戻れない
暗がりの中で、スマホの画面だけが青白く光っている。
考えるよりも先に、指が動く。
鍵がかかっていて、もう中を見ることはできない。そうわかっているのに、それでも覗き込まない日はなかった。
滑稽だな、と自分でも思う。
静かな水面は、いまだ誰のことも拒んでいる。
もう言葉は降りてこない。光を目印にすることもできない。
何気ない生活の断片が、水面を揺らしてきらめくこともない。
それでも、指先は彼女のアカウントを目指して動く。
この向こうに彼女がいるのだと思っていたいのか。
自分でも判然としないまま、ただ、消えずにそこにあることだけを、何度も確かめていた。
見るだけなら許されると、まだどこかで思っている自分がいた。
画面越しに、触れないまま、繋がらないまま、見ているだけなら。
水底に沈み、向こうから見えないように息を潜めていれば。
身の程を弁え、過ぎたことを望まなければ。
自己弁護の声は止まない。
確かめるように。
見失わないように。
彼女のアカウントを見に行く。
学校帰りの電車の中でも、部屋に戻ってからでも、それはいつしか生活の一部になっていた。
ほとんど、心臓の律動みたいに。
◇
見間違いかと思った。
彼女のアカウント名の隣から、鍵のマークが消えていた。
息をするのを忘れた。
見ることができる。
──そう思った瞬間、かえって指が動かなくなった。
何の遮りもなくなった水面を、じっと覗き込む。
いくつか、新しく投稿が増えていた。それでも、閉ざされていた期間を思えば、ほんの少しだけしか増えていなかった。
古いものから順に、読んでいく。
どれもほんのついさっき、投稿されたばかりらしい。
「最近ずっと、思い出してばかりいる。」
「うまく気持ちを収められないまま、持て余している。」
「明日は休みだし、気分転換でもしようかな。」
「天気もよさそうだし、朝一番のバスで出るのもいいかも。」
そこまで読んで、喉の奥がひりついた。
霧沢へ向かった前の日のものと、よく似ていた。
──どういうことだ。
彼女はまた一人で、霧沢に行こうとしている?
祭りの直前に。
こんな──なぞるような内容を投稿して?
なんのために。
指で画面を下へと送る。
新しい投稿は、あとふたつあった。
「このアカウントは、明日で終わりにしようと思う。言えないままにはしたくないから」
──終わり。
繰り返しその文字を追う。
続く言葉になかなか意識が向ききらなかった。
なにが書いてあるのかは読めるのに、理解することを脳が拒んだ。
終わり。
なぜ、今。
指先が震える。
「忘れたくないし、忘れられないから、待ってるね」
待て。
──これは。
これは、誰に言っているんだ。
都合よく読むならば、わかるように置かれている気がした。──自分に、わかるように。
見ていたのだと、彼女はもう気づいているのではないか。そのうえで、これらの言葉を置いたのではないか。
自分に向けたものと受け取ってもいいのか。
呼ばれているのだと思ってもいいのか。
「忘れられないし忘れたくないって──恋って、そういうものなのかも、と思って」
彼女が腑に落ちたような口調で、霧沢の伝承についてそう言っていたのを思い出す。
──なら、「忘れたくないし、忘れられないから」というのは。
見ているだけでいい。見失わなければそれでいい。
そう思い込んできたものが、簡単に崩れていく。
このアカウントは終わりにする、と書いてある。
近く、水面は消えるのだ。
向こう側に彼女がいると確かめるだけの場所すら、明日にはなくなる。
それでもまだ、見ているだけでいられると思うのか。
抑えつけてきたものを、ようやく緩める。
喉の奥が、乾いていく。
──勝ち筋が見えてから、好きだと認めるのは、ズルいだろうか。
歪で、不格好で、ひどく見苦しいものが透けた気持ちを、ずっと抱えていた。
陽菜に気づいてほしくなかった。
こんな自分を見せるのはあまりにも怖かった。
その一方で──待っていると言われた今は。気づかれずに終わってしまうことのほうがより怖いと思ってしまう。
去年の春を、これまで何度も思い出してきた。
桜のそばで立ち止まった、ほんの短い時間。些細なやり取り。
それを、ずっと忘れられなかった。
そこから一年かけて彼女を見てきた。
落ちてくる断片を拾い集め、知ってきたつもりでいた。
けれど、この数ヶ月で、そんなものはあっという間に追い越されていった。
なにかを言う前に、浅く呼吸を整える癖。
憂いを吹いて飛ばすような柔い笑い声。
目が合ったときの、目元のほどけ方。
そんなことは、投稿からは何一つ読み取れなかった。
自分は彼女に、何度も「戻れる」と言った。
それが正しいのだと、自分にも言い聞かせてきた。
画面を見つめたまま、長く息を吐く。
でも──戻れるわけがない。
もう、現実で動くしかないと思った。
◇
ほとんど眠れない夜だった。目を閉じても、画面に置かれた言葉ばかりが浮かんで、朝がどこまでも遠かった。
自分の解釈が、都合のいい読み違いだったらどうするのか。その考えだけは、何度追い払っても戻ってきていた。
浅い眠りの底で、何度も夢を見た。
どれも寝覚めのよいものではなかった。
希望が見えたぶんだけ、最悪の想像も容易くできてしまった。
暗いうちから目は覚めていたのに、起き上がるまでに少し時間がかかった。伏したままで、スマホを手に取る。
彼女のアカウントが、まだそこにあるかどうかを確かめ、置かれた言葉を読み返す。
待ってるね。
忘れたくない。
言えないままにはしたくない。
息を吸い、ゆっくり起き上がる。
窓を開けると、土の匂いがした。朝の涼しさを含んだ風が鼻先を掠める。
それでも、指先だけが熱かった。
顔を洗って、着替えて、財布とスマホをポケットに入れる。いつもなら何も考えずに済むような動作が、今朝は妙にはっきりしていた。
玄関の鏡の前で、ふと動きが止まる。
会えば、きっと謝ることになる。
それも、ごめんで済むのかはわからない。
隠していたことを差し出して、自分の醜さを晒す。判断するのは彼女だ。その結果、嫌われたとしても──致し方がないだろう。
数刻先の痛みを想像し、顔が歪む。
それでも、行かないという選択だけはできなかった。
霧沢へ向かうために、ベージュのスニーカーに足を差し入れた。




