言えないままで
「行こうか」
トウヤが先に歩き出す。慌ててそのあとを追った。
坂を少し上ったところで、向かう先が図書館棟のほうだと気づいて、咄嗟に声が出た。
「あっ、そっちはだめ」
トウヤが足を止めて振り返る。
一拍遅れて、「ああ……」と小さく頷いた。
「そっか。じゃあ、どこか別のところ……」
陽菜は周囲を見回した。人通りの少ない場所。少しだけ話せる場所。
ふと、講義棟の裏側にあるサークル棟の脇に、木製の長椅子があったことを思い出す。
「こっち。静かな場所、知ってるかも」
指さして、講義棟のあいだを抜けて行く。
その途中、中庭のような場所に出た。桜の木が一本、夏の葉を青々と繁らせている。木漏れ日が地面に落ちて揺れていた。
あれ。ここ──知ってる。なんだったっけ。
「帰るところだったのに、引き返させてごめんね」
「え?」
トウヤの声で、思考がふっと散った。
「坂を往復させちゃったなと思って」
眉を下げたトウヤの視線が、陽菜の足元へ落ちる。黒いパンプスを見たのだとわかった。
「ううん、大丈夫。この靴も、ちょっと慣れてきたから」
言ってから、それが少し寂しかった。沈む気持ちを誤魔化すように、話題を変える。
「ずっと坂の下で待っててくれたの?」
「うん。でも、大学なんだから──授業が終わる時間なんてわからないのにね」
少しだけ苦笑いを浮かべていた。
「会えてほっとした。あと三十分くらい待って、それでも来なかったら帰ろうかなって思ってたから」
口調が、いつもより少しだけ明るい気がした。
サークル棟の脇の日陰まで来る。木製の長椅子があった。二人で並んで腰を下ろす。
ふと、トウヤの手に視線が向いた。先日の温度が、指先の記憶を揺らし、わずかに頬が熱くなる。
トウヤが息をつく。さっきまでの明るさが、そこで途切れた気がした。
「……さっき、『だめ』って言ってたけど。図書館に、俺を探してるような人でもいた?」
胸の奥が急に冷えた。
陽菜は、落ち着かない手を膝の上で組む。
「うん。……いた」
「インスタ、盛り上がってたもんね。なんというか、学生のノリというか。……写真も、いつ撮られたやつなんだか」
気にしていないみたいな声で、トウヤは言った。
──知っていたんだ。
あの投稿も、コメント欄も、全部もう見たのだろうか。そう思うだけで、陽菜は胃のあたりがまた痛んだ気がした。
「まあ、俺のことは別にいいんだけど。陽菜は、大丈夫だった? あれから、声をかけられたり──」
陽菜はきつく唇を結んだ。
「トウヤくんのことも、別によくないよ」
思わず、遮るようにして言葉が出た。勢いとは裏腹に、頼りなく語尾が震えた。
「……俺は」
トウヤは一度そこで言葉を止めた。
「もう来ないから、いいんだよ」
その言葉を、陽菜はすぐには飲み込めなかった。
「来ない……? 図書館のこと?」
聞き返すと、トウヤは首を横に振る。
「ううん」
それから一拍の間を置いて、静かに言った。
「志島大に、もう来ないから」
陽菜は瞬きをした。
「……え」
意味が、わからない。
わからないまま、言葉の音だけが耳に残った。
「どういうこと?」
問いがこぼれる。
「学校は、どうするの?」
トウヤは少し困ったように笑った。
「それは、大丈夫なんだ」
──それじゃ、答えになっていない。
陽菜が問いを重ねるより先に、彼は言葉を続けた。
「でも、もう陽菜とは会わない」
喉がひゅっと詰まった。
今の一言で、かろうじて保っていた何かが音もなく崩れた気がした。
「……わたしのせい?」
気づけば、そう聞いていた。
トウヤはすぐに首を振る。
「それは違う」
はっきりした声だった。
「陽菜のせいで会わなくなるわけじゃないんだ」
なら、どうして。
どうして会えなくなるのか。
そう聞きたいのに、喉の奥がうまく開かなかった。
「俺の問題だから」
ふたりの間に沈黙が落ちる。
生温い風が吹き、木の葉が擦れる音が鳴った。それがやけに近く聞こえた。
膝の上の手を、陽菜はきつく握りしめた。
頭ではまだ理解しきれていないのに、彼の声と表情が、冗談ではないことを伝えていた。
「それで──最後に、これだけ確認したくて」
最後。
心臓が重たく沈む。
「はじめに聞いていた困りごとのほうは、どうなった?」
トウヤはあまりに淡々としていた。
問いかけられているとわかっていながら、陽菜はすぐには声を出せなかった。
「……最近は、あんまりSNSを触ってなくて」
辿々しく、やっとそれだけ言った。
スマホを取り出し、アプリを開く。
