がいい?」

「そうだ。穀物を買い、こちらの品を売る。土地を奪わなくてもできる」

レオンは銅灯亭の主人を思い出した。

工房帰りの客が来るから、夜も忙しいと話していた。

その工房は、今は止まっている。

「王国も、そう思ってる?」

セレスティアが聞いた。

「そう考える者はいる。帝国の品に商売を奪われた者なら、違うことを考えるだろう」

「それで、争いになる?」

「争いにはなる。だが、商売で損をした者が、皆、戦争を望むわけではない」

セレスティアは頷いた。

「前のあなたが軍を出した理由は、帝都への破壊工作だった」

皇帝の身体が前へ傾いた。

「どこが襲われた」

「分からない」

「被害は」

「それも。王国へ来た声明を聞いただけだから」

彼女の声が途切れた。

「何度も工作があって、帝国の人が死んだ。だから、国を守るために軍を出すって」

皇帝は黙っていた。

「王国は、やってないって言ってた。侵略の口実だって言う人もいた」

レオンはセレスティアの顔を見た。

彼女は窓の向こうを見ていた。

外では男たちが荷車を押していた。

一人が肩を押さえて立ち止まり、別の男が代わる。

「……こういう人たちが、前にも」

セレスティアの言葉は、そこで止まった。

皇帝も続きを促さなかった。

やがて、彼女が顔を戻す。

「今回のことも、王国がやったって言われてる?」

「そういう情報は上がっている」

「本当に?」

「まだ分からん。王国商人の名義で納められた品はある。だが、それだけでは決められない」

皇帝は一度言葉を切った。

「事故なのか、誰かが手を加えたのかも含めて、調べている」

「王国がやっていたら?」

「次の攻撃を防ぐために、必要なら軍を使う」

セレスティアは皇帝を見た。

「軍を出したら、王国も集める」

「ああ」

「王国では、帝国が攻めてきたって言われる。村の人も兵になる。国を守るためだって」

レオンは膝の上へ目を落とした。

村でその話を聞いたら、自分はどう思っただろう。

帝都で何があったか知らないまま、セラと同じ側に立ったかもしれない。

だが、今は広場で会った人たちの顔が浮かぶ。

「国境だけじゃ終わらなかった」

セレスティアの声がした。

「兵が食べ物を持っていくから、村でも人が死んだ。帝国の兵も、補給が来なくて倒れてた」

皇帝は口を閉じた。

「あなたが、そこまでしたいと思ってなくても」

しばらくして、皇帝が尋ねた。

「覚えている場所はあるか。最初に戦いになった町などだ」

セレスティアが地名を挙げた。

皇帝は扉の外へ声を掛け、紙と筆記具を持ってこさせた。

官吏が卓へ置く。

「川があって、その北側を通った」

「町はこちらか」

皇帝は白紙へ線を引き、脇に印をつけた。

「反対。橋を渡ってから見えた」

「こうか」

「うん。その先に丘があった」

皇帝が描き足す。

セレスティアは紙を覗き込み、少し首を傾けた。

「もっと離れてたかもしれない」

「そこは、そのままでいい」

皇帝は丘の印の脇へ短く書き添えた。

レオンも紙を見た。

川と橋と町。線と丸だけの、簡単な絵だった。

「そこに住んでる人には、知らせるんですか」

皇帝が顔を上げた。

声を出してから、レオンは背筋を伸ばした。

「もし、兵を動かすことになったら。昨日も、どこへ逃げたらいいか分からない人がいたので」

皇帝は紙へ目を戻した。

「国境の領主や守備隊を通じて知らせる。退避先や、移動に使う道も定めている」

「そうですか」

「だが、知らせれば全員がすぐ動けるわけではない。病人もいれば、家畜や畑を置いていけない者もいる」

レオンは、広場で何度も工房へ戻ろうとしていた男を思い出した。

「……はい」

皇帝は略図を官吏へ渡した。

「細かな話は、君の身体が落ち着いてからにしよう」

*

処置の時間が来ると、皇帝は立ち上がった。

「長居をした」

官吏が書類をまとめる。

セレスティアは皇帝を見た。

「また、話せる?」

皇帝は少し間を置いた。

「聞きたいことは残っている」

それだけ言って、扉へ向かった。

セレスティアは何か言いかけたが、呼び止めなかった。

包帯を巻き直してもらう間、彼女は黙っていた。

終わると、寝台へ身体を預ける。

レオンが冷めた粥を下げようとすると、首を振った。

「まだ食べる」

「冷たいぞ」

「熱くないからいい」

レオンは匙を取った。

二口ほど食べたところで、セレスティアが呟いた。

