探される横顔は
「うわ、これ盗撮じゃん」
講義が終わったばかりの教室で、凛花の低い声が妙にしっかり聞こえた。
「なに?」
思わず尋ねるが、凛花はすぐには答えなかった。眉を寄せたまま、スマホの画面を見つめている。少し迷うような間を置いて、無言でこちらへ画面を差し出した。
覗き込む。インスタの投稿だった。
少しぶれている、暗い画像。
図書館の窓際らしい机。
白いページが覗く本。
深く被った黒い帽子。
俯いた横顔。
「え……? これ……」
その鼻筋から口元へかけての線。
伏せた睫毛の影。
見間違いようがない。
──トウヤくんだ。
血の気が引いていくのが、自分でもわかった。
凛花がぱっとスマホを引っ込める。けれど、一度見てしまったその輪郭が、もう目に焼きついていた。
「大丈夫? ごめん、見せないほうがよかった?」
「……ううん」
「……ねぇ、陽菜。この人のこと、知ってるの?」
唇を結んだまま、小さく頷く。
「……そうなんだ」
凛花はそう呟いて、スマホに視線を戻した。
「それは……最悪だね」
さっきまで半ば呆れたような表情だったのに、凛花の顔に険しさが宿る。
「これ。さっき、友達の友達が回してきたんだ。『見つけたかも』とか『たぶんこの人』とかって」
陽菜はポケットに手を入れ、自分のスマホを取り出した。
インスタを開くのは、少し久しぶりだった。
追えていない投稿がいくつも並んでいる。
「#志島大で検索したら、すぐ出てくるよ」
凛花の声に促されるように、検索窓にハッシュタグを入力する。すぐに同じ画像が見つかった。
文字が重ねられている。
『見つけたかも』
『先々週、図書館で見かけて写真を撮ったんだけど……やっぱり探されてる人ってこの人だよね?』
読みながら、胃のあたりがきりきりと痛んだ。
「あのさ、見ないほうがいいかもだけど……コメント欄もひどいよ」
顔をしかめた凛花が、スマホを見たままこぼす。
息を止めるようにして、コメント欄を開いた。
『探されてるってことは、なんか事情ある人?』
『授業時間にもいるよね。』
『家出とか?』
『ヤバい人かも』
そこまで読んで、陽菜は息を吐き出した。
「あぁ……」と、かすかな声が漏れた。
大事なものを、乱暴な手つきで触られているみたいで、頭がくらくらとしてくる。
「通報しよ」
凛花が短く吐き捨てる。
「どうせ全部、ただの憶測でしょ。こんなの面白がってバカみたい」
言いながら、凛花の指がたたたっと動く。投稿からメニューを開き、迷いなく『報告』を押していくのが見えた。
「消されるといいんだけど」
陽菜は何も言えず、ただ自分のスマホを見つめていた。
投稿を回すようなストーリーや、話題をさらに広げるようなコメントもいくつかあった。
悪意までは感じないが、どれも人探しというには切実ではなかった。
話題に乗りたい。
見つけたと言いたい。
少しだけ触ってみたい──
そんな軽い熱だけが画面の向こうに広がっている。
そんなもので、人ひとりの輪郭が勝手に作られていく。
──もし、これで『見つかった』ことになるのなら。
いったんホームボタンを押し、アプリを閉じた。テキスト系のSNSを開く。
検索履歴には、まだあの緑の円が残っていた。
画面に触れないまま、指先だけが宙をさまよう。
戸惑いがあった。それでも、確認しなければと思った。
やっと、タップする。
『@kz_fc12さんをブロックしています。
このポストを表示してもよろしいですか?
これによって@kz_fc12さんのブロックが解除されることはありません。』
という表示が出てくる。ワンクッションあったことで、一呼吸挟むことができた気がした。
今度は少し落ち着いた指先で、『ポストを表示』を押す。
『#探しています』の投稿が、いくつも並ぶ。
スクロールしていく。
「……ない」
「ん? なにが?」
陽菜の声につられたように、凛花が向かいで手を止めた。画面を見せる。
「これって──あの『探しています』のアカウント?」
「うん。何か反応してるかなと思ったんだけど……」
投稿を遡る指を滑らせながら、首をひねる。
「ハッシュタグは増えてるのに、関係ない言葉ばかりで……見つけたっていう騒ぎには触れてないみたい」
「ほんとだ。『教授』とか『一年生』とか、なんでも拾ってたのに。『見つけたかも』や盗撮写真はスルーなんだ? 変だね」
凛花の言葉を聞きながら、陽菜は唇を噛んだ。
じゃあ、今──この熱のもとになっているのは。
この画像を回し、見つけたがり、トウヤを勝手に探し人にしているのは、
──志島大の学生たちだ。
このアカウントの気味の悪さとは、また違う嫌悪が胸の中へ広がった。それはもっと生々しくて、ずっと現実的なものだった。
大輝が言っていた、『知り合いじゃない、よくわからない人だから差し出されやすい』という言葉を、今になって強く理解した。
「陽菜」
凛花の声に顔を上げる。
「画像の人は、大丈夫なの?」
「……わからない」
あれから、トウヤとは会っていない。
でも、もう、トウヤ本人がこれを知っていようが知っていまいが──ここまで話題になってしまっている以上、大丈夫じゃない、と思えた。
