皇帝は勇者を嫌っている 後編
翌朝、レオンは匙を持ったまま、寝台の上のセレスティアを見ていた。
「熱い?」
「もう少し」
「さっきもそう言ってたぞ」
「熱いものは熱い」
レオンは匙を器へ戻した。
両腕には、指の付け根から肘の上まで包帯が巻かれている。
傷は見えなくなった。それでも、身体を起こすたびにセレスティアの眉間へ寄る皺は、昨夜から変わらなかった。
寝台へ移れば、少しは安心できると思っていた。
実際には、眠っている間も呼吸を確かめ、彼女が動けば目を覚ました。
「レオンも食べた?」
「これが終わったら」
「先に食べれば」
「待ってる間に、自分でやろうとするだろ」
セレスティアが視線を逸らす。
レオンは粥をすくい直した。
息を吹きかけてから、口元へ運ぶ。
今度は、彼女も何も言わずに食べた。
窓の外では、朝から荷車が行き来していた。
広場に残った人々へ配る水や食料を運んでいるのだと、この建物の女主人が教えてくれた。
食事を終えたら手伝いに行こうと思っていた。
だが、器を持つ腕が重かった。
指先にも、まだ力が入りにくい。
扉が叩かれた。
ケネスが顔を出す。
いつもより背筋が伸びていた。
「セレスティア殿。面会だ」
「また聞き取り?」
「いや」
ケネスは廊下を振り返った。
「陛下がお見えになっている」
レオンは匙を器へ落とした。
*
入ってきた男は、レオンが想像していた皇帝とは違っていた。
冠も長い外套もない。
短く切った黒髪に、軍服に似た簡素な上着。袖口の刺繍と、腰の剣の飾りが目についた。
「そのままでいい」
立ち上がりかけたレオンを制し、男は寝台へ目を向けた。
皇帝アレクシス五世。
後ろには官吏と近衛騎士がいたが、皇帝は廊下で待つよう告げた。
扉はわずかに開けられたままだった。
セレスティアは、その顔を見つめていた。
「……会えた」
「謁見を願い出ていたそうだな」
「うん」
「先にこちらから、礼を言いに来ることになった」
皇帝は寝台へ近づき、両腕の包帯を見た。
「痛むか」
「かなり」
「治療者から聞いた。必要なものがあれば申し出てくれ」
レオンは頭を下げた。
「主任たちは?」
セレスティアが尋ねる。
「二人とも治療を受けている。若い技師の方は、炉へ戻ると言い張っているらしい」
「歩けるの?」
「医師にも同じことを聞かれていた」
セレスティアの口元が少し緩んだ。
皇帝は椅子へ手を掛けた。
「座っても?」
「うん」
腰を下ろし、彼女へ向き直る。
「君が来なければ、被害はさらに広がっていたと報告を受けた。礼を言う」
「私だけじゃ止められなかった」
「あの二人にも伝えた」
皇帝は卓の器へ目を落とした。
「食事の途中だったな」
「少し冷ましてたんです」
レオンが答えると、皇帝は頷いた。
「従者の君も、昨夜から付き添っていたのか」
「従者じゃない」
レオンが返事をするより先に、セレスティアが言った。
皇帝が彼女を見る。
「……それは失礼した」
「幼馴染」
「そうか」
皇帝はレオンへ向き直った。
「君も、休めているか」
「あ、はい。少しは」
セレスティアがこちらを見た。
レオンは器を卓の端へ寄せた。
「あの」
皇帝の目が戻ってくる。
話しかけてから、聞いてもいいものか迷った。
それでも、レオンは続けた。
「昨日、広場にいた人たちは。その後、どうなったんでしょう」
皇帝は彼を見た。
「そうか。君も救護を手伝ってくれたと聞いている。ありがとう」
レオンは小さく頭を下げた。
「帰宅できた者もいる。治療が必要な者は、ここや近隣の施設で手当てを続けている」
皇帝は少し間を置いた。
「ただ、運び込まれた後で亡くなった者もいる」
レオンは頷きかけて、止まった。
板に載せて運んだ男。
肩を貸した男。
水を飲むために、身体を起こしてくれと頼んできた女。
名前は、ほとんど聞いていなかった。
「気になる者がいるのか」
「……何人か。でも、名前が分からなくて」
「特徴を覚えているなら、係の者に聞いてみるといい。分かる場合もある」
皇帝は廊下へ目を向けた。
ケネスが短く頷いた。
