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こぼれた言葉は



 図書館へ通うのが、もう癖になっていた。


 あれからここ数日、一日の授業を終えると、気づけば低い書架の並ぶ奥まった一角へ足が向いていた。


 帽子の影に半分隠れた横顔。頁をめくる音。そういうものを探して、何日も。


 けれど、彼はいなかった。


 今日も、いないかもしれない。そう思いながら自動ドアをくぐるたび、気持ちが少しだけ沈んだ。


 何度もポケットのスマホに手が伸びかけて、そのたびに止まる。以前なら、落ち着かないときほど画面を開いていたのに、今はもう、自分のアカウントに触れるのも少し怖い。


 それに、画面を開いたところで、この落ち着かなさはきっと薄まらない。トウヤの連絡先も、まだ知らないままだった。


 大輝(たいき)からは、図書館へ行くのはしばらく控えたほうがいいと言われていた。

 捜索投稿の話題が学内で広がり、トウヤに結びつけるような声も出ている今、無闇にうろつかないほうがいい、と。

 それはきっと正しいのだと思う。


 それでも、来てしまう。

 あれから姿を見ていないことが、落ち着かなかった。


 そうして何日か過ぎたころ、返却カウンターの前でようやく黒い帽子を見つけたとき、陽菜(ひな)は弾かれたように駆け寄った。


「トウヤくん!」


 呼ぶと、彼が振り返る。

 目が合って、ほっと胸の奥がゆるんだ。


 けれど次の瞬間には、別の冷たさが背筋を這った。


 視線が足元へ落ちる。

 ベージュのスニーカーだ。

 変わらず、その靴を履いていた。


 「……あ」と、少し驚いたような顔をしたあとで、トウヤはいつものように「こんにちは」と返した。

 目はすぐに逸れる。

 彼は手元の本へ視線を落とし、そのまま返却の手続きを済ませようとした。どこか急いでいるようにも見えた。


 久しぶりに会えたのに、それ以上の言葉が続かない。


 カウンターの職員に本を渡し、「じゃあね」とだけ言って、トウヤはそのまま出口の方へ向かった。


「待って」


 トウヤが足を止める。返事はなかった。


「ちょっとだけ、話せる? ほんの少しでいいから」


 自分でも、声が思ったより早く出た気がした。

 ようやくトウヤが振り返る。


「……困りごと?」

 

