皇帝は勇者を嫌っている 中編
帝都ヴァレリア。
旧ヴァレリア王国が東域の三国を併呑して成り立つ帝国の帝都。
帝国領西部に位置し歴史ある町並みと最新鋭の魔導技術の融合した都市。
高い城壁と幾重にも重なる門。
街の中央には皇宮があり、その前には巨大な皇帝像が立っている。
セレスティアとレオンは帝都に入るための検問所前にいた。
レオンが見上げる。
「でかいな。あの像。城壁よりでかいじゃん。誰?」
「今の皇帝のお父さん」
「へー。詳しいのか?」
「帝国だから」
「説明になってない」
「帝国の人は像立てるの好きだから」
「いや、そうじゃなくて」
勇者と従者。と言うよりは、旅行に来た姉弟のような雰囲気で検問の列を待つ二人。
「これ、街に入れるのたぶん夕方だな」
二人は帝都の南西に位置する一番大きな門に並んでいた。列は遥か後方にまで伸びていた。
日は高く、昼の頃合いを過ぎたあたり。
最後列を視認することはできないが、確かに野営の支度をしている様子も見られた。
「ケネスさん、レイモンさん」
レオンはダメもとで護衛として同行することになった帝国第四騎士団の二人に声をかける。
「軍関係者ってことでどうにかなったりは」
「「しないな」」
「ははは…そうですよね」
セレスティアはやれやれといった面持ちでレオンに耳打ちした。
「北門は比較的守りが手薄」
「手薄ってなんだよ」
「昔の話」
「分かってて言ってるだろ」
「気になる?」
「…ちょっとな」
そうしてレオンはセレスティア率いる王国軍が帝都を陥落させた周回の話を聞いた。
山越えの途中で岩竜に出くわしたあたりで前方から声が飛んだ。
「次。そこの二人」
ようやく入れる。
そう思って進んだところで、衛兵が槍を横たえた。
「どうしてこうなった」
レオンはセレスティアを見た。
「さあ」
セレスティアもレオンを見た。
後ろでケネスとレイモンが長く息を吐いた。
―――帝都内の宿 銅灯亭
「いやあ、お二人のおかげで助かりました」
レオンは運ばれてきた皿をケネスへ渡した。
焼いた肉の隙間に煮崩れた玉ねぎが詰まっている。
「どうなることかと思いましたよ」
「こっちの台詞だ」
向かいのレイモンが言った。
「門前で帝都の落とし方を話すやつがあるか」
「ですよね」
レオンは隣を見た。
セレスティアは、パンを二つに割っていた。
「セラも」
「昔の話だよ」
「聞いてる方には分からないだろ」
「待てができない幼馴染に気を使ってあげたのに」
「それについてはありがとう」
ケネスが肉へナイフを入れた。
「そういう割に、ずいぶん熱心に聞いていたが」
「……それは、はい」
セレスティアが、割ったパンの片方をレオンの皿へ置いた。
何となく言い返しづらくなった。
宿の名は銅灯亭といった。
大通りから商業区へ一本入ったところにある、三階建ての宿だった。
一階の食事処は、日が落ちてからも賑わっていた。
仕事着の男たちが杯を合わせ、その脇を空いた皿を重ねた給仕が通り抜ける。入口近くの帳場では、女将が客へ鍵を渡していた。
四人が取ったのは三階の並びの三部屋。レオンとセレスティアが一部屋ずつ、護衛二人が残る一部屋を使う。
「明日は、朝食が済んだら外務府だ」
ケネスが言った。
「勝手に外出するなよ」
「買い物もですか」
「声をかけろ。付き合う」
「それ、休む暇ないですね」
「そう思うなら、仕事を増やさないでくれ」
レオンは姿勢を正した。
セレスティアは黙って肉を噛んでいた。
窓の外を明かりのついた車両が通った。
低い振動に卓の上の匙がかすかに鳴る。
レオンが振り向いた時には、窓いっぱいに人の座った横顔が流れていた。
馬はいない。
