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手に余る

 

 走ることは、別に好きじゃなかった。


 なんでこんな苦しいことを、と思いながら走っていたことすらある。肺は焼けるように熱くなり、脚は鉛のように重くなる。浅い呼吸を繰り返し、何度もやめたくなりながら、それでも足を動かしていた。


 前へ進めば、ゴールに着く。

 向かうべき場所が見えている。

 その感覚が、ただ、好きだった。


 読書も、少し似ていると思う。字を追って、ページを繰れば、物語の終わりへと辿り着く。方向を失うこともない。


 生きていくことも、たぶん同じだろうと思っていた。


 どこへ向かっているのか、せめてそれだけでもわかっていれば、ひどく道を踏み外すことはないはずだと。


 ──でも、今はもう、どこを向けばいいのか、よくわからない。


 ◇


 スマホの画面に、静かな光が落ちている。

 あれから何度確認しても、同じだった。


 彼女のアカウント名の横には鍵のマークがつき、『ポストは非公開です。』の表示だけが浮かんでいる。


『誰かと繋がりたかったわけじゃないの』

『誰かに見られてるなんて、思っていなかった』

 そう言葉を落とす声が、耳の奥に残っていた。


 彼女を見ていたのは、あのアカウントだけではない。

 自分も、だ。


 誰にも見せるつもりのない言葉を、勝手に追って、拾い、一方的に彼女を知っていった。


 「ごめん」と言ったのは、ひとつのことに向けた言葉じゃない。

 彼女の優しさを札にするような発想が浮かんだことも含めて、全部まとめて。そう言うしかなかった。


 指先でアプリを閉じる。


 ──彼女のアカウントがおかしくなったのは、春の頃だ。

 最初に違和感を覚えた日のことを、まだはっきりと覚えている。


 彼女は、あの捜索投稿をリポストしていた。たったひとこと、『見つかりますように』と添えて。


 それ自体は、なにもおかしなことじゃなかった。


 目に止まったのは、その投稿文の末尾についていたハッシュタグだ。


 #言えないまま


 知らないハッシュタグだった。少なくとも、彼女の投稿を見始めてから、それが付いているのを見た覚えはなかった。


 ──なんだ、これは。


 画面を見返し、ハッシュタグを押した。

 飛んだ先に並んでいたのは、谷見町やつみまちの祭りの投稿だった。


 名残なごり切りに関する投稿、学生たちの写真、祭りの感想。そこに、#別れの言葉は、#言えないまま、#名残を切る、という三つの言葉が繰り返し混ざっていた。


 ──なぜ、彼女がこれを付ける?