 そう言って陽菜の顔を見た彼は、どこか慎重な眼差しをしていた。断られなかったことに、陽菜は小さく息をついた。


 エレベーターホール脇の自販機コーナーへ視線を向けかけて、すぐに思い直す。

 この前、学生に声をかけられたのはあのあたりだ。二階は人の行き来も多い。


「今日は、上に行かない?」


「上?」


「うん。三階にも自販機あるから。そっちのほうが……」


 ──人が少ないから、とは言わなかった。

 トウヤは少しだけ不思議そうにしたものの、「いいよ」とだけ言った。


 二人で並んでエレベーターに乗る。

 閉まった扉に二人の姿がぼんやり映る。陽菜はその間、なにも話せなかった。


 三階の自販機コーナーは、二階と違って奥まった場所にあった。

 いつも谷見町(やつみまち)のPRプロジェクトで使っている会議室を通り越し、閉架書庫のそばまで歩く。


 小さなスペースだった。

 窓際に置かれた丸机が一つと、簡素な椅子が二脚だけ。夕方前の薄い光が、床へ斜めに落ちていた。


 陽菜は自販機の前に立ち、温かいお茶のボタンを探した。


「……あ」


「どうしたの」


「温かいの、もうないね」


 自分でも、変なことを言ったと思った。

 トウヤも自販機を見て、それから「ああ」と小さく頷くと、「もう夏だしね」と答えた。


 ──つい少し前までは、当たり前に並んでいたはずなのに。


 陽菜は結局、冷たいお茶を買った。トウヤも同じものを選び、二人で向き合って座った。


 ペットボトルの表面に、細かな水滴が浮いていた。陽菜はそれを両手で持ったまま、しばらく口を開けなかった。


 言いたいことは、ずっと頭の中にあった。何日も前から繰り返していた。

 なのに、いざトウヤを前にすると、言葉がどれも喉の奥で絡まってしまう。


 ペットボトルのラベルに指をかけたまま、口を開く。


「……最近、学内でね」


 トウヤが顔を上げる。


「ベージュのスニーカーの人を探してる、みたいな空気が前より強くなってるんだ。大学のどこで見たとか、一年生じゃないかとか……インスタで、そういうのが流れてて」


 そこまで言って、視線が自分の足元へ落ちた。

 黒いパンプスのつま先は、何日見てもまだ見慣れなかった。靴擦れの痛みのほうに、先に慣れてしまった気がする。


 トウヤは黙って続きを待っていた。

 いつもと同じ待ち方なのに、今日はかえって言葉が出にくかった。


「あの……それで」


 ペットボトルを握り直す。


「私……言わなきゃいけないことがあって……」


 冷たさが手のひらに伝わった。


「──ごめんなさい」


 それだけが、先に落ちた。


 言った瞬間、身体の内側が強く軋んだ。

 そこで言葉が止まる。頭の中には、用意してきた続きがあったはずなのに。


 私のせいだ。

 私が、リポストしたから。

 あの時、画像を見て、そうかもしれないと思ってしまったから。


「……ごめんって……なにが?」


 首を傾げるトウヤの声音は、穏やかだった。それが余計に苦しかった。


 ──私、言いたくないんだ。


 その瞬間、陽菜ははっきり気づいてしまった。


 ──トウヤくんに、嫌われたくなくて。


 情けなくて、呆れるような理由だった。

 でも、自分でもそうとしか考えられなかった。


「……あの、私……」


 続けようとした声は、ひどく頼りなく震えた。


「私ね……」


「陽菜」


 珍しくトウヤが言葉を被せてきて、陽菜は顔を上げた。


 自分の名前が彼の声で呼ばれたことに気づくまで、ほんの一拍かかった。初めて、そう呼ばれたということも。


「いいよ。言いづらいことなら、無理して言わなくていい」


 トウヤは視線を少し逸らして続けた。


「……あの人探しのアカウントは、そもそもなんなんだろうね」


 話題を変えるように。

 逃がすように。


「……昔、SNS担当だった人の、個人的なアカウントだったらしいの」


 ──私、逃げた。


 最低だ、と思った。

 そうわかっているのに、差し出された逃げ道に、あっさり足を乗せてしまう。


 陽菜は机に目を落としたまま、ゆっくりと言葉を継いだ。


「その人、アカウントを乗っ取られたって騒いでたみたいで……。祭りの日に、変な投稿が出るとかなんとかって」


 トウヤは黙って聞いていた。


「それで、名残切りの公式インスタにも、そのアカウントのプロフィールにあったタグが勝手についてて……『#言えないまま』って」


 そこまで言って、陽菜はトウヤの顔を見た。


 トウヤは肘をつき、指先を顎に添えたまま目を伏せていた。何かを考えているみたいだった。

