見つかる
その日は、帽子を被った。
ベージュのスニーカーも、あえて履いた。
ここしばらく避けていた組み合わせだった。
図書館へ向かう足取りに迷いはない。
これまでと同じ時間、これまでと同じように坂を上る。
見つからないように外してきた特徴を、今日はひとつ残らず身につけていた。
自動ドアをくぐると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。紙の匂いと、低い空調音。静かな場所だった。
何度も息を整えてきた場所だと思う。
低い書架の並ぶ一角まで進む。
途中、小説の棚から読みかけの本を一冊抜き取り、いつもの席に腰を下ろした。
本を開き、文字を追う。頁をめくる。
けれど内容は、ほとんど頭に入ってこなかった。
離れたところで、視線だけがこちらに触れては逸れていくのがわかった。書架の陰。返却カウンターの近く。
入ってくるとき、エレベーターホールの前にも、どこか落ち着きのない学生たちが立っていた。
スマホを取り出し、本の隣に置く。インスタを開いた。
『見つけた!』
『図書館に来てる!』
『帽子もスニーカーも一致』
『声かけたほうがいいのかな』
現実で話しかける勇気はないくせに、画面の向こうは騒がしかった。
まあ、そんなものだろう、と思いながら、短く息を吐く。
館内は静かなままだった。さざ波みたいな気配だけが、遠巻きにこちらを囲っていた。
アプリを切り替え、例のアカウントも確認する。
相変わらずだった。反応らしい反応もなく、ただ淡々と『#探しています』が続く。
見つかったという話題には、興味を示さないかのようだった。
──俺じゃない、探されているのは。
見つかったとされたところで、特に何かが起きるわけでもないのか。探されている対象者じゃないから、無反応なのか。
わからない。
そもそも見つけることが目的なのか、それさえもわからなかった。
考えたところで、このアカウントについては何もできそうなことすらない。
スマホを閉じ、再び本を開く。
頁へ視線を落としたまま、また小さく息を吐いた。
館内の空気がじわじわと落ち着きを失っていく。誰かが来て、また離れ、様子を窺う。声をかける者はまだいない。
──最初の一人になるのが怖いのか。
ふと、入口のほうから苛立ったような声が響いた。
「もう帰れよ」 「いいから、やめとけって」
押し殺しているのに、よく通る声だった。
ゆっくり顔を上げる。
ガラス越しに見えたのは、学生たちと向き合う男の姿だった。
陽菜の先輩だった。名前は確か──大輝だったか。
名前と同時に、先日の苦いやりとりを思い出す。
彼は血相を変えて、学生たちに何かを言っていた。
追い払おうとしているらしい。
つくづく誠実な、正しい側の人間だなと思う。
──ちょうどいいかもしれない。
視線を送る。何人かに囲まれていた大輝がそれに気付いたのか、こちらを見た。目が合った途端、その顔が強張る。すぐに館内へ入ってきて、机の前まで来た。
「なにをやってるんです!」
低く抑えた声は、怒っているというより、心配しているように聞こえた。
「危ないって言いましたよね。それを、こんな──」
大輝の視線が帽子とスニーカーを行ったり来たりする。
「見つけてくれって言ってるような格好で!」
「そうですね」
答えながら、図書館の入り口を横目で見る。
自動ドアが続けて開くのがわかった。
ようやく口火が切られたか、と思った。
「でも、今日は、見つかりに来たので」
「は……?」
大輝の眉が寄った。
「……ちょうどよかったです。最初に話しかけるのは、誰も気が引けていたみたいだったので。でも、ほかに知り合いもいなくて」
一拍おいてから続ける。
「……使ってすみません」
「どういう意味──」
大輝がそう言いかけたときだった。
「あの〜」
振り向くと、どこか得意げな顔をした学生が立っていた。
一人ではない。それまで遠巻きに見ていた傍観者たちが、こちらへにじり寄ってきていた。
皆、スマホを片手に持っている。
「SNSを見たんですけど」
「この写真、あなたですよね」
「ご家族が探されてますよ」
「大輝、この人知ってるの?」
口々に言葉が投げられる。
「ちょっと、待て。落ち着けって」
大輝が間に入ろうとした。
その背後で、スマホを持ち上げる腕が見えた。また写真を撮ろうとしているらしかった。
「おい、やめろ!」
大輝の声が鋭く飛ぶ。それでもざわめきはすぐには止まらない。
カウンターからは、司書がこちらを覗き込んでいる。