街へ入ってから、もう三度目だった。それでも目で追ってしまう。
「冷めるよ」
セレスティアが言った。
「分かってる。でも、あれ、夜も走るんだな」
「まだ工房の帰りがあるからな」
汁物の鉢を運んできた店主が答えた。
「昔は暗くなれば店じまいだったんだがね。今じゃ、あれが止まるまでは腹を空かせた客が来る」
「じゃあ、ずっと忙しいんですか」
「女房には、いつ休むんだって言われてるよ」
店主は帳場を見た。
女将は客から受け取った硬貨を数えていた。
「道も明るくなったし、荷も前より届く。うちみたいな店にはありがたい話さ。皇帝陛下様様だ」
ケネスの前にも鉢を置き、店主は別の卓からの呼び声へ振り返った。
レオンは窓の外を見た。
車両が去った後も、通りには人が歩いている。店先の灯りの下で足を止める者もいた。
「……明るいな」
「うん」
セレスティアの返事を聞いて、レオンはようやく匙を取った。
汁物は、まだ熱かった。
翌朝。
こっそりと抜け出して朝市に行こうとしていたレオンをまんまと捕まえたケネスによってレオンはそのまま部屋に押しこまれ缶詰め状態となっていた。
「仕事増やすなって言ったろ?」
「ははは…すみません。今日に限って早く目が覚めたらおいしそうな匂いがしたので。二人を起こすのも悪いかなと」
「そこは抜け出すのが悪いと思ってくれ」
ケネスは扉の脇へ椅子を寄せ、腰を下ろした。
「じゃあ、今から一緒に行きません?」
「行かない」
「すぐそこの店ですよ」
「昨夜、声をかけろと言った。今朝、お前は黙って出ようとした。今日は駄目だ」
「……はい」
レオンは窓辺へ戻った。
開けっ放しの窓から、油の焼ける匂いが入ってくる。
通りの向かいで、店の男が平たい生地を鉄板へ並べていた。焼けたものを二つに折り、紙で包んで客へ渡している。
「あれ、何が入ってるんですか」
「肉と刻んだ豆だ」
「うまいですか」
「うまい」
「……そうですか」
ケネスは椅子の背へ身体を預けた。
通りを荷車が進んできた。
昨夜の車両とは違い、こちらには馬がついている。御者が手綱を引くと、脇道から出てきた子供が走って道を空けた。
その先で、細い柱の上の明かりが消えた。
一つ先も、その先も、順に消えていく。
「今、誰か消しました?」
「街灯か。朝になるとまとめて止める」
「一個ずつじゃなくて?」
「あれだけあるんだぞ。毎朝回っていたら、昼になる」
「うちじゃ、最後に寝る人が灯りを消してました」
レオンは柱の根元を見ようと身を乗り出した。
「落ちるなよ」
「分かってます」
昨夜乗客を運んでいた車両が、今朝も通りを走っていく。
窓の中には、膝に鞄を抱えた者や、目を閉じて揺られている者がいた。
「あれも街灯と同じ仕組みですか」
「動かす仕組みまでは知らん。魔力の供給元は同じだ」
「供給元?」
「南区に魔導炉がある。そこで作った魔力を、工房や街の設備へ送っている」
「魔導炉って、あの大きな建物?」
レオンは、屋根の向こうを指した。
低い建物の間から、太い塔のようなものが二本突き出ていた。
「その奥だ。ここから炉そのものは見えない」
「へえ。あそこから街中に」
「全部ではないがな。水路の設備も、あの炉で動かしている」
「でかい水車みたいなものか」
「そう思っておけばいい。詳しく知りたければ技師に聞け」
ケネスはそこで、口元を少し緩めた。
「見に行くのは駄目だぞ」
「まだ何も言ってません」
「顔に出ている」
レオンは窓枠へ肘を置いた。
朝市の店では、次の生地が鉄板へ並べられていた。
しばらく眺めてから、扉の方を振り返る。
「そういえば、ケネスさんがここにいるってことは、セラのところにはレイモンさんが?」
