名残りの納め先
会議室の前で、陽菜は小さく呼吸を整えた。
それから、指先に力を入れて扉を開ける。
中は、いつもより少しだけ狭く見えた。
壁際に段ボールが寄せられ、机の上にも運び込まれたままの備品が雑然と置かれている。
祭りの日が近づくにつれて、会議室はだんだん作業場のような顔つきになっていた。
今回は、参加者が多かった。
あちこちで話し声が重なる。けれど、不思議と賑やかという感じはしない。誰もが余計な刺激を避けるように、どこか探るような調子で話していた。
──呪い。乗っ取り。
ここしばらく会議室の空気を曇らせてきた話題が、誰にもはっきり口にされないまま、足元に薄く沈んでいるような気がした。
陽菜は静かに席についた。
会議が始まる。
◇
当日の確認がひととおり終わり、司会の学生が「ほかに何かありますか」と室内を見回した。
静まり返ったなかで、陽菜は思いきって手を挙げた。
もう片方の手で膝の上のサブバッグにそっと触れる。借りてきた桜の写真が入っていた。
「あの。少し相談したいことがあって」
視線が、いっせいにこちらへ向いた。
引っ込めてしまいたい気持ちが一瞬よぎる。
でも、ここで黙ったら、言えないまま終わってしまう。
陽菜はひとつ呼吸を挟んで、続けた。
「霧沢のことを、前から少し調べていたんです。名残切りや、きりりちゃんの由来になっている場所で……」
何人かの顔に、話の着地点を測るような色が浮かんだ。
ここへ来るまでに、言うべきことを何度も頭の中で並べ替え、復唱してきた。けれど、ちゃんとまとまっている自信までは持てないでいる。
辿々しい口調で続ける。
「祭り直前の提案で、今さらになってしまうんですけど……少しでも、その由来がわかるものを置けたらと思って」
サブバッグから額装された写真を取り出し、皆に見えるよう胸の前で持ち上げた。
ちらりと写真を見下ろす。一本桜の淡い花の色が静かに広がっている。そのたおやかさに背中を押されるように、陽菜は言葉を継いだ。
「谷見町の図書館に飾ってあった写真です。お願いして、お借りしてきました。もしよければ、これを会場のどこかに置かせてもらえませんか」
「桜?」
香音が身を乗り出した。
「うん、霧沢の一本桜。娘を偲ぶ石碑のそばにあるんだよ」
香音は写真を覗き込んだまま、小さく「へぇ〜、そんなのあるんだ。綺麗だね」とこぼした。つられるように、近くの学生も口を開く。
「ここ、祭りの会場からは遠いの?」
「……あ」と小さく声が漏れた。興味を向けられたことが、嬉しかった。一瞬だけ浮いた気持ちを切り替え、陽菜は慌てて答える。
「下林っていうバス停を降りて、少し歩くかな」
「白石さんは行ったことあるの?」
「うん。一度だけ。立派な桜だったよ」
谷見町の自治会長、西村が席を立ち、写真をじっと見つめた。けれど、そのあとに続いたのは戸惑ったような声だった。
「うーん……でも、なんか、ちょっと空気が重くならない? これ、追悼のための桜なんでしょ」
会議室の空気がわずかに止まる。
西村は頭を掻いた。
「こういうの出しちゃうと、祭りとしては暗くなるというか……」
「えっと……」
言葉に詰まった背に、ぽんと優しく手が添えられる。振り向くと、土橋がにこりと笑っていた。
「この写真、日出男さんからお借りしてきたの?」
「あ、そうです」
「藤山さんか……」
西村の表情がほんの少し揺らぐ。
土橋が「ねぇ、西村さん」とやわらかく声をかけた。
「催しの雰囲気を壊さない程度になら。少しだけ由来に触れる展示もいいんじゃないかしら。谷見町は歴史もある町なんだから」
「まあ……ねぇ。うん、少しなら」
迷うような間を置いて、西村は苦い口調のまま続ける。
「……もう借りてきてるんだしね。写真は置いたらいいんじゃない」