 地元でもない、数年前のものを。


 いぶかしさを抱えたまま、その投稿を何度も見返した。タグの飛び先と彼女の投稿を往復するうちに、頭の中がじっとりと湿っていくような気がした。


 その日、そのとき、図書館を出て待っていたエレベーターの扉が開き、そこに──彼女がいた。


 たった一度だけ会ったきりで、それから一年以上、見かけることもなかったのに。これまで図書館に現れなかった人が、そんな日に限って、目の前に立っていた。


 向こうは、こちらに気づいていなかった。

 それに安堵したのか。それとも、少しだけ残念だったのかは、今になってもよくわからない。


 その夜、彼女の別の投稿にも、やはり #言えないまま が付いていた。

 もう、偶然ついたものとは思えなかった。


 翌日、図書館へ来た彼女の鞄に、谷見町のPR缶バッジが揺れているのを見て、谷見町について調べに来たのでは、と思ったのは本当だ。


 でも、それだけじゃなかった。

 あのタグがなんなのか、知りたかった。


 だから、困っていることはありませんか、と聞いた。手伝えることがあるかもしれない、という顔をして。


 けれど彼女から返ってきた困りごとは、SNSのことではなかった。



 あとになって、捜索投稿を繰り返すあのアカウントのプロフィール欄へ飛び、そこに #言えないまま を見つけたとき──理屈ではなく、これが混ざったのだと思った。


 自分が見るべき方向にしていた水面へ、どこか別のところから、この油膜が流れ込んできたのだと。


 そのときにはもう、彼女のSNSではかなりのことが起きていたのかもしれない。それでも、自分はそれを指摘できなかった。


 見ていたことを言えなかった。

 見ていたからこそ違和感に気づいたのだとも、言えなかった。


 守りたいと言いながら、結局は保身だ。


 椅子に深く腰掛け直し、背もたれに身を預ける。膝のうえの手元をじっと見下ろす。


 いつか見られなくなったときのために、いくつか残していた切れ端が、このスマホのなかにはある。

 スクリーンショットだ。


 自分の浅ましさに顔を背けたくなるのに、それを消すことはできずにいる。


保存している一覧を開き、古いものから順に指で辿る。


 満開の桜の写真。春の日差しを透かして、薄い花びらが画面のなかで白く光っている。


『満開の桜! さっき会った人にソメイヨシノの話を教えてもらった。接ぎ木で増えるから一斉に咲くんだって。綺麗な瞬間を共有できるって素敵だなあ』


 ──この投稿だけは、何度見返したかわからない。


 続きには、こんな一文がある。


『また会えるかな。なんとなく、大学生活がんばろうって思えた』


 読み返しながら、無意識のうちに息を止めていたことに気づき、浅く吐き出す。


 胸のうちの揺れを誤魔化すように、次々に指を滑らせていく。


 玄関先らしいタイルの上に、新しいスニーカーが揃えて置かれている画像が出てきた。


『スニーカー、いつも同じ型ばかり買っちゃう。今回はベージュにした。お気に入り』


 画像のない短い投稿が続く。


『ちゃん付けで呼ばれるのって、ちょっと苦手かも』

『虫っていつの間に部屋の中に入ってくるの!』

『この時期は温かいお茶が売ってるから嬉しいな』


 そうして見ていくうち、親指が止まる。


『今日はすごく充実した日だった。楽しかったっていうと、変かもしれないけど……よい日だった』


 これは公民館に行った日のものだ。

 ──俺と、一緒にいた日。


 「……」


 スマホを閉じる。

 やはり、スクリーンショットを消す気にはなれない。少なくとも、今はまだ。


 油膜を排除したいという感覚も、ずっと本音だった。それもまだ、消えていない。


 そして、それこそがなにより厄介だった。


 近づきすぎるのは駄目だ、わきまえるべきだと思いながら──それでも目を離すことができず、彼女の相談にも乗っていたくなってしまう。


 彼女にとっての自分は、いるべきではない側の人間なのに。


 それでも、もしまた何か危ないことが起きたら。

 油膜が別の形で流れ込んできたら。


 それに気づいているのはただ一人、自分なのだというその事実こそが、彼女へ近づく理由を正当化してしまうのだから。


 ◇


 窓の外は、曇っていた。


 いつもなら志島大の図書館にいる時間だ。今日はただ、ぼんやりと時間をやり過ごしていた。


 バスの時刻が近づく。通学用のリュックを棚から下ろし、学校へ行く準備を進める。


 ゴールの見えない走りも、

 終わりの見えない本も、

 たぶん、耐えられない。

 油膜も同じだ。


 終わりの見えないものは、昔から苦手だった。


 ──手に余る。


 彼女への気持ちも、そうだった。


 気づいたときには、もうどこまでが許されるのか、自分でも線が引けなくなっていた。


 傍にいるのは今だけ。

 油膜がどこかへ流れ去るのを見届けるまで。

 そう、決めているのに。


 目指していいはずがない、望んでいいはずもない、呆れるような未来が脳裏にちらつく自分が気持ち悪くて嫌だった。


 それなら、せめて、近づきすぎないようにするしかない。


 図書館へは、しばらく行かない。

 あの席にも、座らない。

 彼女を見かけても、踏み込みすぎない。

 自分の立場も、忘れない。


 見るべきなのは、油膜だけ。

 彼女ではない。


 そう言い聞かせる。

 

 彼女は正しい道を征く人だ。

 ──だから。だからこそ。俺を見つめ返すようなことはあり得ない。





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