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二人のこれから




 バスの段差を降りる時、揺れる靴紐が目に入った。淡い色味が気に入っているスニーカー。

 でも今は、自分の足元にある一足だけでは、どこか足りないような気がしていた。

 

 外はまばゆい朝の光が差していた。思わず目を細める。

 下林(しもばやし)のバス停は、相変わらずしんとしていた。


 霧沢(きりさわ)の森の入り口を見る。

 夏の青さを増した葉が風に揺れて、ざわざわと音を立てていた。


 重さを確かめるように、陽菜(ひな)は片手にげた小さな花束を握り直す。

 前に来たとき、持ってくればよかったと思ったことを、ちゃんと覚えていた。


 足を進めながら、目を凝らす。


 来て、くれるだろうか。


 森の手前あたりまで来ると、ひとつの人影を見つけた。木立の下。道の脇に、ひっそりと立っている。


 心臓が跳ねた。


 ──トウヤくんだ。

 そうわかるより先に、足が自然と速くなった。


 彼はじっとこちらを見ていた。気づいているはずなのに、その場を動こうとはしない。

 それでも、会いに来てくれた。それだけで嬉しかった。


 トウヤの足元へ視線を向ける。彼も、同じベージュのスニーカーを履いていた。


 揃っていなかったものが揃ったような、嬉しさとも安堵ともつかないものが胸に広がった。


 数歩手前で立ち止まる。トウヤはバツの悪そうな顔で目を伏せていた。

 なんて声をかけようかと考えるより先に、言葉がこぼれる。


「来てくれて、よかった」


 トウヤは息を吸った。


「いろいろ……ごめん」


 かすれた声だった。


「……ごめんで済むか、わからないけど」


 顔を上げきらないまま言うその様子に、陽菜は心が痛んだ。

 そんなふうに言わせるために、会いたかったわけじゃない。

 けれど、今の彼はきっと、そこからしか話せないのだろうとなんとなく思った。


「ほんとの名前くらい、教えてほしかったな」


 覗き込むようにして、言った。

 息を整えるような沈黙を挟み、トウヤがゆっくりとその目を持ち上げる。


「……藤山(とうやま)陽向(ひなた)です」


「ひなた、くん……」


 そっと繰り返す。トウヤ──陽向は肩をぴくりと揺らし、困ったように眉を下げた。


 ──藤山陽向。


 その名をもう一度口の中でなぞってから、はっとする。

 日出男と同じ、トウヤマ姓。

 新聞記事の切り抜きが頭に浮かぶ。


「あ」

 