「いや。階段だ」
「セラは一人?」
「ああ」
「俺だけ、部屋まで見張られるんですか」
「今朝、抜け出そうとしたのは誰だ」
「それは俺ですけど」
レオンは窓から離れ、寝台の端へ座った。
「でも、セラの方が勝手に出そうじゃないですか」
「お前は、セレスティア殿に護衛が必要だと思うか」
「……道には迷わないと思います」
「そういう話ではない」
ケネスは腰の剣へ目を落とした。
「彼女が本気で出ていくつもりなら、俺たち二人で止められるか?」
「無理だと思います」
「俺もそう思う。部屋に張りついて、腕を掴んだところで、取り押さえられるのはこちらだ」
レオンは街道での光景を思い出した。
折れた剣と、傾いた盾。
自分が声を上げた時には、ほとんど終わっていた。
「じゃあ、何かあっても見てるだけですか」
「声はかける。話もする。だが、力で止められるつもりではいない」
ケネスは廊下の物音へ一度耳を向け、それから続けた。
「だから、レイモンとも話した。彼女を追い回すより、お前がどこにいるか分かっている方がいい」
「俺?」
「昨日、受付でお前が書類を書いている間、彼女は何をしていた」
「待ってましたけど」
「部屋の鍵を渡された後は」
「俺が荷物をまとめるのを……」
「そういうことだ」
レオンは隣室との壁を見た。
「俺を閉じ込めておけば、セラも動かないって?」
「必ずとは言わん。ただ、お前がここにいれば、まずここへ戻ってくるだろう。お前が勝手にいなくなれば、今度は彼女まで捜しに出るかもしれん」
ケネスは、窓の外へ顎を向けた。
「朝飯一つで、二人とも見失いたくない」
「……なるほど」
「分かったか」
「俺が思ってたより、仕事増えますね」
「昨夜からそう言っている」
扉が二度、叩かれた。
「ケネス。朝食に下りるぞ」
レイモンの声だった。
その後ろから、セレスティアが顔を出す。
「何してるの」
「説教されてた」
「朝市?」
「何で知ってるんだよ」
「それ以外ない」
セレスティアは廊下へ引っ込んだ。
「行くよ。下もいい匂いしてる」
レオンが立つと、ケネスも椅子を戻した。
一階では、女将が深皿へ豆の煮込みをよそっていた。
焼きたてのパンと卵が並び、レオンは席に着くなりパンへ手を伸ばす。
「こっちもうまそうですね」
「よかったな。外へ出ずに済んで」
ケネスの返事にレイモンは小さく笑った。
食事を終えると四人は銅灯亭を出た。大通りは昨夜よりも人が多かった。
荷を運ぶ者と工房へ向かう者が行き交い、車両が停まるたび、道端に新しい人の流れができた。
セレスティアは迷わず歩いた。
レオンが車両へ目を奪われて足を緩めると、少し先で振り返った。
ケネスは何も言わなかった。
*
「滞在延長の手続きは以上となります。謁見の申請ですが、確認したところ、他件のこともあり、関係する部署による事前確認が必要とのことでございます。ご協力お願いいたします」
外務府の担当官は滞在許可証をレオンに渡した。
「あぁ…分かりました。謁見はいつになりますか?」
「申し訳ありません。こちらではお約束できかねます」
*
「帝国、面倒だわ」
三日目の夕方。宿へ戻るなりレオンが言った。
セレスティアは窓辺に立って内壁の向こうに見える皇宮を眺めていた。
「外務府、騎士団の副団長、情報局、あとどこだっけ?三日も同じ話をする羽目になるとはな」
アルカ村で何があったのか。なぜ王都へ行かなかったのか。
なぜ帝国へ来たのか。国境付近での諍いのこと。衛兵隊からの報告のこと
「さすがに不法侵入者とは仲良くしようとは思ってくれないんじゃないか?」
セレスティアが振り向く。
「まだ何も言ってない」
