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手から移った熱



 公式インスタの異変は、止まらなかった。


 最初は一つだったはずの『#言えないまま』が、いつの間にか別の投稿にも混ざるようになっていた。


 祭りの告知、

 作業する学生を撮った写真、

 過去の催しを短くまとめた動画。


 華やかな投稿に連なる文章に、脈略のない言葉が紛れ込む。


「……ねぇ、これさ」


 近くにいた子が低く言った。

 陽菜が顔を向けると、見せられた画面には、見覚えのない学生の短い投稿が映っていた。


 日常の愚痴みたいな、何でもない文だ。けれど、その投稿の末尾にも「#言えないまま」がつけられている。


「ほら、今流行ってる──#志島大オープンキャンパス をつけた、人探しの投稿あるでしょ? あの話題をよく回してる子の投稿なんだけど……知らないうちにこのタグがついてたらしくて」


「え……」


「本人はそんなのつけてないって言ってたらしいんだけど。……名残切りの公式インスタと、同じだなって」


 会議室のざわめきが、またじわりと広がった。


 プロジェクターには、公式アカウントのプロフィール画面が映し出されている。

 谷見町やつみまちのゆるキャラ、きりりちゃんのアイコンが、画面の左上に丸く収まっていた。


 丸い目と、赤い頬と、にこやかな口元。

 愛嬌のあるはずのその顔が、今日はどこか薄気味悪い。『#言えないまま』と、勝手に言わされているみたいに見えた。


「これ、もうアカウント止めたほうがいいんじゃないですか」


 思わず上級生に向けて問うと、すぐに何人かが顔を上げた。


「でも、祭りまであと少しだから……今こそ宣伝しなきゃじゃない?」 「不具合かもだし、今のところ、ハッシュタグがついてるだけだもんね」


 軽い調子の声が重なる。

 陽菜は言い返しかけて、喉の奥で声を止めた。

 伝わる言葉を、見つけられなかった。


「でも、さすがに変だよね」 「やっぱり娘の呪いとかだったりして」


 誰かが半分笑いながらそう言った。


 まただ、と思った。


 呪い。

 祟り。

 娘の未練。


 そういう言葉を軽く当てはめることに、胸の奥がざらついた。鞄につけた缶バッジへ視線が落ちる。けれど、すぐに目を逸らした。


 きりりちゃんの丸い顔を、なんとなく直視できなかった。



 会議室を出ると、陽菜はそのままエレベーターとは反対側へ廊下を進んだ。


 足取りがいつもより少し速い。待ちきれないのだと、そのとき自分でわかった。

 会議が終わったら会える──そう思うだけで、さっきまで内側にこびりついていたざらつきが、少しだけ薄くなる気がした。


 三階の自販機コーナーは静かだった。

 窓際には淡い夕方の光が落ちている。


 小さな丸机に、肘をついて本を読んでいる男の子が一人いた。

 毛先にやわらかな癖のある髪が、俯いた横顔の輪郭を少し曖昧にしている。


 ──黒い帽子を、被っていなかった。

 それだけで、いつもと少し違って見えた。


「……トウヤくん?」


 呼ぶと、彼が顔を上げた。


「あ……お疲れ」


 目が合う。それだけで、ふっと息がつけた。

 陽菜は向かいの席へ座りながら、そっと机の下へ目を落とす。


 黒いスニーカー。


 ベージュじゃない。


 それを見て、安堵が先にきた。けれどすぐに、少しだけ寂しさも滲む。

 机の下では黒いスニーカーと、黒いパンプスが向き合っていた。ふたりとも、前とは違う足元だった。


「誰かに声、かけられなかった?」


 先に聞いたのはトウヤだった。


「うん。トウヤくんは?」


「大丈夫だったよ」


 短く答えてから、トウヤは本を閉じる。


「困りごとは、どうなった?」


「……『#言えないまま』のハッシュタグが、他の投稿にもどんどんつくようになってて」


「うん」


「呪いじゃないか、なんて言ってる人もいて……」


「呪い?」


 トウヤが眉を寄せる。


「うん。悲恋伝承の」


 そこまで言ってから、陽菜は大きく首を振った。


「……でも、たぶん、私は娘の呪いとかじゃないと思う」


 トウヤは黙ったまま、続きを待っていた。


「うまく言えないんだけど、それだけは違う気がする。名残なごり切りに感じてた違和感と、たぶん似た理由で」


 トウヤは机に肘をつき、口元に手を添えた。少しだけ目を細め、しばらく机の上を見ていた。


「呪い……は、俺も違うと思う」


 やがて、ぽつりとそう言った。


「娘が探しているのなら、いなくなった都人だろうし」


 そのまま少し間を置いて、トウヤは続けた。


「忘れられなかった──忘れたくはなかったから、娘は霧沢きりさわに入ってまで後を追ったわけでしょ」