 公民館で土橋に見せてもらったあのファイルで、確か──


「陸上の……」


 ぽろりと声が漏れた。陽向がかすかに頷く。


「……それは、どこで?」


「公民館で……新聞記事を読んで」


「そう……いろいろあって。もう、走るのは、やめたんだ。それで、こっちに帰ってきて……それから──」


 居心地の悪そうな声音だった。


 なんとなく、彼の隠していたものの輪郭に触れた気がした。陽向が深く話し始めるより先に、陽菜は首を横に振る。


「そういうのは──また。これから、少しずつ教えてほしいな」


 陽向は瞬いた。


「……これから?」


「うん」


 聞きたいことは、本当はもっとたくさんある。

 けれど今は、それをひとつずつ並べるより、こうして話せることのほうが大きかった。


「一本桜のところまで、一緒に行ってくれる?」


 問うと、陽向はどこか拍子抜けしたような顔のまま、それでも小さく頷いた。


 一本桜へ続く道には、緑を透かした光が落ち、足元でちらちらと揺れていた。


 ベージュのスニーカーが二足、並んで足を踏み出した。


 ◇


 「霧沢きりさわの一本桜」と書かれた小さな看板を曲がり、旧道を逸れる。舗装の切れた道を進めば、青葉の匂いに混じって、水を含んだ土の匂いがした。


 陽向は、陽菜より半歩ほど後ろを歩いていた。

 追い抜きもせず、きっちり並びきることもなく、けれど離れすぎもしない。


 土を踏む足音だけが続いていく。


 彼といるときの沈黙は、前から苦に思ったことがない。

 けれど今日は、陽向があまりにも気まずそうで、その強張(こわば)りが気になった。


 少しでもほぐれればいいのにと思って、陽菜はとりとめもない話を口にする。


「あ、虫除けスプレー、今日はちゃんとしてきたよ」


 前を向いたまま言い、隣の陽向を横目で見る。


「うん」


 短い返事だった。


「あとね、前に教えてもらった歴史小説、最近読んでみてるんだ」


「……そうなんだ」


「まだ途中だけど。聞いてたとおり、読みやすかった」


「なら、よかった」


 やっぱり短い。

 でも、ちゃんと返事はもらえる。


 話したいことが、たくさんあった。


 なにから言葉にしようと考えていると、木々の梢が風を受け、いっせいに音を立てた。


「明日は、谷見(やつみ)まつりだね」


「……そうだね。チラシ、配られてた」


「あのね、この前決まったばかりなんだけど……今年は霧沢の伝承に触れる展示もしようと思っていて」 


 陽向が顔を上げる。


名残(なごり)切りに来てくれた人に、せっかくだから、由来も知ってもらえたらいいなって思ったんだ」


 視界の先では、道が緩やかに折れている。

 木立の向こうに、ひらけた光が見えた。


 陽菜は歩調をゆるめる。 


もよおしの形をすぐに変えることはできないけど……少しでも更新していけたら、って考えてて……」


 陽向は返事をしなかった。

 その代わり、こちらを見て頷いた。


 目で先を促すようなその仕草が、前と同じで安心した。

 彼は陽菜が話し終わるまで、いつもそうして待ってくれた。それが、話しやすかった。彼といると、いつも不思議と呼吸が整う感じがした。


「私、名残切りの明るい雰囲気に引っかかってるって、前に言ったけど……だからこそ、できることもあるのかなって、今は思えるようになったんだ」


 一歩前へ体重を乗せるたび、スニーカーがやわらかく土を踏む。いつのまにか、足取りは軽くなっていた。


 彼にどれだけ支えられてきたか、わからない。

 目を合わせ、ようやく一番言いたかったことを口にした。 


「陽向くんのおかげだよ。ありがとう」

 

 そう言うと、陽向は視線をいっとき揺らし、前を向いた。

 陽菜も口を閉じ、前を向く。

 すぐに視界がひらけ、石碑と一本桜が見えてきた。



 ◇


 春に見たとき、枝先に若い色が混じっていただけの一本桜は、今は濃い緑色の葉を頭上いっぱいに広げていた。


 桜の根元にある石碑は、以前と変わらない。

 表面には薄く苔が張りついて、刻まれた文字の溝に黒ずんだ影が残っている。季節が移っても、ここだけは時間が止まっているようだった。


 少し離れた沢を見る。娘の片方だけの草履ぞうりが見つかったと伝わる場所だった。


 細い流れの先のくぼみには水が溜まり、風が渡るたびに表面が細かく波立っていた。


 陽菜は石碑の前に屈み、持ってきた花を花立てに差し入れた。

 空だった筒の中で、花がかすかに触れ合って揺れた。

 陽向が隣にしゃがむ。黙ってその向きを整えてくれた。


 供え終えると、示し合わせたわけでもないのに、ふたり並んで石碑に向き直り、手を合わせた。

 

 目を閉じると、頭上で葉擦れの音が重なった。ほかの音が遠のいていく。


 手を下ろし、顔を上げる。


 陽向はまだ石碑のほうを見ていた。伏せた睫毛の影が頬に落ちている。言葉を探しているようにも、飲み込んでいるようにも見えた。 


 しばらくして、彼が口を開く。


「……見てたこと、何も言わないの」


 問いというより、確かめるような声だった。

 陽菜は彼の横顔を見ながら答えた。


「びっくりはしたよ」


 正直にそう言うと、陽向の肩が目に見えて強張った。


「でも、嫌だとは思わなかった」


 そこでようやく、彼がためらいがちにこちらを向いた。


「そもそも公開アカウントだったし……それで、陽向くんに何かをされたわけでもないから」


 人探しをしている、あのアカウントのことを思う。見られていたことが、怖かった。

 見えない姿のまま、言葉を模倣して、少しずつ近づいてくるような感じがした。


 けれど、陽向は違う。


 見ていたことには驚いたし、隠していたことに引っかかりがないわけでもない。

 それでも、陽向のことまで、あのアカウントと同じようには思えなかった。


 少なくとも、彼はちゃんと目の前にいた。


 同じ時間を過ごし、言葉を交わすなかで、陽菜の中にはたしかに彼へ向かうものが育ってきていた。

 

