切れずに、残る
【なごり】
波残りが転じた言葉。余波。名残。
風が止んでも、水面だけが遅れて揺れること。
谷見まつりの会場は、朝から慌ただしかった。
旧役場前の駐車場には、谷見町と書かれた簡易テントが並んでいる。
法被を着た公民館や自治会の人、首からスタッフ証を下げた志島大の学生らが行き来し、まだ始まる前の会場には、落ち着かない熱が満ちていた。
広場の脇では、屋台の準備も進んでいる。焼きそば、フランクフルト、かき氷、地元野菜の販売、子ども向けのくじ引き。
その一角で、ピンクののぼりが風に揺れていた。プリントされたきりりちゃんは、今日もにこにこと笑っている。
そのそばには、見慣れた背の低い看板が立っていた。
──『名残切り』。
受付の机には、糸と短冊、はさみが並ぶ。奥には透明な箱が設置され、そのそばで発電機が低く唸っていた。
仕組み自体は、去年までと大きく変わらない。
参加者は入り口で、手首に糸をゆるく結ぶ。短冊に「断ち切りたいもの」を書き、それをはさみで細かく切って、透明な箱の中へ入れ、紙片を送風機で舞い上がらせる。
けれど、今年は受付テントの端に、小さな展示スペースを設けてもらった。
白い布を敷いた机のうえに、借りてきた一本桜の写真が立て掛けてある。
写真の横には、短い説明文も添えた。
霧沢に伝わる娘の話。
石碑と一本桜のこと。
今も有志の人たちが、その場所を手入れしていること。
たった数行の文章だった。
それでも、ただ「悲恋」という言葉で済ませるよりは、霧沢のことが伝わるような気がした。
透明な箱のそばには、白い紙も貼り出されている。
『使用した短冊・糸は、祭り終了後にお焚き上げいたします。』
小さな──それでも確かな更新だと思えた。
背後から声がした。
「陽菜ちゃん。これ、こっちで合ってる?」
振り向くと、香音が段ボールを抱えて立っていた。陽菜は「うん」と答え、机の上に並べていた短冊の束を整える。
「お焚き上げのこと、正式に決まってよかったよね」
段ボールを下ろしながら、香音が言う。
ちょうどそのとき、西村と大輝がテントの脇を通りかかった。聞こえていたらしく、西村がこちらを向いて「ああ」と頷いた。
「昨日、お寺さんと最終確認してきたんだ。終わったら持っていくことになったから。短冊も糸も、まとめて空いた箱に入れといてね」
香音が、積み上がっていた空の段ボールのひとつを引き寄せる。油性ペンで、側面に大きく書き込む。
『お焚き上げ』
丸みのある文字に、どこか気が抜ける。
「じゃ、よろしくね」
そう言うと、西村はほかの学生に呼ばれ、「はいはい」とそちらへ向かっていった。もう面倒そうな顔はしていなかった。
決まった以上は回す。そんな態度に、陽菜は肩の力を抜いた。
「陽菜ちゃん、これ」
大輝がクリアファイルを掲げてみせた。中には、一覧にした投稿が何枚もの紙に収められている。
「印刷、ありがとうございます」
「うん。この箱に入れとくね」
大輝が取り出した紙束を、『お焚き上げ』の箱の中へそっと入れる。
それを見ていた香音が「あ、そうだ」と声を上げた。
「これも投稿しといたらどう? 短冊とか糸は、お焚き上げする予定です、って」
「うん。そうだね」
答えながら陽菜がスマホを取り出すと、香音は少し考えるように首を傾げた。
「あとさ、『#言えないまま』もおさめます、って投稿する?」
近くの発電機の低音が、一瞬だけ重くなった。
机の上の短冊が、その振動に合わせるように、かさりと音を立てて揺れる。