陽菜は思わず顔を上げた。
「本当ですか」
「その代わり、あんまり硬くなりすぎない形でね。説明を添えるにしても長々やらないで、短めにして」
「はい」
答えながら、額縁を持つ指先の力が緩む。喉の奥に詰まっていたものが、少しだけほどけた気がした。
でも、まだ終わりじゃない。
──あと、もうひとつ。
息を整えて、陽菜は西村を見た。
「あの……それから、短冊なんですけど、紙に書いたものって、残したままにしないほうがいいんじゃないかなと思って」
西村が眉を寄せる。
「残したままって? ちゃんと処分はしますよ」
「処分とは違って、絵馬とかお守りみたいに、お焚き上げしてもらうとか……。ちゃんと終わり方を作りたいんです」
「お焚き上げ?」
西村はそこで、はっきり引いた顔をした。
「ええ、そこまでやるの? 仰々しすぎるんじゃない?」
陽菜は固唾を呑んだ。
写真を置く話とは違うのだと、自分でもわかっていた。こっちはもっと簡単には決められない。
それでも、自分が言いたいことは、自分で言わないといけなかった。
「やっぱり、人の気持ちのこもったものなので……」
「気持ちって……。でも、例年それでやってますからね。お焚き上げってなると予算も別にかかるし」
西村はそのまま、矢継ぎ早に続ける。
「正直ね、せっかくフォロワーも増えてたのに、インスタまで止めちゃってるわけでしょ。呪いだなんだって騒いでさ。ちょっと、繊細すぎるんじゃない?」
『呪い』という語が出た途端、何人かの学生が顔を伏せた。
「でも、西村さん」
重い雰囲気を割るように、張りのある声が飛んだ。
皆がいっせいにそちらを見る。大輝だ。彼はまっすぐ西村のほうを見たまま言葉を続けた。
「こういうのちゃんとしておかないと、今どき普通に炎上もありますよ」
西村が「え」と口を開けたまま固まる。
「今の空気ならなおさら、曖昧にしとくより、『由来を踏まえてます』『集まった短冊も適当に扱ってません』って見える形にしといたほうが安全です」
学生たちの何人かが、小さく頷く。
「たしかに」
「ちゃんとしたほうがいいよね」
「変なふうにまた話題になってもよくないし」
どの声も小さい。でも、皆それぞれに胸の奥が冷えているのがわかった。
西村が大きく息を吐きながら、大輝を見て、次に陽菜を見た。それから周りの空気を確かめるようにゆっくり視線を動かす。
「……わかりました。お焚き上げね……。俺じゃすぐに判断できないから、お寺さんに一回聞いてみるよ。できるかどうかも含めて」
言い終えてもなお、西村は少し複雑そうな顔のまま、「まあ、炎上はまずいもんな……」とぼそっと呟いた。
「ありがとうございます」
頭を下げながら、ようやく、陽菜は深く呼吸ができた気がした。
──よかった。
なにが正しいのかは、わからない。それでも、できることが目の前にある──それが、素直に嬉しかった。
◇
会議が終わり、それぞれが作業に戻っていく。
陽菜は桜の写真を机の上に置いたまま、ノートパソコンを開いた。手元にスマホも置く。
──写真に添える説明文を考えないと。
霧沢のことをどう書けばいいのか。簡潔に、でも冷たくならずに伝えるにはどうしたらいいのか。歴史保存会の冊子から書き写しておいたメモをスマホで開く。
都人を追って霧に消えた娘。
石碑に刻まれた一首。
片方だけ池から見つかったという草履の口承。
キーボードの上に指を置いたまま考え込んでいると、隣に座っていた香音が、ぽつりと言った。
「考えてみたら、人の失恋に乗っかるようなのって、あり得ないよね」
「え?」
香音は、数を数え直した短冊を揃え、箱に詰めながら肩をすくめた。