「だけど、どうやって皇宮に入るか考えてただろ」
「考えてない。思い出してた」
「…その手には乗らんぞ」
「俺は待てができる幼馴染になったんだ」
四日目の夕方、地面が揺れた。
卓の杯が倒れ、窓が鳴る。
少し遅れて低い音が届いた。
セレスティアが窓から飛び出し、逆上がりするように屋根に上った。
南の空に赤い光が噴き上がっていた。
「セラ!」
レオンも窓から身を乗り出して、セレスティアを探す。向かいの宿の客が指さす方を見ると銅灯亭の屋根の上の南側にセレスティアが立っていた。
夕焼けとは違う赤に染まり始める空、巨大な鉄球を打ち付けるような地鳴り、遠くから徐々に押し寄せる喧噪がレオンにも感じられた。
逃げるしかない。どこへ。とにかく遠くへ。
レオンは自分の視野や思考が狭まるのを感じた。
早く逃げないときっと街がパニックになる。
「セラ!」
セレスティアは中空に魔法陣を描き空高くに展開していた。帝都全体を覆うような巨大な魔法陣からは淡い光の波と雪のような光の粒が舞い始めた。
レオンは幻想的なその様子にささくれ立ち始めていた気持ちが静まるのを感じた。
「セラ!」
セレスティアはようやく気づいたのか、気づいていたのかはわからないが軽快な動作で窓から部屋に戻ってきた。
「二人とも広場まで避難してください!」
いつからいたのかケネスが部屋の扉を開け放っていた。
「セラ、さっきのは?」
「心が落ち着く魔法」
「すごいな。助かった。ちょっと落ち着いたわ」
「勇者だから。ね」
「それより。魔導炉」
「分かるのか」
「魔力が暴走して漏れてる」
「どうにかできるか」
「分からない」
「…これが初めて?」
「そう。初めて」
セレスティアは帝都のこの場所で爆発が起きるとは知らなかった。
だが、燃え上がった魔力が次にどうなるかは分かる。
「落ち着いて話してる場合か!早く避難を」
ケネスはレオンの腕を掴んだ。
「行ってくる」
「俺は行かない。お前の足を引っ張るだけになるからな」
「分かった」
「ケネスさんはどうするんですか?」
「俺たちはお前らの護衛としてここにいる。まずは避難するぞ!」
「レオン、気を付けて」
「セラもな」
「おい!」
セレスティアは窓枠を蹴った。
「待て!聞いているのか!」
「ケネスさん!」
「行きましょう。」
ケネスは掴んでいた手を離し、頭を掻いた。
「あーくそ!避難所は南西門前の公共広場だ。離れるなよ」
もう一度地面が揺れ、窓が鳴った。
レオンたちは避難所へと走り出した。
*
セレスティアは屋根伝いに魔導炉のある南区を目指して走っていた。
南区の建物の向こうから、黒い煙が立ち上っていた。
その根元で赤い光が膨らむ。
遅れて鈍い音が響き、近くの屋根から鳥が一斉に飛び立った。
通りを埋めていたのは、工房帰りの人々だった。
煙を振り返りながら走る者もいれば、人波に押され、どちらへ進めばいいのか分からず立ち止まる者もいる。
店先では、主人が戸を閉めかけた手を止め、転んだ子供を抱き起こしていた。
「壁際を歩くな! 中央を空けろ!」
兵の声が飛んだ。二人の男が戸板を担いでくる。
寝かされた人の顔には布が当てられ、その端を付き添う女が押さえていた。
跳び越える路地の幅が広くなり、煙突を備えた建物が増えていく。その先に、魔導炉の大きな屋根が見えた。
建物は爆発によってか片側が崩れ落ち、巨大なマナクリスタルが禍々しい魔力を放っているのがうかがえた。
折れた梁が外壁に引っ掛かり、その下から煙が噴き出している。
敷地へ続く道には煉瓦が散り、倒れた荷車の車輪が、まだゆっくり回っていた。
セレスティアは空いた場所へ降りた。