香音が「どうかな」と続けた。大輝はこちらを見たまま、判断を預けるように何も言わなかった。
陽菜は画面を開き、文字を打ち込んだ。
『名残切りで使用した短冊や糸は、祭り終了後にお焚き上げする予定です。』
そこで少し迷ってから、もうひとつ投稿を足す。
『#言えないままも、一緒におさめます。』
投稿ボタンを押す。
たった今打ち込んだ言葉が、公式アカウントの投稿欄に加わった。
陽菜はしばらく画面を見つめる。
別に、これで何かが変わると思っていたわけではない。ただ──ふと、気になって、指がそのままあのアカウントのもとへと動いた。
緑色のプロフィール画像。
断片をいくつも継ぎ合わせたような情報と、輪郭が曖昧になっていくような文面。
相変わらず『#探しています』の投稿はそこに並んでいた。
いくつか投稿を追ってから、陽菜は画面を上へ戻した。
──ない。
声にならなかった。小さく、息だけが漏れた。
緑色のプロフィール画像の下に、いつもならあるはずの『#言えないまま』が見当たらない。
慌てて、今度はインスタを開く。
検索窓に『#言えないまま』を打ち込んだ。
人探しの話題を広げていた学生たちの投稿に、そのタグが勝手に紛れていることがあった。誰かが「娘の呪い」なんて言い出したのも、そのせいだった。
けれど今は、検索しても、それらしい投稿は何も引っかからない。
知らない間に継ぎ足されていたものが、今度は知らない間に抜け落ちたようだった。
「どうしたの?」
香音が覗き込む。陽菜は首を振った。
「ううん。なんでもない」
終わった──とは思わない。
現に、あのアカウントは今もまだ誰かを探し続けている。
『#探しています』の投稿は消えていない。
けれど、なにかが少しだけ。
ほんの少しだけ、おさまったような気がした。
◇
「陽菜ちゃん、スタッフも糸つけとこ。説明しやすいし」
香音に促され、陽菜は手首を差し出した。
白い糸がゆるく二重に巻かれる。結び目が、手首の内側に小さくできた。
「きつくない?」
「うん、大丈夫」
「じゃあ、私のもお願い」
陽菜も香音の手首に同じように糸を巻いた。
スピーカーから祭りの開始を告げる案内が流れる。賑わいが少しずつ増していく。
年配の人たちはテントの下の椅子に腰掛け、知り合いを見つけるたびに声をかけていた。
子どもたちが駆け抜けていき、屋台の前には短い列ができはじめる。
名残切りの受付にも、ぽつぽつと人が来るようになった。
「すみませーん! これ、とれちゃった」
机の向こうから、子どもの声がした。
見ると、手首に巻いた糸が解けてしまったらしい女の子が、困ったようにこちらを見ている。
陽菜は机を回り込み、そちらへ歩み寄った。
「結び直そうね」
細い糸をゆるく巻き、ほどけないように二重に結ぶ。
「ありがとう! 出口で切るんだよね」
「うん。出口でスタッフに声をかけてくださいね」
「はぁい」
女の子は楽しげに返事をして、手首をふるふると揺らした。白い糸が、細い手首の上で軽く跳ねていた。
◇
受付の混雑がひと段落したのは、日が少し傾きはじめたころだった。
西陽と呼ぶにはまだ早い。
それでも日差しの鋭さは薄れ、広場のあちこちで影がのびはじめていた。
名残切りの受付に来る人も、少しずつまばらになってきていた。
それでもやることは尽きない。
糸を結び、説明をし、短冊やはさみを整える。足りなくなったものを補充し、箱に溜まった紙片をまとめる。