こんなのは嫌だ、ダメ。やめてほしい、という焦りだけが頭の中で渦巻く。
凛花は心配そうに陽菜を見ていたが、やがて何か思い当たったように小さく息をついた。
「あ……ねぇ、『社会学部の女の子』っていうのも前に出てたけど……それってさ……」
「うん。たぶん、私。図書館で何度か一緒にいたから」
「そっか……じゃあ、なおさらこの話題は許せないな。片っ端から通報してやる」
凛花の指がまたたたたっと素早く動く。
トウヤが誰なのかも、陽菜とどういう関係なのかも、凛花は聞いてこない。それに妙に救われた。できることをしようとしてくれる、その指先にも。
「……凛花、ありがと」
「え、別に。たいしたことしてないよ」
かろうじて、地面に足がついているような感覚がした。
◇
教室を出ても、あの画像が目の裏に残っていた。
よく見ていた横顔だった。
静かで、穏やかで──見つめていれば、いつもすぐに気づいて、こっちを向いてくれる横顔。
「私、図書館ってあんまり来たことないかも」
隣で凛花が呟いた。
「けっこう立派だったんだねぇ」
呑気な声音に少し緊張が解けた。
帰り道、「図書館に寄るから先に帰っていて」と告げると、「いやいやいや。今、陽菜をひとりで行かせるなんて無理だから!」と凛花も一緒についてきてくれた。
凛花は相変わらず、図書館へ行く理由もとくに聞いてはこなかった。
「いつもこんなに人多いの?」
問われて、小さく首を振る。
図書館の入口近くや、エレベーターホールのあたりにも、普段は見かけないような学生たちがうろついていた。皆、スマホを片手に持ち、何かを探すみたいに視線を落ち着きなく動かしていた。
陽菜はなるべく目を合わせないように、その間を抜けて中へ入った。ひんやりとした冷房も、ほのかな紙の匂いも、頁を繰る静かな音も、どこか懐かしく感じられた。
低い書架の並ぶあの一角に足を運ぶ。
誰もいなかった。
いなかったことにほっとしつつ、寂しさがこみ上げてくる。
トウヤと約束をしなくても会える場所は、ここだけだった。
プロジェクトの会議の終わりに、何度ここへ寄ったかわからない。最近は、資料探しのためだけではなかった。
いつから自分は、トウヤに惹かれていたんだろう。
立ち尽くす陽菜の背を、凛花がぽん、と軽く叩く。
「帰ろ」
そのひと言で、ようやく足が動いた。
◇
坂の下まで降りて、凛花と一緒にバス停に並ぶ。
他愛もない話を振る凛花に応えながらも、陽菜の指先は何度もポケットの中のスマホに触れた。
一人だったらきっと、とうにSNSを開いていたと思う。確認したいことが頭のなかで巡り続けていた。
でも、いくら気にしたところで、見れば見るほど気分が悪くなるのは明白だった。
「でね、駅前のコンビニでさ──」
凛花の声がふいに止まる。
陽菜を通り越すように、なにかを見ている。
「陽菜。校門のとこ、なんかこっち見てる人がいる」
全身が粟立った。
また、人探しのことで声をかけられるのかもしれない。
けれど、振り向いて──陽菜は目を瞬いた。
トウヤだった。
「陽菜」
いつもより張りのある声が耳に届く。
こんなにはっきりと、それも誰かの前で、名前を呼ばれたことは初めてだった。
周りにはバスを待つ学生が何人もいて、思い思いに喋りながら列に並んでいた。
軽く手を挙げて、トウヤがこちらへ歩いてくる。帽子を被っておらず、スニーカーの色も黒だった。
ゆるくカーブした毛先が、風にやわらかく揺れていた。
陽菜は口を開けたまま、ただ、それを見ていた。
さっきとは違うかたちで、胸の奥がどくんと鳴った。
縫い留められたみたいに、身体が動かなかった。
凛花が一歩前に出て、陽菜に耳打ちする。
「大丈夫? 投稿を見て声をかけてきた人とかじゃない?」
凛花の視線が、心配そうにトウヤと陽菜の間を往復する。ようやくハッとして、「うん、大丈夫」とだけ答えた。
数歩分を残した距離で、トウヤが止まる。
まっすぐこちらを見ていた。
目が合ったまま、ようやく足を踏み出す。
「トウヤくん」
呼ぶと、彼はほんの少しだけ口元を和らげた。
「いきなりごめん。話したいことがあって。少し、いい?」
慌てて、こくこくと何度も頷く。
トウヤは瞬きを挟んで、軽く噴き出すように「ははっ、そんなにびっくりした?」と笑った。
日の光を取り込んだ彼の瞳が細まるのを見て、ますます声が出なくなった。
こちらを見ていたトウヤの視線が、陽菜から凛花へと移る。
「あ……少しだけ、陽菜と話してきてもいいですか」
遠慮がちにそう尋ねるトウヤに、凛花は明るく笑った。
「どうぞどうぞ〜。陽菜、私は先に帰ってるから。じゃあ、また明日ね」
明るい声に、手を振り返す。背中を押された気がした。
「行こうか」
やわらかい声に顔を上げる。トウヤの横顔は、今日はどこか晴れやかだった。
その向こう、坂の上の景色は、熱気でかすかに揺れているように見えた。
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