由来をたどって
「こんにちは」
受付に向かって声をかけると、中にいた土橋がすぐに顔を上げた。
「あら! 白石さん? また来てくれたの?」
公民館の廊下に弾んだ声が響く。すぐに緊張がやわらいだ。
「ちょっとお話をうかがいたいことがあって」
言い終わるより早く、土橋は「まあ、そうなの!」と何度も頷いた。
「どうぞ、上がって上がって! ……と言いたいところなんだけど、今日はこれから来客予定があるのよ。ここでも構わない? ごめんなさいね」
「いえ、こちらこそ。いつも突然来てしまってすみません。あの……谷見まつりのことなんですけど」
「ええ。なに?」
「名残切りが始まる前は、どんなお祭りだったんですか」
「そうねぇ……そんなに今と変わらないかしら。出店が出て、花火が上がって。舞台ではカラオケ大会や小学生の出し物があって……」
「悲恋伝承のことは、昔から?」
「いいえ。あれは名残切りからね。霧沢の伝説は、地元の人でも皆が知ってるってほどの話じゃなかったの。でも、町おこしとして急に注目された感じね」
「地元の人でも、ですか」
「場所が場所だもの。私も、そういう話があるとは聞いていたけど、実際に霧沢へ足を運んだのは、ここで勤めるようになってからだったわ」
言いながら、土橋は机の脇に積まれていた冊子の束をあれこれと動かし、やがて一冊を抜き取った。
「これね、市の歴史保存会が出してる冊子なんだけど……」
「あ! 大学の図書館で、読んだことがあります」
「そうなの。白石さんは本当に熱心ね。そんなに派手なものじゃないけど、読むと面白いわよね」
土橋がぱらりと背表紙をめくり、「ほら、ここ」と言って、奥付に載った主幹の名前を指さした。
「日出男さんっていうんだけど、すぐ隣の図書館で勤めていらっしゃるの。伝承のことなら、私に聞くより詳しいと思うわ。訪ねてみたらどうかしら」
頷き、その名前を目で追った。
「……藤山|日出男さん」
小さく声に出して読んでみる。
すると土橋が、ああ、と笑った。
「違うの。トウヤマさん、よ。このへんでは、だいたいそう読むから」
陽菜は瞬いた。
「藤山さん……」
「外から来た人からすると、珍しい読み方かもしれないわね」
ただ読み方を訂正されただけなのに、その響きが妙に耳に残った。
◇
谷見町の図書館に入ると、埃っぽい空調の匂いがした。
カウンターの向こうにいた司書が顔を上げる。陽菜を見るなり、どこか親しげに笑った。
「ああ、前にも来てくださったお嬢さんだね」
以前来たときに「デートかい」と冗談めかして言った、あの司書だった。
「こんにちは」
「今日は一人で?」
「はい」
答えながら、一瞬だけ窓辺の席へ視線を向けた。
空いている。誰もいない。
いるはずがないとわかっていたのに、それでも胸のあたりが少しだけ痛んだ。
「あの、少しお話を伺いたくて……歴史保存会の、藤山日出男さんはいらっしゃいますか」
司書は目を丸くした。
「それは……私ですが。若いお嬢さんに訪ねてもらえるとは、驚いたな」
「あっ、すみません。急にお名前を出してしまって。歴史保存会の冊子、ここ数年分、読ませていただきました」
「昔ながらの、取っつきにくい冊子だったでしょうに。読んでもらえてるとは、嬉しいね」
返事のやわらかさに、陽菜は少し肩の力を抜いた。
「去年号のあとがきが特に好きでした。補足みたいなことがさりげなく書いてあって、読み応えがあって」
日出男が顔を綻ばせる。
「ああ、それは孫の担当だね。今度会ったときにでも、ぜひそう言ってやってください」
「お孫さん、ですか?」
「ん? ほら、前に来たとき、ここで待ち合わせしていたでしょう」
ややあって、日出男は眉を下げて言葉を続けた。
「……ひょっとして、うちの孫は歴史保存会のことは話してなかったですか」
「え……あっ」
遅れて、心の中で点と点が繋がった。
──トウヤくんの、おじいさん?