ひとつひとつは単純な作業なのに、気づけばずっと動き回っていた。
奥の送風機は、そのあいだ何度も回った。
透明な箱の中で色とりどりの紙片がふわりと舞い上がるたび、子どもたちは歓声を上げ、大人たちはスマホを向けた。
ふと、女性が受付のそばで足を止める。
「へえ、霧沢の桜だって。こんなところあるんだね」
隣にいた子どもが、説明文を途中まで読んで、すぐに透明な箱のほうへ目を戻す。
けれど、その母親らしい人は、もう少しだけ写真を見ていた。
ほんの数秒のことだった。
それでも、足を止めてくれる人がいた。
説明文を読んで、写真を見て、霧沢という場所を知ろうとしてくれる人が。
それだけで、置いてよかったと思えた。
「お疲れ」
聞き覚えのある声がして、陽菜は振り向いた。返事をするのに、一拍遅れた。
「……陽向くん」
近くを通った人を避けるように、陽向が少し肩を引く。それから、改めて陽菜のほうへ向き直った。
「桜の展示、見に来たよ」
──来てくれるとは、思っていなかった。
昨日の夜、連絡をとりあっていたのに、『祭りに来てね』とは言えなかった。
誘わなかったのは、自分なりの遠慮だった。
以前、公民館に「入れない」と言っていた彼を思い出す。
詳しくは聞いていないけれど、きっと、陽向にとって谷見まつりは気軽に来られるところじゃないのだと思っていた。
目を瞬かせる陽菜を見て、陽向が軽く笑って言う。
「また、びっくりしてる」
遅れて嬉しさが広がった。
「来てくれて嬉しい」
「……気になったからね」
そのまま陽向は、受付テントの端に置かれた展示へ目を向ける。
額に入った一本桜の写真を見て、それから横に添えた説明文をしばらく読んでいた。
「読みやすいね」
「いろんな人に、手伝ってもらったの」
「そっか……いいと思う」
「あら。ひょっとして、陽向くん?」
別の声が重なる。土橋だった。飲み物の入った段ボールを抱えたまま、こちらを見て目を細める。
「来てたのね」
その口調はやわらかく、どこか安心したような響きを含んでいた。
陽向が小さく会釈する。
「……お久しぶりです」
その横から、西村も顔を出した。
「あれ? 君は藤山さんのとこの……」
名前を思い出すような間を置いて、西村は陽向を見て「ああ、そうだ」と頷く。
「怪我で陸上、辞めたんだって? 大変だったなあ」
悪気のない、言い方だった。
陽向の表情が一瞬だけ強張ったのが、陽菜にもわかった。
土橋が、すぐに声をかける。
「陽向くん、おかえり」
短い一言だった。けれど、それだけで陽向は表情をほどいた。少し困ったみたいな笑顔で、小さく「はい」と返していた。
気まずくなったのか、西村は「ああ、うん、楽しんでってよ」とだけ言い残して、別のスタッフに呼ばれるままそちらへ行ってしまう。
土橋は何もなかったように笑って、段ボールを運んで立ち去った。
「陽菜ちゃん」
大輝が、空いた椅子に手をかけながらこちらを覗き込んだ。
「俺、受付代わるよ。彼とお祭り回ってきたら」
「え、でも」
「大丈夫。もう人も落ち着いてきてるしね」
大輝はそう言ってから、陽向のほうへちらりと目をやった。
「こんにちは。良かった、元気そうで」
「……どうも」
陽向は気まずそうな顔で、軽く頭を下げた。
そういえば以前、陽向と少し話したことがある、と大輝が言っていた。
「陽菜ちゃんとお祭り楽しんできてください。……この前の図書館の件と合わせて、これで貸し二つですね」
──図書館の件?