「でも──『困りごと』って、どうして初めにそう声をかけてくれたの?」


「……陽菜の投稿に『#言えないまま』が混じってたから」


 ぽつり、と落ちた声は小さかった。


「私の投稿に?」


 陽向は頷き、言葉を継いだ。


「前に、公式インスタにそのタグが混ざるって言ってたでしょ。それと同じことが、陽菜のアカウントでも起きてた。春、人探しの投稿をリポストした日から」


「え……」


「意味があってそのハッシュタグをつけてるのか──どういうことなんだろうと気になって……なにかが、混じったようにも思えて」


 そこで一度、言葉が途切れる。


「……でも、見てたことを……隠したかったから。そう言い出せなくて。『困ってること』を聞いた」


「……そうだったんだ」


 知らないうちに紛れ込み、ログイン画面からは見えない「#言えないまま」。

 学内でも、人探しの話題を拡散していた生徒たちのあいだで、似たようなことが起きているらしかった。


 誰が、何の目的で──かは、想像もつかない。


 ただ、リポストして触ってしまったから、混ざったのかもしれない、と漠然と考える。


「……あのアカウントは、なんなんだろう」


 思わず、呟いた。

 陽向は短く息を吐く。


「わからない。ただ、『見つかった』って話題になっても、特に反応はなかったから……誰か一人を探してるっていうより、探し続けること自体が止まらないように見えた。……『見つかった』はずの俺がなんともないんだから、無害なのかな、と今は思うよ」


 陽向は窪みの水面のほうへ視線を向けた。水の上を流れる光が、彼の目の中でかすかに明滅する。


「でも、はじめはそんなふうに思えなくて──ほうっておけなかった。『困りごと』を聞いて、なにかできることがあるなら、と」


 陽向の眉が寄る。


「でも、相談に乗るうちに……陽菜に、近づきすぎたとも思った」


 陽菜は黙って続きを待つ。

 どうしてあのとき離れようとしたのか、知りたかった。


「……大学で人探しが話題になり始めたころ、他の学生の投稿にも『#言えないまま』が混じってるのを見た。

 それを見て──そのうち、別のところへ流れていくかもしれないと思った」


 陽向は苦く口元をゆがめて続ける。


「それに……勝手に見て、知った気になって。それで現実でまで繋がろうとするのは、過ぎたことを望んでるみたいで……卑しいと思った。だから……離れた」


 最後のほうは、ほとんど独り言みたいだった。


 たしかに、今はもうあのアカウントが陽菜の言葉を拾うことはなくなっていた。

 拡散が落ち着いてからは、「#志島大オープンキャンパス」や「#ベージュのスニーカー」も捜索投稿からは外れている。


 かろうじて残っているのは、現実の側で『#言えないまま』が投稿の末尾に勝手についてしまう──という『娘の呪い』の噂くらいだ。


「私のアカウントは、今はもう大丈夫そうかも」


 陽向が頷く。


「……でも、陽向くんに会えなくなって、私はさみしかったよ」


 そう言うと、陽向は唇を開きかけて、そのまま閉じた。


「だから、来てくれて本当に嬉しい。見ててくれたから、また会えたね」

 