開け放された搬入口から作業着の男が駆け出してくる。腕に抱えた布の中から別の男の足が見えた。二人を通してから、建屋へ入った。
中央にある巨大なマナクリスタルは何層もの足場に囲まれ、屋根近くまで伸びている。青白い結晶の奥を赤い筋が走り、そのたびに下部の設備が低く唸った。
結晶の下には円筒状の炉が据えられていた。そこから伸びる太い管が床を這い、壁際に並ぶ装置へつながっている。管の継ぎ目から漏れる光が、明るくなったり弱まったりしていた。
「もう戻せ!下が保たん!」
「戻したらまた送出側へ流れます!」
「今のままでも保たんだろうが!」
装置の前で男たちが言い合っていた。
若い男がハンドルを握り、年配の男がその脇に並ぶ紋様へ手をかざしている。
紋様が順に灯った。
年配の男が何かを唱えると炉の唸りが一度弱まった。
しかし、すぐに元よりも大きな音が返ってきた。
男は手を引いた。
袖口から細く煙が上がっている。
セレスティアは炉へ顔を向けた。
頬を押す熱とは別に身体の内側を引かれるような感覚があった。指先に魔力を集め、流れを探ろうと手を伸ばす。
その光に、年配の男が振り向いた。
「……ニーニット様?」
煙越しに銀髪を見つめた男が一歩近づいてきた。
「違うよ」
顔が見える距離まで来ると男は足を止めた。
視線がセレスティアの顔から伸ばされた手へ移る。
「おい。そこで何をしてる」
「魔力を」
「何か触ったのか」
「まだ何も」
「まだ?何をするつもりだ!」
ハンドルを握っていた男まで振り向いた。
「誰です」
「知らん。外の兵を呼べ」
「ここ離せません!」
セレスティアは手を下ろした。
「ニーニットなら、止められるの?」
年配の男の眉が寄った。
「なぜ、その名を」
「今、あなたが言ったから」
「それで、ニーニットなら止められるの?」
「今は帝都におられん。そんなことよりもお前は何者だ!」
床が震えた。男は炉を振り返り、操作盤の縁を掴んだ。
「ニーニットがいたら、どうするの?」
「……この炉は、あの方と亡くなったお師匠様が組み上げたものだ。ニーニット様なら炉心の魔力へ直接干渉できるかもしれん」
「そう」
セレスティアは、もう一度炉を見た。
「なら、私にもできる」
「ふざけるな」
男の声が低くなった。
「どこぞの小娘に何ができる」
「炉のことは分からない。魔力の扱い方は、その人に教わった」
「はっ!弟子だと言えば信じると思うか」
ハンドルが軋んだ。
若い男が両足を踏ん張り、身体ごと押さえ込む。
「主任!」
「その位置を保て!」
年配の技師は紋様へ手を戻した。
今度は灯らなかった。手を押しつけるようにして、もう一度唱える。
セレスティアは、その横顔を見た。
「何を止めようとしてるの」
「クリスタルからの抽出だ!」
「止まらない?」
「見れば分かるだろう!」
言い終えるより早く操作盤の奥で何かが弾けた。
技師が顔を庇う。
ハンドルが跳ねた。
若い男の手を振りほどき、勢いよく回る。
床を這う管が大きく揺れた。
継ぎ目から白い光が噴き出し、セレスティアは二人の前へ腕を差し入れた。
展開した魔法陣に光がぶつかった。
逸れた光が壁を削り、砕けた石が降ってきた。
「離れて!」
二人が装置から退く。
セレスティアは片足を引き、魔法陣を支えた。
指先が引かれる。
押し返すだけでは流れの先が別の場所へ移る。角度を変え、裂けた管の口へ光を戻した。
炉の唸りが高くなった。
「長くは持たない」
「……全員、退避だ」
主任と呼ばれた技師が言った。
「下の連中を上げろ。建屋から離れろ!」
「主任は」
「いいから行け!」
若い技師が階段へ駆けていった。
「私が下で抑えたら、そのハンドルは使える?」
主任はセレスティアを見た。
