見えている断片
名前を呼べなかったことが、胸に残っていた。
あのとき、確かに口は開いたのに、声にはならなかった。
呼べば、誰かに名前を聞かれてしまう。また好き勝手に輪郭を作られるかもしれない──そんな考えがよぎって、結局、呼べなかった。
一瞬のためらいだった。
それをここ数日、何度も思い出してしまっていた。
玄関で、ベージュのスニーカーが目に入る。履けなくなったときとは少し違って、ただ切なかった。
静かな図書館、低い書架のそばのあの席の下。同じ二足が向き合うことは、きっと、もうない。
なんだか、置き去りにされたものを見ているような気がした。
また履く気になる日が来るのかは、わからない。
◇
「そういえばあの捜索の話題、本当に落ち着いたね」
講義が終わり、机の上を片づけていると、凛花がスマホを片手にそう言った。
陽菜は曖昧に頷く。
話題としては、たしかにそうだった。
あれだけ騒がしかった、#志島大をつけたインスタ投稿を、今はもう誰もしていなかった。
けれど、それで気持ちまで落ち着くわけではない。
名前を呼べなかったあの日、図書館でなにがあったのかは、結局よくわからないままだ。
『見つけた』という騒ぎを知って駆けつけたときには、もうトウヤは図書館から出てくるところだった。
すれ違うとき、目は合わなかった。合わないように、彼が逸らしたのだと思う。
それすら、最後まで自分を気遣ってくれたからではないか、と考えてしまう。
──彼は、いつも優しかったから。
鞄にノートをしまう手が止まる。凛花が顔を覗き込んできた。
「陽菜?」
「……うん?」
「……まだ、しんどそうだなって思って。なんかあったら言ってよ」
その言い方がやけにやさしく聞こえた。笑おうとして、うまくいかない。滲んでくる涙を押し込めようとするほど、顔が歪んでしまう。
凛花は驚いたような表情で止まり、慌ててこちらに向き直った。
「え……えっ? どうしたの。あの投稿? 誰かになんか言われたとか?」
首を横に振る。深く息をついて、呼吸を整える。
「……ちがうの」
そこまで言って、続く言葉を探した。
浮かんだものを、そのままぽつりと落とす。
「失恋しちゃって」
凛花は口をぽかんと開けて、それから弾かれたみたいに声を上げた。
「どこの、だれ!?」
残った生徒のまばらな教室に、その声が響く。
「……凛花。声、大きいよ」
「あっ、ごめん、今のナシ」
慌てて口元を押さえる凛花がおかしくて、陽菜は思わず「ふふふ」と笑った。
笑った拍子に、目の奥が熱を持つ。泣き笑いみたいな、変な顔になっている気がした。
「そっか、失恋か……陽菜が、失恋。そっかそっか……」
凛花は落ち着かない様子で、机の上に手を滑らせながら、けれど無理に言葉を継がなかった。
「どこのだれかは聞かないの」
「気にならないわけじゃないけど……やっぱり、そこは聞かなくていいかな」
「さっきは叫んでたのに」
「私は、陽菜のことが聞きたいだけで。相手がどこのだれでも、そんなに関係ないっていうか」
「そっか」
「──それに、具体的に聞いたところで、たぶん相談にはならないでしょ」
「どういうこと?」
凛花は肩をすくめる。
「陽菜、アドバイスとか聞かなさそうだもん。けっこう自分の感覚で動くタイプじゃん」
「そうかな?」
「あのねぇ。『せっかく病』もだけど、そういうのって、自分の意思がないとできないよ」
陽菜は小さく瞬いた。
「プロジェクトに参加するのだって、陽菜、自分一人で決めてたじゃん」
自分としては、あんまり深く考えてなかっただけな気がして、首を傾げる。凛花は苦笑いした。
「けっこう頑固だよ、陽菜って。そういうとこ、面白くて好きだけど」
──頑固、か。
陽菜は少し考えてから、なんとなく机の上に視線を落とした。
「そう、なのかな」
自分では、よくわからなかった。
けれど、『忘れるよ』と言われても、忘れるつもりになれないこと。
『戻せる』と言われたのに、自分では何度も思い出してしまって、戻る気になれないこと。
そういうところを、頑固というのかもしれないな、と思った。
◇
プロジェクトの会議室は、いつもより人が少なかった。
西村さんたち自治会の大人や、ほとんどの学生は、祭りの会場である旧役場の準備に出ているらしい。
会議室に残っているのは数人だけで、そのぶん、場の落ち着かなさが余計に目立った。
スマホの白んだ光があちこちで灯っては消える。
誰もが作業をしながら、画面の向こうで何か起きていないかを確かめているようだった。
香音がノートパソコンを操作しながら、「じゃあ映しまーす」と言った。
スクリーンに、公式インスタの画面が映る。きりりちゃんの笑顔のプロフィール画像。