「ありがとうございます」
レオンは器の中へ目を落とした。
セレスティアも、しばらく何も言わなかった。
*
「炉は、もう大丈夫?」
セレスティアが尋ねた。
「停止している。近づける場所から調べているところだ」
「下も?」
「まだ時間がかかるそうだ。主任は、あそこへ人が入ったこと自体、信じ難いと言っていた」
レオンは彼女を見た。
昨夜、何があったのか尋ねても、セレスティアは「止まった」としか言わなかった。
その先を聞けずにいた。
皇帝が続ける。
「君は、炉の仕組みを知らなかったのだな」
「知らない。魔力が出てくるところを抑えた。設備は、二人が動かしてくれた」
「途中から返事がなくなったそうだ」
「喋る余裕がなかった」
皇帝の視線が両腕へ落ちた。
「一度に抑えると、別のところから噴き出す。少しずつ動かしてたら、自分の中までうまく回せなくなった」
包帯の端から覗く指が曲がりかけ、止まる。
レオンは杯を取った。
「水、飲むか」
彼女が頷いたので、口元へ運ぶ。
皇帝は飲み終わるまで待っていた。
「ニーニットに教わったと聞いたが」
「うん。魔力の使い方を」
「弟子を取ったとは聞いていなかった。いつ頃だ」
セレスティアは口を開きかけた。
少し考えてから、レオンを見る。
彼にも、どう答えればいいかは分からなかった。
「……説明が長くなる」
「今は無理をしなくていい。本人が戻れば、君が来たことを伝えておこう」
「たぶん、私のことは知らない」
「教わったのではないのか」
セレスティアは頷いた。
皇帝はしばらく待ったが、彼女は続きを話さなかった。
「その話は、また聞こう」
皇帝は寝台脇の薬瓶へ目を向けた。
「教会にも治療を頼んでいる。ここでできる処置には限りがあるそうだ」
「自分でも治せる」
「セラ」
レオンが口を挟んだ。
二人の目がこちらへ向く。
皇帝の話を遮ったことに気づき、喉が詰まった。
それでも、続けた。
「治してもらえるなら、頼もう。今も痛いんだろ」
セレスティアは包帯へ目を落とした。
「……うん」
皇帝はその返事を聞いてから、椅子へ置いていた手を動かした。
「では、食事を続けてくれ。長く邪魔をするつもりはなかった」
「もう少し、話していい?」
セレスティアが言った。
「会いたかったのは、そのためだから」
皇帝は手を止めた。
「謁見を求めた件か」
「うん」
「何を話したかった」
「あなたと仲良くなりたかった」
皇帝は返事をしなかった。
セレスティアは真面目な顔をしていた。
レオンには聞き慣れた言葉だったが、初めて聞く相手には、何の話か分からないのかもしれなかった。
「私と?」
「うん」
「何のために」
「王国と戦争してほしくないから」
皇帝の表情が変わった。
「誰から、その話を聞いた」
「誰からでもない」
「昨日の事件について、何か知っているのか」
「爆発は初めて見た。でも、戦争は知ってる」
皇帝は彼女を見たまま、背を椅子へ預けた。
「ニーニットのことも、それと同じ。今のニーニットには教わってない」
「今の、とは」
「前の周回」
セレスティアがレオンを見た。
彼は小さく頷いた。
帝国へ来たのは、その話をするためだった。
「私、何度も同じところから生き直してる」
皇帝の眉が寄った。
「世界が終わったり、私が死んだりすると、同じ春に戻る。前のことを覚えたまま」
「生き直す?」
「今まで百二回。今回は百三回目」
皇帝の目がレオンへ向いた。
レオンは口を開かなかった。
自分が説明しても、聞いたことを繰り返すだけになる。
セレスティアは、自分が覚えていることを話した。
村を出たこと。
王国や教会で出会った人々と、世界を救おうとしたこと。
魔王を倒したことも、戦争を止めたこともあった。
それでも、また同じ春へ戻った。
皇帝は途中で何度か質問した。
いつの春なのか。
戻る前に持っていたものはどうなるのか。
ほかに覚えている者はいるのか。
セレスティアは、分からないことには分からないと答えた。
「では、ニーニットも君を覚えていない」
「今は、まだ会ってないから」