息を吸った。
「……探されてる、って」
ようやく口を開く。
「俺ですか」
何人かが顔を見合わせる。
さっきまでの勢いがわずかに引いた。
──姿を与えた、声も聞かせた。あとは、これか。
図書館の利用カードを机の上に置く。
蛍光灯の光を反射しているのは、学外利用者用の白いカードだ。市内在住であることも、本名も載っている。
そこにある名前に、ほんの一瞬だけ目が留まった。
視線を上げ、口を開く。
「家族とは、一緒に住んでいます。市内在住者として、ここを利用しているだけです。……誰かに探されるような覚えはありません」
言葉を切って、一人ひとりに目を向ける。視線が合うたび、相手がわずかにたじろぐのがわかった。
「出回っている写真を撮ったのは、誰ですか」
しん、とした。
「投稿したのは」
「コメントしたのは」
「広めたのは?」
続けて問う。
誰も答えない。
スマホを手繰り寄せ、指先で操作する。
インスタの投稿やストーリーを、スクリーンショットとして残していた。その一覧を表示し、画面を学生たちのほうへ向ける。
「……あなたのアカウントは、この中のどれですか」
「あなたのは?」
「あなたはどれですか」
言いながらもう一度、学生たちを順に視線でなぞる。
見つけたつもりで来たのだろうが。
今、ひとりずつ顔を見ているのは、こちらだった。
もう、互いに、ただの誰かではいられない。
「見つけて、それで──? どうするつもりだったんですか」
沈黙が落ちる。誰かの喉が、ひとつ硬く鳴った。
学生たちの目は揺れていた。誰も何も言わないまま、スマホを持っていた手が、ひとつ、またひとつと下がっていく。
近づいてきた司書が、険しい顔で「どうかされましたか」と尋ねてきた。
学生たちのあいだを睨むように見ていた大輝が、何か言おうとしたのを目で阻む。
「いえ、もう終わったので大丈夫です」と告げる。
──終わった。終わらせた。
「もう来ないので、カードは返却します」
机の上の利用カードには触れないまま、立ち上がる。
「騒ぎを起こしてすみませんでした。……今まで、ありがとうございました」
司書へ向かって頭を下げた。
借りていた本を棚へ返却する。結局、読みかけのままになってしまった。物語の最後まではたどり着けなかったが、それでも、そこに悔いはなかった。
◇
図書館を出る。廊下には、他にも学生たちが集まっていた。さっきの騒ぎを追ってきたのか、その多くがスマホを手にしていた。視線があちこちから鋭く刺さる。
その中に、見慣れた顔を見つけた。
いや、見つけた──というより、自然と探してしまった、という方が正しいかもしれない。
陽菜だった。
目を合わせないように、すぐに視線を逸らせる。
夏になってからは、髪の毛を結っていることが増えたな、と場違いなことを思った。
慌ててここまで来たのか、少し息が乱れているようにも見えた。
彼女はこちらを見たまま、その場に凍りついたように立っていた。
──また、あんな顔をして。
ひどく不安そうな顔だった。
胸の奥が、鈍く軋む。
けれど、ここで立ち止まってはいけない。
歩幅を変えず、そのまま前を向いて足を進める。
──もう少し。
すれ違う寸前、かすかに声が聞こえた。
「ト……っ」
呼びかけようとして、飲み込んだのだとわかった。
胸の奥が冷えたのか、心臓が高鳴ったのか、自分でも判然としなかった。
──そうだ。呼ばないで。
ここで名前を呼べば、誰かがそれを拾う。また話題にするかもしれない。陽菜も、それがわかったのだろう。
それでいい。
そうでなければ、陽菜がまた自分の関係者として見られる。誰かに声をかけられるようなことは、もうあってはならない。
振り返らずに歩く。
この先、来ることはない場所だと思えば、壁の色や床の汚れ、エレベーターの音ひとつひとつにも意識が向いた。
建物を出ると、空はまだ高かった。
蝉の声が急に近く聞こえた。冷房の効いた館内から出たばかりの肌に、外気が重たくまとわりつく。
志島大を離れながら、呼ばれかけた名前をふと思い返した。
「トウヤくん」と呼ぶときの、彼女の声が好きだった。
そう思ってから、自分の名前でもないのに、と内心で苦笑した。あの名前は、陽菜の声でだけ輪郭を持っていたものだ。
だからもう、呼ばれることもないだろう。
胸の奥の軋みが、いつの間にか痛みに変わっていた。
かえって、忘れようがなくていいと思った。
無理矢理、肺を満たすように息を吸う。
ただ前だけを向いて、足を動かした。