 陽向は額に手を添え、観念したように息を吐いた。


「……あんなの見たら、来るしかなかった」


 そして遅れて、「諦め悪いな、俺は」と呟く。


 陽菜は思わず、照れながら笑ってしまった。 


「一緒だね。私も諦め悪くて──ちょっと、ずるいことしちゃったな、って思ってる」


 彼は不思議そうに首を傾げる。


「……ずるいこと?」


「うん。霧沢に行くって伝われば……陽向くんなら、来てくれるかなって」


 自分の指先を見る。投稿を打ち込んだ夜のことを思い出して、鼓動が少し早くなった。


「陽向くんが、ほっとけない性格なの、知ってたから」


 陽向の張りつめていた表情が、少しほどけたのを見て、陽菜は続ける。


「もとに戻れるよ、って言われたけど……私、たぶん、戻る気なかったんだと思う」


 そこまで口にして、自分でも腑に落ちるものがあった。からかうみたいに、笑ってみせる。


「諦め悪いし、私、けっこう頑固なんだよ。……それは、知らなかった?」


 陽向の表情が、ふっと崩れた。


 目が合ったまま、どちらもすぐにはらせなかった。


 そうしていながら、陽菜はようやく深く息を継いだ。

 彼と会えなくなってから、ずっと水の下にいたみたいだったのだと、今さら気づく。


 沢を渡ってくる朝の風が、火照った頬を撫でて通り過ぎた。


 ◇


 石碑の前を離れ、ふたりは来た道を戻りはじめる。

 沢の気配が少しずつ遠ざかっていく。


「でも、何が気になってたの?」


「え?」


「私のアカウント。見てても別に面白い投稿してたわけでもないのに」


 陽菜が言い終わるより先に、隣を歩いていた陽向が固まった。

 引きつったような顔で、しばらく口ごもる。


「ごめん……その……」


「あ、責めてるんじゃないの。単純に、何が楽しかったのかなって」


「……うまく、言えない。……心臓の動かし方を、聞かれたみたいで」


 陽菜は思わず足元に視線を落とした。

 意味をうまく掴めないまま、胸の奥だけが先に熱っぽくなる。


 顔を上げると、陽向はひどく真面目な顔をしていた。

 陽菜は「そうなんだ」と小さな声で返すのが精いっぱいだった。


 そのあとに落ちた沈黙は、行きよりも少しだけやわらかかった。

 道がなだらかに折れる。木々の隙間から、舗装路の明るさが見えてきた。


「今日も、日出男ひでおさんに送ってもらったの?」


 陽向が足を止めかける。


「……なんで、それを知ってるの?」


 陽菜も、あ、と声をもらした。


「日出男さんと話したことは、秘密なんだった」


 そう言うと、陽向は少しだけ眉を寄せた。


「どういうこと?」


「この前、谷見やつみ町の図書館に行って。桜の写真をお借りして……そのときに、陽向くんのことを少しだけ話したの」


「なんの話をしたの? あの人、余計なこと言わなかった?」


 少し慌てたような口調がおかしくて、陽菜は「秘密」とだけ返して笑った。


 見ていたことを、彼が後ろめたく思っているのは、もうわかっていた。

 ──でも、彼が知らない私もいるし、私にだって秘密はある。


「陽向くんは、どうやって帰るの?」


「帰りはバスで帰れって言われてるから……」


「じゃあ一緒に帰れるね」


 やがて木立が途切れ、下林のバス停が見えてきた。

 ふたり並んで立つ。帰りのバスの時間は近かった。


「あ、そうだ」


 大事なことを忘れていた。スマホを取り出す。


「連絡先、今度は教えてくれる?」


「……俺は、構わないけど……陽菜は、いいの?」


「いいって?」


「俺に、連絡先を教えても」


 前髪の向こうの目が、ためらうように伏せられる。

 陽菜は小さく笑った。


「繋がっていたいから、知りたいんだよ」


 言ってから、頬がまた熱くなった。けれど、言い直したいとは思わない。スマホを持つ手も、そのまま下ろさなかった。


 陽向はしばらく無言で陽菜を見ていた。

 ようやく、自分のスマホを取り出す。


 画面を寄せ合って、連絡先を交換する。


 登録された名前が並ぶ。今度はもう、どちらからでも辿り着けるのだと思うと、ふわりと気持ちが明るくなった。