「君だけが、教わったことを覚えているのか」
「うん」
皇帝は口元へ手を当てた。
セレスティアは少し待ってから、続きを話した。
「帝国とも戦った」
「王国の側でか」
「教会と一緒だったこともある」
「そのときも、私が皇帝だった?」
「そう」
「どうなった」
セレスティアは皇帝を見た。
「あなたを殺したことがある」
皇帝の手が口元から離れた。
椅子が軋んだ。
廊下で足音がする。
皇帝は扉へ顔を向けた。
「呼ぶまで待て」
足音が止まった。
レオンは、セレスティアと皇帝の顔を交互に見た。
過去に帝国と戦ったことは聞いていた。
だが、目の前にいる人へ、それを話す場面は想像していなかった。
皇帝が尋ねた。
「それを聞いて、私がどう思うと考えた」
セレスティアは答えなかった。
「君の話を、私は確かめられない。だが、自分を殺したと言われて、平然と聞けると思わないでほしい」
彼女の視線が落ちた。
「……隠したくなかった」
皇帝は肘掛けへ手を置いた。
指が、ゆっくりと曲がる。
誰も話さなかった。
レオンは何か言おうとした。
けれど、どう言えばいいのか分からなかった。
セラは悪くない。
そう言うのは簡単だった。
だが、何があったのかを、自分は見ていない。
「帝国へ行こうって言ったのは、セラです」
皇帝の目が彼へ向いた。
「皇帝と仲良くなるんだって、村を出てから言ってました。俺には、どうやって会うつもりなのかも分からなかったんですけど」
レオンは膝の上の手を握った。
「今のセラが、そのために来たのは知っています」
皇帝は彼を見ていた。
「君も、その過去を覚えているのか」
「いえ。聞いただけです」
「信じている?」
「はい」
今度は、すぐに答えた。
皇帝は窓の方を見た。
外では誰かが人を呼んでいた。
寝台へ向き直るまで、少し時間があった。
「なぜ、私と戦った」
「帝国が王国へ攻めてきたから。止めないといけないと思った」
「それは、君が決めたことか」
セレスティアは少し間を置いた。
「うん」
皇帝は彼女を見ていた。
「そのときの私が何を考えていたかは、聞いたのか」
「聞いたこともある。でも、戦ってからだった」
セレスティアは包帯へ目を落とした。
「いつも王国にいた。帝国が攻めてきたら戦った。攻めてくる前に、どうにかしようとしたこともある」
皇帝の口元が硬くなった。
「でも、戦争が始まる前に、何でそうするのか、聞きに来たことはなかった」
彼女は顔を上げた。
「今回は、王国にも教会にも行ってない。レオンと、今までやらなかったことをしてる」
皇帝は二人を見た。
やがて、肘掛けから手を離した。
「君の話を、今ここで信じろと言われても無理だ」
「うん」
皇帝は彼女の腕へ目を落とした。
「ただ、ニーニットの技を扱い、あの炉を止めたという報告は受けている。君の説明を、聞かなかったことにもできん」
セレスティアは黙っていた。
「今の私が何を考えているかなら、話せる」
彼女は小さく頷いた。
*
「王国の土地が欲しいの?」
皇帝は眉を寄せた。
「戦争をしてまで欲しいとは思わん」
「国が大きくなるのに」
「守る場所も増える。役人を置き、道を維持し、作物が採れなければ食わせねばならん」
セレスティアは黙って聞いていた。
「王国を併呑すれば、魔族領との境も帝国が守ることになる。今ある国境だけでも兵が要る」
「交易してる方がいい?」
「そうだ。穀物を買い、こちらの品を売る。土地を奪わなくてもできる」
レオンは銅灯亭の主人を思い出した。
工房帰りの客が来るから、夜も忙しいと話していた。
その工房は、今は止まっている。
「王国も、そう思ってる?」
セレスティアが聞いた。
「そう考える者はいる。帝国の品に商売を奪われた者なら、違うことを考えるだろう」
「それで、争いになる?」
「争いにはなる。だが、商売で損をした者が、皆、戦争を望むわけではない」
セレスティアは頷いた。
「前のあなたが軍を出した理由は、帝都への破壊工作だった」
皇帝の身体が前へ傾いた。
「どこが襲われた」
「分からない」
「被害は」