 やがて、小さく口を開く。


「……その、乗っ取られたって騒いでた人がいたとして、去年の担当者は平気だったの?」


「うん。去年担当してた人は、今年もプロジェクトにいるけど……変なことはなかったって言ってたよ」


「そう……」


 短い返事だった。

 肘をついたまま視線を落とす横顔を見ながら、陽菜はまたペットボトルを握りしめる。


「それから──」


 今度は。せめて、これだけは。言わなければならなかった。


「トウヤくんのこと、探している人もいた」


 言い終えて、息を吸うタイミングがずれたまま、陽菜は続ける。


「この前、私、声をかけられて……。前に図書館で一緒にいた人のことを聞きたいって。帽子とか、スニーカーとか……特徴が当てはまるからって」


 それまで顔色を変えずに頷いていたトウヤの眉が、そこで初めてわずかに寄った。


「だから……しばらく、トウヤくんも、図書館には来ないほうがいいかも」


 言い終わった瞬間、身体の内側がすうっと冷えた。


 好きな場所へ行かないこと。

 好きな靴を履かないこと。

 その小さな不自由が、どれだけ息苦しいか、もう知ってしまっていた。


 椅子の下で、そっと踵を浮かせる。

 パンプスの縁が擦れて、靴擦れがまた熱を持った。


 痛みをこらえるみたいに足先へ力を入れていると、トウヤがぽつりと言った。


「……大丈夫だったの?」


「え?」


「声、かけられたって……嫌なこととか言われなかった?」


 自分のことではなく、先に陽菜のことを気にかける言葉だった。

 その優しさに、喉の奥がきゅっと詰まった。


 違うの。

 私のせいなんだ。


 そう言えばいいのに、ますます言えなくなった。


 帽子の影、前髪の向こうに見えるその目は、いつも陽菜の呼吸を整えてくれたのに。

 今は呼吸の仕方を忘れたみたいに、息を吸うのが遅れてしまう。


 トウヤは穏やかな声音で言った。


「……インスタがどうなってるのかはわからないけど、たぶん俺は大丈夫だから。心配しないで」


「でも……」


「図書館に来る頻度も減らすよ。スニーカーも、次は気をつけるから」


 そこで一度、言葉が切れる。トウヤがまっすぐこちらを見た。


「だから、そんな顔しないで」


 たまらなくなって、視線を逸らしたくなった。

 彼はやわらかく笑う。


「俺は大丈夫だよ。たぶんね」


「どうして?」


 思わずすぐに聞き返した。

 でも、彼は曖昧に笑うだけで、答えなかった。


 その笑い方を見ていると、またいつものように疑問を流してしまいそうになる。聞かないままにしておけば、前の心地よさに戻れる気もした。

 でも今日は、その曖昧さが妙に引っかかった。


 トウヤがペットボトルを鞄にしまい、立ち上がる。


「探されてること、教えてくれてありがとう。じゃあ──」


 言わなければ、と思う。今度こそ。


「あ……待って」


 考えるより先に、陽菜も立ち上がっていた。


 咄嗟に伸ばした手が、トウヤの服の裾を摘む。

 指先できゅっと布を引いたまま、顔を上げる。


「また、会える?」


 するりと出た言葉に、自分で息をのむ。

 違う。言いたかったのはそれじゃないのに。

 こういうときだけ、滑らかに言葉が出る。遅れて自己嫌悪が追いついた。


 トウヤは目を見開いて、そのまま固まった。


「あの、また……もし良かったら……困りごとを聞いてほしいから……」


 困りごとを盾にするような、ずるい言葉が続いてしまう。

 陽菜は慌てて首を振った。


「ううん。でも、やっぱり。今はやめておいたほうがいいよね。……会うの」


 ──我慢する。

 そう続けかけて、陽菜は慌ててその言葉を押し留めた。


 なにそれ、と思う。

 それではまるで──。


「次のプロジェクトの会議はいつ?」


 トウヤが聞いた。陽菜は目を瞬いて答える。


「……来週の、木曜日」


「じゃあ、その日でいい?」


 裾を掴んだまま、陽菜は頷くことも忘れていた。


「ここで待ってる」


 トウヤはそう言ってから、少しだけ表情を引き締める。短く息を吸ったのがわかった。


「でも、もしまた誰かに声をかけられたら、すぐ帰って。いいね?」


「……うん」


 今度はすぐに頷けた。


 ──また、会える。

 けれど、胸の内でふくらむのは、嬉しさだけではなかった。


 彼の優しさに甘えてしまった。言えなかった。

 布の感触だけが、しばらく指先に残っていた。



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