 忘れられなかった。

 忘れたくなかった。


 その言葉が、頭の中で静かに繰り返された。


 トウヤは目を伏せたまま続ける。


「探し人が曖昧なあのアカウントとも、名残を切ろうとする催しとも、娘は繋がらない気がする」


 そして、少しだけ苦く笑うみたいに口元を緩めた。


「娘のことなんて、誰にもわからないんだけどね」


 ──それだ、と思った。

 娘のことは誰にもわからない。


 もし名残を切れていれば──と、勝手に結末を哀れんで、そこから祭りを作っていくことへの違和感。

 陽菜の中で曖昧だったものに、やっと輪郭がついた気がした。


 後の世に生きている自分たちに、娘のことなんてわからない。わかっているのは、都人を追って霧沢の森へ入った、という口承が残っていることだけだ。


「……そうだよね」


 ようやく、それだけを返す。


 トウヤはそれ以上何も言わず、じっと机の上を眺めていた。その表情がどこか悲しそうに見えて、陽菜はしばらくその横顔を見つめてしまった。


 視線に気づいたみたいに、トウヤが顔を上げる。


「どうしたの?」


「あ……ううん」


 陽菜は慌てて目を逸らした。

 でも、そのまま黙っているのも変な気がして、言葉を探す。


「私、悲恋については、そこまで考えたことなかったなって思って」


「え?」


「なんか、納得しちゃって」


 トウヤが少しだけ首を傾げる。


「私は、なんとなく霧沢の静けさが、あのアカウントとか、催しの雰囲気と結びつかないなって思ってただけだったから……」


 一度言葉を切る。少し照れがよぎった。

 でも、口にしてしまったほうが素直な気がした。


「トウヤくんの話を聞いて、忘れられないし、忘れたくないって──恋って。そういうものなのかも、と思って」


 沈黙が落ちる。


 視線を戻すと、口元から手を離し、固まったままのトウヤと目が合った。目が丸く見開かれている。

 頬だけではなく、顔全体に赤みが差していた。耳の先までその色が上がっていくのがわかった。


 陽菜は思わず目を瞬いた。


 トウヤがこんな表情をしているのは初めて見た。


「…………今のは忘れて」


 絞り出すみたいな声だった。


「え」


「なんか、すごい恥ずかしいこと言った」


 トウヤは片手で額を押さえ、そのまま顔をそらす。


「……今、こっち見ないで」


 その言い方があまりにも切実で、陽菜は「ふっ」と笑ってしまった。


 前みたいに話せた気がした。

 最近感じていたわずかなぎこちなさが、そこで少しだけほどけたようで、嬉しくなって、我慢できなかった。


 陽菜は椅子ごと少しだけ近づき、からかうみたいに顔を覗き込む。


「こら。陽菜」


 トウヤが軽く咎めるように言った。

 胸のあたりが、くすぐったく弾んだ。


「こんな反応するとは思ってなくて」


「この話は終わり」


 トウヤは手で顔を隠しつづけていたが、その隙間からは真っ赤な頬が覗いていた。色づいた耳も、隠れきっていない。


 それがおかしくて、陽菜はまた笑ってしまう。楽しくて、さらに別の話題を探す。


「そういえば……名前、陽菜って呼んでくれるんだね」


「……前に、呼び捨てでいいって言ってたし。……ちゃん付け、あんまり好きじゃないんでしょ」


「え?」


 ──それ、言ったことあったっけ。


 陽菜は瞬いた。


 その一拍のあいだに、トウヤの表情がほんのわずかに止まった。

 触れてはいけないところへ触れてしまったような気がして、陽菜のほうが戸惑う。


 ──聞かないほうがいい。


「でも」


 慌てて言葉を続ける。


「嬉しい。名前を呼ばれるの」


 じゃれあう空気に引き戻すように、もう一度トウヤの顔をじっと見る。


「……ほんとに、困るから」


 ため息をついたトウヤが、諦めたように手を額から外した。赤い顔のままこちらを見る。


 陽菜が「ふふ」と笑うと、トウヤも「ふ」と小さく笑った。


 目を合わせていると、笑い声が自然とおさまった。

 椅子ごと近づいた距離では、トウヤのまつ毛までよく見える。


 三階の自販機コーナーは、変わらず静かだった。

 会議を終えた他の学生たちも、エレベーターに乗り込んで帰っただろうか。奥まったここには、ふたりのほかに誰の気配もない。


 陽菜は、ふいに気づいた。


 ──私、トウヤくんのこと、好きなんだ。


 その認識は、驚くほどするりと心のなかへ落ちてきた。

 けれど同時に、別の感情がすぐにその上へ覆いかぶさる。


 罪悪感だった。


 好きだと気づいた、その瞬間に。

 もう隠していられないと思った。


「トウヤくん、あのね」


 笑いの余韻が消えた声で言うと、トウヤの表情が改まった。