「それも。王国へ来た声明を聞いただけだから」
彼女の声が途切れた。
「何度も工作があって、帝国の人が死んだ。だから、国を守るために軍を出すって」
皇帝は黙っていた。
「王国は、やってないって言ってた。侵略の口実だって言う人もいた」
レオンはセレスティアの顔を見た。
彼女は窓の向こうを見ていた。
外では男たちが荷車を押していた。
一人が肩を押さえて立ち止まり、別の男が代わる。
「……こういう人たちが、前にも」
セレスティアの言葉は、そこで止まった。
皇帝も続きを促さなかった。
やがて、彼女が顔を戻す。
「今回のことも、王国がやったって言われてる?」
「そういう情報は上がっている」
「本当に?」
「まだ分からん。王国商人の名義で納められた品はある。だが、それだけでは決められない」
皇帝は一度言葉を切った。
「事故なのか、誰かが手を加えたのかも含めて、調べている」
「王国がやっていたら?」
「次の攻撃を防ぐために、必要なら軍を使う」
セレスティアは皇帝を見た。
「軍を出したら、王国も集める」
「ああ」
「王国では、帝国が攻めてきたって言われる。村の人も兵になる。国を守るためだって」
レオンは膝の上へ目を落とした。
村でその話を聞いたら、自分はどう思っただろう。
帝都で何があったか知らないまま、セラと同じ側に立ったかもしれない。
だが、今は広場で会った人たちの顔が浮かぶ。
「国境だけじゃ終わらなかった」
セレスティアの声がした。
「兵が食べ物を持っていくから、村でも人が死んだ。帝国の兵も、補給が来なくて倒れてた」
皇帝は口を閉じた。
「あなたが、そこまでしたいと思ってなくても」
しばらくして、皇帝が尋ねた。
「覚えている場所はあるか。最初に戦いになった町などだ」
セレスティアが地名を挙げた。
皇帝は扉の外へ声を掛け、紙と筆記具を持ってこさせた。
官吏が卓へ置く。
「川があって、その北側を通った」
「町はこちらか」
皇帝は白紙へ線を引き、脇に印をつけた。
「反対。橋を渡ってから見えた」
「こうか」
「うん。その先に丘があった」
皇帝が描き足す。
セレスティアは紙を覗き込み、少し首を傾けた。
「もっと離れてたかもしれない」
「そこは、そのままでいい」
皇帝は丘の印の脇へ短く書き添えた。
レオンも紙を見た。
川と橋と町。線と丸だけの、簡単な絵だった。
「そこに住んでる人には、知らせるんですか」
皇帝が顔を上げた。
声を出してから、レオンは背筋を伸ばした。
「もし、兵を動かすことになったら。昨日も、どこへ逃げたらいいか分からない人がいたので」
皇帝は紙へ目を戻した。
「国境の領主や守備隊を通じて知らせる。退避先や、移動に使う道も定めている」
「そうですか」
「だが、知らせれば全員がすぐ動けるわけではない。病人もいれば、家畜や畑を置いていけない者もいる」
レオンは、広場で何度も工房へ戻ろうとしていた男を思い出した。
「……はい」
皇帝は略図を官吏へ渡した。
「細かな話は、君の身体が落ち着いてからにしよう」
*
処置の時間が来ると、皇帝は立ち上がった。
「長居をした」
官吏が書類をまとめる。
セレスティアは皇帝を見た。
「また、話せる?」
皇帝は少し間を置いた。
「聞きたいことは残っている」
それだけ言って、扉へ向かった。
セレスティアは何か言いかけたが、呼び止めなかった。
包帯を巻き直してもらう間、彼女は黙っていた。
終わると、寝台へ身体を預ける。
レオンが冷めた粥を下げようとすると、首を振った。
「まだ食べる」
「冷たいぞ」
「熱くないからいい」
レオンは匙を取った。
二口ほど食べたところで、セレスティアが呟いた。
「嫌われたかな」
「……あの話を聞いた直後だしな」
「話さないと、前と同じになると思った」
レオンは器を見た。
「俺も、どこまで言えばよかったのかは分からない」
「うん」
「でも、また聞くって」
セレスティアは頷いた。
食事を終えると、彼女はすぐに眠った。
レオンは器を持って廊下へ出た。
外から、空いた桶を集める声が聞こえる。
そちらへ足を向けかけ、立ち止まった。