投稿が流れる。華やかに加工された、目を引く写真だった。
けれど、視線はつい、『異変』を探すようにキャプションへと滑る。
どこも、変わっていないように見えた。
けれど、誰かがすぐに「あっ」と声を上げる。
「見て、また……」
「ほら、こっち」
「この前のと変わってる」
皆の視線は、前方のスクリーンではなく、各々の手元へと落ちていた。
「えっ、また?」
香音が近くの人のスマホを覗き込む。
そのまま、口に手を当てて言葉を失っていた。
誰もそれ以上、話さない。
会議室は、しんと静かになった。
皆に遅れて、陽菜も自分の端末でインスタを開く。きりりちゃんの円をタップした。
スクリーンと変わらない画像、明るい祭りの告知文のその下へ、視線が、ほとんど反射みたいに引きつけられた。
「#探しています」だった。
ひゅっと喉が詰まって、呼吸が遅れた。
見慣れた──それでいて、いつからか気味悪く感じていたその言葉が。それが。入り込んでいた。
近づいている気配だけがあったものが、いよいよ触れてきた気がして、肌の裏側を冷たいものが這い上がってくるような心地がした。
「……これ、この前なんか話題になってなかった?」
誰かが小さく言った。
「ほら、テキスト系のSNSから始まって……あの、緑色のプロフィール画像の」
その言葉をきっかけに、皆が慌ただしくスマホを操作し始めた。
陽菜もつられてアプリを切り替える。例のアカウントはブロックしたまま、相変わらず履歴に残っていた。表示を押す。
「#探しています」
「情報をお持ちの方は連絡ください」
「拡散お願いします」
──それから、淡々と情報が並ぶ。名前、年齢、住所。それから失踪当時の服装。
その並びに混ざるようにして、明るい言葉が脈絡なく差し込まれていた。
「来ませんか?」
「体験しましょう!」
「お待ちしています。」
どれも、祭りの公式投稿で使っていた言い回しだった。
それを真似しようとして、でも、うまく真似できていないような文面だと思った。そう意識した途端、背筋に悪寒が走った。
そこに続くハッシュタグもやっぱり支離滅裂で、誘うような文言と噛み合っているようには思えない。
「誰がやってるの」
香音の声が少し震えていた。
「乗っ取り?」
「公式インスタを?」
「いたずらとか?」
「でもこんなこと、できる?」
「じゃあ、やっぱり……呪い?」
以前は半ば冗談みたいに投げられていたその語句に、今日は誰も笑っていなかった。空気が、目に見えるように恐怖へ寄っていく。
「さすがに、インスタは止めたほうがよくない?」
顔をしかめて言った子がいた。
「でも、祭り直前だし……」
そう言った子の声も、今日は弱々しかった。
「このアカウントの探し人を見つけたら、止まるとか?」
自分の眉が寄るのがわかった。
「ほら、この前の図書館の人は違ったらしいし、まだ別の誰かを探してるとか──」
──そういう曖昧さで、トウヤくんはあんなことになったのに。
「そんなこと、わからないよ」
気づけば、陽菜の声がその言葉を遮っていた。
室内がまた静まる。陽菜は自分でも少し驚きながら、けれどそのまま続けた。
「なにもわからないのに、そんなこと言っても不安になるだけじゃないかな」
誰も反論してはこなかった。ただ、落ち着かなさだけが部屋のあちこちに残っている。
大輝が小さく息をついて、口を開いた。
「……公式インスタを止めよう」
皆の視線が集まる。
大輝は一人ずつの顔を見渡してから、淡々と続けた。
「呪いかどうかなんてわからないけど。でも、現実的な対処をしておくに越したことはないから。西村さんたちにも、俺からそう言っておくよ」
その落ち着いた声が、かろうじて場をまとめていた。
「祭り直前で、広報的には痛いけどさ。アカウントごと一回止めよう。念のため、SNS担当の俺たちは、個人のアカウントにも鍵をかけておこう。今のところ何も起きてないけど、乗っ取りだとかに怯えたくはないし。備えておくのは悪くない」
香音もすぐに頷いていた。
ほかのメンバーも、もう反対はしなかった。
これ以上何かが起きる前に、皆、距離を取りたがっているように見えた。
画面の中で、きりりちゃんの丸い笑顔だけが変わらずこちらを向いていた。
◇
会議が終わって、学生たちがぱらぱらと部屋を出ていく。
立ち上がりかけたところで、「陽菜ちゃん」と大輝に呼び止められた。
「……あれから、どうなった?」
「あれから、って?」
戸惑っていると、大輝は少し焦れたように言い直した。
「あ、陽菜ちゃんの……友達。ほら、図書館の……大丈夫だった?」
陽菜は思わず、鞄の持ち手を握りしめた。
「……もう、ここには来ないって。そう言ってました」