陽菜は思わずふたりの顔を見比べた。
陽向は眉を寄せ、何か言いたげに大輝を見ていた。
大輝はすぐに肩をすくめて笑う。
「嘘ですよ。楽しんできてください」
陽向がため息まじりに返す。
「……そうします」
陽菜もようやく「じゃあ、少しだけ」と大輝に向けて会釈する。
大輝は「どうぞ」とでも言うように軽く手を上げていた。
受付を離れるとき、受付テントに貼られたきりりちゃんのポスターが目に入った。丸い顔で、にこにこと笑っている。
前は、どこか違和感を覚えていた。
けれど今は、不思議と目を逸らさずにいられた。
陽菜は小さく笑い返すようにして、広場のほうへ足を向けた。
隣にいる陽向の気配だけが、妙にはっきりしていた。
◇
会場を半分ほど回り、屋台の列を抜けると、旧役場の脇に出た。建物の影に、ひっそり置かれたベンチがある。
どちらからともなく、そこへ腰を下ろした。
会場の賑やかさが少し遠のく。そこだけぽっかりと熱気が薄いみたいだった。
しばらく、屋台のあかりや人の流れを眺めていた。
ちらりと陽向の横顔を見て、陽菜はずっと聞きたかったことを思い出す。
「大学で最初に会った日の話、聞いてもいい? 去年の春って言ってたよね」
陽向は「……本当に、たいしたことじゃないよ」と前置きしてから口を開いた。
「その頃から、志島大の図書館に通ってたんだ。学外利用者としてね」
陽菜は頷く。
「でも、その日は休館日だって知らなくて。着いてから閉まってるのを見て……時間をつぶしてた。あのベンチで」
「サークル棟のベンチ?」
「そう。人の少ないところだなと思ったから。それで……そこに、陽菜が通りかかって、俺に講義棟の場所を聞いた」
ふいに、どこかで見た景色の端が、ふっと明るくなったような感覚があった。
「私……そのころ、まだ構内のこと全然わかってなくて。近くにいた人に、すぐ聞いちゃってた気がする……」
「うん、そんな感じの聞き方だったかな」
思い出しながら話すみたいに、陽向はふっと笑った。
「でも俺も、志島大の校舎なんて知らないから、どうしようかと思って……『わからない』って答えた」
「うん」
「そしたら陽菜が……たぶん、俺のことも迷ってると思ったんだろうけど、『これから授業ですか』って」
まだ確信まではない。
でも、聞いていくごとに記憶の輪郭が少しずつ浮かび上がってくる感じがした。
「『いや、これから帰ろうと思っていて』って答えたら、『バス停ならあっちですよ』って、案内しはじめた。困ってるようにでも、見えたんじゃないかな」
早とちりでそんなふうに言う自分を想像して、はっきり思い出さないまま、恥ずかしくなった。
「私、余計なお世話を焼いちゃったんだね」
「いや。いい人なんだなと思ったよ」
陽向が目を伏せる。
「それで、バス停に向かう途中、桜を見た」
「前に言ってた桜?」
「そう。中庭の。『ここにも桜あったんだ』って言って」
「……あ」
小さく声が漏れる。
春の光。講義棟の影。満開の桜。
見上げた枝先の白っぽさと、その場で足を止めた感覚が、急に鮮やかに戻ってくる。
「それ……私、言ったかも」
陽向がこちらを見て頷く。記憶がいっきに形を持った。
「それで……私、『地元の桜も咲いてるかな』って」
言葉にしてから、そのときの心細さまで遅れて戻ってくる。
「あのころ、下宿しはじめたばかりで……ちょっと寂しかったから」
「うん」
「そうしたら陽向くん、『ソメイヨシノなら、咲いてるかも』って……そう、言ってくれたよね?」
陽向が頷く。
「ソメイヨシノは、気候が近ければ同じころに咲くっていう話をした。接ぎ木とか挿し木で増やすしかなくて、性質が似てるからって……たぶん、そんな感じのことを」
ようやく腑に落ちる。
霧沢で自分が彼に話した桜のことは、いつ、誰に聞いたものだったのか。