昨夜、膝が折れたときのことを思い出した。
ケネスに言われた言葉も。
器を返してから、女主人へ尋ねた。
「少し、横になれる場所はありますか」
*
数日が過ぎた。
南区の火は消えたが、工房の多くは閉まったままだった。
水路の設備が止まった場所では、人々が桶を持って井戸に並んだ。
銅灯亭の主人は、食材を煮込んだ大鍋を広場へ運んできた。
「工房の連中が戻らなきゃ、うちも商売にならんからね」
そう言いながら、鍋が空になるまで帰らなかった。
レオンも、セレスティアが眠っている間は救護を手伝った。
初めは、呼ばれるたびに立ち上がっていた。
そのうち、水桶が空になる頃や、食事の前に杯が足りなくなることが分かってきた。
あるとき、同じくらいの年頃の少年が、広場の端で立ち尽くしていた。
手伝いに来たが、何をすればいいか分からないのだという。
レオンは、洗い終えた杯の籠を示した。
「これを向こうへ運んでもらえる?」
「全部?」
「二回に分けていいよ。俺も持つから」
少年は籠を抱えた。
レオンも残りを持ち、治療者が行き来する場所を避けて歩いた。
気に掛かっていた負傷者のことも尋ねた。
肩を貸した男は、家族に連れられて帰ったと分かった。
板に載せて運んだ男については、似た怪我の者が多く、誰のことか分からなかった。
レオンは教えてくれた者へ礼を言い、空いた桶を取りに戻った。
その日の午後、教会から来た神官がセレスティアの両腕を診た。
傷の周りへ指をかざし、長く黙ってから、彼女へ顔を向ける。
「ご自身でも修復されていますね」
「少しずつ」
「流れが戻っている箇所もあります。ただ、深く傷んだ部分へ無理に魔力を通せば、また傷が開きます」
神官は包帯を巻き直した。
「本部の高位神官へ紹介状を出します。移動は馬車を使い、腕を休ませてください」
レオンが尋ねた。
「道中、俺にできることはありますか」
神官は彼を見た。
それから、包帯の扱いと、休む間隔について説明した。
レオンは覚えきれないところを、もう一度聞いた。
*
炉の調査では、人の手で細工された跡が見つかった。
異常を抑える仕組みの一部が、働かないようにされていた。
だが、誰が、いつ手を加えたのかは分からなかった。
王国商人の名が記された書類についても、その商会は発行を否定した。
名前を使われたのか、関与を隠しているのか。
調査官は、どちらとも言わなかった。
街では、もっと早く答えが出ていた。
王国がやった。
また狙われる。
軍は何をしている。
水を配っていたレオンにも、その声は聞こえた。
「一度、痛い目を見せなきゃ分からんのだ」
足に添え木を当てた男が言った。
隣の男も頷いていた。
レオンは水差しを持ったまま、一瞬立ち止まった。
痛い目を見るのは誰だろう。
村にいた人々の顔が浮かんだ。
この男の足に怪我をさせた人間を、彼らが知っているとは思えなかった。
「兄ちゃん、水をもらえるか」
呼ばれて、レオンは近づいた。
杯へ注ぐと、男は両手で受け取った。
「助かる。いつも悪いな」
「いえ」
それ以上は言えなかった。
*
二度目に皇帝と会ったのは、皇宮の小さな部屋だった。
セレスティアは寝台を離れられるようになっていたが、両腕はまだ使えなかった。
外套を羽織るのも、馬車へ乗るのも、レオンが手を貸した。
皇帝の卓には、書類が積まれていた。
先日、セレスティアの話を記した紙も、その中にあった。
「王国へ照会を出した。国内の施設も警備を増やしている」
「軍は?」
「国境の警戒を強める。越境は認めていない」
セレスティアは皇帝を見た。
「攻めろって言われてる?」
「ああ。第五騎士団からも、出兵を求める意見が上がっている」
「グラウス?」
「知っているのか」
「前に戦った」
皇帝の手が止まった。
「いつの話だ」
セレスティアが答える。
皇帝は手元の記録を確かめ、いくつか質問した。
レオンは二人の話を聞いていた。
同じ人物の名が出ても、今その人が何を考えているかまでは分からない。
皇帝は、そこを繰り返し確かめていた。
