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一緒だね


 消したほうがいいのだろう、とは思っている。


 それでもまだ、スクリーンショットを消せずにいた。

 彼女のアカウントは、その水面ごともうない。

 言葉が落ちてくることもなければ、日々の小さな断片をそこから知ることもできなくなった。


 代わりに今は、連絡先の一覧に彼女の名前がある。


 それなのに、見ているだけでよかったころの名残を、まだ捨てきれずにいた。


『満開の桜!』『また会えるかな。なんとなく、大学生活がんばろうって思えた』


 思い返しても、本当に些細な出来事だったと思う。

 声をかけられて、たまたま少し話した。


 それだけ。

 それだけのことが、どうして自分にはこんなに残ったのか。


 彼女はきっと、相手が自分でなくてもそうした。

 あの日、あそこにいたのが別の誰かでも、声をかけ、桜を見上げて笑っただろう。


 それは澄んだ優しさで、誰にでも向けられる明るさだった。


 博愛というものが、残酷な無関心たり得ることを、そのときに知った。


 自分が特別だったわけじゃない。

 そのくらいは、わかっている。

 それでも、自分にとっては、あの日の彼女でなければならなかった。


 それを運命だと名付けて舞い上がれるほど、愚かではない。

 けれど結局、だから弁えろと自分に言い聞かせ続けられるほど、利口でもなかった。


 画面を見つめたまま、息を吐く。

 