「嫌われたかな」

「……あの話を聞いた直後だしな」

「話さないと、前と同じになると思った」

レオンは器を見た。

「俺も、どこまで言えばよかったのかは分からない」

「うん」

「でも、また聞くって」

セレスティアは頷いた。

食事を終えると、彼女はすぐに眠った。

レオンは器を持って廊下へ出た。

外から、空いた桶を集める声が聞こえる。

そちらへ足を向けかけ、立ち止まった。

昨夜、膝が折れたときのことを思い出した。

ケネスに言われた言葉も。

器を返してから、女主人へ尋ねた。

「少し、横になれる場所はありますか」

*

数日が過ぎた。

南区の火は消えたが、工房の多くは閉まったままだった。

水路の設備が止まった場所では、人々が桶を持って井戸に並んだ。

銅灯亭の主人は、食材を煮込んだ大鍋を広場へ運んできた。

「工房の連中が戻らなきゃ、うちも商売にならんからね」

そう言いながら、鍋が空になるまで帰らなかった。

レオンも、セレスティアが眠っている間は救護を手伝った。

初めは、呼ばれるたびに立ち上がっていた。

そのうち、水桶が空になる頃や、食事の前に杯が足りなくなることが分かってきた。

あるとき、同じくらいの年頃の少年が、広場の端で立ち尽くしていた。

手伝いに来たが、何をすればいいか分からないのだという。

レオンは、洗い終えた杯の籠を示した。

「これを向こうへ運んでもらえる?」

「全部?」

「二回に分けていいよ。俺も持つから」

少年は籠を抱えた。

レオンも残りを持ち、治療者が行き来する場所を避けて歩いた。

気に掛かっていた負傷者のことも尋ねた。

肩を貸した男は、家族に連れられて帰ったと分かった。

板に載せて運んだ男については、似た怪我の者が多く、誰のことか分からなかった。

レオンは教えてくれた者へ礼を言い、空いた桶を取りに戻った。

その日の午後、教会から来た神官がセレスティアの両腕を診た。

傷の周りへ指をかざし、長く黙ってから、彼女へ顔を向ける。

「ご自身でも修復されていますね」

「少しずつ」

「流れが戻っている箇所もあります。ただ、深く傷んだ部分へ無理に魔力を通せば、また傷が開きます」

神官は包帯を巻き直した。

「本部の高位神官へ紹介状を出します。移動は馬車を使い、腕を休ませてください」

レオンが尋ねた。

「道中、俺にできることはありますか」

神官は彼を見た。

それから、包帯の扱いと、休む間隔について説明した。

レオンは覚えきれないところを、もう一度聞いた。

*

炉の調査では、人の手で細工された跡が見つかった。

異常を抑える仕組みの一部が、働かないようにされていた。

だが、誰が、いつ手を加えたのかは分からなかった。

王国商人の名が記された書類についても、その商会は発行を否定した。

名前を使われたのか、関与を隠しているのか。

調査官は、どちらとも言わなかった。

街では、もっと早く答えが出ていた。

王国がやった。

また狙われる。

軍は何をしている。

水を配っていたレオンにも、その声は聞こえた。

「一度、痛い目を見せなきゃ分からんのだ」

足に添え木を当てた男が言った。

隣の男も頷いていた。

レオンは水差しを持ったまま、一瞬立ち止まった。

痛い目を見るのは誰だろう。

村にいた人々の顔が浮かんだ。

この男の足に怪我をさせた人間を、彼らが知っているとは思えなかった。

「兄ちゃん、水をもらえるか」

呼ばれて、レオンは近づいた。

杯へ注ぐと、男は両手で受け取った。

「助かる。いつも悪いな」

「いえ」

それ以上は言えなかった。

*

二度目に皇帝と会ったのは、皇宮の小さな部屋だった。

セレスティアは寝台を離れられるようになっていたが、両腕はまだ使えなかった。

外套を羽織るのも、馬車へ乗るのも、レオンが手を貸した。

皇帝の卓には、書類が積まれていた。

先日、セレスティアの話を記した紙も、その中にあった。

「王国へ照会を出した。国内の施設も警備を増やしている」

「軍は?」

「国境の警戒を強める。越境は認めていない」

セレスティアは皇帝を見た。

「攻めろって言われてる?」

「ああ。第五騎士団からも、出兵を求める意見が上がっている」

「グラウス?」

「知っているのか」

「前に戦った」

皇帝の手が止まった。

「いつの話だ」

セレスティアが答える。

皇帝は手元の記録を確かめ、いくつか質問した。