「許可は出していない」
話が一区切りついたところで、皇帝が言った。
「君の話も預かる。ただし、過去にそうだったという理由だけで、今のグラウスの意図を決めることはしない」
「うん」
セレスティアは頷いた。
「何か分かったら、私にも知らせて」
「事件についてか」
「今回のことを知らないままには、したくない」
皇帝は少し考えた。
「君も、思い出したことがあれば知らせてほしい。曖昧なところは、そのままで構わん」
「分かった」
官吏が、知らせを受け取れる場所を尋ねた。
レオンは、ヴァルターとの連絡にも使っている商会の名を伝えた。
街の名も添えると、官吏が書き留めた。
「教会本部へ向かうそうだな」
皇帝が言った。
「腕を治してもらう」
「馬車と旅費はこちらで用意する。護衛の二人にも、引き続き同行させよう」
レオンは頭を下げた。
セレスティアは皇帝を見ていた。
「私を、そのまま行かせていいの?」
「治療を遅らせてまで、ここに留める理由はない」
「私が話したことは」
「まだ、確かめている」
皇帝は書類を閉じた。
「私は勇者を好いてはいない。君の判断を、そのまま帝国の判断にする気もない」
セレスティアは黙っていた。
「だが、君に救われたことは分かっている。治療の手配は、その礼だ」
彼女は膝の上の腕へ目を落とし、小さく頷いた。
皇帝は官吏へ書類を渡した。
官吏が部屋を出ると、改めてセレスティアを見る。
「天秤の神ミレアとは、話したことがあるのか」
「ある」
「君が戻るという話も?」
「ミレアには、話したことがある」
「なら、今回も会ってはどうだ」
セレスティアの顔が曇った。
「何度も聞いたよ。世界を救うにはどうしたらいいか」
「答えは」
「言われたことをやったこともある。でも、終わった」
皇帝は黙った。
「聞いてないわけじゃない」
「そうか」
それ以上は勧めなかった。
少しして、机の端から別の紙を取る。
「治療の件はこちらからも伝える。神殿騎士たちには、君が向かうことを知らせていいか」
「今度は、無理に連れていこうとしない?」
皇帝は彼女を見た。
「街道での件は、ロ=マジクから報告を受けている。教会の捜索に協力するために付けた隊だ。強制して連行しろとは命じていない」
「でも、道を塞いだ」
「その判断も含めて確認している。今回は君自身が行くと伝える。治療中であることもな」
「わかった」
*
帰りの馬車では、しばらく二人とも黙っていた。
石畳の継ぎ目を越えるたび、セレスティアの肩がわずかに動く。
レオンが腕の下の布を直すと、彼女は小さく礼を言った。
窓の外を、空の荷車が通り過ぎた。
「広場でさ」
レオンが口を開いた。
「王国を攻めた方がいいって、言ってる人がいた」
セレスティアが彼を見る。
「足を怪我してる人。何度か水を渡したんだけど、いつも礼を言ってくれるんだ」
彼女は黙って聞いていた。
「俺、王国から来たって言えなかった」
「言わなくていいよ」
「うん。でも、何か言いたかった」
レオンは自分の手を見た。
「俺の村の人は、何もしてないって言いかけた。でも、炉に細工したやつのことなんて、俺も知らないだろ」
セレスティアが頷いた。
「だから、水を渡して終わった」
「……そっか」
馬車が角を曲がった。
しばらくして、セレスティアが言った。
「私も、王国ではそういう話を聞いてた」
「帝国を攻めた方がいいって?」
「攻めてこられる前に、止めた方がいいって。実際、攻めてきたから」
レオンは彼女を見た。
「帝都でも、同じこと言ってたんだね」
セレスティアは窓へ顔を戻した。
「今回、初めて聞いた」
レオンも外を見た。
建物の壁に梯子が掛けられていた。
屋根の上で作業をしていた男が、下の者へ手を振っている。
少しして、セレスティアが尋ねた。
「その人、まだ広場にいる?」
「たぶん」
「明日も行く?」
「うん。水は要るから」
セレスティアは頷いた。
*
療養先へ戻ると、教会への紹介状が届いていた。
レオンは神官から受け取った薬と一緒に、旅の荷物へ入れた。
湿らないよう布で包み、取り出しやすい場所へ収める。