 ふいに、スマホが震えた。過去の投稿の上に、『陽菜ひな』という二文字が重なる。


 すぐにメッセージアプリを開いた。


『週末、一緒に霧沢きりさわに行けないかな? この前のお花、片づけに行ったほうがいいかなって』


 スクリーンショットの中の陽菜は、もう言葉を落とさない。

 けれど、繋がった陽菜は、こちらに──俺に向けて、言葉を届けてくれる。


 まだ信じられない心地のまま、指を動かす。


『土曜日、行ける』


 送ってから、少し短すぎたかと思った。

 もう一度、文字を打つ。


『迎えに行く?』

 そこまで打って、それは消した。 

 結局、別の言葉を送る。


志島しじま駅で集合しよう』


 既読がつくまでの数秒が、妙に長かった。

 すぐに返事が来る。


『ありがとう。じゃあ、また土曜日に』


 しばらくその文面を眺める。

 吐いた息には、さっきまでなかった熱が混じっているような気がした。



 かすかな沢の音を聞きながら、伸び始めた草を踏む。 

 霧沢の石碑の前に着くと、花立てにこの前の花は見当たらなかった。

 かわりに、見覚えのない花が挿してある。少し水気を失いかけているけれど、まだ萎れきってはいない。


「あれ? 誰か来たのかな」


 歴史保存会は、最近ここへ来ていないはずだ。地元の人にしても、花まで供えていくのは珍しいことだと思った。


「ひょっとすると……祭りで桜の展示を見た人かもね」


 そう言うと、陽菜は隣で顔を明るくした。


「そうだったらすごく嬉しいな。ふふ、やって良かったかもって、こっちが元気をもらえるね」


 ──ああ。これだ、と思った。


 彼女はこうやって、些細なことを拾い上げる。

 それを足場にして、前を向くことができる。

 目印を必要とせずに、自分で方向を決められる。


 それが、ずっと眩しかった。

 ──俺は、こういうふうには生きられない。


 きっと異性として好きだ、と思うより先に、畏れや憧れに近いものを抱いた。 


 そのせい、だったのかもしれない。

 あの日、桜の写真を撮ろうとする彼女のスマホ画面が見えたとき、SNSのアイコンがあったのを覚えてしまった。

 見て、覚えて、次は。


 桜。大学。ソメイヨシノ。接ぎ木。

 話した内容から思いつく組み合わせを、何通りか検索窓に並べて、探した。


 そうして探して、見つけて──そこからは、見ていた。

 その次は、ないつもりで。それ以上は求めないつもりでいた。それが、今は──


 陽菜は肩から提げた鞄を抑え、石碑の前にしゃがみ込んだ。


「まだお花、綺麗だね。片づけるのもう少し先でもよかったかな」


「そうだね」


 立ち上がった陽菜がこちらに顔を向ける。


「でも、来れてよかった。ありがとう、陽向くん」


 その言葉に、ゆっくり頷く。


 ──よかった。

 本当に、そう思う。


 あの日のことは、焼きついたみたいにまだ残っている。 


 けれど今は、こうして彼女と同じ場所に並んで立っている。


 陽菜が見た景色を、画面越しの言葉として知るのではなく、一緒に見ることができる。


 声をかけ、名前を呼び合うことができる。


 まだ少し、足元が覚束ない。



「『娘の呪い』みたいな噂、もう学内で聞かなくなったよ」


 帰り道、木立の下を歩きながら、陽菜がふと思い出したように口を開いた。


「そう」と、短く返事をする。


「『#言えないまま』が消えて、やっぱり不具合とかだったのかも、ってなったみたいで……」


 不可解な事象があったこと自体は、消えない。

 あのアカウントが今も誰かを探し続けていることも変わらない。

 薄気味悪さは、油膜みたいにまだどこかに漂っている。

 ただ、こちらには何もわからないまま、もう通り過ぎていったような気がした。


「私ね、来年もプロジェクトに参加しようかなって思ってるんだ」


 前を向きながら、陽菜が続ける。


「名残切りだけじゃなくて、谷見やつみ南瓜とか、そういうものも学生側の企画で扱えないかなって思ってて」


「谷見南瓜か……」


「知ってる? 前に公民館で見せてもらった新聞に載ってて。昔からある名物なんだって」


 開けられなかった段ボール箱が頭をよぎる。

 思えば、あの頃から町を避けるようになっていたのかもしれない。


 町に戻る、というほど大げさなことではない。

 それでも今なら、上書きしていけるような気がした。


「……知ってるよ。谷見南瓜を使った羊羹があるんだけど、帰りに買いに行く?」


「いいの? 食べてみたい」


 嬉しげな声音に、自然と目元が緩む。

 

 そのまま思いついたことを、一拍考えてから、声に乗せる。


「俺は、近々、青年会に入ろうと思ってる」


 陽菜の目が丸くなった。


「青年会って、獅子舞の?」


「そう、谷見獅子の。詳しいね」


「それも前に公民館で知ったの。歴史保存会にも関わってるのに、陽向ひなたくんはすごいね」


 そう言われて、困った。

 ただ、前から誘われていたものに返事をしようとしているだけだった。

 