レオンは二人の話を聞いていた。

同じ人物の名が出ても、今その人が何を考えているかまでは分からない。

皇帝は、そこを繰り返し確かめていた。

「許可は出していない」

話が一区切りついたところで、皇帝が言った。

「君の話も預かる。ただし、過去にそうだったという理由だけで、今のグラウスの意図を決めることはしない」

「うん」

セレスティアは頷いた。

「何か分かったら、私にも知らせて」

「事件についてか」

「今回のことを知らないままには、したくない」

皇帝は少し考えた。

「君も、思い出したことがあれば知らせてほしい。曖昧なところは、そのままで構わん」

「分かった」

官吏が、知らせを受け取れる場所を尋ねた。

レオンは、ヴァルターとの連絡にも使っている商会の名を伝えた。

街の名も添えると、官吏が書き留めた。

「教会本部へ向かうそうだな」

皇帝が言った。

「腕を治してもらう」

「馬車と旅費はこちらで用意する。護衛の二人にも、引き続き同行させよう」

レオンは頭を下げた。

セレスティアは皇帝を見ていた。

「私を、そのまま行かせていいの?」

「治療を遅らせてまで、ここに留める理由はない」

「私が話したことは」

「まだ、確かめている」

皇帝は書類を閉じた。

「私は勇者を好いてはいない。君の判断を、そのまま帝国の判断にする気もない」

セレスティアは黙っていた。

「だが、君に救われたことは分かっている。治療の手配は、その礼だ」

彼女は膝の上の腕へ目を落とし、小さく頷いた。

皇帝は官吏へ書類を渡した。

官吏が部屋を出ると、改めてセレスティアを見る。

「天秤の神ミレアとは、話したことがあるのか」

「ある」

「君が戻るという話も?」

「ミレアには、話したことがある」

「なら、今回も会ってはどうだ」

セレスティアの顔が曇った。

「何度も聞いたよ。世界を救うにはどうしたらいいか」

「答えは」

「言われたことをやったこともある。でも、終わった」

皇帝は黙った。

「聞いてないわけじゃない」

「そうか」

それ以上は勧めなかった。

少しして、机の端から別の紙を取る。

「治療の件はこちらからも伝える。神殿騎士たちには、君が向かうことを知らせていいか」

「今度は、無理に連れていこうとしない?」

皇帝は彼女を見た。

「街道での件は、ロ=マジクから報告を受けている。教会の捜索に協力するために付けた隊だ。強制して連行しろとは命じていない」

「でも、道を塞いだ」

「その判断も含めて確認している。今回は君自身が行くと伝える。治療中であることもな」

「わかった」


*

帰りの馬車では、しばらく二人とも黙っていた。

石畳の継ぎ目を越えるたび、セレスティアの肩がわずかに動く。

レオンが腕の下の布を直すと、彼女は小さく礼を言った。

窓の外を、空の荷車が通り過ぎた。

「広場でさ」

レオンが口を開いた。

「王国を攻めた方がいいって、言ってる人がいた」

セレスティアが彼を見る。

「足を怪我してる人。何度か水を渡したんだけど、いつも礼を言ってくれるんだ」

彼女は黙って聞いていた。

「俺、王国から来たって言えなかった」

「言わなくていいよ」

「うん。でも、何か言いたかった」

レオンは自分の手を見た。

「俺の村の人は、何もしてないって言いかけた。でも、炉に細工したやつのことなんて、俺も知らないだろ」

セレスティアが頷いた。

「だから、水を渡して終わった」

「……そっか」

馬車が角を曲がった。

しばらくして、セレスティアが言った。

「私も、王国ではそういう話を聞いてた」

「帝国を攻めた方がいいって?」

「攻めてこられる前に、止めた方がいいって。実際、攻めてきたから」

レオンは彼女を見た。

「帝都でも、同じこと言ってたんだね」

セレスティアは窓へ顔を戻した。

「今回、初めて聞いた」

レオンも外を見た。

建物の壁に梯子が掛けられていた。

屋根の上で作業をしていた男が、下の者へ手を振っている。

少しして、セレスティアが尋ねた。

「その人、まだ広場にいる?」

「たぶん」

「明日も行く?」

「うん。水は要るから」

セレスティアは頷いた。

*

療養先へ戻ると、教会への紹介状が届いていた。

レオンは神官から受け取った薬と一緒に、旅の荷物へ入れた。

湿らないよう布で包み、取り出しやすい場所へ収める。

セレスティアは椅子に座り、その様子を見ていた。