大輝は深く息を吐き、頭を掻いた。
「やっぱり……あの時、そういうつもりで……」
何かひとりで納得したように、また陽菜を見る。
「連絡先とかは? 聞けたの?」
陽菜は首を横に振った。
「いいえ。結局、連絡先も何も。……知らないままになっちゃいました」
大輝は言葉を失ったように口を閉じ、それから「あー……」と曖昧に呻いた。
少し迷うような間があった。
やがて、決めたように口を開く。
「……俺さ。ごめん。陽菜ちゃんのいないところで、彼と少し話したことがあるんだ。……学校のこと、とか。彼について、わかることがある」
そこまで言ってから、大輝は声を落とした。
「聞く?」
陽菜はほんの少しだけ迷って、それでも首を横に振った。
「いいです」
「でも──」
「人から聞くのは、違う気がして……。それに、それを聞いても、私のなかでトウヤくんはトウヤくんなので」
言ってしまってから、親切を無碍にしてしまったかなと思った。
でも、自分の感覚としてはたぶんそれがいちばん近かった。
大輝は目を見開き、「トウヤ……?」と呟いた。
そのあと、何かを言いかけるように唇を動かした。でも、すぐに息をついただけだった。
「……いや、ごめん。なんでもない。……でも、行けば会えそうな場所もわかるよ」
「それも、大丈夫です」
「話し足りてないこととかないの?」
「あるにはあるんですけど……でも……」
言い切れずに言葉を濁すと、大輝はしばらくこちらを見ていた。
やがて、あはは、と小さく笑う。
「陽菜ちゃんってさ、けっこうあれだよね」
「え?」
「悪口じゃないんだけど……なんて言えばいいかな」
「あ……もしかして、頑固、とかですか?」
たどたどしく聞くと、大輝ははっきり頷いた。
「うん、そうだね」
「今朝、友達にも同じことを言われて……すみません。反抗してるわけじゃないんですけど……」
「反抗って」
大輝は肩を揺らして笑う。
「そんなに笑わなくても……」
言いながら、陽菜も少しだけ笑ってしまう。
大輝は笑いの余韻を残したまま、机に手をついた。
「いや、入り込む隙、ないなあと思ってさ。……ここまでだとむしろ清々しいけどね」
言われた意味を掴めないまま見返すと、大輝は「こっちの話」と言葉を落とした。
「でももし、聞きたくなったら、いつでも言ってね」
手をひらひら振ると、大輝は会議室から出ていった。
◇
エレベーターに乗り込む。
いつもなら押す二階のボタンを通り過ぎて、今日はそのまま一階を押した。
駆動音を聞きながら、呪い、という言葉が頭のなかで巡っていた。最近、何度その言葉を聞いただろう。
冗談みたいな調子で。
本気で怯えるような声で。
どちらで口にされても、胸の奥には同じざらつきだけが残った。
あの投稿が気味悪いことはわかる。
ログイン外の表示にだけ、勝手に言葉が混ざっていくことも不可解だった。
でも、それを呪いと呼んでしまうことに、どうしても納得がいかない。娘の呪いだというなら、なおさらだった。
名残切りについても、似た違和感をずっと抱いていた。
見えている断片だけで、呪いだとか未練だとか言い切ってしまうことが、どうしても引っかかる。
エレベーターを降りて、図書館棟を出た。バス停へ向かって坂を下る。
青々とした葉をつけた桜並木が、木陰の道を作っていた。
ふと、歩みがゆるむ。
──呪いは、俺も違うと思う。
あのとき話したトウヤの声が、頭をよぎった。
トウヤは、名残切りのことも、好ましく思えないと言っていた。そうして静かに同調してもらえたとき、胸の奥がほどけたことをよく覚えている。
その引っかかりが、自分とトウヤで少し違う形だったこと。ほんの数日前に、それを笑い合ったことも遅れて思い出す。それがひどく、遠い日のように思えた。
思考を切り替える。
──私は、誰にもわからないはずのものを、わかったように言い切ってしまうこと。それが、きっと嫌だったんだと思う。
小さく息が漏れる。
今起きていることもそうだった。呪いかどうかなんて、誰にもわからない。
わかっているのは、今起きていることだけ。
公式インスタとあのアカウントの文言が混じり合っていること。
あのアカウントが、もともとは過去のSNS担当者のもので、それが祭り当日に『乗っ取られた』らしいこと。
そして、もともと名残切りの公式ハッシュタグだったという『#言えないまま』も気にかかっていた。
──祭りと無関係とは、もう思えない。
でも、祭りのことすら、まだちゃんと知らないままでいる。
できれば、資料ではなく、そこに関わってきた人の言葉で聞いてみたいと思った。
「週末……公民館、行ってみようかな」
#探しています




