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喉が渇く




 走れなくなったときのことを、いまだに思い出す。


 それは子供の頃、海に関する本を読んだときの感覚と、少し似ていた。

 (ページ)越しに知る海はあまりにも広大で、途方もなくて、深くて暗い──自分なんて、きっとあっという間に呑み込まれてしまうだろうと思った。その想像だけで、眠れなくなったことを覚えている。


 ──怖い、と思った。

 走れなくなったと知ったとき、最初に胸を打ったのは、それに近い感覚だった。


 向かうべき方向が見えなくなった。前も後ろも、右も左も、上下すら曖昧で、どう生きていけばいいのか、わからなかった。


 その次に来たのは、罪悪感だ。

 こちらは、息ができなくなることにどこか似ていた。


 肺の中に濁った水が溜まっていくようで、息を吸っても足りない心地がした。


 下宿先には、親から送られてくる段ボールが定期的に届いた。

 中には決まって、谷見町(やつみまち)の羊羹が入っていた。南瓜を使った名物で、日持ちはしない。早く食べなければと思うのに、箱を開けることすら億劫になったのは、何度目の疲労骨折のころだったか。


 走ることをやめ、高校を退学し、谷見町に戻ってくるまでのことは、もうぼんやりとしか覚えていない。


 「応援してくれる町のために」

 そう答えるのが無難だと思って、何度も口にしてきた言葉だった。それが、そのまま自分の喉元に絡みついていた。


 町の誰かに責められたわけではない。

 何かを言われたわけでもない。

 それでも、谷見町を出歩くのはひどく気が重かった。


 中学校の前を通るとき、

 公民館のそばを通るとき、

 そのたびに心臓が嫌なふうに跳ねた。


 そこに、自分を応援する幕がもう掲げられていないことに安堵しながらも──あの垂れ幕が結局、無駄なものになってしまったのだと、何度でも思い知らされた。


 制服姿の同年代とすれ違うのも、駅伝の関係者と出くわすのも、たまらなく怖かった。

 呼吸のタイミングがずれるような感覚がいつも先に来て、喉がきゅっと締まって苦しかった。


 部屋に閉じこもる日が続いた。

 見かねた祖父に連れ出されるようにして、歴史保存会の手伝いをはじめ──そこで知り合った須藤(すどう)にすすめられたのが、志島(しじま)大の図書館に通うきっかけだった。


 志島大の図書館は、市民であれば利用カードを作ることができた。谷見町の図書館よりずっと新しく、大きく、蔵書も多かった。人に会わずに時間をやり過ごすには、うってつけだった。