あの日だ。
──陽向くんが、教えてくれたんだ。
「……ごめん、霧沢で話したこと、陽向くんの受け売りだったんだね」
陽向は首を振った。
「覚えてもらえてたんだって、嬉しかったよ」
その声が本当に嬉しそうで、陽菜はつい息をのんだ。
「でも……それからどうして私のアカウントがわかったの?」
そう聞くと、陽向は少しだけ目を伏せた。
答えるまでに、ほんの短い間があった。
「……その時に陽菜が撮っていた桜の写真を、SNSで見かけたから」
撮った写真をあの壁打ちアカウントに投稿していたことを思い出す。
陽向はそこで一度、視線を逃がした。
「……桜の背景が、大学だったから。そうかな、って思った」
最後のほうだけ、どこか歯切れが悪かった。
「私、なんて投稿してたっけ?」
「『満開の桜』って」
それから、もうひとつ。
「『さっき会った人に、ソメイヨシノの話を教えてもらった』って」
陽向はそこで、短く息を吸った。
「俺は……その頃、あんまり先のことを考えられなくて」
ゆっくりこちらを見る。
「でも、その投稿に……『また会えるかな、大学生活がんばろうって思えた』って書いてあって。そんなふうに思ってもらえることがあるんだなって、驚いた」
返事に詰まっていると、陽向が目尻を下げて笑う。
「本当に、些細なことだったんだ。陽菜からすれば、困っていそうな人に声をかけて、聞いた話に少し元気をもらっただけ。普通の、とりとめもないことでしょ」
言い終わって、彼は目を伏せた。
次の言葉だけは、いつもより低かった。
「ただ──俺には、それが残った」
その一言が、今度は陽菜の胸に落ちた。
桜の話として、そのやりとりは記憶のどこかに残っていたかもしれない。
それでも、こうして話すまで、目の前の陽向とは結びつかなかった。
──じゃあ、彼が『困りごと』を聞いてくれなかったら。そのまま、思い出すこともなかったんだろうか。
「はじめて会ったときに、連絡先を聞いておけばよかった」
言ってから、陽菜は自分でもびっくりした。
思い出さないままだったかもしれないことが、急に寂しくなってこぼれた言葉だった。
その時に聞かなかったのだから、そんなこと今さら言っても仕方がないのに。
陽向がわずかに目を見開く。
「それは……」
そこで言葉が止まる。
やがて彼は、片手で額を押さえるように前髪を上げた。考えたこともないことを言われたみたいな仕草だと思った。
「でも、それは……陽菜からしたら、そんなふうに思うほどの出来事じゃなかっただろうし」
「でも、投稿してたってことは、私はそのときちゃんと励まされてたんだと思う。それに『また会えるかな』って、書いてたんでしょ」
言いながら、陽菜は一度、小さく頷く。
「もしもの話になっちゃうけど……連絡先、交換できてたらなって」
陽向は額に手を当てたまま、困ったように息を吐いた。やがて、首を横に振って、俯く。
「……でも、どのみち、俺から陽菜に連絡先を聞くのは、無理だったよ」
「どうして?」
陽菜は首を傾げる。
返事はすぐには来なかった。
何か言おうとして、でもうまくまとまらないみたいに、彼は少しだけ視線を泳がせる。
ようやく、小さな声が落ちてきた。
「……俺から、聞いたら……そんなの、一目惚れしましたって言ってるみたいなものでしょ」
陽菜は一瞬だけきょとんとした。
それから笑いそうになって、慌てて堪える。
「ちょっと……笑わないで」
耳まで赤くした陽向が抗議する。
その言い方があまりにも切実で、陽菜はとうとう肩を震わせた。
「ごめん。でも……ふふ」
可笑しかったわけじゃない。
ただ、陽向がそんなふうに言うこと自体が少しだけ信じられなくて、くすぐったかった。
陽向が「言わなきゃよかった……」とため息をつく。