「ご、ごめんなさい。私、気がつかなくて……」
日出男は穏やかに手を振った。
「いや、いい、いい。あれが言わなかったんでしょう。ちょっと気難しい子なもんですから。……仲良くしてくれてありがとうね」
視線が揺れた。仲良く、を否定もできず、だからといってもう会えなくなった今、頷くこともできなかった。
──トウヤくんは、歴史保存会に関わっていたんだ。
あんなにいろいろ詳しかったのも、だからかもしれない。
「谷見町のことで、トウヤくんには、いろいろ教わって……すごく助けられました」
言ってから、過去形になってしまったことに気づく。胸がきゅっと締め付けられた。
「トウヤ……?」
わずかに首を傾げた日出男が、一拍置いてから不思議そうな声音で聞き返した。
「それは、あだ名か何かですか」
──え?
先日の大輝の表情が頭をよぎる。あのとき彼も、同じように名前に引っかかっていた。
違うのかもしれない。でも、陽菜にとって彼はトウヤだった。
「……そういうふうに、私はお名前を伺っていました」
日出男は少しだけ目を伏せた。
「……そうですか。……申し訳ありません。あれがそう名乗っていたのであれば、私からは……」
その先を言わせたくなくて、陽菜は慌てて首を振る。
「いえ、いいんです。親切にしてくれたことは変わらないですから……」
言いながら、自分でもその言葉に少し支えられる気がした。知らないことがあっても、たとえ名前が違っても、それが彼といた時間まで変えてしまうわけではないのだから。
「今日は、霧沢の伝承のことを知りたくて来たんです。今の祭りの前は、どういうふうに伝わっていたのか、気になって」
「そうかい。あれはね、石碑とわずかな口承が伝わっているだけで、子細はわからないままなんだ。都人についても、落人だとか貴人だったとか、年代すら曖昧でね」
陽菜は黙って頷く。
「今や悲恋伝説なんて呼ばれ、町おこしの顔にもなっちゃいるが……」
「お祭りとも、もともとは無関係だったんですよね」
「うん、そうそう。前は昔ながらの納涼祭だったんだよ。でも、それじゃよそから人が来ないってんで、『名残切り』を始めたんでしょう。話題にしやすい形で、娘の哀れさを前に出してね」
陽菜は何も言わずに聞いていた。
「保存会のほうでは昔から、お盆のころにね。大げさなことはしないけど、霧沢へ行って少し手を合わせていたんだ。花を供えたり、掃除をしたり、そのくらいのことだけどね」
その話は、あの場所の空気によく馴染む気がした。
「……そっちのほうが、しっくりくる気がします」
そう口にしてから、一度息を吸い直した。
「私、一度だけ、霧沢に行ったことがあるんです。すごく静かな場所で……石碑も桜も、誰かが娘を弔うつもりでここに置いたのかなと思うと、明るい催しとはなんだか結びつかなくて」
「へぇ、霧沢まで? 遠かったでしょう」
陽菜は目を伏せたまま続けた。霧沢のことを話そうとすると、どうしてもトウヤのことが浮かんだ。
「歴史保存会の冊子で見かけて、行ってみたいと思って。春に……お孫さんが、案内してくれたんです」
日出男は瞬いて、ゆっくり目を細めた。
「そうかい、孫が。……そういえば、桜の散ったころだったかな。急に草刈りの日程を早めようと言い出したことがあってね。お嬢さんを案内したのは、土曜日の朝じゃなかったですか?」
胸の奥で、何かがかちりと噛み合った気がした。
「はい。──あ、じゃあ、ひょっとしてあのとき草刈機を使ってらしたのは」
「私ですよ」
日出男はやわらかく笑った。
「早朝から車を出してくれと言ってきたわりに、着いたらどこか走っていってね。まったく、この孫はと思ってたんですが……そうですか。お嬢さんを一人で歩かせるのは危ないとでも思ったんでしょうね」
──あのとき、そうだったんだ。
トウヤなら、確かにそう気遣ってくれそうだなと思った。
──でも、なぜあの日、私が霧沢へ向かったのがわかったんだろう。
「いや……でも、お嬢さんみたいに足を運んでくれる人がいるのは嬉しいね。弔いの気持ちみたいなものは、今の催しとは遠いし、もとになっている伝承や、石碑や一本桜のことを知らない人も多いだろうから」