「桜とか石碑とか、ちゃんとそういうのがあるんだなって思ったらさ。なんか、ただの作り話じゃない気がしてきて。そしたら、それを町おこしにしてるのってどうなんだろって思っちゃった」
軽い調子だった。けれど、それは、陽菜がずっと胸の奥で引っかかっていたものと似ていた。
「……うん。そうだね」
陽菜が答えると、香音は箱を持ち上げながら「だよねえ」と鼻を鳴らした。
「遠い話だと思ってたから、今までそんなに考えたことなかったんだけどさ」
壁際まで箱を運んで、香音はまた戻ってくる。机に手をついて、少しだけ声を低くした。
「私ね、元カレへの未練を断ちたいなあとか思って……名残切り、ちょっと面白そうって思ってたんだ。でも、短冊に書くなら、やっぱりそれはやめとこうかな」
「どうして?」
「なんか、そうやって断ち切るもんじゃないのかもって思って。縁を切るならもっとこう……怠け癖とか、そういうのにしとく」
香音が笑って、陽菜の隣に腰を下ろした。その距離の近さに、不思議ともう身構えることはなかった。
向かい側では、別の学生たちが送風機の試運転をしていた。透明な箱の中で、色とりどりの短冊の欠片がふわりと舞い上がっては落ちる。
もし、自分が短冊に書くなら──その名残を断ち切るのなら。
そう考えた拍子に、つい、言葉がこぼれる。
「……失恋の未練って、どうやっておさめるの?」
言ってから、自分でも少し気まずくなった。
香音は「えー」と気の抜けた声を出して天井を見た。なんでもない反応が返ってきたことに、陽菜は少しだけほっとした。
「時間薬かなあ。好きだって気持ちが薄れる日が来るのを待つ感じ?」
「……そっか」
そう返しながら、でも──と思ってしまう。
──薄れてほしくない気持ちは、どうしたらいいんだろう。
「陽菜ちゃんも失恋?」
「うん、そうみたい。長く引きずりそうで」
「えー! 意外」
香音は目を丸くしたあと、すぐに、にやっと笑った。
「そうだ、今度プロジェクトのみんなで遊びに行かない? フリーの子限定で」
「ありがとう。でも、今は大丈夫かな。しばらく、そういう気分にならないと思うから」
香音は少しのあいだ陽菜を見て、それからふっと笑った。
「なんか、陽菜ちゃんのことちょっとわかってきたかも」
「え?」
「曲げないとこがあるっていうか」
「うーん。……諦めが悪いのかもね」
「でも、いいじゃん。それだけ好きだったってことでしょ」
──それだけ、好きだった。
自分が頑固なだけではなくて、それもあるのかもしれない、と思った。
今、胸が切なくて痛いのに、それでも何度も思い出してしまうのは。
忘れたくないし、断ち切りたくないと思ってしまうのは。
陽菜は目を伏せた。
なんだか、会えなくなってから知ることばかりだな、と思った。彼のことも。自分の気持ちも。
「何の話?」
声がして、ふたり揃って顔を上げる。大輝が購買の袋を片手に、机の前に立っていた。
香音がすぐに笑う。
「女子の秘密の話です」
「なんだそれ」
大輝は軽く笑って返すと、袋の中からプリンを三つ取り出した。並べられた透明なカップが、蛍光灯の下でつるりと光る。
「SNS班の仕事ももう終わりだから。インスタは停止することになっちゃったけどね、お疲れさまってことで」
「やったー! いただきます」
香音が小さく拍手して受け取った。
「あの、さっきは助かりました」
「うん?」
「西村さん、私ひとりじゃ説得できなかったと思うので……大輝先輩の助け舟のおかげです」
「あ〜、それね。だてにプロジェクト二年目じゃないでしょ。あの人に通りそうな言い方、なんとなく心得てるから」
はい、と差し出されたプリンを、陽菜は両手で受け取った。ひんやりした感触が掌に気持ちいい。重ねて礼を言うと、大輝はにっと笑って、そのまま話を続けた。
「それに、アップデートしていくのは良いことだよ。内容も筋が通ってると思ったしね」