 陽菜は息を吸った。


 春に、あの捜索投稿の画像を見たとき。

 粗い輪郭に、なぜかトウヤを重ねてしまったこと。

 そして、そのあと自分が曖昧な言葉を投げたこと。

 そのせいで、ベージュのスニーカーというハッシュタグが固まるきっかけになってしまったのかもしれないこと。


 言葉にしていくたび、胸の奥が重く沈んでいく。


「──今こうなってるのは、私のせいかもしれないの」


 最後まで言い切るころには、声が少し震えていた。


「ごめんなさい」


 言い終わるやいなや、トウヤはすぐに口を開いた。


「いや──待って」


 慌てたような声音だった。


「話を聞いても、そんなふうには思わない。悪いことをしたわけでもないでしょ」


 怒っていない。

 責めてもいない。

 それどころか、謝罪を止めようとしてくれている。


 その優しさに、かえって罪悪感が膨らんだ。


 陽菜は俯く。


「……本当に、ごめんなさい」


 また謝ってしまう。

 声が、自分でもわかるくらい頼りなかった。


 沈黙のあと、びっくりしたみたいに息が乱れる音がした。


「……陽菜が、悪いわけじゃない」


 顔を上げると、トウヤはまっすぐこちらを見ていた。

 ひどく優しい顔に見えた。

 けれど、その優しさの奥に、なにかが一瞬だけ揺れた気がして、陽菜はうまく息が吸えなくなる。


「──そんなふうに考えなくていい」


 トウヤは静かに続けた。


「……俺相手に。罪悪感みたいなの、持たないで」


 低い声が、すぐそばから落とされる。


 彼は、いつも優しかった。話を聞いてくれて、親切で、困りごとがあるならと言ってくれて。


 それなのに。


 そんな彼の日常を変えてしまった。


 気に入っていた靴を履けないことの辛さを、陽菜自身がよく知っている。

 いつもの場所へ行けないことの息苦しさも。

 誰かに理由もなく探されるかもしれない、という怖さだって。


 ──私のせいだ。


 そう思った途端、胸の奥に押し込めていたものが一気に崩れた。


 ──なんてことをしたんだろう。


 ぽろ、と視界の端から雫が落ちる。


 陽菜は慌てて顔を伏せた。

 けれど次の涙も、その次の涙も止まらなかった。


 指先が、冷えて仕方がない。


 机の上で組んだ両手に力を込める。

 震えを止めたかったのに、握りしめるほど余計に震えが目立つ気がした。


「陽菜」


 戸惑ったような声で呼ばれる。


「手が」


 言われて初めて、自分の手をちゃんと見た。

 指先から手の甲までこわばっていた。細かい揺れは収まらず、爪が当たるところだけが白くなっている。


 視界の向こうから、トウヤの手が伸びてくる。触れる直前で止まり、「……触っても大丈夫?」と彼は言った。


 顔を上げる。

「え?」と声が漏れた。


「手。……痛そうだから」


 慎重そうな様子に、また涙が溢れそうになって、陽菜は小さく頷いた。


 宙に浮いていたトウヤの手がそっと触れる。壊れものを扱うような手つきで、組み込んでいた指を、一本ずつ外される。力の入った節をほどくみたいに、ゆっくり、静かに。


 陽菜は息を止めたまま、その感触を受け入れていた。


 温かい手だった。


 握るわけではなく、けれど離すわけでもなく、ふたりの席のあいだで、陽菜の片手ずつがトウヤの手のひらにそっとおさまる。


 涙がようやく止まっても、しばらくそのままだった。


 陽菜は自分の手ばかり見ていた。呼吸が少しずつ落ち着いていった。

 下から支えるトウヤの手も、かすかに震えているような気がした。


 言葉は、なかった。


 トウヤも何も言わなかった。

 陽菜も、何も言えなかった。


 ふいにエレベーターの到着音が響く。大きな音ではなかったのに、びくりと肩が揺れた。

 少し遅れて、かすかな話し声も聞こえてくる。


 どちらともなく、手が離れた。


 離れたところだけが、急に冷たくなった気がした。


 陽菜はまだ濡れたままの目で、トウヤを見た。

 トウヤも何か言いかけるように唇を動かしたけれど、結局そのまま目を伏せた。


 廊下を歩く足音が近づき、自販機コーナーの手前の部屋に入っていく気配がした。


「……帰ろうか」


「……うん」


 陽菜が頷いたのを見てから、トウヤが椅子を引いて立ち上がった。


 このまま別れてしまっていいのか、わからなかった。けれど呼び止める言葉も、うまく出てこない。


 エレベーターへ向かうトウヤのすぐ後ろを歩きながら、陽菜は彼の手を見つめる。


 自分の手が、まだ慣れない熱を持っていた。



#言えないまま

#名残切り

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