「回すだけならな」
「何をするもの?」
「精錬した魔力を、どれだけ流すか調整する。だが、元が暴れてるんだ。こっちをいくら動かしたところで――」
「じゃあ、元を抑える。流す方はお願い」
「元というのは、炉心だぞ」
「うん?」
技師は、彼女の前に浮かぶ魔法陣を見た。
縁が細かく震えている。その向こうでは、白い光が管の継ぎ目を舐め続けていた。
「ここからでは届かないのか」
「中に入らないと、ちゃんと掴めない」
「あの奔流の中へか?」
セレスティアは頷いた。
「身体ごと消えるぞ。耐えても、自分の魔力を吸い上げられたら終わりだ。生きて戻っても、廃人になりかねん」
「だから、流れを整えてほしい。私だけじゃ設備は動かせない」
技師は口を閉じた。
階段から足音が上がってきた。
若い技師に続き男たちが姿を見せる。一人は顔を伏せ、両側から肩を支えられていた。
「下は全員出ました!」
主任は人数を確かめ、出口を指した。
「そのまま外へ。兵にもっと離れるよう伝えろ」
男たちが通り過ぎる。
若い技師だけが残った。
炉の下で、重いものがずれる音がした。
主任がそちらへ顔を向ける。
セレスティアの魔法陣に、亀裂が入った。
「入口、教えて」
主任は腰の鍵束へ手をかけた。
掴んだまま、彼女を見ている。
「……ニーニット様に教わったというのは、本当なんだな」
「本当。ヘタクソってよく言われたけど」
「は! そりゃ優秀なお弟子様だな!」
主任は腰の鍵束を外し、炉の脇にある階段を指した。
「下りた先に扉がある。設備には触るな。魔力を抑えられたら、こっちで流れを調整する」
「分かった」
鍵を受け取ったセレスティアの頭上で、管の継ぎ目が軋んだ。漏れ出す光を覆う防壁へ手をかざすと、その震えがわずかに収まった。
背後では、若い技師が操作盤と主任を交互に見ていた。
「本当に、やるんですか」
「手動に切り替えろ。送出側はお前が見ろ」
主任も隣の装置へ向かう。その途中で、階段を下りかけたセレスティアを呼び止めた。
「おい、小娘。無理なら、すぐ言え」
「そっちもね」
階段の下では、扉の隙間から白い光が漏れていた。
セレスティアは鍵を差し込んだ。
*
「そっち、もう少し下げて!」
「はい!」
レオンは膝を曲げ、板に載せられた男をゆっくりと地面へ下ろした。
敷かれていた布の端がめくれ、男の足に引っ掛かる。直そうと手を伸ばしたところで、反対側を持っていたケネスに肩を引かれた。
「そこを空けろ」
入れ替わりに女が膝をつき、男の襟元を緩めた。
「声は聞こえる? 名前を言える?」
返事を待つ女の背中を避け、レオンは立ち上がった。
すぐ近くで、また人を呼ぶ声がした。
今度は歩いてきた男だった。連れの肩を借りてはいるが、片足をほとんど地面につけられずにいる。レオンは空いている側へ回り、腕を自分の肩に掛けた。
「こっちです。ゆっくりで大丈夫ですから」
南西門前の公共広場には、次々と人が運ばれてきた。
布を敷く。水を汲む。動けない人の肩を支える。呼ばれて振り向けば、また別の誰かが手を必要としていた。
少し離れた場所では、レイモンが兵士たちと荷車を移動させている。広場の入口を空けなければ、次の負傷者を運び込めないのだという。
何度目かに水桶を持ち上げたとき、中身を足にこぼした。
濡れた靴に構わず歩き出しかけて、取っ手をケネスに奪われる。
「両手で持て。落とすぞ」
「あ、すみません」
言われて初めて、片手で持とうとしていたことに気づいた。
どこかで鈍い音が響いた。広場にいる人々が一斉に顔を上げる。
「そこの水、こっちにも!」
レオンは桶を抱え直し、声のした方へ向かった。
それから、どれくらい経ったのか分からない。