言いながら、大輝は香音とは反対側の席へ腰を下ろした。
三人並んで、各々にプリンの蓋を開ける。
小さなスプーンですくって、一口食べた。甘みが舌の上でゆっくりほどける。張りつめていた身体に、優しく沁みていく気がした。
「あ、そうだ」
香音が言った。
「昔の #言えないまま の投稿、ちょっと見てみようかな。なんかバズってたってころのやつ」
陽菜が顔を向けるころには、スプーンをくわえたまま、香音が画面の上に指を滑らせていた。
「香音ちゃん、怖がってなかった? 大丈夫なの?」
もう食べ終わったのか、空の容器を袋に片づけながら、呆れたような口調で大輝が聞く。
「なんかもう……怖いを通り越して疲れちゃって。なんでこんなことになったのかもわかんないし、気になるなって」
その言い方が妙にしっくりきて、陽菜も自分のスマホを引き寄せる。
「おいおい、陽菜ちゃんまで……肝が座ってるねぇ」
机に肘をついた大輝が小さく苦笑した。
アプリを切り替え、『#言えないまま』のハッシュタグを辿る。
何年も前の言葉が、そのまま並んでいた。
手放したいもの。
言えなかったこと。
断ち切れない未練。
「なんか……人の気持ちがこもってて、気持ち悪いかも」
香音が顔をしかめながら言った。
「まあ、ハッシュタグ自体がもう、念を込めてつけるものだからね」
大輝はさらりとそう言い、言葉を重ねる。
「ほら、本文だけじゃ足りないから、わざわざつけ足すんでしょ。誰かに届けたいとか、繋がりたいとか、そういう感じで」
香音は「あー、たしかに」と頷いて、スマホを机に静かに置いた。
陽菜は画面を見つめたまま、指をゆっくり滑らせた。
『言えないまま』の言葉が、こんなにも。届けたい気持ちも、繋がりたい気持ちも抱えたままで、置いていかれているのだと思った。
「……これも、終わり方を作れないかな」
気づけば、呟いていた。
「終わり方?」
香音が首を傾げる。
「人の気持ちがこもってるから……これも。どこかへ収めるような方法があったらいいのにと思って」
「じゃあ──」と呟いた大輝が、空中に円を描くように指先を動かす。
「印刷する?」
「印刷、ですか?」
「ほら。前に俺が陽菜ちゃんに渡したみたいな感じでよければ、投稿を一覧にして印刷することはできるよ。よかったら、俺がやろうか。紙なら、短冊と一緒に、お焚き上げしてもらうこともできるし」
「お願いしてもいいんですか?」
陽菜がそう言うと、大輝は「もちろん」と頷いた。
「陽菜ちゃんは、こっちの作業も急いでやらなきゃだしね」
大輝がノートパソコンのそばを指で軽く叩く。
「それで、どう? 写真に添える文章は決まった?」
問われて、陽菜は少し言い淀む。
ノートパソコンの画面には、まだ白い空白が広がっていた。
「歴史保存会の冊子を参考に書こうとは思っていて……」
そう言いながら、スマホのメモアプリをまた開く。図書館で書き写してきた言葉をひとまず打ち込んでいく。
「どこをどう削ったり、言い換えたらいいのかが難しくて」
言い終わるより先に、香音が身を寄せて画面を覗き込んだ。
「うん。このままだと、ちょっと硬いかもね」
「だよね……」
「ここ、書き換えてみてもいい?」
陽菜が頷くと、香音が横からキーボードを叩いた。
言い回しが少しずつ置き換えられていく。文章の空気がみるみるうちにやわらかくなっていった。
「……あと、ここ。字が詰まりすぎてるかな」
大輝が画面の上を指さす。
「レイアウトもちょっと変えてみたらいいかも。行を空けるとか、情報を分けるとか」
陽菜は頷き、マウスを握った。大輝の指の動きをなぞるように、カーソルを動かす。
三人の話し声がしばらく重なる。
画面の中が、少しずつ、落ち着いていった。




