一緒だね
消したほうがいいのだろう、とは思っている。
それでもまだ、スクリーンショットを消せずにいた。
彼女のアカウントは、その水面ごともうない。
言葉が落ちてくることもなければ、日々の小さな断片をそこから知ることもできなくなった。
代わりに今は、連絡先の一覧に彼女の名前がある。
それなのに、見ているだけでよかったころの名残を、まだ捨てきれずにいた。
『満開の桜!』『また会えるかな。なんとなく、大学生活がんばろうって思えた』
思い返しても、本当に些細な出来事だったと思う。
声をかけられて、たまたま少し話した。
それだけ。
それだけのことが、どうして自分にはこんなに残ったのか。
彼女はきっと、相手が自分でなくてもそうした。
あの日、あそこにいたのが別の誰かでも、声をかけ、桜を見上げて笑っただろう。
それは澄んだ優しさで、誰にでも向けられる明るさだった。
博愛というものが、残酷な無関心たり得ることを、そのときに知った。
自分が特別だったわけじゃない。
そのくらいは、わかっている。
それでも、自分にとっては、あの日の彼女でなければならなかった。
それを運命だと名付けて舞い上がれるほど、愚かではない。
けれど結局、だから弁えろと自分に言い聞かせ続けられるほど、利口でもなかった。
画面を見つめたまま、息を吐く。
ふいに、スマホが震えた。過去の投稿の上に、『陽菜』という二文字が重なる。
すぐにメッセージアプリを開いた。
『週末、一緒に霧沢に行けないかな? この前のお花、片づけに行ったほうがいいかなって』
スクリーンショットの中の陽菜は、もう言葉を落とさない。
けれど、繋がった陽菜は、こちらに──俺に向けて、言葉を届けてくれる。
まだ信じられない心地のまま、指を動かす。
『土曜日、行ける』
送ってから、少し短すぎたかと思った。
もう一度、文字を打つ。
『迎えに行く?』
そこまで打って、それは消した。
結局、別の言葉を送る。
『志島駅で集合しよう』
既読がつくまでの数秒が、妙に長かった。
すぐに返事が来る。
『ありがとう。じゃあ、また土曜日に』
しばらくその文面を眺める。
吐いた息には、さっきまでなかった熱が混じっているような気がした。
◇
かすかな沢の音を聞きながら、伸び始めた草を踏む。
霧沢の石碑の前に着くと、花立てにこの前の花は見当たらなかった。
かわりに、見覚えのない花が挿してある。少し水気を失いかけているけれど、まだ萎れきってはいない。
「あれ? 誰か来たのかな」
歴史保存会は、最近ここへ来ていないはずだ。地元の人にしても、花まで供えていくのは珍しいことだと思った。
「ひょっとすると……祭りで桜の展示を見た人かもね」
そう言うと、陽菜は隣で顔を明るくした。
「そうだったらすごく嬉しいな。ふふ、やって良かったかもって、こっちが元気をもらえるね」
──ああ。これだ、と思った。
彼女はこうやって、些細なことを拾い上げる。
それを足場にして、前を向くことができる。
目印を必要とせずに、自分で方向を決められる。
それが、ずっと眩しかった。
──俺は、こういうふうには生きられない。
きっと異性として好きだ、と思うより先に、畏れや憧れに近いものを抱いた。
そのせい、だったのかもしれない。
あの日、桜の写真を撮ろうとする彼女のスマホ画面が見えたとき、SNSのアイコンがあったのを覚えてしまった。
見て、覚えて、次は。
桜。大学。ソメイヨシノ。接ぎ木。
話した内容から思いつく組み合わせを、何通りか検索窓に並べて、探した。
そうして探して、見つけて──そこからは、見ていた。
その次は、ないつもりで。それ以上は求めないつもりでいた。それが、今は──
陽菜は肩から提げた鞄を抑え、石碑の前にしゃがみ込んだ。
「まだお花、綺麗だね。片づけるのもう少し先でもよかったかな」
「そうだね」
立ち上がった陽菜がこちらに顔を向ける。
「でも、来れてよかった。ありがとう、陽向くん」
その言葉に、ゆっくり頷く。
──よかった。
本当に、そう思う。
あの日のことは、焼きついたみたいにまだ残っている。