 それでも彼女の言葉一つで、妙に気持ちが前向きになる。我ながら単純だなと思った。


「たしか獅子舞の奉納って、お正月なんだよね」


「そうだね」


「陽向くんも参加するんなら……今年は、こっちに残ろうかな」


 こっちに。

 残ろうかな。


「──いや、年末年始は家族のところに帰らないと」


 できるだけ自然に言ったつもりだった。

 その間も彼女の一言は胸の内で反響し続ける。


「獅子舞も、はじめは裏方だろうし。見てもそんなに面白いものじゃないよ」


 言いながら、それでも少なくとも年始までは、彼女の気を引けるのかもしれないと思ってしまう。


「でも、見てみたいな」


 陽菜は前を向いたまま、軽く言った。


 蝉の声が続く。夏の熱を残した木漏れ日が、足元で揺れている。


 張り出した木の根を避けようとした拍子に、ふと手の甲が触れ合った。


 ほんの一瞬だった。

 それでも、かすめた肌の余韻がやけに残る。


 互いになにも言わなかった。 


 彼女は距離を取り直さず、しばらくこちらの手元を見ているようだった。


 ほんの少し指を動かせば、触れられる距離だ。


 そう思ったのを、すぐに打ち消す。

 彼女の反応を、自分に都合よく読んでいるだけかもしれない。


 ──祭りの日とは違う。


 あのときは、糸を切るふりをして、彼女の手首を支えることができた。意識をこちらへ向けるように、親指を動かすことも。


 理由があれば、触れられる。

 意味を作れば、落ち着いていられる。


 けれど今は、指先が強張って仕方がなかった。

 脈がやけにうるさい。


 結局、指を動かすこともなく、かといって距離を測り直すでもなく、黙ったまま足を動かした。


「あの木、変わった幹だね」


 話題を探すようにして陽菜が言った。道の脇を指さす。


「あれは……フジが巻きついてるんだと思う」


「フジ?」


 古い木の幹に、別の蔓が絡みついていた。太くなった蔓は幹の一部みたいに見えて、上のほうで葉を広げている。


「うん。蔓が、他の木に巻きつくんだよ。ヤマフジかノダフジか……見分け方があって。右巻きがヤマフジだったかな」


「よく知ってるね」


「最近は谷見の図書館にときどき行くんだけど……あそこの新刊は植物の本ばかりだから」


「前は、花言葉の本を読んでたもんね」


 陽菜がくすくす笑う。


「藤の花言葉は覚えてないの? 陽向くんの苗字でしょ」


「花言葉は……」


 言いかけて、止まる。


「あ……なんだったかな。忘れた」


 本当は、見たままだなと思って覚えていた。

 けれど自分がそれを口にするには、欲が濃すぎる気がした。


 陽菜は「そっか」と呟き、藤を見上げていた。

 流してしまってもよかったのに、その横顔を見ているうちに、言葉がこぼれた。


「検索してみたら」


「え?」


「花言葉。俺も気になるし、教えてよ」


 足を止める。

 また、こういうことをしてしまう。

 そんな自分を持て余している。


「ちょっと待ってね」


 陽菜も立ち止まり、スマホを取り出す。文字を打ち込む指が動く。


「あ、出てきた。藤の花言葉は……」


「うん」


「歓迎、優しさ……」


 画面を追う彼女の声が、そこで止まる。


「終わり?」


 続きを促すように問う。


「いくつかあるんだね、花言葉って……」


 スマホを見下ろしたまま、陽菜の頬に薄く赤みが差す。


 ──その先まで読んだらしい。

 このまま話を逸らすべきか、迷う。


 もう少しだけ、踏み込むことにした。


「陽菜」


 呼べば、容易く彼女はこちらを見る。


 一拍、目を合わせる。


 焦げ茶色の虹彩がきらめいていた。その中に今、自分が映っているのを確かめてから、訊いた。


「なんて書いてあったの」


「えっとね……」


 陽菜は照れたように言葉を濁す。

 視線が、画面とこちらの間を行き来していた。


 どう思ったのかはわからない。

 けれど、彼女の中で、その花言葉と自分がほんのわずかでも結びついたのなら。

 今は、それで十分だった。


「……俺も、帰ったら調べようかな」 

 

 そう言って視線を外す。

 陽菜が小さく息をついたのがわかった。


 絡みついた藤の蔓を見る。

 寄り添うというより、離れないよう巻きついている。


 それ以上、その話は続かなかった。

 また少し歩き出すと、木立の隙間から舗装路の明るさが見えてきた。

 陽菜が歩調をゆるめる。


「桜、咲いてるところも見てみたいな」


 一本桜のほうを振り返るようにして、彼女が言った。

 肩下までの髪が風に靡く。陽菜はその一筋を耳にかけながら、やわらかく微笑む。


 言葉が、少し遅れた。


「……綺麗だと思う。春になると」


「陽向くんは、見たことあるんだよね?」


「うん」


「そっか。いいなあ」


 口を開きかけて、閉じる。

 続けようとした言葉が、どれも喉の手前で止まった。


 来年、と言えばいいのか。

 春にまた、と言えばいいのか。


 誰と、とは聞けない。

 俺と、とも言えない。


 黙っているうちに、陽菜がこちらに顔を向ける。


「一緒に見られたらいいな。陽向くんと」


 何のためらいもない声だった。

 こちらが言葉を選んでいる間に、いちばん欲しかった言葉が差し出される。

 詰めていた息が、呆気なくほどけた。


 ただ目を細めて頷く。それで精一杯だった。

 

 さっきまでは、年始まで、と思っていたのに。

 桜が咲くまでは、少なくとも──

 そんなふうに数えてしまう自分がいる。


 そうやって、少しずつ先の季節へ息を繋いでいく。

 陽菜は、きっとそんなつもりで言っていないのに。


「……名前、呼ぶのは慣れたの」


 目を伏せ、尋ねてみる。


「うん。でも前に言ってたこと、思い出しちゃうかも」


 彼女は軽やかな声で続けた。


「自分の名前を見たり聞いたりすると、陽向くんのことも考えちゃうんだ」


 望んだことを、その通りに返された。

 渇きの絶えない喉が、すっと楽になる。


「そうなんだ。一緒だね」


 一緒なわけがないのに、そう言った。


 陽菜はきっと、こちらの胸の内なんて知らない。

 

 それでいい。

 どうか、軽やかなままでいてほしい。

 ただ、彼女が知らないまま、自分の余波が彼女の中に残ればいいと思う。


 名前でも、桜でも、藤でもいい。ふとした瞬間に自分と結びつく道筋が、いくらでも欲しかった。


 見ているだけでよかったころには、もう戻れない。


 名残は断ち切らないまま。

 切れなかったものも、離すつもりはない。


完結です。読んでいただきありがとうございました。

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