 少し待つと、遠くからエンジン音が近づいてきた。

 バスが停まり、扉が開く。


 陽菜は先に乗り込み、二人掛けの窓側へ腰を下ろした。振り向いて、通路に立ったままの陽向を見上げる。


「今日は、隣に座って」


 陽向は一瞬ためらった。

 けれど結局、何も言わずに隣へ座る。


 バスがゆっくり動きだした。窓の外で、緑が後ろへ流れていく。


 揺れに合わせて、互いの肩のあいだの空気が寄ったり離れたりする。けれど、そのどちらも避けようとはしなかった。


「……あのアカウントは、消すの」


 陽向が小さな声で聞いた。


「うん。帰ったら、消そうかな」


「そっか」


「しばらく触ってなかったら、もういいかなって思えて。前は、SNSを開くのがほとんど癖みたいになってたんだけど……」


 ふと、膝の上のスマホを見下ろす。 


「だから……ときどき、連絡してもいい? 誰かに聞いてほしいことがあるときとか、自分で言葉にしたいことがあるとき」


 陽向の喉元がかすかに動いた。


「……うん。いつでも、そうして」


 そういえば──はじめて会った日の話をまだ聞いていなかった。


「あっ……そうだ。トウヤくん──じゃなかった。陽向くん。……ごめんね、しばらく呼び間違えるかも……」


 陽向は目尻を下げた。


「いいよ。でも、がんばって」 


 いたずらっぽい口調だった。陽菜の口から、ふふ、と笑い声が漏れた。


「名前が似てるとは思わなくて、びっくりしちゃった」


 陽向はすぐには答えなかった。

 足元へ視線を落とし、一拍置いてから言う。


「……だから俺も、はじめて名前を知ったとき、まずいと思った」


「まずいって?」


 陽菜の声が落ちてから、陽向がゆっくり目を上げる。


「いずれ離れるつもりで接してたのに……忘れようがない名前だったから」


 苦い表情で告げられたその言葉に、今度は陽菜のほうが顔を逸らした。

 ──忘れようがない。


 意味はわかるのに、その重さがうまく測れなかった。


「えっと……なんだか、呼ぶとちょっとくすぐったい感じがするよね」


 照れ隠しみたいにそう言い、軽く笑ってから陽菜は尋ねた。


「陽向くんは、私の名前を呼ぶのに慣れた?」


「慣れ……は、どうかな。でも──」


 そのあと、少し間が空いた。不思議に思って陽菜は顔を上げる。


 すぐに目が合った。


 彼は陽菜が顔を上げるのを待っていたみたいに、じっとこちらを見ていた。まっすぐな視線を向けられ、思わず息をのんでしまう。


「──自分の名前を見たり聞いたりすると、陽菜のことが浮かぶようになったよ」


 冗談めかした言い方ではなかった。低く落ちてきた声が、そのまま胸の奥に沈んで、すぐには消えてくれなかった。


 陽菜ひな陽向ひなた


 響きが似ているから、自分の名前を見たり聞いたりするたび、相手のことを思い出す。──そんなふうに結びつくことを想像して、陽菜はたしかに、と思った。


「私も、そうなるかも……」


 そう返すと、陽向は目を逸らさず、確かめるようにひとつ、ふたつ頷いた。そして、自分の喉元に手をやり、ふっと小さく笑った。


 その仕草は、安心したようにも見えたし、どこかそれだけではない気もした。


 陽向が声を整えるように咳払いする。

 

「さっき、何を言おうとしたの?」


 穏やかな表情だった。いつもの彼に戻った気がして──それでもまだ胸の奥はざわめいて、陽菜は首を横に振った。

 はじめて会った日の話のことは、また今度ゆっくり聞こうと思った。



 それからは、ほんとうにどうでもいいことを話した。


 窓の外の景色のこと。次の停留所の名前のこと。

 そんな何でもない話が、心地よかった。


 陽菜は膝の上のスマホの角に触れた。

 交換したばかりの連絡先が、そこにある。


 隣では、陽向も同じようにポケットの中のスマホを確かめた気配がした。


 帰ったら、すぐに連絡をしてしまうかもしれない。そう思うだけで、胸の奥がくすぐったくなった。


 ──次は、なにを話そうかな。


 窓の外を、夏の光が流れていく。

 



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