相槌を打ちながら、ふと視線を上げる。カウンターの奥の壁に飾られた写真が目に入った。引き伸ばされた桜の写真だった。画面いっぱいに、淡い色の花が咲いている。
「……あ、あの写真って一本桜ですか?」
日出男がそちらを振り返る。
「そうだよ」
陽菜はしばらく、その写真を見つめた。枝ぶりも、花の重なりも見事だった。それでいて、場所の静けさや穏やかな気配まで写っているように思えた。
「綺麗ですね」
「ええ。満開のころになるとね、毎年つい撮ってしまうんです」
日出男はそう言って、少し笑った。
「でも、もったいないことに、あそこは旧道沿いだからね。地元の人でも滅多に行かないんだよ」
その言葉に、陽菜はまた写真を見た。
由来になっている伝承のことも、霧沢の一本桜のことも、皆にはあまり知られていない──
少し迷ってから、陽菜は口を開いた。
「……もしよければ、なんですが。この桜の写真、お祭りでお借りできませんか」
「この写真を、ですか?」
「今、お話を聞いていて、お祭りの会場に霧沢のことがわかるものを置けたらと思って……」
そこで一度言葉を切る。口にするうちに、自分がどうしたいのかが少しずつはっきりしてきた。
「今の雰囲気を壊したいわけじゃないんですけど、でも、伝承のことやこの場所のこともお祭りに来た人たちに知ってほしくて」
日出男は穏やかに頷いた。
「構いませんよ。ぜひ、使ってください」
「ありがとうございます」
陽菜が頭を下げると、日出男は苦笑まじりに口を開いた。
「……名残切りは、志島大学の学生さんたちが町のために考えてくれたもの、と理解はしてるんですがね。ずいぶん華やかだから、頭の硬い私にはよくわからなくてね」
責めるような口調ではなかった。ただ、少し遠くから眺めているような響きだった。
「若い人向けに、おまじないみたいなことをしてる催しだと思って見てたんですよ。でも、伝承に触れてもらうきっかけになるのなら、それはそれで意味があるのかもしれません」
「……もう少し、伝わってきたものに寄せる形にできないか、私も考えてみます」
しばらく黙ったあと、日出男が「そういえば」と言葉を落とした。
「前から気になっていたんですが。あの短冊は──」
陽菜は首を傾げた。
「ほら、縁切りたいものを書いて切るとかいう。ああいう短冊は、ちゃんとお焚き上げとかしているのか。お嬢さんはご存知ですか?」
「お焚き上げ……は、とくに聞いていません。ゴミ袋に集めて……そのまま自治体の回収に出す手筈だった気がします」
「そうですか」
日出男はわずかに眉を寄せた。
「いや、絵馬やお守りなんかもお焚き上げするでしょう。念がこもる、なんて言い方をすることもあるけど……それを残したままというのは、古い人間としてはどうにも気になってね。捨てるのと、きちんと納めるのとでは、やっぱり違う気がするんですよ」
残したまま。
言えないまま残っているもの。
誰にも受け取られないまま、宙ぶらりんになっている言葉。
頭の片隅で、あのハッシュタグのことが浮かんだ。
──お焚き上げ。
まだ、どうすればいいのかはうまくまとまらない。
それでも、足場になる場所を見つけた気がした。
日出男が立ち上がり、壁に掛けていた桜の写真を外し、すぐに戻ってきた。額に入ったそれを受け取る。
手のひらに、重さとはまた別のものまで乗った気がして、背筋がしゃんと伸びた。
額に入った桜を見下ろす。
「あの、日出男さん。今日、私が来たことは……できれば彼には……」
言い終わる前に、日出男は穏やかに頷いた。
「ええ、わかっています。孫には、秘密にしておきましょう」
にっと笑ってから口元に人差し指を当てたのを見て、陽菜も少し笑ってしまった。
なんだか、トウヤとふたりで隠れんぼをしているみたいだと思った。
でも、トウヤはきっと、見つかることを喜ばない。
繋がる手段は断られてしまっていたし、彼には彼の事情があるのだと思う。
望んでもいないのに人づてに探すようなことや、彼が言わなかったことへ勝手に踏み込むようなことは、したくない。
写真を抱え直す。
今は、目の前のことだ。
名残切りにも、伝承にも、せっかくだからちゃんと向き合いたかった。