空になった桶を置き、次に呼ばれた方へ立ち上がろうとしたとき、膝が折れた。
手をつく間もなく、尻が地面に落ちる。
「あれ」
もう一度立とうとした。足に力を入れたつもりなのに、身体が持ち上がらなかった。
そこでようやく、自分がひどく息を切らしていることに気づいた。
「座ってろ」
ケネスが屈み、レオンの顔を覗き込んだ。
「でも、あっちで」
「お前が倒れたら、運ぶ人間が増える」
差し出された杯を受け取る。口へ運ぶ途中で水面が揺れ、指を濡らした。
喉を通った水が、妙にうまかった。
飲み干しても、息はすぐには整わなかった。太腿が細かく震えている。背中の服が汗で張りつき、広場を渡る風が冷たかった。
そのとき、入口の方から声が上がった。
「魔導炉の暴走は収まった! ただし、南区へはまだ戻るな! 指示があるまで、ここで待機してくれ!」
レオンは杯を握ったまま顔を上げた。
近くの女が両手で口を覆った。隣にいた老人は、何度も頷いている。誰かがその場に座り込み、深く息を吐いた。
「……止まったんだ」
「ああ」
ケネスも南区の方を見ていた。
気がつけば、地面を伝っていた震えがなくなっていた。
レオンはもう一杯、水をもらった。
今度はゆっくり飲み、しばらく膝に手を置いて座っていた。胸の鼓動が落ち着いてくると、近くで杯を集めている女の姿が目に入った。
「あの。水を渡すのなら、ここでもできますか」
女はレオンを見て、その脇に空の杯を重ねた。
「じゃあ、お願い。飲み終わったものは、そっちの桶へ入れてもらって」
「はい」
ケネスが水差しを運んできた。
「それを持って歩くなよ」
「分かってますって」
受け取ろうとした腕は、まだ少し震えていた。
*
袖の焦げた男が水を受け取り、半分ほど一息に飲んだ。
その胸元には、同じ形の金属の留め具が二つ並んでいた。さっき運ばれてきた男も、よく似た作業着を着ていた。
「魔導炉で働いている方ですか」
「ああ」
男は空いた木箱に腰を下ろした。顔についた煤が、汗で筋になっている。
「君も、あそこから?」
「いえ。俺は宿にいて……知り合いが、炉に向かったんです」
男の手が止まった。
「銀色の髪の、女の子なんですけど」
「……あの娘か」
レオンは水差しを置いた。
「会ったんですか」
「少しだけな」
「何が起きていたんですか。爆発したっていうのは聞いたんですけど」
男は杯の底を見つめた。
「クリスタルから出る魔力が、抑えられなくなった。調整しても、すぐにまた跳ね上がる。俺たちが逃げる頃には、管からも噴き出してた」
そこで言葉を切り、広場の入口へ目を向ける。
「主任と、若いのが一人残った。あの娘は、下へ行くと言ってたな」
「下?」
「炉心だ」
男は答えてから、レオンの顔を見た。
「普通は、人が入るもんじゃない。止めるための設備が先に壊れるような魔力だ。身体で受けたら……」
男は口を閉じた。
レオンの視線に気づいたのか、慌てて言葉を足す。
「いや、あの娘は違うのかもしれん。噴き出した魔力をその場で防いでた。主任もそれを見てたしな」
「……すごいんです。あいつ」
そう答えると、男は少しだけ頷いた。
「悪ぃ…」
レオンは、何も言えなかった。
炉が止まった。
だから、セラも戻ってくる。
さっきまでは、その二つが当然のようにつながっていた。
「もう一杯、もらえるか」
「あ、はい」
杯へ水を注いだ。縁まで満たしかけ、慌てて水差しを起こす。男は両手で受け取り、今度は少しずつ飲んだ。レオンも広場の入口を見た。セラなら大丈夫だ。何度もそう思ってきた。けれど、主任たちの姿を探す男の横顔を見ていると、その言葉を口にすることができなかった。