「それに、俺のこれは……そういうのとはちょっと違う気もするんだけどな」
陽菜は、からかうつもり半分、確かめたい気持ち半分で、ほんの少しだけ顔を寄せる。
「嬉しかったのに、違うの」
「こら」
その言い方。
──前にも似たようなことがあった気がする。
あのときは、赤くなった顔を隠す彼を、ただ面白がって見ていられた。
けれど今は、同じようにはいかなかった。
陽向は額から手を外し、そのまま陽菜をまっすぐに見返した。
さっきまで少し楽しんでいたはずなのに、陽菜は息を止める。
「……でも」
囁くような声だった。
「もう、隠さなくていいんだよね」
言葉が落ちた瞬間、祭りのざわめきが遠くなった。
風に揺れる前髪が触れそうな距離。
ほんの少し身を乗り出しているだけなのに、それだけで急に逃げ場がなくなったみたいに感じた。
陽菜は思わず身を引きそうになる。けれど、その前に、陽向のほうが首を傾けた。
「陽菜?」
確かめるように名前を呼ばれても、うまく声が出なかった。喉の奥だけがひりりと熱くなって、唾を飲み込む。
この空気をどう受け止めたらいいのかわからなくて、陽菜は慌てるみたいに広場のほうを見た。
「お祭り、けっこう賑やかだよね」
言ってから、自分でも、話題の変え方があまりにも露骨だと思った。
「そうだね」
返ってきた声音は穏やかだった。話を逸らしたことを流してくれたんだ、と思った。
それでも心臓はまだ忙しなく、背中にはさっきの緊張が残っていた。
陽向も広場へ目を向ける。
「俺は、三年ぶりだけど。昔から、わりとこんな感じかな。この日になると、町にこんなに人が住んでたのかと思うくらい」
「三年ぶり……」
「うん」
その一言のあとに、少しだけ間が落ちる。
陽菜は横目で、ようやく彼を見た。
陽向は人の流れを眺めたまま、静かな声で続ける。
「なんとなく、わかってくれてると思うけど……町の中をあんまり出歩かないようにしてたから」
陽菜は何も言わずに頷いた。
「祭りなんて、地元の人ばかりでしょ。だから、もう、二度と来ないつもりですらいた」
その言い方に、陽菜は胸がきゅっと締まるのを感じた。
彼はきっと、もともと町が好きなのだろうと思う。
それなのに、町を避け、祭りを避けてきたと言う。
でも。
「──でも。今年は、来てくれたんだね」
「うん。今年は来た」
陽向が身体ごと、こちらを覗き込む。
「……なんでだと思う?」
静かで、落ち着いた言い方だった。
けれど、さっき逸らしたはずのものを、そっと目の前に置かれたような気がした。
──なんで。
そう問われれば、答えを考えずにはいられなかった。
──桜の展示が、気になったから?
でも、それだけじゃないのだとも思ってしまう。
滲むように広がった予感が、形になりきる前に陽菜を黙らせた。
「あ……えっと……」
言葉が喉の奥で絡まる。
それを口にしてしまうのは、まだ少し怖かった。
ちょうどそのとき、遠くで花火がひとつ上がった。
乾いた破裂音が空に広がり、遅れて歓声が上がる。赤と金の光が、夕方へ傾きかけた空に一瞬だけ咲いた。
陽菜がそちらへ顔を向けると、陽向もつられるように顔を上げた。
しばらく、ふたりとも空を見ていた。
やがて、陽向がやわらかく口を開く。
「俺の話は『これから』、聞いてくれるんだったね」
陽菜はこくこくと頷いた。
それを見て、陽向が少しだけ口元を緩める。
「そろそろ戻ろうか。名残切りの受付まで、一緒に行くよ」
「……うん、ありがとう」
ベンチから立ち上がる。
会場のざわめきを、また少しずつ耳が拾い始めた。
◇
屋台のライトが灯りはじめ、薄くなってきた空の色を下から押し返している。
名残切りの受付のまわりにも、片付けに入る気配が漂っていた。