「神様とは、会うのか」

レオンが尋ねた。

「ミレア?」

「うん」

「会えるなら」

「聞くことは、もう聞いた?」

「何度も」

レオンは頷いた。

それから、紹介状の紐を結びながら尋ねた。

「向こうも覚えてるのか?」

「何を」

「前にセラと話したこと」

返事がなかった。

レオンが顔を上げると、セレスティアは考え込んでいた。

「……分からない」

「そっか」

彼は紹介状をしまった。

セレスティアは窓の方へ顔を向けた。

しばらくして、ぽつりと言う。

「私は覚えてたから」

「うん」

「同じことを言い始めたら、その先も分かると思ってた」

レオンは椅子へ腰を下ろした。

「最後まで聞かなかったこともある?」

「ある」

セレスティアは両腕へ目を落とした。

「皇帝も、知ってる人だと思ってた」

「思ってたのと違った?」

「うん。違うところがあった」

レオンは、最初に部屋へ入ってきた皇帝の姿を思い出した。

椅子へ座る前に、セレスティアへ断っていた。

セレスティアが顔を上げる。

「今のミレアは、何を知ってるんだろう」

「戻ってること?」

「それも。世界が終わることも」

彼女は少し考えた。

「私に世界を救えって、何を知って頼んだのか。それを聞きたい」

レオンは頷いた。

「俺も、一緒に聞いてていい?」

「来るでしょ」

「神様のところまで入っていいのかと思って」

「ミレアに聞く」

「会ってから?」

「うん」

レオンは少し笑った。

「じゃあ、そこまでは一緒に行こう」

*

帝都を離れる朝、レオンは広場へ寄った。

配る水の量は減っていた。

帰れる人が増えたのだという。

杯を運んでいた少年が、彼を見つけて足を止めた。

「今日、出るんだっけ」

「うん」

「そっか」

少年は籠を抱え直した。

レオンはいつもの置き場所へ目を向けた。

水差しも、洗った杯も、すでに並べられていた。

「じゃあ、行ってくる」

「気をつけて」

レオンは頷いた。

皇帝とは、前日のうちに別れを告げていた。

「また来る」

セレスティアが言うと、皇帝は頷いた。

「先に知らせてくれ」

「ちゃんと会わせて」

「都合はつける。だから、門から来い」

セレスティアがレオンを見た。

「俺は何も言ってないぞ」

皇帝は二人を見ていたが、理由は説明しなかった。

最後に、彼女の両腕へ目を落とす。

「治してこい」

セレスティアは頷いた。

主任と若い技師にも、帰りに挨拶をした。

二人とも、まだ炉へ戻る許可は出ていないらしかった。

「お前も、まず腕を治せ」

主任にそう言われ、セレスティアは「そっちもね」と返していた。

馬車へ戻ると、ケネスが荷物を載せていた。

レイモンは御者と道を確認している。

セレスティアの席には、腕を置くためのクッションが用意されていた。

「大げさ」

彼女は言ったが、レオンが位置を直す間、おとなしく待っていた。

「今度は勝手に抜け出すなよ」

ケネスが言った。

レオンは顔を上げた。

「俺に言ってます?」

「ほかに誰がいる」

「今回はセラかと」

「二人ともだ」

セレスティアが小さく笑った。

馬車が動き始めた。

南区へ続く通りには、まだ瓦礫が積まれていた。

店の戸を開ける者がいる。

止まった車両の脇を、荷車が通っていく。

レオンは隣へ腰を下ろした。

「皇帝と、仲良くなれた?」

「まだ」

「でも、また話せるな」

「うん」

セレスティアは少し考えた。

「来てよかった」

レオンも頷いた。

馬車が石畳の継ぎ目を越えた。

彼はクッションを押さえ、セレスティアの顔を確かめた。

門へ近づくにつれ、車輪の音が大きく響いた。

「レオン」

「ん?」

「ミレアが話してるときも、分からなかったら聞いて」

「途中でも?」

「うん」

レオンは頷いた。

「セラも、俺が変なこと聞いてたら言ってくれ」

「言うよ」

「そこは迷わないんだな」

セレスティアが笑った。

馬車は門を抜け、聖都へ続く道へ進んだ。


皆様ここまで読んでいただきありがとうございます。

拙い文章ではありますがお楽しみいただけたでしょうか?

「面白い!」「続き読みたい!」など思った方は、ぜひブックマーク、評価、いいねをよろしくお願いします。

作者のやる気が漲ります!


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