どうか、無事に戻ってきてほしい。
次の杯を取るまでの短い間、レオンはそれだけを祈った。
*
水差しを二度取り替えた頃には、広場へ入ってくる人の数も少なくなっていた。
治療を終えた者が家族と寄り添い、兵士に帰宅できる道を尋ねている。まだ忙しく動き回っている者もいたが、先ほどまで絶え間なく飛んでいた呼び声は途切れるようになっていた。
レオンは最後の杯を渡し、強張った指を開いた。
「少し休め」
ケネスに言われ、頷く。
そのとき、入口で兵士が腕を振った。
「通してくれ! 三人いる!」
レオンが顔を上げるより先に、隣の作業員が立ち上がった。
「主任!」
担架の脇を作業着の若い男が肩を支えられながら歩いていた。片足を引きずり、額に当てた布を押さえている。
もう一人の男は担架に乗せられ、何かを言おうとして咳き込んでいた。
そして、その後ろから運ばれてきた担架に、銀色の髪が見えた。
レオンは立ち上がった。
足がもつれた。ケネスに腕を掴まれ、どうにか踏みとどまる。
「セラ」
声は、担架を運ぶ男たちには届かなかった。
近づくにつれ、顔が見えた。煤で汚れ、目は閉じている。
その両腕を見て、レオンは足を止めた。
袖が裂けていた。
露わになった腕には、手の甲から肘の方まで、不規則な傷が走っている。赤黒く変色した箇所がいくつも重なり、手首の辺りでは一つの大きな傷になっていた。
「こっちへ。ゆっくり下ろして」
治療者の声に、レオンも屈みかけた。
さっきまでなら、どこへ手を添えればいいか分かった。布を引くことも、身体を支えることもできた。
なのに、今は腕に触れていいのかさえ分からなかった。
伸ばしかけた手が宙で止まる。
「そこ、空けてください」
「あ……すみません」
膝を引いた拍子に、近くの杯を倒した。
拾おうとして、今度はケネスに肩を押さえられる。
「レオン。まず、座れ」
担架が下ろされた。
その振動に、セレスティアの眉が寄った。
「……セラ?」
瞼がわずかに開く。視線が動き、レオンのところで止まった。
「レオン」
それだけの声を聞いて、詰めていた息が漏れた。
「お、おう。いる。ここにいる」
治療者が両腕を確かめ、表情を変えた。
「魔力痕……これは深いな」
「治るんですか」
レオンの問いに、治療者は傷から目を離さず頷いた。
「治せる傷です。ただ、ここで完全に治すのは難しい。高位の神官に診てもらう必要があります」
傷の上へかざした手に、淡い光が灯った。
セレスティアの指が動きかけ、止まる。その唇から短く息が漏れた。
「動かさないで。魔力の通りも、かなり悪くなっています」
「……内側から、少しずつやってる」
治療者が顔を上げた。
セレスティアは目を閉じたまま、もう一度息を吐く。
「時間、かかるけど」
「分かりました。こちらは、まず痛みを和らげます」
レオンは彼女の顔を見ていた。
自分で治せる。
そう聞いても、両腕を見たときの感覚は消えなかった。
セレスティアが、また少し目を開ける。
「水、ある?」
「ああ。あるよ」
レオンは振り返った。
水差しと杯が目の前に差し出される。ケネスが持ってきてくれていた。
受け取って水を注ぎ、セレスティアへ渡そうとする。
彼女の指がわずかに動いたところで、レオンは杯を引いた。
「俺が持つよ」
後頭部を支え、ゆっくりと杯を口元へ運んだ。
セレスティアは少しだけ水を飲んだ。途中で唇を離したので、傾きを戻して待つ。
もう一口飲んでから、彼女は小さく頷いた。
「ありがと」
杯を置いても、レオンはその場を動かなかった。
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