短冊の束はだいぶ減り、透明な箱のそばではスタッフが紙片を集めはじめている。お焚き上げ用の箱には、切られた糸と紙片が溜まっていた。
陽菜がそのほうへ歩きかけたとき、隣の陽向がふと足を止める。
「陽菜……それ」
「え?」
陽向の指の先を目で追う。自分の手首だった。
二重に巻かれた糸が、まだそこに結ばれたままだった。いつの間にか、つけていることを忘れていた。
「俺が切るよ」
「え?」
「はさみ、これ借りるね」
机の上に置かれた小さなはさみを陽向が手に取る。刃がテントの灯りに反射して、きらりと光った。
陽菜は小さく「じゃあ、お願いしようかな」と言って、手首を差し出した。
はさみを持っていないほうの陽向の手が伸びてくる。そっと陽菜の手首を下から支えた。手の感触に、わずかに肩が跳ねる。
「これ、どういうおまじないなの」
視線は糸に向けたまま、陽向が聞く。
「縁を切りたいものを思い浮かべて、それで糸を切るんだって」
「ふうん」
陽向の親指が、支えた手首の内側に軽く触れている。その一点だけが妙に熱を持って感じられた。
「陽菜は何と縁を切るの?」
「えっと……」
言われて、少し考える。
いくつかぼんやりと浮かんでは、すぐに消えていく。
手首に触れた指の感触が気になって、うまく決められない。
「……どうしようかな」
そう言った、そのときだった。
陽向の親指が、手首の内側をするりと撫でた。
「……っ」
何と縁を切るのか、考えていたはずだったのに──思わず顔を上げる。視線が絡まった瞬間、胸の奥がひりついた。
その瞬間を待っていたかのように、陽向は手元に視線を移し、刃を糸に入れた。
──はさみは、動いた。
けれど、糸は切れずに残っていた。
陽向は自分の手元を見て、それからなにかに気づいたような顔で笑った。
「ふ、ごめん」
「え?」
「はさみ、上下逆に持ってたみたいで」
言われて、陽菜も思わず笑ってしまった。
見るとたしかに、刃の向きがおかしい。これでは切れにくいはずだ。
陽向はやわらかく口元を緩めて言った。
「これじゃ、失敗だね。──おまじないが失敗したら、どうなるの?」
「失敗したら、縁が切れないんだって」
くすくす笑ってそう答えてから、自分の言葉を反芻する。
失敗したら、縁が切れない。
ふいに、風が吹いた。
失敗したとき、自分が思い浮かべていたものは。
陽向はまだ手首を支えたままだった。その手の温度が、さっきよりもはっきり伝わってくる。
「……そうなんだ」
静かに言うと、陽向は何事もなかったみたいにはさみを持ち直す。
「それは、いいね」
花火の音が続くなかで、その声だけが妙にはっきり耳に残った。
冗談みたいな流れだったはずなのに、その一言だけは、うまく笑って受け流せなかった。
もう一度、糸に刃が入る。しゃき、と今度はちゃんと音がした。
二重に結ばれていた糸が切れ、片方が小さく跳ねる。
陽向が手を離し、はさみを机のうえに戻した。
「はい。今度は切れたよ」
「ありがとう」
切れた糸の端をつまみ、それをお焚き上げ用の箱へ入れる。
広場の向こうでは、次々に花火が上がっていた。
乾いた音のあと、夜になりきらない空に、ひとつ、ふたつ光が咲く。赤い火がほどけて、すぐに暗さの中へ散っていく。
短冊も、切られた紙片も、言えないままの言葉も、近いうちにお焚き上げに回される。
もともと、断ち切るための、終わらせるための催しだ。
おまじないの糸も、二度目にはちゃんと切れた。
なのに、どうしてか、一度目の失敗が陽菜の中で小さく波立って残っていた。
切れていない。むしろ、はっきり結ばれたものがあるような気がして、陽菜はそっと自分の手首を押さえた。
まだ、そこに熱が残っている気がした。
小さな余波が、胸の内で揺れている。
本編はこれでおしまいです。残り一話、陽向視点の後日談をもって完結予定です。




