表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/34

すり替え



 病院の裏口を出ると、昼の光が目に痛かった。


 清掃用具を片づけ、お疲れさまです、と一言だけ残して、そのまま足を外へ向ける。

 建物の中は空調が効きすぎていたのに、外へ出た途端、湿った熱がじわりと肌にまとわりついた。


 時間はもう正午を回っている。


 いつもと同じように歩き出してから、ふと視線が足元へ落ちた。


 ベージュのスニーカー。


 何度も履いて、少しだけくたびれてきている。

 定番の型で、よくある色だ。ただ、それだけの靴。


 ──いや。

 そうでもないか、と思う。


 彼女と同じ靴だったから。


 生活のなかで、いつも頭のどこかに彼女の投稿があった。

 このスニーカーもそうだ。玄関で買ったばかりの靴を写した、なんでもない一枚の画像。それが妙に頭に残っていて──新しく靴を買い求める際、つい、同じものに手が伸びてしまった。


 歩きながら、小さく息を吐く。


 先日のことを思い出していた。


 彼女は、何か言いたげだった。

 ごめんなさい、とだけ言って、それから先が続かなかった。


「言いづらいことなら、無理して言わなくていい」


 舌の上でその言葉をなぞり返してから、遅れて顔をしかめる。

 あんなことを、よく言えたものだと思う。


 誰が、誰に。

 立場も経緯も、何もかもを隠している側が。


 ふと、ポケットに手を入れる。指がスマホに触れた。

 歩きながら取り出しかけて、道の脇に植えられた木の影で立ち止まる。


 昼の屋外では、画面がひどく見づらい。

 角度を変え、指で少し影を作って、ようやく文字が読めるくらいだった。


 検索履歴から見慣れた円をタップする。

 彼女の水面はやはり、閉じたままだ。


 外光を拾った画面が白く反射して、自分の顔がうっすら映る。

 詳しく辿りたいことはあった。でも、これ以上ここで見ても仕方がない。落ち着いて見られる場所のほうがいいだろう。


 スマホをしまい、木陰を離れる。

 また歩き出す。


 今日は、志島大へは向かわない。

 しばらく落ち着くまでは──


 ──落ち着くまで。


 そこまで考えて、足を緩める。

 何が引っかかったのか、自分でもまだ言葉にできなかった。


 ◇


 家へ着くころには、空の色が少しだけ鈍くなっていた。


 木陰で見たかった続きを、今度は落ち着いて確かめる。捜索アカウントの過去投稿を、日付で絞って追っていく。


 たしかに、「#探しています」の投稿は、ある年の祭りの日から始まっていた。


 それ以前の投稿には、サッカーの練習のこと、大学のこと、友人とのやりとり、ごくありふれた日常が並んでいた。

 それが、祭りの後からは誰かを探す断片の情報ばかりに変わっている。


 彼女が聞いたという『乗っ取り』とやらが指すのは──おそらく、これのことだろう。


 去年の担当者には、何も変わったことは起こらなかったらしい。

 なら、実害のようなものは最初の担当者だけで止まったのかもしれない。そう思いたいのに、どうしても断言はできない。


 今度は全体の検索窓に、#言えないまま と打ち込む。


 並んだ投稿を、一つずつ追っていく。


 #別れの言葉は

 #言えないまま

 #名残を切る


 恋人、友人、家族、夢、故郷、欲しいもの──


 明るい調子の投稿もある。

 けれど、その間に混ざる言葉は、どれも妙に湿って、粘っこく思えた。未練や渇望が煮詰まり、短い文の形をして並んでいた。


 見ているうちに、胸の奥へじわじわと何かが溜まっていくようで、気分が悪かった。


 また、捜索アカウントのホームへ戻る。


 「#探しています」の投稿についたリポストを開き、話題に乗っている学生たちの投稿を辿っていく。


 粗い画像に勝手な特徴を重ねる言葉。

 見つけたがる口調。

 冗談みたいに軽い断定。


 その末尾にも、同じタグが混ざっていた。


 #言えないまま


 ──彼女と同じだ、と思った。


 インスタの公式アカウントにも同じタグが付いたと、彼女が言っていたことを思い出す。

 春、彼女の投稿にそれがついていたように、油膜の流れ込みが、彼女のアカウント以外でも起こっているのかもしれない。

 油膜は彼女だけに固着しているわけではないのか。


 だが、わからない。

 わからないことばかりだ。


 目的も、原因も、解決も。

 なにもかも不明瞭だった。


 ただ、当面の問題が別にあることだけは、はっきりしていた。


 現実の学生たちが、その流れに乗ってしまっていることだ。


 スマホを伏せ、椅子の背にもたれた。


 先日、彼女はあのスニーカーを履いていなかった。


 踵の高い黒くて細い靴。

 靴擦れを気にするような仕草。


 日常が変わってしまったことが、ひどく不安そうに見えた。


 でなければ──あんなふうに裾を掴んだりはしなかっただろう。


 彼女自身も、声をかけられたと言っていた。

 それが自分に関することだというのが、やりきれなくてたまらない。奥歯を噛む。息を吐くまでに一拍かかった。


 ──でも、俺では守れない。


 もし自分が前へ出れば、かえってややこしくなるだろう。説明しようとしても、余計な疑いを招くだけかもしれない。


 接点を減らすのが一番だ。


 騒ぎが落ち着くまで、自分は志島大の図書館へ行かないほうがいい。

 もう返すべき本もないのだから、それでいいはずだ。


 そうして、木曜日に彼女と少しだけ会って──そこからしばらく、会わないようにしていれば。


 そこまで考えてから、目を閉じる。


 ──いや、違うだろう。

 おかしい。


 春は、落ち着くまで彼女の傍に寄ることを、自分に許したはずだった。


 怪異が落ち着くまで。

 油膜の流れ込みが止まるまで。


 それまでは、画面越しではなく現実で接することもやむをえない、と。

 そういう理屈だったはずだ。


 それが今、いつの間にか都合よくすり替わっていた。


 落ち着くまで、会わない。

 そして落ち着いたら──また会える。

 そんなふうに考えていた。


 それは未来を前提にした思考だ。

 続いていく先を勝手に含み、ありもしない未来に期待している。


 顔を覆うように、額へ手を当てた。


 彼女への気持ちは、決して綺麗な名前を付けられるようなものじゃない。

 それなのに彼女と会えば会うほど、ひとかどに正統な形を取ろうとしてしまうから、まずかった。


 間違えてばかりだ。 


 何度わきまえろと自分に言い聞かせても、困っているなら放っておけなかった。

 手を引くほうがよほど苦しく、困りごとを前にすれば、引いたつもりの線はいくらでも脆くなった。 


 本当に、まずい。

 ついに本人の前でまで、名前を呼んでしまったのに。


 そう思いながら、伏せたスマホへまた手が伸びかける。次に会いに行く日を、もう数えている自分に気づいていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