セレスティアは椅子に座り、その様子を見ていた。
「神様とは、会うのか」
レオンが尋ねた。
「ミレア?」
「うん」
「会えるなら」
「聞くことは、もう聞いた?」
「何度も」
レオンは頷いた。
それから、紹介状の紐を結びながら尋ねた。
「向こうも覚えてるのか?」
「何を」
「前にセラと話したこと」
返事がなかった。
レオンが顔を上げると、セレスティアは考え込んでいた。
「……分からない」
「そっか」
彼は紹介状をしまった。
セレスティアは窓の方へ顔を向けた。
しばらくして、ぽつりと言う。
「私は覚えてたから」
「うん」
「同じことを言い始めたら、その先も分かると思ってた」
レオンは椅子へ腰を下ろした。
「最後まで聞かなかったこともある?」
「ある」
セレスティアは両腕へ目を落とした。
「皇帝も、知ってる人だと思ってた」
「思ってたのと違った?」
「うん。違うところがあった」
レオンは、最初に部屋へ入ってきた皇帝の姿を思い出した。
椅子へ座る前に、セレスティアへ断っていた。
セレスティアが顔を上げる。
「今のミレアは、何を知ってるんだろう」
「戻ってること?」
「それも。世界が終わることも」
彼女は少し考えた。
「私に世界を救えって、何を知って頼んだのか。それを聞きたい」
レオンは頷いた。
「俺も、一緒に聞いてていい?」
「来るでしょ」
「神様のところまで入っていいのかと思って」
「ミレアに聞く」
「会ってから?」
「うん」
レオンは少し笑った。
「じゃあ、そこまでは一緒に行こう」
*
帝都を離れる朝、レオンは広場へ寄った。
配る水の量は減っていた。
帰れる人が増えたのだという。
杯を運んでいた少年が、彼を見つけて足を止めた。
「今日、出るんだっけ」
「うん」
「そっか」
少年は籠を抱え直した。
レオンはいつもの置き場所へ目を向けた。
水差しも、洗った杯も、すでに並べられていた。
「じゃあ、行ってくる」
「気をつけて」
レオンは頷いた。
皇帝とは、前日のうちに別れを告げていた。
「また来る」
セレスティアが言うと、皇帝は頷いた。
「先に知らせてくれ」
「ちゃんと会わせて」
「都合はつける。だから、門から来い」
セレスティアがレオンを見た。
「俺は何も言ってないぞ」
皇帝は二人を見ていたが、理由は説明しなかった。
最後に、彼女の両腕へ目を落とす。
「治してこい」
セレスティアは頷いた。
主任と若い技師にも、帰りに挨拶をした。
二人とも、まだ炉へ戻る許可は出ていないらしかった。
「お前も、まず腕を治せ」
主任にそう言われ、セレスティアは「そっちもね」と返していた。
馬車へ戻ると、ケネスが荷物を載せていた。
レイモンは御者と道を確認している。
セレスティアの席には、腕を置くためのクッションが用意されていた。
「大げさ」
彼女は言ったが、レオンが位置を直す間、おとなしく待っていた。
「今度は勝手に抜け出すなよ」
ケネスが言った。
レオンは顔を上げた。
「俺に言ってます?」
「ほかに誰がいる」
「今回はセラかと」
「二人ともだ」
セレスティアが小さく笑った。
馬車が動き始めた。
南区へ続く通りには、まだ瓦礫が積まれていた。
店の戸を開ける者がいる。
止まった車両の脇を、荷車が通っていく。
レオンは隣へ腰を下ろした。
「皇帝と、仲良くなれた?」
「まだ」
「でも、また話せるな」
「うん」
セレスティアは少し考えた。
「来てよかった」
レオンも頷いた。
馬車が石畳の継ぎ目を越えた。
彼はクッションを押さえ、セレスティアの顔を確かめた。
門へ近づくにつれ、車輪の音が大きく響いた。
「レオン」
「ん?」
「ミレアが話してるときも、分からなかったら聞いて」
「途中でも?」
「うん」
レオンは頷いた。
「セラも、俺が変なこと聞いてたら言ってくれ」
「言うよ」
「そこは迷わないんだな」
セレスティアが笑った。
馬車は門を抜け、聖都へ続く道へ進んだ。
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