見つめ返したい
駅近の下宿先は、電車が通るたびにかすかな鳴動が伝わる。がたんごとんという規則的な音は、もう生活の一部みたいなものだった。
陽菜はベッドに腰掛け、スマホの画面を開いた。
指が向かったのはテキスト系のSNSだ。履歴に残っているあのアカウントをタップする。
『#探しています』の投稿が、淡々と並んでいた。そこに添えられた捜索情報やハッシュタグは、相変わらず少しずつ入れ替わっている。
大学内での話題が落ち着いたからか、いつの間にか#志島大も、#ベージュのスニーカーも外されていた。
自分のアカウントに戻り、おすすめ欄のタイムラインを眺める。
可愛い犬の短い動画。画像一枚のエッセイ漫画。くすっと笑えるような出来事。
なにもかもが過ぎたことみたいに、穏やかな雰囲気が広がっている。
戻った、と思った。けれど、自分のアカウント名の隣には、鍵のマークがついたまま。
設定を開く。一拍だけ迷い、鍵を外した。
タイムライン、通知、下書き欄を順に確認する。拍子抜けするほど何も変わらなかった。
新規作成をタップする。
何か呟こうとして──やめた。
今すぐ外へ投げたい言葉が、特に見つからなかった。
心の中では、言えないままの言葉がいくつも渦巻いているのに。
自分の過去の投稿を遡っていく。
小さな愚痴。
講義終わりの眠さ。
学食が美味しかったこと。
実家の遠さが、すこし不安になった夜のこと。
たいした意味もない、ひとりごとのような言葉が並んでいる。
ふと、指が止まる。
「今日はすごく充実した日だった。楽しかったっていうと、変かもしれないけど……よい日だった」
これは、公民館へ行った日の投稿だ。
トウヤと、一緒に。
その日、彼は歩調を合わせてくれた。
図書館で待っていてくれた。
袖がほんのちょっと触れ合って、
「またね」と言って、別れた帰り道。
胸の奥が切なく痛む。
画面を見つめたまま、陽菜は小さく息を吐いた。
──なにをしていても、トウヤくんのことばかり思い出す。
そうするたびに、違和感と後悔が胸に残った。
会えなくなった今になって、思う。
もし、ちゃんと向き合っていれば、なにか違ったのだろうか。言わないままのことを箱にしまわずにいれば。彼のことも、もっと聞けていたなら。
でも、もう──その答え合わせもできそうにない。
胸の奥の箱は、会わなくなってからも重くなるばかりだった。
どうして、いつも助けてくれたのか。
どうして、陽菜が霧沢へ向かったのがわかったのか。
どうして、好みや苦手なものまで、あんなふうに知っていてくれたのか。
いつも、飲み込んできてしまった。
触れてはいけない話題から目を逸らし続けてきた。
彼から距離を取られていることが、はっきりしてしまうのが怖くて、目の前のこと以上を彼に求める気にはなれなかった。
彼のことが知りたくても、聞けたのはせいぜい読んでいる本のことくらいだった。
そうしているうちに、箱の中は違和感と疑問と興味でいっぱいになっていた。
──でも、それでもいいと思った。
親切で、優しくて、一緒にいるときの居心地がよかったから。
目が合えば安心した。話せるだけで心が弾んだ。たまに彼の表情が崩れると、打ち解けられたみたいで嬉しかった。それで十分だと、そう思っていた。
目を伏せる彼の癖を思い出す。
困ったように笑う顔が忘れられない。
「陽菜」
名前を呼ぶ声も、耳の奥に残っていた。
いまだに、胸がくすぐったい心地になる。
──名前。
そういえば、それもだ。
ずっと引っかかっていることがあった。
「……ちゃん付け、あんまり好きじゃないんでしょ」
それを、なぜ、彼は知っていたんだろう。
誰にも話したことがないことだった。
もちろん、トウヤにも言った覚えはない。
でも、確か──どこかで、自分の言葉として外へ出した気がする。
指先が、勝手に動く。過去の投稿をさらにスクロールし、遡っていく。
投稿をひとつひとつ読んでいきながら、頭のなかでは彼と話したことがさざめいた。
「あのアカウントで、誰かと繋がりたかったわけじゃないの」 「誰かに見られてるなんて、思っていなかった」
陽菜がそう言ったあとの、彼の顔。
「そういうふうには繋がれない」
そう返したときの、静かで、でもどこか切り捨てるような彼の声音。
陽菜はスマホを持つ手に力を込めた。
しばらくして、陽菜の口から小さく声が漏れる。
「あ」
画面の中の短い投稿。
「ちゃん付けで呼ばれるのって、ちょっと苦手かも」
ずっと前の、誰に向けたわけでもない呟きだった。
見つけた瞬間、動けなくなった。
──もしかして、見ていたの。
そう思った途端、今までばらばらだった違和感が、急に一本の線で繋がっていく気がした。
陽菜は、息を詰めた。
電車の音が、ふっと遠のく。
──彼は、私のことを知っていた。
『俺と陽菜は、前にここで一度だけ会ってる』
最後に会った日に、彼はそう言った。
でも、それだけじゃないのかもしれない。
──私は、トウヤくんの何を知っていたんだろう。
何度も呼んできたその名前すら、どうやら違うらしかった。
それでも、彼と過ごした時間も、好きだというこの気持ちも、なかったことにはできない。
たとえ、見られていたのだとしても。
それを彼が隠していたのだとしても。
それだけで、受け取ってきたものまで嘘になるわけじゃないと思った。
画面の向こうにトウヤがいるのなら、こちらから見つめ返したいと思った。
言えないままには、しておきたくない。
陽菜はスマホを持ち直した。
新規作成を押し、ためらわずに言葉を打ち込んでいく。投稿したいことが、今ははっきりと浮かんでいた。
「最近ずっと、思い出してばかりいる」
「うまく気持ちを収められないまま、持て余してる」
「明日は休みだし、気分転換でもしようかな」
「天気よさそうだし、朝一番のバスで出るのもいいかも」
あの日、霧沢へ向かう前にした投稿を、そのままなぞるような内容だった。
そこまで打ってから、一度指を止める。
これでは、足りない。
「このアカウントは、明日で終わりにしようと思う。言えないままにはしたくないから」
「忘れたくないし、忘れられないから、待ってるね」
親指を画面から離す。
投稿してしまってから、文字を何度も読み返した。
遅れて、胸がどくんと鳴った。でも、消す気にはならない。
見ていたのなら──今も見ているのなら。
彼になら、きっと伝わる。行き先も、待ってる意味も。
彼がどこの誰なのかも、連絡先も、陽菜は何も分からない。そもそも「もう会わない」とも、きっぱり言われていた。
それでも。
──私の知っているトウヤくんなら。
きっと、来てくれるはずだ。
スマホを閉じ、陽菜は部屋の電気を消した。
枕元に置いたスマホに、もう手は伸びなかった。
ただ、彼のもとへ、自分の言葉がまっすぐ渡っていくのを想像した。
窓の外では、夜を切り拓くように電車が走っている。
その音を、いつの間にか耳がまた拾い始めていた。通り過ぎては、静寂に吸い込まれ、また遠くから迫る。
波音のようなそれを追いかけながら、陽菜の意識はまどろみに沈んでいく。眠りに落ちる直前、ふと、明日の足元を思った。
霧沢には、ベージュのスニーカーを履いて行こう。