けれど今は、こうして彼女と同じ場所に並んで立っている。
陽菜が見た景色を、画面越しの言葉として知るのではなく、一緒に見ることができる。
声をかけ、名前を呼び合うことができる。
まだ少し、足元が覚束ない。
◇
「『娘の呪い』みたいな噂、もう学内で聞かなくなったよ」
帰り道、木立の下を歩きながら、陽菜がふと思い出したように口を開いた。
「そう」と、短く返事をする。
「『#言えないまま』が消えて、やっぱり不具合とかだったのかも、ってなったみたいで……」
不可解な事象があったこと自体は、消えない。
あのアカウントが今も誰かを探し続けていることも変わらない。
薄気味悪さは、油膜みたいにまだどこかに漂っている。
ただ、こちらには何もわからないまま、もう通り過ぎていったような気がした。
「私ね、来年もプロジェクトに参加しようかなって思ってるんだ」
前を向きながら、陽菜が続ける。
「名残切りだけじゃなくて、谷見南瓜とか、そういうものも学生側の企画で扱えないかなって思ってて」
「谷見南瓜か……」
「知ってる? 前に公民館で見せてもらった新聞に載ってて。昔からある名物なんだって」
開けられなかった段ボール箱が頭をよぎる。
思えば、あの頃から町を避けるようになっていたのかもしれない。
町に戻る、というほど大げさなことではない。
それでも今なら、上書きしていけるような気がした。
「……知ってるよ。谷見南瓜を使った羊羹があるんだけど、帰りに買いに行く?」
「いいの? 食べてみたい」
嬉しげな声音に、自然と目元が緩む。
そのまま思いついたことを、一拍考えてから、声に乗せる。
「俺は、近々、青年会に入ろうと思ってる」
陽菜の目が丸くなった。
「青年会って、獅子舞の?」
「そう、谷見獅子の。詳しいね」
「それも前に公民館で知ったの。歴史保存会にも関わってるのに、陽向くんはすごいね」
そう言われて、困った。
ただ、前から誘われていたものに返事をしようとしているだけだった。
それでも彼女の言葉一つで、妙に気持ちが前向きになる。我ながら単純だなと思った。
「たしか獅子舞の奉納って、お正月なんだよね」
「そうだね」
「陽向くんも参加するんなら……今年は、こっちに残ろうかな」
こっちに。
残ろうかな。
「──いや、年末年始は家族のところに帰らないと」
できるだけ自然に言ったつもりだった。
その間も彼女の一言は胸の内で反響し続ける。
「獅子舞も、はじめは裏方だろうし。見てもそんなに面白いものじゃないよ」
言いながら、それでも少なくとも年始までは、彼女の気を引けるのかもしれないと思ってしまう。
「でも、見てみたいな」
陽菜は前を向いたまま、軽く言った。
蝉の声が続く。夏の熱を残した木漏れ日が、足元で揺れている。
張り出した木の根を避けようとした拍子に、ふと手の甲が触れ合った。
ほんの一瞬だった。
それでも、かすめた肌の余韻がやけに残る。
互いになにも言わなかった。
彼女は距離を取り直さず、しばらくこちらの手元を見ているようだった。
ほんの少し指を動かせば、触れられる距離だ。
そう思ったのを、すぐに打ち消す。
彼女の反応を、自分に都合よく読んでいるだけかもしれない。
──祭りの日とは違う。
あのときは、糸を切るふりをして、彼女の手首を支えることができた。意識をこちらへ向けるように、親指を動かすことも。
理由があれば、触れられる。
意味を作れば、落ち着いていられる。
けれど今は、指先が強張って仕方がなかった。
脈がやけにうるさい。
結局、指を動かすこともなく、かといって距離を測り直すでもなく、黙ったまま足を動かした。
「あの木、変わった幹だね」
話題を探すようにして陽菜が言った。道の脇を指さす。
「あれは……フジが巻きついてるんだと思う」
「フジ?」
古い木の幹に、別の蔓が絡みついていた。太くなった蔓は幹の一部みたいに見えて、上のほうで葉を広げている。
「うん。蔓が、他の木に巻きつくんだよ。ヤマフジかノダフジか……見分け方があって。右巻きがヤマフジだったかな」
「よく知ってるね」
