すり替え
病院の裏口を出ると、昼の光が目に痛かった。
清掃用具を片づけ、お疲れさまです、と一言だけ残して、そのまま足を外へ向ける。
建物の中は空調が効きすぎていたのに、外へ出た途端、湿った熱がじわりと肌にまとわりついた。
時間はもう正午を回っている。
いつもと同じように歩き出してから、ふと視線が足元へ落ちた。
ベージュのスニーカー。
何度も履いて、少しだけくたびれてきている。
定番の型で、よくある色だ。ただ、それだけの靴。
──いや。
そうでもないか、と思う。
彼女と同じ靴だったから。
生活のなかで、いつも頭のどこかに彼女の投稿があった。
このスニーカーもそうだ。玄関で買ったばかりの靴を写した、なんでもない一枚の画像。それが妙に頭に残っていて──新しく靴を買い求める際、つい、同じものに手が伸びてしまった。
歩きながら、小さく息を吐く。
先日のことを思い出していた。
彼女は、何か言いたげだった。
ごめんなさい、とだけ言って、それから先が続かなかった。
「言いづらいことなら、無理して言わなくていい」
舌の上でその言葉をなぞり返してから、遅れて顔をしかめる。
あんなことを、よく言えたものだと思う。
誰が、誰に。
立場も経緯も、何もかもを隠している側が。
ふと、ポケットに手を入れる。指がスマホに触れた。
歩きながら取り出しかけて、道の脇に植えられた木の影で立ち止まる。
昼の屋外では、画面がひどく見づらい。
角度を変え、指で少し影を作って、ようやく文字が読めるくらいだった。
検索履歴から見慣れた円をタップする。
彼女の水面はやはり、閉じたままだ。
外光を拾った画面が白く反射して、自分の顔がうっすら映る。
詳しく辿りたいことはあった。でも、これ以上ここで見ても仕方がない。落ち着いて見られる場所のほうがいいだろう。
スマホをしまい、木陰を離れる。
また歩き出す。
今日は、志島大へは向かわない。
しばらく落ち着くまでは──
──落ち着くまで。
そこまで考えて、足を緩める。
何が引っかかったのか、自分でもまだ言葉にできなかった。
◇
家へ着くころには、空の色が少しだけ鈍くなっていた。
木陰で見たかった続きを、今度は落ち着いて確かめる。捜索アカウントの過去投稿を、日付で絞って追っていく。
たしかに、「#探しています」の投稿は、ある年の祭りの日から始まっていた。
それ以前の投稿には、サッカーの練習のこと、大学のこと、友人とのやりとり、ごくありふれた日常が並んでいた。
それが、祭りの後からは誰かを探す断片の情報ばかりに変わっている。
彼女が聞いたという『乗っ取り』とやらが指すのは──おそらく、これのことだろう。
去年の担当者には、何も変わったことは起こらなかったらしい。
なら、実害のようなものは最初の担当者だけで止まったのかもしれない。そう思いたいのに、どうしても断言はできない。
今度は全体の検索窓に、#言えないまま と打ち込む。
並んだ投稿を、一つずつ追っていく。
#別れの言葉は
#言えないまま
#名残を切る
恋人、友人、家族、夢、故郷、欲しいもの──
明るい調子の投稿もある。
けれど、その間に混ざる言葉は、どれも妙に湿って、粘っこく思えた。未練や渇望が煮詰まり、短い文の形をして並んでいた。
見ているうちに、胸の奥へじわじわと何かが溜まっていくようで、気分が悪かった。
また、捜索アカウントのホームへ戻る。
「#探しています」の投稿についたリポストを開き、話題に乗っている学生たちの投稿を辿っていく。
粗い画像に勝手な特徴を重ねる言葉。
見つけたがる口調。
冗談みたいに軽い断定。
その末尾にも、同じタグが混ざっていた。
#言えないまま
──彼女と同じだ、と思った。
インスタの公式アカウントにも同じタグが付いたと、彼女が言っていたことを思い出す。
春、彼女の投稿にそれがついていたように、油膜の流れ込みが、彼女のアカウント以外でも起こっているのかもしれない。
油膜は彼女だけに固着しているわけではないのか。
だが、わからない。
わからないことばかりだ。
目的も、原因も、解決も。
なにもかも不明瞭だった。
ただ、当面の問題が別にあることだけは、はっきりしていた。
現実の学生たちが、その流れに乗ってしまっていることだ。
スマホを伏せ、椅子の背にもたれた。
先日、彼女はあのスニーカーを履いていなかった。
踵の高い黒くて細い靴。
靴擦れを気にするような仕草。
日常が変わってしまったことが、ひどく不安そうに見えた。
でなければ──あんなふうに裾を掴んだりはしなかっただろう。
彼女自身も、声をかけられたと言っていた。
それが自分に関することだというのが、やりきれなくてたまらない。奥歯を噛む。息を吐くまでに一拍かかった。
──でも、俺では守れない。
もし自分が前へ出れば、かえってややこしくなるだろう。説明しようとしても、余計な疑いを招くだけかもしれない。
接点を減らすのが一番だ。
騒ぎが落ち着くまで、自分は志島大の図書館へ行かないほうがいい。
もう返すべき本もないのだから、それでいいはずだ。
そうして、木曜日に彼女と少しだけ会って──そこからしばらく、会わないようにしていれば。
そこまで考えてから、目を閉じる。
──いや、違うだろう。
おかしい。
春は、落ち着くまで彼女の傍に寄ることを、自分に許したはずだった。
怪異が落ち着くまで。
油膜の流れ込みが止まるまで。
それまでは、画面越しではなく現実で接することもやむをえない、と。
そういう理屈だったはずだ。
それが今、いつの間にか都合よくすり替わっていた。
落ち着くまで、会わない。
そして落ち着いたら──また会える。
そんなふうに考えていた。
それは未来を前提にした思考だ。
続いていく先を勝手に含み、ありもしない未来に期待している。
顔を覆うように、額へ手を当てた。
彼女への気持ちは、決して綺麗な名前を付けられるようなものじゃない。
それなのに彼女と会えば会うほど、ひとかどに正統な形を取ろうとしてしまうから、まずかった。
間違えてばかりだ。
何度わきまえろと自分に言い聞かせても、困っているなら放っておけなかった。
手を引くほうがよほど苦しく、困りごとを前にすれば、引いたつもりの線はいくらでも脆くなった。
本当に、まずい。
ついに本人の前でまで、名前を呼んでしまったのに。
そう思いながら、伏せたスマホへまた手が伸びかける。次に会いに行く日を、もう数えている自分に気づいていた。