「でも、さっきあのアカウントを見た感じだと、ハッシュタグは増えてたけど、私の投稿からは新しく何も拾われてなかったと思う……」
黙ったまま、トウヤは目だけで続きを促す。
タイムラインを流し見ていく。
ブロックしたおかげか、#探していますは混ざっていなかった。
それでも、以前みたいに、ここを見ていても気持ちは整いそうになかった。ずっと、息継ぎの場所みたいにしてきたのに。
「気味悪さはまだあるけど……今は、トウヤくんを探してる人たちのほうが、怖いかな」
そう言って、トウヤのほうをちらりと見る。彼は学生たちの話題を意にも介さず、まっすぐ陽菜を見ていた。
怖じ気づいて、膝に視線を落とす。
「そもそも、鍵をかけてからは、何も投稿してないんだ」
「……陽菜のアカウントは、今も鍵をかけたまま?」
「うん」
「そっか」
短い返事だった。
それから、静かに続ける。
「でも、変なのが止んでるなら、そのうち公開に戻せるかもしれないね」
──戻せる。
それが、やけに遠く聞こえた。
「ちょうどよかったよ」
続いたトウヤのその一言で、困りごとを聞いてもらう、という口実まで終わるのだと、陽菜は思い知った。
胸の奥がまた重くなった。
気づけば、下を向いたまま、声がこぼれていた。
「……会えなくなるのは、嫌」
トウヤはすぐには返さなかった。
「……そんなふうに言ってくれるとは、思わなかったな」
やわらかな声で、彼は言葉を継いだ。
「もとの生活に戻るだけだよ。SNSも、現実も、落ち着いたらまた、戻せるから」
また『戻せる』だ。けれど、陽菜にはそれが救いのようには、どうしても思えない。
トウヤが席を立ちかけて、陽菜も反射的に腰を浮かせた。
「あの……連絡先は」
彼の背中が止まる。
「交換、できない?」
縋るような声が出た。トウヤが振り返る。表情は穏やかだったが、その目だけはどこか痛そうに細まっていた。
「それはできない」
短く、きっぱりとした返事だった。
「そういうふうには、繋がれない」
陽菜は、ずっと、これが怖かった。
親しくなったつもりでいても、トウヤが自分との間に線を引いているような気はしていた。触れてはいけない話題があることも、わかっていた。
だからたくさん箱にしまってきた。聞きたいことも、知りたいことも。
そうしてずっと、向き合わないようにしてきた。
明確に距離を取られるのが、ずっと怖かった。
そしてそれはやっぱり。想像していた通りだった。
再び俯いた視界の端で、トウヤの黒いスニーカーが向きを変えた。
「……言うつもりなかったんだけどな」
こっちに向き直ったトウヤが短く息を吐く。
「陽菜と俺は、前にここで一度だけ会ってる」
「……え?」
驚いて、顔を上げる。
「去年の春だよ」
トウヤの指が持ち上がる。通ってきた道のほうを指していた。
「さっきの桜を、一緒に見たんだ」
──さっきの桜。
心臓が鳴った気がした。
去年の春。入学したばかりのころ。
何かを思い出しかけて、それでも動揺が重なったままの頭のなかでは、はっきりとそれが浮かび上がらない。
トウヤは少しだけ笑った。
「本当にちょっとしたことだったし、覚えてないでしょ」
覚えていない、とも、覚えている、とも言えないような曖昧さで、記憶の底に沈んでいる何かが、そこだけ静かに波立った。
「だから、また時間が経てば忘れるよ。大学内のああいうノリも、そのうち落ち着く」
「忘れるよ」と言われたことが、胸に深く刺さる。陽菜はゆるゆると首を横に振ることしかできなかった。
トウヤが少しだけ身を屈める。陽菜の顔を下から覗き込む。
視線が交わると、泣きそうな心地になって、目の奥が痛かった。
「もとに戻るだけ。そんな顔しないで」
トウヤは優しく笑った。
彼はもう、会いに来た時点で別れを告げるつもりだったのだと、このときやっと陽菜は気がついた。
きっと。だから、こんなにも穏やかなのだ。
彼に言いたいことは全部、喉の奥で止まったまま動かなかった。引き止める言葉も、自分の気持ちを伝える言葉さえ。
拒絶されることが、ただ怖かった。
「落ち着くまでは、図書館には近づかないようにしていて。……時間、取ってくれてありがとう。じゃあね」
「またね」のない別れ言葉だった。
トウヤが背を向けて去っていく。
その背中が視界の端から消えてから、涙が静かに溢れた。椅子にまた腰掛ける。立ち上がろうとしても、膝がうまく言うことをきかなかった。
夕方の日差しのなかでひとり、しばらく席を立てなかった。