「最近は谷見の図書館にときどき行くんだけど……あそこの新刊は植物の本ばかりだから」
「前は、花言葉の本を読んでたもんね」
陽菜がくすくす笑う。
「藤の花言葉は覚えてないの? 陽向くんの苗字でしょ」
「花言葉は……」
言いかけて、止まる。
「あ……なんだったかな。忘れた」
本当は、見たままだなと思って覚えていた。
けれど自分がそれを口にするには、欲が濃すぎる気がした。
陽菜は「そっか」と呟き、藤を見上げていた。
流してしまってもよかったのに、その横顔を見ているうちに、言葉がこぼれた。
「検索してみたら」
「え?」
「花言葉。俺も気になるし、教えてよ」
足を止める。
また、こういうことをしてしまう。
そんな自分を持て余している。
「ちょっと待ってね」
陽菜も立ち止まり、スマホを取り出す。文字を打ち込む指が動く。
「あ、出てきた。藤の花言葉は……」
「うん」
「歓迎、優しさ……」
画面を追う彼女の声が、そこで止まる。
「終わり?」
続きを促すように問う。
「いくつかあるんだね、花言葉って……」
スマホを見下ろしたまま、陽菜の頬に薄く赤みが差す。
──その先まで読んだらしい。
このまま話を逸らすべきか、迷う。
もう少しだけ、踏み込むことにした。
「陽菜」
呼べば、容易く彼女はこちらを見る。
一拍、目を合わせる。
焦げ茶色の虹彩がきらめいていた。その中に今、自分が映っているのを確かめてから、訊いた。
「なんて書いてあったの」
「えっとね……」
陽菜は照れたように言葉を濁す。
視線が、画面とこちらの間を行き来していた。
どう思ったのかはわからない。
けれど、彼女の中で、その花言葉と自分がほんのわずかでも結びついたのなら。
今は、それで十分だった。
「……俺も、帰ったら調べようかな」
そう言って視線を外す。
陽菜が小さく息をついたのがわかった。
絡みついた藤の蔓を見る。
寄り添うというより、離れないよう巻きついている。
それ以上、その話は続かなかった。
また少し歩き出すと、木立の隙間から舗装路の明るさが見えてきた。
陽菜が歩調をゆるめる。
「桜、咲いてるところも見てみたいな」
一本桜のほうを振り返るようにして、彼女が言った。
肩下までの髪が風に靡く。陽菜はその一筋を耳にかけながら、やわらかく微笑む。
言葉が、少し遅れた。
「……綺麗だと思う。春になると」
「陽向くんは、見たことあるんだよね?」
「うん」
「そっか。いいなあ」
口を開きかけて、閉じる。
続けようとした言葉が、どれも喉の手前で止まった。
来年、と言えばいいのか。
春にまた、と言えばいいのか。
誰と、とは聞けない。
俺と、とも言えない。
黙っているうちに、陽菜がこちらに顔を向ける。
「一緒に見られたらいいな。陽向くんと」
何のためらいもない声だった。
こちらが言葉を選んでいる間に、いちばん欲しかった言葉が差し出される。
詰めていた息が、呆気なくほどけた。
ただ目を細めて頷く。それで精一杯だった。
さっきまでは、年始まで、と思っていたのに。
桜が咲くまでは、少なくとも──
そんなふうに数えてしまう自分がいる。
そうやって、少しずつ先の季節へ息を繋いでいく。
陽菜は、きっとそんなつもりで言っていないのに。
「……名前、呼ぶのは慣れたの」
目を伏せ、尋ねてみる。
「うん。でも前に言ってたこと、思い出しちゃうかも」
彼女は軽やかな声で続けた。
「自分の名前を見たり聞いたりすると、陽向くんのことも考えちゃうんだ」
望んだことを、その通りに返された。
渇きの絶えない喉が、すっと楽になる。
「そうなんだ。一緒だね」
一緒なわけがないのに、そう言った。
陽菜はきっと、こちらの胸の内なんて知らない。
それでいい。
どうか、軽やかなままでいてほしい。
ただ、彼女が知らないまま、自分の余波が彼女の中に残ればいいと思う。
名前でも、桜でも、藤でもいい。ふとした瞬間に自分と結びつく道筋が、いくらでも欲しかった。
見ているだけでよかったころには、もう戻れない。
名残は断ち切らないまま。
切れなかったものも、離すつもりはない。
完結です。読んでいただきありがとうございました。