 本来は、自分がいるはずのない場所だ。

 そこに、大学生のための場所に、町の人間として紛れ込むような違和感はずっとあった。

 それでも、あそこではじめて、深く息が吸えたような気がした。


 ──誰も俺のことを知らない。

 ただ、そこにいることが許される場所。


 ずっと、そういう場所が欲しかった。


 ◇


 ──これは、もう。

 いよいよ、まずいなと思った。


 震える声で謝られた。

 涙まで見せられた。


 それが、自分に向けられた罪悪感ゆえだとわかったとき──胸の内に広がったものを、どう呼べばいいのかわからなかった。


 甘い、と思った。


 あまりに甘すぎるだろう、と。


 あんなふうに自分を責める感情が、どれだけ人を縛るものか、その強度をよく知っていたはずなのに。


 いや、知っていたからこそかもしれない。


 陽菜(ひな)からそれを向けられたことに、愉悦(ゆえつ)に近いものを覚えてしまった。


 思い出し、自分で自分に心底ぞっとする。

 無意識に、喉元へ手をやった。


 陽菜が苦しんでいることを喜んだわけではない。

 涙を見たかったわけでもない。


 それでも、彼女の罪悪感が自分へ向いていること自体が、ひどく蠱惑的(こわくてき)に思えて仕方がなかった。


 それを持ってすれば、ひょっとして──と、一瞬でも考えなかったかといえば、嘘になる。


 ──最低だ。


 こんな(いびつ)なものを、やはり恋だなんて都合よく呼べるはずがない。


 「そんなふうに考えなくていい」と言ったのは本気だった。陽菜が罪悪感を抱く()われはないのだから。

 願わくば、彼女にはそんなものに縛られず生きていってほしい。


 罰せられるのなら、それを甘く受け取る自分のほうだろう。


 いっときでもそれを向けられただけで、一生かけても手に入らないものを得た気になるなんて。

 そう思ってしまうこと自体が、すでに間違っているのに。


 ──もう、十分じゃないか。

 心のどこかで、そんな声がした。


 あまつさえ、先日は手にまで触れてしまったのだから。


 震える手をほどくため。

 落ち着かせるため。

 許可も取った。

 でも、そんなふうに言い訳したところで、手を伸ばしたのは自分だ。


 不可逆のほうへ足を出すとわかっていながら。

 踏みとどまるべき線を、あのとき越えてしまった。


 後戻りできない、というほど大げさなことではないのかもしれない。

 けれど、少なくとも自分の中では、もう元の位置には戻れない気がした。


 甘さは、喉が渇くから。


 一度知ってしまえば、足りなくなる。もっと欲しくなる。


 この甘さに呑まれることは、先が見えないことよりもよほど恐ろくて、たまらなかった。

 

 ◇


 気分を変えようと、外に出る。昼の日差しはやわらかだった。


 市民だよりがポストに挟まっていた。

 取り出し、パラパラとその場でめくる。「谷見(やつみ)まつり」のチラシが挟まっていた。毎年代わり映えのしない、それでいてやけにカラフルな紙面。


 もうそんな時期か、とだけ思う。


 悲恋伝承に、もともと特別な感慨があったわけではない。ただ──陽菜と知り合ってからは、たびたび娘のことを考えた。


 都人を追って、霧沢(きりさわ)へ入った娘。


 なぜ都人を追ったのか。その先でどうなったのか。

 名前すら残っていない娘について、誰も何もわからない。そうしてわからないまま、悲恋として語られ、哀れまれ、今や「町のために」祭りの催しにまでされている。


 あれを、嫌だと思った。


 誰にもわからない誰かの気持ちに勝手に名前をつけ、勝手に名残を断ち切ろうとするなんて。

 好ましく思えるはずがなかった。


 彼女が大学を卒業し、志島(しじま)市から帰ったとして、自分なら──名残(なごり)を断ち切りたいなどとは思わないだろう。


 忘れてしまうくらいなら、きっと、忘れないままでいるほうを選ぶだろう、と。

 

 市民だよりを閉じ、家のなかに戻る。後ろ手に玄関のドアを閉め、リビングの机の上へそれを放るように置いた。

 

 部屋に戻ってスマホを手に取る。登録したばかりのインスタを開く。

 検索窓に「#志島大」と打ち込むと、例の投稿に便乗した学生の反応がいくつも出てくる。


 低解像度の画像。

 #ベージュのスニーカー


 『この人知ってる?』

 『図書館の人だよね』

 『帽子被ってる人でしょ』

 『さっき見に行ったけどいなかった』


 思わず、鼻で笑う。


 学生のノリというやつか。

 見つけて、それから、どうするつもりなのだろう。


 流していた指先が、ふいに止まる。

 

 『社会学部の女の子と一緒にいるのを見た』

 『二年の女の子だよね?』

 『セミロングの子でしょ』


 奥歯を噛み締める。耳の奥でギリリと音がした。

 陽菜を、ここに混ぜてほしくなかった。


 ──彼女に聞いたところで、陽菜は俺のことをなにも知らない。ときおり話すだけで、名前のつくような関係ですらないのに。


 そう思いながら、スマホを置く。


 なにもない手の平をじっと見つめてしまう。

 もうあるはずのない熱の名残が、まだそこに留まっているような気がした。


 冷たい指先だった。

 それが、自分の手のひらの上でゆっくり熱を取り戻したとき──画面とは違う、確かな温度を感じていた。


 彼女の手は、震えていた。

 ああして不安そうな陽菜をひとりにすることは、できればしたくなかった。


 油膜が薄くなった確信は、まだ持てない。

 ただ、学生たち相手になら、自分にできそうなことがうっすらと頭に浮かんでいた。


 困りごとを理由に陽菜の傍に居続けることは、あまりにも危うい。自分が信用ならなかった。

 ここまで我欲が滲んでしまえば、今浮かんでいる選択も、かえって都合が良いだろう。


 深く息を吸い込む。


 ようやく先が見えた気がした。


 鞄から図書館の利用カードを取り出し、眺める。


 本来、自分がいるはずのない場所。

 それでもこの二年、通い続けた場所。


 落とした視線は、すぐには離れなかった。


 それでも──その方法がいい。


 ひとりで頷くと、頭のなかがより静かになった気がした。


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